ウェブ再録「クレイジー・イン・ラブ」

 なんで、どうしてと叫ぶ彼が、時々夢に出てくることがある。長い手足を振り回して泣き叫ぶ彼に、ひたすらごめんねと謝ることしかできない私を、側からぼんやりと見つめている夢。ただそれだけの夢なのに、起きた時に涙が滲んでいることがある。目の端に滲んだ涙を拭って、ため息と一緒に起き上がる。寝たはずなのに、身体がどっと疲れていた。
 面倒見の良い性格だと、自分でも薄々思う。部下のドジをカバーしたり、同僚の残業を手伝ったり、断れないというところもあるのかもしれないが、それを差し引いても面倒見の良い性格だと、自分では思っていた。だからダメ男に引っかかるのよ、と友人は言う。いくら使ったのと言われると、苦い顔をして口を噤むしかなかった。確かに、ダメな男を引っ掛けて、さらにダメにしている自覚はあった。お小遣いちょうだいと可愛い顔で言われると断れないし、何にもできない人に尽くしてあげたいと思っていたから。そんなの自分もダメになるよ、と友人は呆れたため息を吐いたけれど、その時は盲目的に彼らを好きでいたから、多分私も依存してたんだろうなあ、と思う。
 今日も今日とて、ドジをした部下のカバーに勤しんでいると、いつの間にか定時を過ぎていた。そういえば、と思って、カレンダーを見る。今日は病院に行く日だったということを思い出して、慌てて時計を確認すると、時刻は五時半ちょっと前。やばい、と思って、鞄を掴んで会社を飛び出した。
 走って電車に飛び込むと、丁度扉が閉まって発車した。よかった、間に合った、と思いながら、空いている席に腰を下ろす。鞄を漁って手紙を引っ張り出すと、それをそっと開いた。子供のような字が、紙いっぱいに書かれているそれは、私の恋人からの手紙だった。ぐちゃぐちゃと殴り書きのように書かれた文字を、一つ一つ解読していく。最後に、はやくきてね、と書かれた手紙を大事に抱えて、電車に揺られていた。
 病院の最寄り駅に着いた瞬間、駅から病院に向かって走る。面会時間に間に合うように、急いで病院へ向かった。ナースステーションで面会の希望を伝えると、顔見知りの看護師さんが、いつもお疲れ様です、と言って笑ったので、少し恥ずかしくなる。すぐ案内しますね、と通された待合室は、消毒液の匂いがした。
 どうぞ、と重い鉄の扉が開く。通された部屋には、すでに彼が座っていて、私を見た途端、パッと花が咲くように破顔した。
「まってた!」
 彼の嬉しいという感情が、ひしひしと伝わってくる。すごく幼い子どもみたいな笑顔でそういう彼は、目の前のアクリル板に額をつけた。アクリル板越しに、その額を触ると、彼がきゃっきゃと笑う。お手紙ありがとう、と言うと、彼が、どういたしまして、と無邪気に笑った。
 彼の精神は幼い。それに感情の波が激しい。幼い子どもが暴れるみたいに彼が暴れると、大抵誰かが怪我をする。病気なんだと医者は言った。誰かが傷付かないように、彼が傷付いてしまわないように、私が選んだ最善の選択が、病院に預けることだった。彼には申し訳ないけれど、きっと彼のためにもなるから、と自分に言い聞かせて決めたことだった。
 楽しそうに話す彼を見ていると、もう帰っておいでよと言いたくなる。手放したのは私なのに、帰っておいでと言ってしまいそうになるから、その度に心が痛くなる。ごめんね、と言っても彼には伝わらないだろうから、私ができることは、手紙を書くことと、お見舞いに来ることだけだった。
「次はいつ来れるの?」
 面会時間の最後に、彼がそう言った。どこまでもまっすぐな目は、私の心の影を濃くする。明日また来るね、と言うと、彼は飛び跳ねるように喜んだ。ああ、胸が痛い。


 まさかの事態だった。就業間際に取引先からクレームが飛んできて、私のいる部署は大慌て。私も必死にキーボードを叩きながら、ああこれじゃ今日はお見舞いに行けないな、と思って、泣きそうになった。何とか業務を終わらせて、会社から出る。外は真っ暗になっていて、いつもは走って帰る道のりを、とぼとぼと歩いて帰った。
 ふと、携帯に着信が残っていることに気付く。画面を開くと、着信を入れていたのは彼のいる病院で、少し焦る。何かあったんじゃないかと慌てて折り返し電話をかけると、すぐに繋がった。電話の向こうで慌てる声がする。自分の名前と彼の名前を伝えると、看護師さんが叫ぶように言った。
「ラウールさんが病院を飛び出してしまって」
 血の気が引く。大変申し訳ありません、と繰り返す声は、右から左に抜けていく。どうしよう、と冷や汗が出て、その場に立ち尽くす。すぐ向かいます、と辛うじて伝えて、電話を切った。
 すぐ向かいます、と言ったものの、気が急いて仕方がない。どこに、どうして、と考えると、涙が出そう。どうか無事でいて、と思いながら、病院に向かうことにした。ばくばくと心臓が嫌な音を立てる。電車にも乗れない彼は、きっと徒歩でどこかに行くはず。焦った私は、電車に乗るのを諦めて、どこかで見つかることを祈りながら、走って病院へ向かった。暗い道を、視線を彷徨わせて走る。足が痛いけれど、彼の命には変えられないと思って、路地裏や公園に向かって、彼の名前を呼ぶ。何かあったらどうしよう、と不安で泣きそうになって、顔を歪めた。
「どうして来てくれなかったの!」
 いきなり、彼の声が聞こえた。声のした方に振り向くと、病院着を着たままの彼が、泣きながら突っ立っていた。素足に泥をつけて、泣きながら私のことを睨みつけている。ごめんね、と呟くと、彼はさらに泣き出してしまった。思わず、抱きしめた。私よりずっと背の高い彼に抱きつくようにして背中を撫でると、彼はわんわん泣きながら、背中を丸めて私に抱きついた。まってたのに、と鼻を啜る彼に、ごめんね、と何度も謝ると、腕の力が強まった。少し苦しいけれど、彼の辛さを思うと、なんてことないように思えた。
「おうち、かえりたい」
 呟くように彼がそういうから、私は何度も頷いた。私の家に帰りたいと泣く彼は、まるで迷子になった幼い子どもみたい。私が守ってあげなくちゃ、と思って、帰ろう、と呟いた。
「一緒に帰ろう」
 そう言って、彼の手を握った。一人ぼっちにさせてごめんね、これからは一緒にいようね、と手を握りしめた。それから、寂しかったのは私も一緒だなあ、と思って、彼の頬にキスをした。彼が泣きながら、えへへと笑ったから、私は彼のことをずっと守っていこうと思った。
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