時の泡沫
「部屋に戻ったんじゃなかったのか?」
沖田さんの部屋に入ると、副長が怪訝な顔で私を迎え入れた。そう言えば、私自身は当たり前にお茶を入れに出たつもりだったのだが、副長には何の説明もしていなかった事に気付く。
「すみません。今夜は長くなりますのでお茶を入れようと思いまして。ついでに握り飯もご用意しました。一緒に食べましょう」
そう言って私は、副長の前に握り飯の皿を置いた。相変わらず怪訝そうな顔のままの副長だったが、何も言わずに握り飯に手を伸ばし、頬張る。その姿に、私はつい小さく吹き出してしまった。
「……なんだよ。俺が食ってるのがそんなにおかしいか?」
「ああ、すみません、違うんです」
誰だってこんな風に笑われたら気になるに決まっている。だが私の笑った理由は、決して副長がおかしいというわけでは無い。
「今、副長は当たり前のように三角の握り飯を取りましたよね。わざと副長の手前に俵型を置いたのに、それを避けて三角を取ったのが沖田さんと全く一緒の動きだったので、つい笑ってしまったんです。江戸は三角が主流なんだそうですね。京や大阪は俵なので、その違いが面白いと沖田さんと話したことがあるんですよ」
それはもう大分前の話だが、そう言えば沖田さんとはよく食べ物談義をしていた気がする。実際は一方的に沖田さんが話し、それに私が相槌を打つ形で、時折京の食べ物の説明をしていただけなのだが。それでもいつも、沖田さんは楽しそうだった。
「考えてみたら、いつも沖田さんは楽しそうでしたよね。どんな時でも楽しい事を見つけようとしていた気がします」
「……そうだな」
「我儘で、甘えたで、悪戯好きで、負けず嫌いで、異常な程に甘い物好きで……」
「……何が言いたい?」
齧りかけの握り飯を置き、副長がまっすぐに私を見た。私の目を見て、真意を探ろうとしているのが分かる。
「私は……見ていなかったんです」
「見てなかった? 何をだ?」
「沖田さんを見ていなかったんです。労咳の患者として認識した時から、俺は沖田さんを『診て』はいましたが、『見て』いなかったんです」
言葉で伝えるのは難しいが、間違いなく私は沖田さんを患者としてしか見ていなかった。沖田さんがあんなにも必死になって私を見ていてくれたのに、私はいつも一歩下がって『診て』いたのだ。
「これを……」
先程見つけたばかりの、沖田さんの書き込みの箇所を開く。それを読んだ副長の表情は、とても辛そうだった。きっと副長にも、沖田さんの思いは伝わったのだろう。
「先程松本先生に言われました。『良くも悪くも医者の顔になったな』と。以前沖田さんにも『医者の顔』と言われた事があります。……私は新選組の為に少しでも早く医者になろうと努力してきたつもりでした。でもそれと同時に、人として大切な物を落としても来ていたんですね……」
恋仲云々以前に、自分を一人の患者としてしか見てもらえない辛さ。それは沖田さんにとって、新選組隊士としての自分すらも認めてもらえていないのだと思えていたに違いない。だからこそ、あんなに必死で私を求めたのではないだろうか。こんな風に、思いの丈を書き記したのではないのだろうか。
沖田さんを見る。
未だ続いている喘鳴がとても苦しそうで、私はそっと傍らに座ると沖田さんの胸に手を当てた。
「気付くのが遅くなってしまってすみません。これからはきちんと貴方を見ます。新選組の沖田総司という、一人の剣士として」
ゆっくりと、胸をさする。肺の中が泡立っている感触の伝わってくる沖田さんの胸は、以前にも増して薄くなっていて。医者としては何度も確認していたはずなのに、まるで初めて気付いたかのような驚きと悲しみを覚えた。
「だから……絶対に治して下さいね」
医者としてではなく、一人の隊士として語りかける。
「元気になったらまた一緒に戦いましょう。沖田さんがいてくれないと、鬼副長だけじゃ心許なくて」
「何でそこで突然俺が出てくるんだよ。……だが確かに総司がいねぇと隊士がたるんじまうな。さっさと治しやがれってんだ」
副長も沖田さんの側に近寄り、顔を覗き込みながら言った。
その時、奇跡が起こる。
「やっと……私の存在のありがたみに……気付きましたか……?」
うっすらとではあるが目を開き、そう言った沖田さんの口元には小さく笑みが浮かんでいた。
「沖田さん!」
私の声に反応するように更に笑みを深くした沖田さんだったが、一度大きな呼吸をした後、再び眠りについてしまう。だがそこからの呼吸はみるみる落ち着いていき、気が付けば喘鳴は収まっていた。
寝息と言うものが、こんなにも心安らぐものだったなんて。そう思ってしまう程に、今の沖田さんは安らかな寝息を立てて眠っている。
「良かった……」
完全に落ち着いた事を確認した私と副長は、心の底から微笑みあった。
沖田さんの部屋に入ると、副長が怪訝な顔で私を迎え入れた。そう言えば、私自身は当たり前にお茶を入れに出たつもりだったのだが、副長には何の説明もしていなかった事に気付く。
「すみません。今夜は長くなりますのでお茶を入れようと思いまして。ついでに握り飯もご用意しました。一緒に食べましょう」
そう言って私は、副長の前に握り飯の皿を置いた。相変わらず怪訝そうな顔のままの副長だったが、何も言わずに握り飯に手を伸ばし、頬張る。その姿に、私はつい小さく吹き出してしまった。
「……なんだよ。俺が食ってるのがそんなにおかしいか?」
「ああ、すみません、違うんです」
誰だってこんな風に笑われたら気になるに決まっている。だが私の笑った理由は、決して副長がおかしいというわけでは無い。
「今、副長は当たり前のように三角の握り飯を取りましたよね。わざと副長の手前に俵型を置いたのに、それを避けて三角を取ったのが沖田さんと全く一緒の動きだったので、つい笑ってしまったんです。江戸は三角が主流なんだそうですね。京や大阪は俵なので、その違いが面白いと沖田さんと話したことがあるんですよ」
それはもう大分前の話だが、そう言えば沖田さんとはよく食べ物談義をしていた気がする。実際は一方的に沖田さんが話し、それに私が相槌を打つ形で、時折京の食べ物の説明をしていただけなのだが。それでもいつも、沖田さんは楽しそうだった。
「考えてみたら、いつも沖田さんは楽しそうでしたよね。どんな時でも楽しい事を見つけようとしていた気がします」
「……そうだな」
「我儘で、甘えたで、悪戯好きで、負けず嫌いで、異常な程に甘い物好きで……」
「……何が言いたい?」
齧りかけの握り飯を置き、副長がまっすぐに私を見た。私の目を見て、真意を探ろうとしているのが分かる。
「私は……見ていなかったんです」
「見てなかった? 何をだ?」
「沖田さんを見ていなかったんです。労咳の患者として認識した時から、俺は沖田さんを『診て』はいましたが、『見て』いなかったんです」
言葉で伝えるのは難しいが、間違いなく私は沖田さんを患者としてしか見ていなかった。沖田さんがあんなにも必死になって私を見ていてくれたのに、私はいつも一歩下がって『診て』いたのだ。
「これを……」
先程見つけたばかりの、沖田さんの書き込みの箇所を開く。それを読んだ副長の表情は、とても辛そうだった。きっと副長にも、沖田さんの思いは伝わったのだろう。
「先程松本先生に言われました。『良くも悪くも医者の顔になったな』と。以前沖田さんにも『医者の顔』と言われた事があります。……私は新選組の為に少しでも早く医者になろうと努力してきたつもりでした。でもそれと同時に、人として大切な物を落としても来ていたんですね……」
恋仲云々以前に、自分を一人の患者としてしか見てもらえない辛さ。それは沖田さんにとって、新選組隊士としての自分すらも認めてもらえていないのだと思えていたに違いない。だからこそ、あんなに必死で私を求めたのではないだろうか。こんな風に、思いの丈を書き記したのではないのだろうか。
沖田さんを見る。
未だ続いている喘鳴がとても苦しそうで、私はそっと傍らに座ると沖田さんの胸に手を当てた。
「気付くのが遅くなってしまってすみません。これからはきちんと貴方を見ます。新選組の沖田総司という、一人の剣士として」
ゆっくりと、胸をさする。肺の中が泡立っている感触の伝わってくる沖田さんの胸は、以前にも増して薄くなっていて。医者としては何度も確認していたはずなのに、まるで初めて気付いたかのような驚きと悲しみを覚えた。
「だから……絶対に治して下さいね」
医者としてではなく、一人の隊士として語りかける。
「元気になったらまた一緒に戦いましょう。沖田さんがいてくれないと、鬼副長だけじゃ心許なくて」
「何でそこで突然俺が出てくるんだよ。……だが確かに総司がいねぇと隊士がたるんじまうな。さっさと治しやがれってんだ」
副長も沖田さんの側に近寄り、顔を覗き込みながら言った。
その時、奇跡が起こる。
「やっと……私の存在のありがたみに……気付きましたか……?」
うっすらとではあるが目を開き、そう言った沖田さんの口元には小さく笑みが浮かんでいた。
「沖田さん!」
私の声に反応するように更に笑みを深くした沖田さんだったが、一度大きな呼吸をした後、再び眠りについてしまう。だがそこからの呼吸はみるみる落ち着いていき、気が付けば喘鳴は収まっていた。
寝息と言うものが、こんなにも心安らぐものだったなんて。そう思ってしまう程に、今の沖田さんは安らかな寝息を立てて眠っている。
「良かった……」
完全に落ち着いた事を確認した私と副長は、心の底から微笑みあった。