時の泡沫
永倉さんと原田さんが先生達を送るために出て行けば、一気に部屋が静かになる。聞こえてくるのはただ沖田さんの喘鳴のみだ。
残された副長と私は、暫く言葉を発する事無く沖田さんの様子を見守っていた。噴き出す汗は幾たび拭おうとも止まる事を知らず、沖田さんの苦しみを伝えてくる。
「副長も……そろそろ就寝時刻ですし部屋にお戻り下さい。あとは私が見ていますので」
先生達が帰り、半刻程過ぎても無言のままそこに座り続けていた副長に私は言った。心配する気持ちは分からなくもないが、今は医者の私ですら何も出来る事は無い。それなら付き添いの時間を、副長としての役割に使ってもらった方が良いだろうと思い、促したのだが……
「俺は大丈夫だ。それより俺がいる間にお前が少しでも寝ておけ」
「ですが」
「今は考えたい事があるから、どっちにしたって俺は眠れねぇよ。それとも俺がここにいたらまずいのか?」
「いえ、そんな事は決して」
坂本暗殺の計画が頓挫した事で、イラついているのだろうか。副長の表情は険しかった。
こういう時はそっとしておくに限る。どちらにせよ、私も今夜は眠れないだろう。せめて喘鳴が無くなるまでは見守りたい。長丁場を覚悟した私は、「では、少しの間沖田さんをお願いします」と席を外すと、いつものようにお茶を準備する為厨へと向かった。
湯を沸かしている間、先程の日記を開いて読み返す。
広島行以降、実は全くこれを手には取ってはいなかった。存在を忘れたわけではなかったのだが、南部先生の所で診療録を作成するようになり、自ら書き記すという事をしなくなったのだ。
それにしても、いつの間にこれが先生の手に渡っていたのだろう。あまり目立たない所にしまっておいたはずなのだが……何がともあれ読み返してみると小さく注意書きが加えられていたり、見せ消ちで間違いを正されたりと、知らない内に多くの事が書き加えられていた。
それはとても綺麗な字で、南部先生の手だというのは一目見て分かる。その中に、ちょこちょこと豪快な殴り書きが加えられていた。もちろんそれは松本先生の字だ。だがその内容は時の豪快さに反して詳細な物で、とてもためになる事ばかりだった。
「凄い……」
しかもそれだけに留まらず先生達が新たに出会った病や治療法についても書き記されており、いつの間にかとても貴重な医学書へと変貌を遂げている。私は二人に心の中で頭を下げながら、更に読み進めていった。
その途中、新たな人物の文字が目に入り、紙をめくる手が止まる。そこに書かれた内容に、私の胸を強く締め付けられた。
――私は未だ死ねない、死にたくない
――絶対に治ってみせる
――私を見て欲しい
――私は未だここにいる
同じ場所に書かれてはいるが、書かれたのは皆別の日なのだろう。強弱や墨の濃さが違うそれらの文字には、書いた人物の魂が込められているようだった。
「沖田さん……」
あの人は、どんな思いでこれを書き込んでいたのだろう。何としてでも生きたいという思いが感じられ、涙が溢れた。
だが次の紙をめくった時、その涙が止まるほどの衝撃を受ける。
――せめて、彼女に見守られながら笑って逝きたい
「今日、だ」
それは、直感。
これが書かれたのはきっと、今日。多分昼間の診察前、密かに喀血した際に書いたのだろう。その証拠に、紙の端にはうっすらと血の付いた指の跡があった。
今までにも何度か喀血をしてはいたが、あれだけの量の血を吐いたのは初めてだ。その時の姿を見ていないので分からないが、ひょっとしたら沖田さん自身想像をはるかに超えた苦しさだったのかもしれない。それが『死』を本当の意味で自覚させたのだろうか。
事実、その後更に大量の血を吐き、今は正体不明になる程の深い眠りに落ちている。このままいけば、この最後の言葉が現実のものとなる日はそう遠くは無い。
いつのまにかグラグラと沸騰していた湯を火からおろす。ゆっくりとお茶を蒸らしながら、私は必死に頭を回転させた。
――今、私が沖田さんに出来る事は?
――今、私が沖田さんにすべき事は?
一瞬求められた時の事を思い出し、それに応える事も考えはしたが、心の存在しない同情行為は逆に彼を苦しめるだけだ。ならば命を懸けて私を必要としてくれている彼に、私が与えられる物は何なのか。
お盆にお茶と冷や飯で作った握り飯を乗せ、ゆっくりと部屋に向かう間も必死に考え続けた。
残された副長と私は、暫く言葉を発する事無く沖田さんの様子を見守っていた。噴き出す汗は幾たび拭おうとも止まる事を知らず、沖田さんの苦しみを伝えてくる。
「副長も……そろそろ就寝時刻ですし部屋にお戻り下さい。あとは私が見ていますので」
先生達が帰り、半刻程過ぎても無言のままそこに座り続けていた副長に私は言った。心配する気持ちは分からなくもないが、今は医者の私ですら何も出来る事は無い。それなら付き添いの時間を、副長としての役割に使ってもらった方が良いだろうと思い、促したのだが……
「俺は大丈夫だ。それより俺がいる間にお前が少しでも寝ておけ」
「ですが」
「今は考えたい事があるから、どっちにしたって俺は眠れねぇよ。それとも俺がここにいたらまずいのか?」
「いえ、そんな事は決して」
坂本暗殺の計画が頓挫した事で、イラついているのだろうか。副長の表情は険しかった。
こういう時はそっとしておくに限る。どちらにせよ、私も今夜は眠れないだろう。せめて喘鳴が無くなるまでは見守りたい。長丁場を覚悟した私は、「では、少しの間沖田さんをお願いします」と席を外すと、いつものようにお茶を準備する為厨へと向かった。
湯を沸かしている間、先程の日記を開いて読み返す。
広島行以降、実は全くこれを手には取ってはいなかった。存在を忘れたわけではなかったのだが、南部先生の所で診療録を作成するようになり、自ら書き記すという事をしなくなったのだ。
それにしても、いつの間にこれが先生の手に渡っていたのだろう。あまり目立たない所にしまっておいたはずなのだが……何がともあれ読み返してみると小さく注意書きが加えられていたり、見せ消ちで間違いを正されたりと、知らない内に多くの事が書き加えられていた。
それはとても綺麗な字で、南部先生の手だというのは一目見て分かる。その中に、ちょこちょこと豪快な殴り書きが加えられていた。もちろんそれは松本先生の字だ。だがその内容は時の豪快さに反して詳細な物で、とてもためになる事ばかりだった。
「凄い……」
しかもそれだけに留まらず先生達が新たに出会った病や治療法についても書き記されており、いつの間にかとても貴重な医学書へと変貌を遂げている。私は二人に心の中で頭を下げながら、更に読み進めていった。
その途中、新たな人物の文字が目に入り、紙をめくる手が止まる。そこに書かれた内容に、私の胸を強く締め付けられた。
――私は未だ死ねない、死にたくない
――絶対に治ってみせる
――私を見て欲しい
――私は未だここにいる
同じ場所に書かれてはいるが、書かれたのは皆別の日なのだろう。強弱や墨の濃さが違うそれらの文字には、書いた人物の魂が込められているようだった。
「沖田さん……」
あの人は、どんな思いでこれを書き込んでいたのだろう。何としてでも生きたいという思いが感じられ、涙が溢れた。
だが次の紙をめくった時、その涙が止まるほどの衝撃を受ける。
――せめて、彼女に見守られながら笑って逝きたい
「今日、だ」
それは、直感。
これが書かれたのはきっと、今日。多分昼間の診察前、密かに喀血した際に書いたのだろう。その証拠に、紙の端にはうっすらと血の付いた指の跡があった。
今までにも何度か喀血をしてはいたが、あれだけの量の血を吐いたのは初めてだ。その時の姿を見ていないので分からないが、ひょっとしたら沖田さん自身想像をはるかに超えた苦しさだったのかもしれない。それが『死』を本当の意味で自覚させたのだろうか。
事実、その後更に大量の血を吐き、今は正体不明になる程の深い眠りに落ちている。このままいけば、この最後の言葉が現実のものとなる日はそう遠くは無い。
いつのまにかグラグラと沸騰していた湯を火からおろす。ゆっくりとお茶を蒸らしながら、私は必死に頭を回転させた。
――今、私が沖田さんに出来る事は?
――今、私が沖田さんにすべき事は?
一瞬求められた時の事を思い出し、それに応える事も考えはしたが、心の存在しない同情行為は逆に彼を苦しめるだけだ。ならば命を懸けて私を必要としてくれている彼に、私が与えられる物は何なのか。
お盆にお茶と冷や飯で作った握り飯を乗せ、ゆっくりと部屋に向かう間も必死に考え続けた。