時の泡沫
「風邪をひくぞ」
そこにやって来たのは、山口さん。例の如く表情は無かったが、不思議とその目は優しく感じられた。
「随分と派手な水浴びだな。この季節にはあまり相応しくない浴び方のようだが」
確かに水は冷たく、体は震えていた。でもその震えが自分の中の感情を誤魔化してくれる気がして、都合が良い。
「すみません。ご心配をおかけしまして」
ぽたぽたと水滴を落としながら、私は笑顔を作った。そんな私に山口さんが手拭いを貸してくれる。
「きちんと拭いておけ。お前が体調を崩していては、医務方の名折れだろう」
「あはは、そうですね」
借りた手拭いで遠慮なく髪を拭いていると、何故か山口さんが耳元に顔を近付けてくるのが分かった。そして、小さな声で言う。
「あちらでお前の事を知っているのは、伊東さんと篠原さんだけだ。平助には最初から教えるつもりで機会を伺っていたようだが、それ以外の者には未だ暫く伝える気は無いらしい」
ハッとして山口さんを見ると、彼は何事も無かったかのようにそこに立って私を見つめていた。
「貴方も知っていたんですね」
「月真院でたまたま伊東さん達の会話を聞いてな。だが彼らは俺が脱走した事もあり、局長の暗殺が新選組に漏れている事を考えて動かなければならない。言い方は悪いが、今はお前がどうこう言っている余裕は無いだろう」
「だと良いのですが……」
山口さんの言うように、伊東さんの意識が他を向いていてくれれば、私は未だここにいられるのだろうか。つい今しがた自分から離隊を口にしたはずなのに、もう心が揺れている自分の意志の弱さが情けなかった。
「未だ濡れているぞ」
髪から落ちる滴を見て、山口さんが私の頭を拭いてくれる。そして水を吸って重くなった手拭いを絞りながら言った。
「俺は以前言ったはずだ。お前は副長の側にいろ。決して裏切るな、と。その考えは今も変わっていない。俺が言えるのはそれだけだ」
パンッ! と手拭いを広げて綺麗に畳むと、山口さんは踵を返す。
「ひょっとしてそれを言う為だけにここへ?」
「……ただの通りすがりだ」
後ろから見ても分かる、少し染まった頬は照れ隠しだろう。その証拠に先程の手拭いは、洗いたての綺麗な物だった。
「……ありがとうございます、山口さん」
「問題ない。俺は新選組の為に何が出来るかを考えただけだ」
そう言って軽く手を上げ立ち去る山口さんに向けて、私は深々と頭を下げたのだった。
監察の手配をすると、私はいつもの隠れ家へと向かった。先程開いてしまった傷も、とりあえずは塞がっている。
もうそろそろ副長もここに来る。その時私は山崎烝としての人生を終える事になるのだろうか。覚悟と迷いに翻弄されながら、私は一人副長の到着を待った。
それから一刻程後に、副長は到着した。私は頭を下げ、副長を迎える。今までここは、恋仲として癒しの時を過ごす為の場所だったのに。最後にこんな辛い思いをしなければならないとは、思ってもみなかった。
未だ何も言われていないのに、畳に付いた手が震えている。顔を上げる事も出来ず、私はただ副長の言葉を待った。
予め敷いておいた座布団にどかりと座った副長は暫く私を見つめていたが、一つ小さくため息を吐くと、私の名を呼んだ。
「……山崎」
「はい」
「もう一度だけ聞く。お前は離隊を希望しているんだな」
「はい」
「それは、新選組から逃げ出す為か?」
「違います。自分がこのまま居続ければ新選組にとって不利益となるため、不要の存在と判断したからです」
「ならば、必要とされれば残るという事か?」
「それは……」
――残ります。
そう言えたらどんなに良いか。つい答えそうになったその言葉を、頭を下げたまま飲み込んだ。
「山崎烝としての意思はお伝えしました。あとは……お沙汰の通りに」
「……分かった。ならば頭を上げろ」
副長の言葉に、ゆっくりと体を起こす。すると私の目に飛び込んで来たのは、ニヤリと笑みを浮かべる副長だった。
「此処に来る前に近藤さんと話した。理由は言わずにお前が離隊を望んでいると言ったら、必死に止めて欲しいと頼んできたぞ。山口も、お前を手放すなとわざわざ言いに来やがった。総司に関しては聞かなくとも分かるだろうが。お前が離隊を望んでも、周りがそれを許さねぇよ」
そう言って副長は畳を指でトントンと叩くと、自分の隣に来いと促して来た。ゆっくりと膝で移動すると、もどかしかったのかグイと腕の中に引き込まれる。そのまま私を抱きしめた副長は、優しい声で言った。
「お前が不要だと思う奴なんざ、一人もいねぇよ。むしろいなくなることを恐れる奴らばかりだ。それはお前が女だからってんじゃなくて、一人の人間としてお前が必要とされてるって事だろうが。それだけの実績をお前は作って来たんだよ。もっと自分に自信を持ちやがれ」
「副長……」
「伊東の事は、確かに懸念すべき事ではあるけどよ、山口からも聞いているだろうが、奴らは今追い込まれているはずだ。目の前にお前がいりゃぁちょっかいも出してくるだろうが、基本それどころじゃないだろうよ。少なくとも俺が伊東の立場なら、まず近藤さんを消す為に必死になるだろうな」
「ですが、吉村さんにも……」
「吉村とも話したのか。気に入らねぇが、奴も何だかんだ言いながらお前を可愛がってるからな。……とりあえず、お前の味方はいくらでもいるんだ。離隊なんざする必要ねぇよ」
これが沙汰という事か。待っている間、あれ程に胸が締め付けられる時間を過ごしていたというのに。蓋を開ければ私の想像と相反する答えを返されてしまった。しかもその言葉は、今迄通り私を仲間として認めてくれるもので、震える私の背中を撫でる副長の手のぬくもりの心地良さと、紡がれた全ての言葉が嬉しくて涙が溢れた。
「万が一伊東が噂でも流しやがったら、俺が何とかしてやるさ。お前一人くらい守れる力はあるつもりだぜ? ってか、守らせろよ。お前は俺に付いてくるっつったじゃねーか。だったら俺を信じろっての」
そっと私の顔を持ち上げ、笑顔を見せてくれる副長は本当に頼もしくて。私の中に元々あった副長への信頼感を、強固な物にした。
「ありがとう……ございます」
私の顔に笑みが浮かんだのを見て「惚れ直しただろ?」と茶化す副長に真面目に頷いて答えると、一瞬目を見開き、頬を赤らめながら視線を泳がせる。「これ以上無いくらいに……惚れ込んでますよ」とダメ押しで言えば、副長は照れながらも子供のように破顔した。
「やっといつものお前に戻ったな」
「ご迷惑をおかけしましたが、離隊しないと決まったからには、今まで以上に誠心誠意お仕えします」
「頼りにしてるぜ、山崎」
私の背中をポンポンと叩きながらそう言った副長だったが、最後にギュッと私を抱きしめる。そして、私の耳元でそっと囁いた。
「俺がお前を手放すはずねぇだろ」
その言葉に赤くなった私の顔を覗き込みながら、してやったりの表情で副長が続ける。
「離隊は無しって事で話は付いたわけだし、山崎は今この瞬間から非番だ。此処からは琴尾と話をしなくちゃいけねぇ。未だ俺って男を理解してねぇようだから、こっちは話が長引きそうだ。……じっくり教え込んでやんなきゃなんねぇし、な」
その笑顔に含まれた意味を理解するのに、時間はいらない。
「ちょっ……まっ……っ!!」
私が抵抗する間も与えずに重ねられた唇は、強引な癖に優しくて。甘い熱に浮かされながら、私は土方歳三と言う男の全てを学ばされるのだった。
そこにやって来たのは、山口さん。例の如く表情は無かったが、不思議とその目は優しく感じられた。
「随分と派手な水浴びだな。この季節にはあまり相応しくない浴び方のようだが」
確かに水は冷たく、体は震えていた。でもその震えが自分の中の感情を誤魔化してくれる気がして、都合が良い。
「すみません。ご心配をおかけしまして」
ぽたぽたと水滴を落としながら、私は笑顔を作った。そんな私に山口さんが手拭いを貸してくれる。
「きちんと拭いておけ。お前が体調を崩していては、医務方の名折れだろう」
「あはは、そうですね」
借りた手拭いで遠慮なく髪を拭いていると、何故か山口さんが耳元に顔を近付けてくるのが分かった。そして、小さな声で言う。
「あちらでお前の事を知っているのは、伊東さんと篠原さんだけだ。平助には最初から教えるつもりで機会を伺っていたようだが、それ以外の者には未だ暫く伝える気は無いらしい」
ハッとして山口さんを見ると、彼は何事も無かったかのようにそこに立って私を見つめていた。
「貴方も知っていたんですね」
「月真院でたまたま伊東さん達の会話を聞いてな。だが彼らは俺が脱走した事もあり、局長の暗殺が新選組に漏れている事を考えて動かなければならない。言い方は悪いが、今はお前がどうこう言っている余裕は無いだろう」
「だと良いのですが……」
山口さんの言うように、伊東さんの意識が他を向いていてくれれば、私は未だここにいられるのだろうか。つい今しがた自分から離隊を口にしたはずなのに、もう心が揺れている自分の意志の弱さが情けなかった。
「未だ濡れているぞ」
髪から落ちる滴を見て、山口さんが私の頭を拭いてくれる。そして水を吸って重くなった手拭いを絞りながら言った。
「俺は以前言ったはずだ。お前は副長の側にいろ。決して裏切るな、と。その考えは今も変わっていない。俺が言えるのはそれだけだ」
パンッ! と手拭いを広げて綺麗に畳むと、山口さんは踵を返す。
「ひょっとしてそれを言う為だけにここへ?」
「……ただの通りすがりだ」
後ろから見ても分かる、少し染まった頬は照れ隠しだろう。その証拠に先程の手拭いは、洗いたての綺麗な物だった。
「……ありがとうございます、山口さん」
「問題ない。俺は新選組の為に何が出来るかを考えただけだ」
そう言って軽く手を上げ立ち去る山口さんに向けて、私は深々と頭を下げたのだった。
監察の手配をすると、私はいつもの隠れ家へと向かった。先程開いてしまった傷も、とりあえずは塞がっている。
もうそろそろ副長もここに来る。その時私は山崎烝としての人生を終える事になるのだろうか。覚悟と迷いに翻弄されながら、私は一人副長の到着を待った。
それから一刻程後に、副長は到着した。私は頭を下げ、副長を迎える。今までここは、恋仲として癒しの時を過ごす為の場所だったのに。最後にこんな辛い思いをしなければならないとは、思ってもみなかった。
未だ何も言われていないのに、畳に付いた手が震えている。顔を上げる事も出来ず、私はただ副長の言葉を待った。
予め敷いておいた座布団にどかりと座った副長は暫く私を見つめていたが、一つ小さくため息を吐くと、私の名を呼んだ。
「……山崎」
「はい」
「もう一度だけ聞く。お前は離隊を希望しているんだな」
「はい」
「それは、新選組から逃げ出す為か?」
「違います。自分がこのまま居続ければ新選組にとって不利益となるため、不要の存在と判断したからです」
「ならば、必要とされれば残るという事か?」
「それは……」
――残ります。
そう言えたらどんなに良いか。つい答えそうになったその言葉を、頭を下げたまま飲み込んだ。
「山崎烝としての意思はお伝えしました。あとは……お沙汰の通りに」
「……分かった。ならば頭を上げろ」
副長の言葉に、ゆっくりと体を起こす。すると私の目に飛び込んで来たのは、ニヤリと笑みを浮かべる副長だった。
「此処に来る前に近藤さんと話した。理由は言わずにお前が離隊を望んでいると言ったら、必死に止めて欲しいと頼んできたぞ。山口も、お前を手放すなとわざわざ言いに来やがった。総司に関しては聞かなくとも分かるだろうが。お前が離隊を望んでも、周りがそれを許さねぇよ」
そう言って副長は畳を指でトントンと叩くと、自分の隣に来いと促して来た。ゆっくりと膝で移動すると、もどかしかったのかグイと腕の中に引き込まれる。そのまま私を抱きしめた副長は、優しい声で言った。
「お前が不要だと思う奴なんざ、一人もいねぇよ。むしろいなくなることを恐れる奴らばかりだ。それはお前が女だからってんじゃなくて、一人の人間としてお前が必要とされてるって事だろうが。それだけの実績をお前は作って来たんだよ。もっと自分に自信を持ちやがれ」
「副長……」
「伊東の事は、確かに懸念すべき事ではあるけどよ、山口からも聞いているだろうが、奴らは今追い込まれているはずだ。目の前にお前がいりゃぁちょっかいも出してくるだろうが、基本それどころじゃないだろうよ。少なくとも俺が伊東の立場なら、まず近藤さんを消す為に必死になるだろうな」
「ですが、吉村さんにも……」
「吉村とも話したのか。気に入らねぇが、奴も何だかんだ言いながらお前を可愛がってるからな。……とりあえず、お前の味方はいくらでもいるんだ。離隊なんざする必要ねぇよ」
これが沙汰という事か。待っている間、あれ程に胸が締め付けられる時間を過ごしていたというのに。蓋を開ければ私の想像と相反する答えを返されてしまった。しかもその言葉は、今迄通り私を仲間として認めてくれるもので、震える私の背中を撫でる副長の手のぬくもりの心地良さと、紡がれた全ての言葉が嬉しくて涙が溢れた。
「万が一伊東が噂でも流しやがったら、俺が何とかしてやるさ。お前一人くらい守れる力はあるつもりだぜ? ってか、守らせろよ。お前は俺に付いてくるっつったじゃねーか。だったら俺を信じろっての」
そっと私の顔を持ち上げ、笑顔を見せてくれる副長は本当に頼もしくて。私の中に元々あった副長への信頼感を、強固な物にした。
「ありがとう……ございます」
私の顔に笑みが浮かんだのを見て「惚れ直しただろ?」と茶化す副長に真面目に頷いて答えると、一瞬目を見開き、頬を赤らめながら視線を泳がせる。「これ以上無いくらいに……惚れ込んでますよ」とダメ押しで言えば、副長は照れながらも子供のように破顔した。
「やっといつものお前に戻ったな」
「ご迷惑をおかけしましたが、離隊しないと決まったからには、今まで以上に誠心誠意お仕えします」
「頼りにしてるぜ、山崎」
私の背中をポンポンと叩きながらそう言った副長だったが、最後にギュッと私を抱きしめる。そして、私の耳元でそっと囁いた。
「俺がお前を手放すはずねぇだろ」
その言葉に赤くなった私の顔を覗き込みながら、してやったりの表情で副長が続ける。
「離隊は無しって事で話は付いたわけだし、山崎は今この瞬間から非番だ。此処からは琴尾と話をしなくちゃいけねぇ。未だ俺って男を理解してねぇようだから、こっちは話が長引きそうだ。……じっくり教え込んでやんなきゃなんねぇし、な」
その笑顔に含まれた意味を理解するのに、時間はいらない。
「ちょっ……まっ……っ!!」
私が抵抗する間も与えずに重ねられた唇は、強引な癖に優しくて。甘い熱に浮かされながら、私は土方歳三と言う男の全てを学ばされるのだった。
