時の泡沫
副長室では、珍しく副長と沖田さんが話をしていた。今日は体調が良いらしく、沖田さんの頬には赤みが差している。
「お帰りなさい、山崎さん」
にこりと笑顔を見せてくれる沖田さんにホッとする物を感じ、私も自然と笑みが浮かんだ。
「ただ今帰りました。大分調子が良さそうですね。後で肺の音を聞かせて下さい」
「分かりました。今日はほとんど咳が出ないので、気分が良いんです。きっと良くなってますよ」
「そうですか」
さりげなく置かれている菓子器は、副長が沖田さんの為に常備している物だ。これが出ているという事は、それなりの時間をこの部屋で過ごしていたのだろう。
「あ、仕事の話なら私は部屋に戻りますよ。いい加減土方さんとの話も飽きてきましたし、後でお喋りの相手、して下さいね」
そう言った沖田さんは、菓子器を抱えながら立ち上がり、部屋を出ようとした。だが……。
「……総司、置いてけ」
しっかりと見ていた副長に止められてしまう。
「ちぇっ……土方さんのケチ」
と笑いながら部屋へと戻って行く沖田さんは、確かに良くなっているのではないかと錯覚してしまいそうだ。だが実際は、確実に悪化している事に私達は気付いている。
「……痛むんでしょうね、あれは」
「ああ、ここにいる間ずっと胸を押さえてやがった。咳は出なくとも、息をするだけで痛むってか……」
沖田さんは、決して自ら「痛い」とは言わない。むしろ痛みがある時ほど、これ以上ないくらいの笑顔を見せるようになってきていた。だからこそ、先程の沖田さんの笑みにはホッとしたのだ。あれは痛みを誤魔化すためのものではなく、心からの笑みだったから。その後はまた、いつも通りの作り笑顔になってはいたけれど。
「何にしても、今は安静にしている以外方法はありません。後ほど診察をして、南部先生の所に行って指示を仰ぎます」
「ああ、分かった。ついでもお前も診てもらっとけ」
「はい?」
突然私の話になり、思わず眉間に皺が寄る。私は別に、どこも悪くは無いのだがと思いながら副長を見た。
「んな顔してると、皺が消えなくなるぞ。ったく……俺の目が節穴だと思ってんじゃねぇだろうな? どっか怪我してんだろ? 任務中の怪我か? 見せろ」
「え? あ、いや……」
「副長命令だ。見せろ」
それはそれは強引な命令に、頬を膨らませながら足を出す。さらしにうっすらと滲んだ血を見て、今度は副長の眉間に皺が寄った。
「痕は残るのか?」
怒りながらも心配が伝わってくる質問に、私はむくれた顔のまま答えた。
「かすり傷ですから、すぐに塞がりますよ。問題ありません」
「問題無いはずねぇだろうが。ったく……」
副長の手がそっと傷に触れる。一瞬痛みでびくりと震えてしまったが、表情を変える事はしなかった。副長に、心配をかけたくなくて。
「そんな事より副長。報告があります。坂本と伊東さんが、短時間ではありますが接触しました。話の内容までは分かっていませんが、吉村さんがそのまま坂本を追跡中です」
「そうか、分かった。で? この傷は?」
「ですから、私の事より坂本と……痛っ!」
突如走った痛みは、副長が私の傷を押したから。強引に傷を覆っていたサラシを解かれると、塞がりかかっていた傷が再び開いたのか、一筋の血が太ももを伝った。
「何するんですか副長。せっかく塞がりかけてたのに……」
解かれたサラシで血を拭い、傷口を抑えて圧迫して止血を促す。そして副長を強く睨み付けたのだが、それを物ともしない恐ろしい視線が私に突き刺さり、愕然とした。
「もう一度聞くぞ。その傷はどうした?」
それはまさに、鬼の副長以外の何物でもなくて。思わず血の気が引く程の恐ろしさを感じ、歯の根が合わなくなった。
「吉村さんと、坂本を尾行していた時に伊東さん達を見つけて……二手に分かれて俺が伊東さんを追ったのですが、見つかってしまって揉みあいに……」
「そこにいたのは?」
「伊東さんと篠原さん、そして……藤堂さんです」
藤堂さんの名前を聞き、副長の眉がピクリと動く。だがそれ以上に、伊東さんへの怒りが強いようだった。
「要するに、その傷は伊東達が原因って事だな。」
「それもありますが、元はと言えば私が罠と気付きながらも深入りしてしまった事です。申し訳ありません。しかもその時私は『琴』の姿でいましたので……藤堂さんにも……」
「ばれちまった、と」
副長から、大きなため息が漏れた。
私が女だという事実は、ずっと隠し通さねばならない極秘事項だった。
――新選組には、女がいる。
隊内に広まれば、規律は乱れるだろう。敵に知られれば、弱みとして付け込まれるだろう。もし伊東さん達がこの事を広めれば、新撰組はガタガタになってしまうかもしれないのだ。
やはり、覚悟を決めるしかないか。私は傷口を、指が白くなるほどに強く押さえつけながら言った。
「……潮時かもしれません。私を離隊させていただけませんか?」
それは、吉村さんと別れてから屯所に戻るまでの間に考えていた事。副長の為に。ひいては新選組の為にと動いていたつもりで、実は誰かに助けられていたという事は認めたくはなかった。だがそれは紛う方なき事実なのだ。それに気付けていなかったのは、副長と恋仲になれたことで浮かれていたからだろうと言われると、否定できない自分がいる。
しかも、私が気付かぬ内に普段から女になっていたのだとすれば、それはもう新選組の『山崎烝』ではない。ただの『琴尾』という、男装しているだけの一人の女子だ。新選組には相応しくない。そこまで考えて出した結果が、吉村さんにも促された『離隊』というわけだ。
突然の申し出だったこともあり、これにはさすがの副長も驚きの表情を見せた。
「離隊と簡単に言うが……その後はどうするつもりだ?」
「分かりません。でも何とかやっていける自信はありますよ。ここで鍛えられましたから」
口に出すまではとても緊張していたはずなのに。一度言葉にしてしまうと、不思議と笑みさえ浮かべられるほどに落ち着けている自分がいた。
「私がここにいれば、伊東さんに弱みを握られているのと同じ事。ならば存在が無くなればいいのではないでしょうか。それが最善の策かと存じます」
「それは本気で言っているのか?」
副長が、確認するように私の目をまっすぐに見ながら言う。
「……はい」
私も、副長の目をまっすぐ見返しながら答えた。
そこからの言葉は無い。私達は目を合わせたまま、お互い黙り込んでいた。やがて沈黙を破ったのは、副長。
「言いたい事は分かった。俺の一存では決められねぇからな、沙汰を待て。とりあえず今はやるべき事から済ませていく。吉村から何か頼まれたりはしてねぇのか?」
「ああ、監察を一人寄越すよう言われています」
「それならすぐ手配しろ。ここじゃぁ深くは話せねぇし、終わったらお前は隠れ家に行け。後で俺も行く。良いな?」
「承知しました」
頭を下げてゆっくりと体を起こすと、目の前には副長の手。いつの間にか伸ばされていたその手は、そっと私の目元に触れた。
「監察の所に行く前に、顔を洗っておけよ。……涙を流したまま行くな」
副長の指には、水滴が光っている。
「私は……泣いて……?」
目の前がぼやけているのには気付いていたが、自分が泣いているとは欠片も思っていなかった。落ち着いているつもりだったが、実は心が泣いていたらしい。
「お見苦しい所をお見せしてすみません。失礼しますっ!」
ここで泣いたままでいれば、間違いなく副長に甘えてしまう。私は副長が手を差し伸べようとしているのに気付きながらも、敢えてそれから逃れるように副長室を飛び出した。
井戸まで走り、勢いよく顔を洗う。髪が濡れても、襟が水浸しになっても、私は顔を洗い続けた。
――涙が止まるまで。
「お帰りなさい、山崎さん」
にこりと笑顔を見せてくれる沖田さんにホッとする物を感じ、私も自然と笑みが浮かんだ。
「ただ今帰りました。大分調子が良さそうですね。後で肺の音を聞かせて下さい」
「分かりました。今日はほとんど咳が出ないので、気分が良いんです。きっと良くなってますよ」
「そうですか」
さりげなく置かれている菓子器は、副長が沖田さんの為に常備している物だ。これが出ているという事は、それなりの時間をこの部屋で過ごしていたのだろう。
「あ、仕事の話なら私は部屋に戻りますよ。いい加減土方さんとの話も飽きてきましたし、後でお喋りの相手、して下さいね」
そう言った沖田さんは、菓子器を抱えながら立ち上がり、部屋を出ようとした。だが……。
「……総司、置いてけ」
しっかりと見ていた副長に止められてしまう。
「ちぇっ……土方さんのケチ」
と笑いながら部屋へと戻って行く沖田さんは、確かに良くなっているのではないかと錯覚してしまいそうだ。だが実際は、確実に悪化している事に私達は気付いている。
「……痛むんでしょうね、あれは」
「ああ、ここにいる間ずっと胸を押さえてやがった。咳は出なくとも、息をするだけで痛むってか……」
沖田さんは、決して自ら「痛い」とは言わない。むしろ痛みがある時ほど、これ以上ないくらいの笑顔を見せるようになってきていた。だからこそ、先程の沖田さんの笑みにはホッとしたのだ。あれは痛みを誤魔化すためのものではなく、心からの笑みだったから。その後はまた、いつも通りの作り笑顔になってはいたけれど。
「何にしても、今は安静にしている以外方法はありません。後ほど診察をして、南部先生の所に行って指示を仰ぎます」
「ああ、分かった。ついでもお前も診てもらっとけ」
「はい?」
突然私の話になり、思わず眉間に皺が寄る。私は別に、どこも悪くは無いのだがと思いながら副長を見た。
「んな顔してると、皺が消えなくなるぞ。ったく……俺の目が節穴だと思ってんじゃねぇだろうな? どっか怪我してんだろ? 任務中の怪我か? 見せろ」
「え? あ、いや……」
「副長命令だ。見せろ」
それはそれは強引な命令に、頬を膨らませながら足を出す。さらしにうっすらと滲んだ血を見て、今度は副長の眉間に皺が寄った。
「痕は残るのか?」
怒りながらも心配が伝わってくる質問に、私はむくれた顔のまま答えた。
「かすり傷ですから、すぐに塞がりますよ。問題ありません」
「問題無いはずねぇだろうが。ったく……」
副長の手がそっと傷に触れる。一瞬痛みでびくりと震えてしまったが、表情を変える事はしなかった。副長に、心配をかけたくなくて。
「そんな事より副長。報告があります。坂本と伊東さんが、短時間ではありますが接触しました。話の内容までは分かっていませんが、吉村さんがそのまま坂本を追跡中です」
「そうか、分かった。で? この傷は?」
「ですから、私の事より坂本と……痛っ!」
突如走った痛みは、副長が私の傷を押したから。強引に傷を覆っていたサラシを解かれると、塞がりかかっていた傷が再び開いたのか、一筋の血が太ももを伝った。
「何するんですか副長。せっかく塞がりかけてたのに……」
解かれたサラシで血を拭い、傷口を抑えて圧迫して止血を促す。そして副長を強く睨み付けたのだが、それを物ともしない恐ろしい視線が私に突き刺さり、愕然とした。
「もう一度聞くぞ。その傷はどうした?」
それはまさに、鬼の副長以外の何物でもなくて。思わず血の気が引く程の恐ろしさを感じ、歯の根が合わなくなった。
「吉村さんと、坂本を尾行していた時に伊東さん達を見つけて……二手に分かれて俺が伊東さんを追ったのですが、見つかってしまって揉みあいに……」
「そこにいたのは?」
「伊東さんと篠原さん、そして……藤堂さんです」
藤堂さんの名前を聞き、副長の眉がピクリと動く。だがそれ以上に、伊東さんへの怒りが強いようだった。
「要するに、その傷は伊東達が原因って事だな。」
「それもありますが、元はと言えば私が罠と気付きながらも深入りしてしまった事です。申し訳ありません。しかもその時私は『琴』の姿でいましたので……藤堂さんにも……」
「ばれちまった、と」
副長から、大きなため息が漏れた。
私が女だという事実は、ずっと隠し通さねばならない極秘事項だった。
――新選組には、女がいる。
隊内に広まれば、規律は乱れるだろう。敵に知られれば、弱みとして付け込まれるだろう。もし伊東さん達がこの事を広めれば、新撰組はガタガタになってしまうかもしれないのだ。
やはり、覚悟を決めるしかないか。私は傷口を、指が白くなるほどに強く押さえつけながら言った。
「……潮時かもしれません。私を離隊させていただけませんか?」
それは、吉村さんと別れてから屯所に戻るまでの間に考えていた事。副長の為に。ひいては新選組の為にと動いていたつもりで、実は誰かに助けられていたという事は認めたくはなかった。だがそれは紛う方なき事実なのだ。それに気付けていなかったのは、副長と恋仲になれたことで浮かれていたからだろうと言われると、否定できない自分がいる。
しかも、私が気付かぬ内に普段から女になっていたのだとすれば、それはもう新選組の『山崎烝』ではない。ただの『琴尾』という、男装しているだけの一人の女子だ。新選組には相応しくない。そこまで考えて出した結果が、吉村さんにも促された『離隊』というわけだ。
突然の申し出だったこともあり、これにはさすがの副長も驚きの表情を見せた。
「離隊と簡単に言うが……その後はどうするつもりだ?」
「分かりません。でも何とかやっていける自信はありますよ。ここで鍛えられましたから」
口に出すまではとても緊張していたはずなのに。一度言葉にしてしまうと、不思議と笑みさえ浮かべられるほどに落ち着けている自分がいた。
「私がここにいれば、伊東さんに弱みを握られているのと同じ事。ならば存在が無くなればいいのではないでしょうか。それが最善の策かと存じます」
「それは本気で言っているのか?」
副長が、確認するように私の目をまっすぐに見ながら言う。
「……はい」
私も、副長の目をまっすぐ見返しながら答えた。
そこからの言葉は無い。私達は目を合わせたまま、お互い黙り込んでいた。やがて沈黙を破ったのは、副長。
「言いたい事は分かった。俺の一存では決められねぇからな、沙汰を待て。とりあえず今はやるべき事から済ませていく。吉村から何か頼まれたりはしてねぇのか?」
「ああ、監察を一人寄越すよう言われています」
「それならすぐ手配しろ。ここじゃぁ深くは話せねぇし、終わったらお前は隠れ家に行け。後で俺も行く。良いな?」
「承知しました」
頭を下げてゆっくりと体を起こすと、目の前には副長の手。いつの間にか伸ばされていたその手は、そっと私の目元に触れた。
「監察の所に行く前に、顔を洗っておけよ。……涙を流したまま行くな」
副長の指には、水滴が光っている。
「私は……泣いて……?」
目の前がぼやけているのには気付いていたが、自分が泣いているとは欠片も思っていなかった。落ち着いているつもりだったが、実は心が泣いていたらしい。
「お見苦しい所をお見せしてすみません。失礼しますっ!」
ここで泣いたままでいれば、間違いなく副長に甘えてしまう。私は副長が手を差し伸べようとしているのに気付きながらも、敢えてそれから逃れるように副長室を飛び出した。
井戸まで走り、勢いよく顔を洗う。髪が濡れても、襟が水浸しになっても、私は顔を洗い続けた。
――涙が止まるまで。
