時の泡沫
「そうですね。私は今まで通りでしょうか。病の進行状況を把握し、その時点での最善の治療方法を伝えます。あとは沖田さんと一緒に快方を目指して模索していくだけですよ」
笑顔を浮かべて当たり前のように言うが、それは簡単な事では無い。患者の感情に引きずられる事だってあるはずだ。南部先生はいつだって前向きだが、絶望感に苛まれた事は無いのだろうか。
だがそんな疑問は、一瞬で吹き飛ばされた。
「先程松本も話していましたが、今日がダメでも明日は可能性があるんです。実は結構楽観的なのかもしれませんね。まぁ私も松本の弟子ですから」
「その言い方は気にくわねぇな」とぶつくさ言う松本先生に、南部先生が余裕の笑みを見せる。明日への希望という根幹が、ぶれない自分を支えているという事か。
「お前さんは色んな事をうじうじと考える部類の人間みてぇだが、医者が感情に流されてちゃ、見えるもんも見えなくなっちまう。俺だったら現実をそのまま沖田に伝えて、あとは思いつく限り出来る事をやるぜ? そん時沖田が諦めたとしても、俺が諦めなけりゃ良いだけの話だろうが」
まるで悩んでいる方が馬鹿だとでも言うように、呆れた顔で言ったのは松本先生。ここまであっさりと言われてしまうと、本当に悩んでいるのが馬鹿らしく感じられるから不思議だ。
「でもまぁ患者の気持ちに寄り添うってのも、治療の一環だ。同調してもらう事で救われるもんもあるだろうしな。だが負の感情にだけは引きずられちゃいけねぇ。そんな時はこっちが患者を引きずってやるんだよ。少々の嘘や誤魔化しがあったってかまやしねぇ。自分の治療がやりやすいように、患者を振り回してやりゃ良いんだよ」
「これぞ松本派の極意『何様俺様医者様だ!』です」
「……はい?」
突如南部先生が挟んできた言葉に、目が点になってしまった。だが冗談のように思えたこの言葉は、至って本気の物らしい。
「お前は医者を名乗ってんだろうが。だったら自分に自信を持ちやがれってんだよ。御典医の俺様の弟子が弱気になってちゃ、俺の立場がねぇだろが。医者は虚勢を張れて初めて一人前だろ?」
「……確かに何様で俺様ですね……」
「でしょう? 松本に教えを乞うた方々は、ほぼ例外なくこの極意を得る事になります」
尤もらしく頷く二人の姿に、ふつふつと笑いがこみあげてくる。
この人達は、間違いなく名医だ。ただ話をしていただけなのに、ここに来た時にあった心の靄が、今はもう全く存在していない。
「お二人とも、ありがとうございました!」
お礼を言いながら、満面の笑みを浮かべた。
「お二人のような医者になれるよう、今後も精進いたします」
明日への希望を信じて。きっと沖田さんを治してみせる!
改めて、心に誓った。
「そういえば、先日の膃肭臍はどのような効果を狙っていたのでしょう?」
その後、せっかくだからと労咳についての見解を聞いていたのだが、ふと薬の事を思い出して尋ねた。すると帰ってきた答えは――。
「ああ、あれは沖田が病のせいで、男として情けないとか何とか言ってやがったから、景気付けに出してやったんだよ。男としての機能が戻りゃ、気分も晴れるだろうと思ってな」
「師匠……だからあれはそういう事ではなくて、純粋に病で体力が落ちてしまってる事が辛いという話で……」
「あん? だからどちらにも効果がある膃肭臍にしたんだろうが。実際少しは効果が出てただろ?」
「いやまぁそうなんですけど……」
南部先生が頭を抱えている。
――沖田先生の喀血のきっかけを作ったのは、実はこの人なんじゃないだろうか?
私も引きつりながら、松本先生を見つめるしかなかった。
いらない記憶が混じりながらも、松本先生達の言葉を思い出し、落ち込む沖田さんに笑顔を向けた。
「木刀よりも、今はお箸を握りませんか?」
「お箸……ですか?」
「流石に一刻近く外に出ているのは体に悪いので、部屋に戻ってお茶にしましょう。今日は卵が手に入りましたので、お茶受けに甘い卵焼きを作りますね」
先生達のようにうまく立ち回ることは出来なくとも、私なりのやり方で元気付ける事は出来るはずだ。なんてったって私は『医者様』なのだから。松本先生のように『何様な俺様』になるのは躊躇われるけれど。
「本当ですか? やったぁ!」
先程までの暗い表情とは打って変わって、子供のように無邪気に喜ぶ沖田さんが微笑ましい。もちろん半分は彼の演技も入っているだろう。だとしても、少しでも前向きになれればきっと何かが変わるはずだ。
「今回もまた、特別甘い味付けでお願いしますね」
うきうきした表情で、沖田さんが言う。
ちなみに特別甘い味付けとは、以前間違えて砂糖を多く入れ過ぎて焼いた物が、丁度沖田さんの好みの甘さだったらしくて。それ以来卵が手に入ると必ず、お菓子のように甘い卵焼きをねだられるようになっていた。
元々江戸の卵焼きは甘い物が主流であり、京は出汁巻が主流の為、故郷の味が恋しくなったのかもしれない。ただし今望んでいるの卵焼きには、砂糖を通常の倍量入れる為、少なくとも、私が知っている江戸の卵焼きからは程遠い甘さになる。
「沖田さんはとことん甘い物がお好きですね。いっその事、お米も砂糖水で炊いてみますか?」
「あ、それは名案ですね!」
「冗談ですよ……勘弁してください……」
つい味を想像してしまい、胸焼けで気持ち悪くなってしまう。思い切り頭を振ってその想像を振り払い、沖田さんが部屋に戻って横になったのを確認すると、私は早速厨に向かった。
ちなみに余談になるが、いつもなら厨で何かを作っていると、わらわらと誰かしらが寄ってきて、味見させろと手を伸ばしてくるのだが――この卵を焼いている時だけは、人が寄りつく事は無かった。
……島田さんを除いては。
笑顔を浮かべて当たり前のように言うが、それは簡単な事では無い。患者の感情に引きずられる事だってあるはずだ。南部先生はいつだって前向きだが、絶望感に苛まれた事は無いのだろうか。
だがそんな疑問は、一瞬で吹き飛ばされた。
「先程松本も話していましたが、今日がダメでも明日は可能性があるんです。実は結構楽観的なのかもしれませんね。まぁ私も松本の弟子ですから」
「その言い方は気にくわねぇな」とぶつくさ言う松本先生に、南部先生が余裕の笑みを見せる。明日への希望という根幹が、ぶれない自分を支えているという事か。
「お前さんは色んな事をうじうじと考える部類の人間みてぇだが、医者が感情に流されてちゃ、見えるもんも見えなくなっちまう。俺だったら現実をそのまま沖田に伝えて、あとは思いつく限り出来る事をやるぜ? そん時沖田が諦めたとしても、俺が諦めなけりゃ良いだけの話だろうが」
まるで悩んでいる方が馬鹿だとでも言うように、呆れた顔で言ったのは松本先生。ここまであっさりと言われてしまうと、本当に悩んでいるのが馬鹿らしく感じられるから不思議だ。
「でもまぁ患者の気持ちに寄り添うってのも、治療の一環だ。同調してもらう事で救われるもんもあるだろうしな。だが負の感情にだけは引きずられちゃいけねぇ。そんな時はこっちが患者を引きずってやるんだよ。少々の嘘や誤魔化しがあったってかまやしねぇ。自分の治療がやりやすいように、患者を振り回してやりゃ良いんだよ」
「これぞ松本派の極意『何様俺様医者様だ!』です」
「……はい?」
突如南部先生が挟んできた言葉に、目が点になってしまった。だが冗談のように思えたこの言葉は、至って本気の物らしい。
「お前は医者を名乗ってんだろうが。だったら自分に自信を持ちやがれってんだよ。御典医の俺様の弟子が弱気になってちゃ、俺の立場がねぇだろが。医者は虚勢を張れて初めて一人前だろ?」
「……確かに何様で俺様ですね……」
「でしょう? 松本に教えを乞うた方々は、ほぼ例外なくこの極意を得る事になります」
尤もらしく頷く二人の姿に、ふつふつと笑いがこみあげてくる。
この人達は、間違いなく名医だ。ただ話をしていただけなのに、ここに来た時にあった心の靄が、今はもう全く存在していない。
「お二人とも、ありがとうございました!」
お礼を言いながら、満面の笑みを浮かべた。
「お二人のような医者になれるよう、今後も精進いたします」
明日への希望を信じて。きっと沖田さんを治してみせる!
改めて、心に誓った。
「そういえば、先日の膃肭臍はどのような効果を狙っていたのでしょう?」
その後、せっかくだからと労咳についての見解を聞いていたのだが、ふと薬の事を思い出して尋ねた。すると帰ってきた答えは――。
「ああ、あれは沖田が病のせいで、男として情けないとか何とか言ってやがったから、景気付けに出してやったんだよ。男としての機能が戻りゃ、気分も晴れるだろうと思ってな」
「師匠……だからあれはそういう事ではなくて、純粋に病で体力が落ちてしまってる事が辛いという話で……」
「あん? だからどちらにも効果がある膃肭臍にしたんだろうが。実際少しは効果が出てただろ?」
「いやまぁそうなんですけど……」
南部先生が頭を抱えている。
――沖田先生の喀血のきっかけを作ったのは、実はこの人なんじゃないだろうか?
私も引きつりながら、松本先生を見つめるしかなかった。
いらない記憶が混じりながらも、松本先生達の言葉を思い出し、落ち込む沖田さんに笑顔を向けた。
「木刀よりも、今はお箸を握りませんか?」
「お箸……ですか?」
「流石に一刻近く外に出ているのは体に悪いので、部屋に戻ってお茶にしましょう。今日は卵が手に入りましたので、お茶受けに甘い卵焼きを作りますね」
先生達のようにうまく立ち回ることは出来なくとも、私なりのやり方で元気付ける事は出来るはずだ。なんてったって私は『医者様』なのだから。松本先生のように『何様な俺様』になるのは躊躇われるけれど。
「本当ですか? やったぁ!」
先程までの暗い表情とは打って変わって、子供のように無邪気に喜ぶ沖田さんが微笑ましい。もちろん半分は彼の演技も入っているだろう。だとしても、少しでも前向きになれればきっと何かが変わるはずだ。
「今回もまた、特別甘い味付けでお願いしますね」
うきうきした表情で、沖田さんが言う。
ちなみに特別甘い味付けとは、以前間違えて砂糖を多く入れ過ぎて焼いた物が、丁度沖田さんの好みの甘さだったらしくて。それ以来卵が手に入ると必ず、お菓子のように甘い卵焼きをねだられるようになっていた。
元々江戸の卵焼きは甘い物が主流であり、京は出汁巻が主流の為、故郷の味が恋しくなったのかもしれない。ただし今望んでいるの卵焼きには、砂糖を通常の倍量入れる為、少なくとも、私が知っている江戸の卵焼きからは程遠い甘さになる。
「沖田さんはとことん甘い物がお好きですね。いっその事、お米も砂糖水で炊いてみますか?」
「あ、それは名案ですね!」
「冗談ですよ……勘弁してください……」
つい味を想像してしまい、胸焼けで気持ち悪くなってしまう。思い切り頭を振ってその想像を振り払い、沖田さんが部屋に戻って横になったのを確認すると、私は早速厨に向かった。
ちなみに余談になるが、いつもなら厨で何かを作っていると、わらわらと誰かしらが寄ってきて、味見させろと手を伸ばしてくるのだが――この卵を焼いている時だけは、人が寄りつく事は無かった。
……島田さんを除いては。
