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時の泡沫

 沖田さんが喀血した日からも、私はほぼ毎日沖田さんの部屋に通い続けている。
 あの日以降、罪の意識からかどんなに苦い薬を渡しても文句を言わず、部屋から出るなと言えば律儀に守っていたが、時と共にまたわがままを言うようになり。少しずつ、以前のような関係に戻ってきていた。
 時折何かを言いたそうな素振りを見せる事もあるが、色恋の話は今の所口にしていない。正直私にとって、それはありがたかった。何故なら今はもう、そのような話をしている余裕がなくなってきていたから。

 時代は、風雲急を告げている。

 伊東さんが土佐の中岡慎太郎との密会を果たしたとの一報が入ったのは、七月の終わりの事だった。薩長同盟を現実の物とした坂本龍馬の同志であり、少し前に出来たばかりの陸援隊の隊長でもある、中岡との繋がりを持ったというわけだ。
 情報の到着にずれはあったが、陸援隊結成と密会が同日らしいという話もあることから、これは伊東さんの存在が少しずつ尊王攘夷派に認められ始めているという事だろうか。この一報に、副長は早速陸援隊への密偵として、村山謙吉を送り込む事を決めた。

「ったく……大物と絡んでくれやがって、こっちの都合も考えろってんだ」

 人手不足が否めない新選組にとって、人員を割かねばならない潜入調査は厳しい物があるため、頭を悩ませているのだろう。副長室に呼び出され、愚痴を聞かされている私が今目にしているのは、副長の眉間にある立派なシワだった。

「でも伊東さんが絡まずとも、陸援隊が出来たと聞いた段階で、密偵は送らざるを得ないでしょう?」
「そらまぁそうだけどよ。伊東の名前が加わっただけで、何だか腹が立つじゃねぇか」
「……子供ですか、貴方は」

 思わず浮かんだ苦笑いだったが、正直その気持ちは分からなくもない。私は、先日偶然会った時の伊東さんを思い出していた。

「あの時、私に視野を広げろと言っていたのは、これの事だったんですかね……」

 薩摩、長州、土佐は日を追うごとに力を増してきている。数々の討幕勢力が生まれ、それらが横の広がりを見せているのだ。しかも皆がやる気に満ちており、武器や装備なども新しい物をどんどん取り入れている。
 古い体制の上、やる気も団結力もない今の幕府には、到底奴らを倒す力など無いだろう。今の幕府はただ必死に、過去の栄華に縋ろうとしているだけに過ぎないのだから。
 一部の噂の中には、大政奉還というとんでもない言葉も混じり始めている。あり得ないとは思いながらも、そのような言葉を耳にする機会がある事自体が異常であり、二百六十年余り続いた徳川の世が終焉に向かっているのを感じた。

 だからこそ伊東さんは、その幕府を見捨て、倒幕派を名乗るようになったのだろう。ただし伊東さん自身はあくまで『倒幕』を望み、『討幕』を望んではいないようなのだが。つい先日まで探りを入れていた時、面会相手がどんなに激昂しても、武力行使は好まないという姿勢を徹底して崩さなかったのを見た時は、ほんの少しだけだが尊敬の念を抱いた。

「視野云々は知らねえが、接触禁止ってのを無視して声をかけてくるくらい、未だお前にご執心ってのは分かったさ。ったく、とことん邪魔くせぇ奴だぜ」

 副長の口が、への字になる。私はその口の端をキュッと上に持ち上げながら言った。

「自分で言うのも何ですが、人気者なので。ちなみにそんな人気者の私が、陸援隊に入隊するのはダメなんですか? 村山さんは未だ入隊して日が浅いですし……」

 副長が陸援隊潜入に指名した村山謙吉は、最近入隊したばかりの平隊士だ。私からすると、潜入に慣れている監察からの人選ではない事は甚だ疑問だった。
 それに副長が、私の手を退かしながら答えてくれる。

「だから良いんだよ。隊内でも彼奴の顔を覚えている奴は未だ少ねぇし、もちろん伊東達外部の者にも知られていない。相手が相手だからな。極力顔を知られていない人物を使いてぇ。その代わり、連絡係はお前に任せる。潜入に関する知識は俺より格段に持ってるだろうしな。指示を与えてやってくれ」
「そういう事でしたら……承知しました」

 言われてみると納得できる理由だ。私には思いつかない事だな、と改めて感心した。

「では早速手筈を整えます。村山さんにも潜入のイロハを叩き込まねば」
「ああ、頼む」

 方針が定まれば、あとは動くのみ。ここからは時間との戦いだ。お互い笑顔を向けて頷くと、いつものように口付けを交わす。そしてすぐに気持ちを切り替え、私は副長室を後にしたのだった。

 副長室を出たその足で、私は村山さんを訪ねた。
 私も未だほとんど面識は無い彼だったが、顔を合わせてみれば副長直々の密命という事で、やる気に満ちていた。
 ほぼ年齢の変わらない上司の立場である私にも偏見を持たず、話を聞こうとする態度を見せている。そんな村山さんに、潜入は命懸けだからと、私の持ち得る知識を数日かけて厳しく叩き込んだ。

 そして八月の半ばには、村山さんは陸援隊の一員として行動を開始する。時を待たずして「同時期に入隊した水野八郎が、御陵衛士である橋本階助である」という知らせを届けてきた彼は非常に優秀であり、副長の人選に間違いなかった事を証明したのだった。
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良かった👍