時の泡沫
屯所を移転して一週間後の6月22日。京都郊外にある竹田街道の鴨川銭取橋にて、武田観柳斎が暗殺された。
上には媚びへつらい、下には横柄な態度を取る武田さんは、正直隊内での評判が悪かった。その上時代の波に乗り切れぬ所があり、古い兵法をやたらと推すため、少しずつ居場所も無くなっていたのだろう。密かに御陵衛士や薩摩藩に接触を測り始めているのは気付いていた。
そこへ来て、この暗殺。
既にひと月ほど前には新選組を脱退していた彼に手をかけたのは誰か。一説によると、斉藤さんと篠原さんの手によるものとの事だが……。
私の与り知らぬ所で起きたこの事件の首謀者を、私が追うことは許されなかった。その意味が分かっても、何の心も動かなかった私は、骨の髄まで鬼に感化されているのだろうか。
死人に口無し。真相は闇の中のまま、この件は風化していった。
六月二十四日には、副長、尾形さん、吉村さん、そして私の四人で、局長による建白書を持参し、柳原前光・正親町三条実愛の両卿の屋敷を訪ねた。
最近やけにこの顔ぶれで動く事が多いなと思う。だがそのお陰で、お互いの考えやその先の行動が読め、仕事はやり易かった。
「荒れてますねぇ…… 」
「そうですねぇ……」
どこぞの老夫婦かと思しき会話をしているのは、吉村さんと私。最近ではめっきり茶飲み友達のようになっている私達は、暇を見つけては茶屋で会っていた。
目的は勿論、情報交換。先日の佐野さん達の一件以降、伊東さんの周りが慌ただしく動き始めているのだ。副長も気にはしているのだが、次々と起こる問題に手が回らず、後回しにされている。日に日に眉間のシワは深くなり、怒鳴り声が屯所内に響き渡る回数も増えていた。
そこで私達は独断で、伊東さんの周辺を探っている。
「伊東さんは、本格的に交渉の手を広げ始めています」
お茶をすすりながら、吉村さんは言った。
「薩摩、土佐、長州。手当たり次第に面会しているようです。元新選組という事で、なかなか信用はされにくいようですが……」
「参謀職で名を売ってしまいましたしねぇ。私だって疑いますよ」
新選組による報復の可能性もあるというのに。自らの身を危険に晒しながら、一体何処まで行くつもりなのだろう。私には、彼らの望む終着点が見えてはいない。
「佐野さん達の死の原因は全て局長にあると、局長の暗殺を計画しているという話もあります」
「そうなると、いい加減副長にも動いて頂かないといけませんね。何やら建白書の準備も進めているみたいですし」
「……山崎さんはまた、どこからそういう情報を……監察に戻ってきてくださいよ」
吉村さんの目は本気だ。監察はいつでも人手が足りず、休みが欲しいとの不満も出る程、隊務に駆り出されている。島田さんと共に、吉村さんもかなり苦労しているようだった。
私はと言うと、あちこちに潜入している内に広がった人脈は、助勤になってからも思いがけない様々な情報を与えてくれる。中でも重要な情報源は、井戸端会議の女達だったりするわけで。その中に入れるのは私の強みだと思う。今回の情報も、伊東さんの休息所近くに潜り込んで得た物だ。
「私も出来る限り手伝いますから、いつでも声をかけて下さい。今回の件は私から伝えますね。引き続き探りを入れて下さい」
様々な思いの入り混じった視線を送ってくる吉村さんを宥めながら、私達は茶屋をあとにした。
屯所に戻り、私はそのまま副長室を訪ねたが、中はもぬけの殻だった。それどころかここ数日、部屋の主がいた形跡が無い。相変わらず忙しいのだな、と思いながら何となく換気の為に障子戸や襖を開けていくと、突然パサリと何かが落ちてきた。
それは、久し振りに目にした豊玉発句集。
「これは仏の啓示か何かやろか?」
悪戯心が湧き上がる。私はそれを手に取ると厨を経由し、とある場所へと向かった。
「沖田さん。いらっしゃいますか?」
「ゴホッ……はい、どうぞ」
部屋に入ると、沖田さんは褥に横たわっていた。
ここ最近、沖田さんの体調は芳しく無い。咳をすると血痰が出る事も多く、労咳が悪化してきていた。本人も、副長の命令如何に関係無く、部屋からあまり出てこなくなっている。
「具合はどうですか?」
私を見て体を起こす沖田さんの顔は青白く、見るからに病人の程をしていたが、敢えて本人に尋ねた。
「お陰様で、ゴホッ、今日は楽ですよ。数日前に松本先生が新しい薬を送って下さいましてね。そのお陰かな」
「私はそんな話、聞いてないんですが……怪しい薬じゃ無いでしょうね」
「何やら膃肭臍(おっとせい)がどうとか……」
「……それ、使い方違いますから!」
確かに滋養強壮剤ではあるが、今の沖田さんの病に必要な薬かは至って謎だ。それとも体のとある一部分に効果があると言われている膃肭臍は、実はもっと様々な効果が得られるのだろうか?
「そういや南部先生が、物言いたげに苦笑いをしてましたよ」
「確かに悪い物では無いんですよね。まぁ体調が良くなってるのなら……」
南部先生も思う所があったのだろう。何てったって松本先生は、徳川慶喜公に阿片を処方し睡眠不足を解消させたという、普通の神経じゃ考えられない事をやってのけた医師なのだ。おかしいと思いはしても、ひょっとして……と思わせる何かがある。
「あの先生は、色々な意味で後世に名を残しそうですよね」
苦笑いをする私に、膃肭臍の効能を知らない沖田さんは首を傾げていた。
上には媚びへつらい、下には横柄な態度を取る武田さんは、正直隊内での評判が悪かった。その上時代の波に乗り切れぬ所があり、古い兵法をやたらと推すため、少しずつ居場所も無くなっていたのだろう。密かに御陵衛士や薩摩藩に接触を測り始めているのは気付いていた。
そこへ来て、この暗殺。
既にひと月ほど前には新選組を脱退していた彼に手をかけたのは誰か。一説によると、斉藤さんと篠原さんの手によるものとの事だが……。
私の与り知らぬ所で起きたこの事件の首謀者を、私が追うことは許されなかった。その意味が分かっても、何の心も動かなかった私は、骨の髄まで鬼に感化されているのだろうか。
死人に口無し。真相は闇の中のまま、この件は風化していった。
六月二十四日には、副長、尾形さん、吉村さん、そして私の四人で、局長による建白書を持参し、柳原前光・正親町三条実愛の両卿の屋敷を訪ねた。
最近やけにこの顔ぶれで動く事が多いなと思う。だがそのお陰で、お互いの考えやその先の行動が読め、仕事はやり易かった。
「荒れてますねぇ…… 」
「そうですねぇ……」
どこぞの老夫婦かと思しき会話をしているのは、吉村さんと私。最近ではめっきり茶飲み友達のようになっている私達は、暇を見つけては茶屋で会っていた。
目的は勿論、情報交換。先日の佐野さん達の一件以降、伊東さんの周りが慌ただしく動き始めているのだ。副長も気にはしているのだが、次々と起こる問題に手が回らず、後回しにされている。日に日に眉間のシワは深くなり、怒鳴り声が屯所内に響き渡る回数も増えていた。
そこで私達は独断で、伊東さんの周辺を探っている。
「伊東さんは、本格的に交渉の手を広げ始めています」
お茶をすすりながら、吉村さんは言った。
「薩摩、土佐、長州。手当たり次第に面会しているようです。元新選組という事で、なかなか信用はされにくいようですが……」
「参謀職で名を売ってしまいましたしねぇ。私だって疑いますよ」
新選組による報復の可能性もあるというのに。自らの身を危険に晒しながら、一体何処まで行くつもりなのだろう。私には、彼らの望む終着点が見えてはいない。
「佐野さん達の死の原因は全て局長にあると、局長の暗殺を計画しているという話もあります」
「そうなると、いい加減副長にも動いて頂かないといけませんね。何やら建白書の準備も進めているみたいですし」
「……山崎さんはまた、どこからそういう情報を……監察に戻ってきてくださいよ」
吉村さんの目は本気だ。監察はいつでも人手が足りず、休みが欲しいとの不満も出る程、隊務に駆り出されている。島田さんと共に、吉村さんもかなり苦労しているようだった。
私はと言うと、あちこちに潜入している内に広がった人脈は、助勤になってからも思いがけない様々な情報を与えてくれる。中でも重要な情報源は、井戸端会議の女達だったりするわけで。その中に入れるのは私の強みだと思う。今回の情報も、伊東さんの休息所近くに潜り込んで得た物だ。
「私も出来る限り手伝いますから、いつでも声をかけて下さい。今回の件は私から伝えますね。引き続き探りを入れて下さい」
様々な思いの入り混じった視線を送ってくる吉村さんを宥めながら、私達は茶屋をあとにした。
屯所に戻り、私はそのまま副長室を訪ねたが、中はもぬけの殻だった。それどころかここ数日、部屋の主がいた形跡が無い。相変わらず忙しいのだな、と思いながら何となく換気の為に障子戸や襖を開けていくと、突然パサリと何かが落ちてきた。
それは、久し振りに目にした豊玉発句集。
「これは仏の啓示か何かやろか?」
悪戯心が湧き上がる。私はそれを手に取ると厨を経由し、とある場所へと向かった。
「沖田さん。いらっしゃいますか?」
「ゴホッ……はい、どうぞ」
部屋に入ると、沖田さんは褥に横たわっていた。
ここ最近、沖田さんの体調は芳しく無い。咳をすると血痰が出る事も多く、労咳が悪化してきていた。本人も、副長の命令如何に関係無く、部屋からあまり出てこなくなっている。
「具合はどうですか?」
私を見て体を起こす沖田さんの顔は青白く、見るからに病人の程をしていたが、敢えて本人に尋ねた。
「お陰様で、ゴホッ、今日は楽ですよ。数日前に松本先生が新しい薬を送って下さいましてね。そのお陰かな」
「私はそんな話、聞いてないんですが……怪しい薬じゃ無いでしょうね」
「何やら膃肭臍(おっとせい)がどうとか……」
「……それ、使い方違いますから!」
確かに滋養強壮剤ではあるが、今の沖田さんの病に必要な薬かは至って謎だ。それとも体のとある一部分に効果があると言われている膃肭臍は、実はもっと様々な効果が得られるのだろうか?
「そういや南部先生が、物言いたげに苦笑いをしてましたよ」
「確かに悪い物では無いんですよね。まぁ体調が良くなってるのなら……」
南部先生も思う所があったのだろう。何てったって松本先生は、徳川慶喜公に阿片を処方し睡眠不足を解消させたという、普通の神経じゃ考えられない事をやってのけた医師なのだ。おかしいと思いはしても、ひょっとして……と思わせる何かがある。
「あの先生は、色々な意味で後世に名を残しそうですよね」
苦笑いをする私に、膃肭臍の効能を知らない沖田さんは首を傾げていた。
