時の泡沫
その沖田さんだが、相変わらず咳は続いていて。それでも時に市中見廻りが出来る程には体調を維持出来ていた。
あれからずっと南部先生と相談しながら、回復の為のあらゆる可能性を模索している。診察の回数も増やし、無理をしないようにと過剰な程に気を付けていた。
「今の所、悪化はしていませんよ。小康状態を保っているといった所でしょうか」
「そうですか……良かった」
今日は沖田さんの定期検診の日。南部先生の言葉に、沖田さんがホッとした顔を見せる。私も思わず頬が緩んだ。
労咳の診断を受けてから二年近く。未だに喀血はしていないのだから、もしかすると……と期待してしまうのは、当たり前ではなかろうか。
「ところで山崎さん。ちょっと宜しいですか?」
沖田さんの診察後、薬の調合をするからと南部先生に呼ばれた。よくある事なので、準備しておいた金平糖を、出した瞬間から手を伸ばして「子供扱いしないで下さいよ!」とポリポリ噛み砕きながら言う沖田さんに渡し、診察室の奥へと向かう。
「何か問題がありましたか? 足りない物でも……」
「いえ、そうでは無くて高麗人参の事です。かなり無理をしておられませんか?」
そう言いながら南部先生が私の目の前に差し出したのは、広島行き直前までの沖田さんの病状について書き記した日記だった。
「何故南部先生がこれを?」
「以前沖田さんが見つけて持ってきて下さったんですよ。貴方が広島から戻られる少し前位でしたでしょうか」
受け取ると、自然に開く箇所があった。見ればそこは、私が経験した労咳の経過を記した箇所で。
中でも私と『烝さん』の経過と、投薬内容の部分は何度も指でなぞったように黒くなっていた。
「失礼かとは思いましたが、私も内容を拝見しました。やはり経験された方の記述は参考になります。ですが……」
南部先生の表情が曇る。
「貴方は高麗人参を過信し過ぎています。確かに貴方の労咳には一定の効果があったかもしれません。ですが沖田さんにも同じ効果があるとは限らないのですよ」
「でもっ! 私が治ったんですから可能性は……私は沖田さんより咳が多い状態からの回復なんです!」
南部先生から言われた話は、考えもしなかった否定の言葉で。全く予想をしていなかっただけに動揺し、思わず怒鳴ってしまった。
しかし南部先生は冷静だ。
「お気持ちは分かりますが、盲目的に信じるのは危険です。 手段がそれしか無いと思い込むのは……」
「それでも、私は今こうして生きています! 烝さんは、自分は飲まずに全部私にくれてしまったから悪化して……命を……」
どう足掻いても忘れられない過去を思い出し、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
人間の血とは、こんなにも赤いのだと初めて知ったあの時の記憶が蘇る。
当時労咳の咳が酷くなっていた私は、体の自由がままならず寝込んでいた。そう言えば、鍼の患者に咳をしている者がいたなと思い出す。
日に日に咳は激しくなり、時に喉が切れたのか、血痰も出始めていた。
そんな私を必死に看病してくれていた烝さんは、密かに高麗人参を手に入れて薬に混ぜてくれるようになり。それ以降私の体は急激に回復の兆しを見せ、医者をも驚かせた。
だがその途中、看病疲れからか烝さんにもいつの間にか移ってしまい、凄まじい勢いで病は進行していたらしい。私が動けるまでに回復した時には、何度も喀血を繰り返していたという。
それを知ったのは、もう手の施しようの無い時期で……。
私に薬を持って来てくれた時、隠し続けていた喀血が起き、初めて彼から吐き出される鮮血を見た。その赤さは過去に見たどの血よりも赤く、悲しいほどに美しくて。
苦しみでのたうつ彼に恐怖し、直ぐに手を差し述べる事が出来なかった事を、今でも悔やみ続けている。
しかも私の回復の為に全てを投げ打っていた彼は、自らは一度も薬を口にしていなかったと、診察した医者から聞かされた。食事すらも満足に採っていなかったらしい。
「何でそこまで……!?」
と泣き叫んで怒ったのだが、彼は
「お前が元気になってくれてよかった」
と笑顔を見せるばかりで、理由を話そうとはしてくれなかった。
そこからは早かった。
既に衰弱していた烝さんは起き上がれなくなり、十日と保たずにこの世を去ったのだ。その時言われた義母の言葉は、今でも耳から離れない。
「あの子はあんたはんの為に、私財も命も投げ打ったんや。この意味をしっかり考えや!」
私のせいだ。
全て私が悪いんだ。
私がいなければ……!
毎日毎日、自分を責め続けた。この頃芹沢さんに会っていなければ、私はきっと自ら命を絶っていただろう。
「後悔して死ぬくらいなら、亭主と同じく誰かを助けて死ぬが良い」
何の気なしに言ったであろう芹沢さんの言葉が、私を支えてくれていた。
「例え効果が薄くても、一分でも可能性があるのでしたら全て試します。無理でも無茶でも構いません。私は沖田さんを助けたい!」
それは沖田さんの為であると同時に、自分の生きる意味でもある。この信念は曲げられない。
「……という事ですが、如何でしょう? 土方さん」
「……え?」
南部先生が声をかけた先を見る。そこにはいつの間にか、副長が立っていた。
あれからずっと南部先生と相談しながら、回復の為のあらゆる可能性を模索している。診察の回数も増やし、無理をしないようにと過剰な程に気を付けていた。
「今の所、悪化はしていませんよ。小康状態を保っているといった所でしょうか」
「そうですか……良かった」
今日は沖田さんの定期検診の日。南部先生の言葉に、沖田さんがホッとした顔を見せる。私も思わず頬が緩んだ。
労咳の診断を受けてから二年近く。未だに喀血はしていないのだから、もしかすると……と期待してしまうのは、当たり前ではなかろうか。
「ところで山崎さん。ちょっと宜しいですか?」
沖田さんの診察後、薬の調合をするからと南部先生に呼ばれた。よくある事なので、準備しておいた金平糖を、出した瞬間から手を伸ばして「子供扱いしないで下さいよ!」とポリポリ噛み砕きながら言う沖田さんに渡し、診察室の奥へと向かう。
「何か問題がありましたか? 足りない物でも……」
「いえ、そうでは無くて高麗人参の事です。かなり無理をしておられませんか?」
そう言いながら南部先生が私の目の前に差し出したのは、広島行き直前までの沖田さんの病状について書き記した日記だった。
「何故南部先生がこれを?」
「以前沖田さんが見つけて持ってきて下さったんですよ。貴方が広島から戻られる少し前位でしたでしょうか」
受け取ると、自然に開く箇所があった。見ればそこは、私が経験した労咳の経過を記した箇所で。
中でも私と『烝さん』の経過と、投薬内容の部分は何度も指でなぞったように黒くなっていた。
「失礼かとは思いましたが、私も内容を拝見しました。やはり経験された方の記述は参考になります。ですが……」
南部先生の表情が曇る。
「貴方は高麗人参を過信し過ぎています。確かに貴方の労咳には一定の効果があったかもしれません。ですが沖田さんにも同じ効果があるとは限らないのですよ」
「でもっ! 私が治ったんですから可能性は……私は沖田さんより咳が多い状態からの回復なんです!」
南部先生から言われた話は、考えもしなかった否定の言葉で。全く予想をしていなかっただけに動揺し、思わず怒鳴ってしまった。
しかし南部先生は冷静だ。
「お気持ちは分かりますが、盲目的に信じるのは危険です。 手段がそれしか無いと思い込むのは……」
「それでも、私は今こうして生きています! 烝さんは、自分は飲まずに全部私にくれてしまったから悪化して……命を……」
どう足掻いても忘れられない過去を思い出し、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
人間の血とは、こんなにも赤いのだと初めて知ったあの時の記憶が蘇る。
当時労咳の咳が酷くなっていた私は、体の自由がままならず寝込んでいた。そう言えば、鍼の患者に咳をしている者がいたなと思い出す。
日に日に咳は激しくなり、時に喉が切れたのか、血痰も出始めていた。
そんな私を必死に看病してくれていた烝さんは、密かに高麗人参を手に入れて薬に混ぜてくれるようになり。それ以降私の体は急激に回復の兆しを見せ、医者をも驚かせた。
だがその途中、看病疲れからか烝さんにもいつの間にか移ってしまい、凄まじい勢いで病は進行していたらしい。私が動けるまでに回復した時には、何度も喀血を繰り返していたという。
それを知ったのは、もう手の施しようの無い時期で……。
私に薬を持って来てくれた時、隠し続けていた喀血が起き、初めて彼から吐き出される鮮血を見た。その赤さは過去に見たどの血よりも赤く、悲しいほどに美しくて。
苦しみでのたうつ彼に恐怖し、直ぐに手を差し述べる事が出来なかった事を、今でも悔やみ続けている。
しかも私の回復の為に全てを投げ打っていた彼は、自らは一度も薬を口にしていなかったと、診察した医者から聞かされた。食事すらも満足に採っていなかったらしい。
「何でそこまで……!?」
と泣き叫んで怒ったのだが、彼は
「お前が元気になってくれてよかった」
と笑顔を見せるばかりで、理由を話そうとはしてくれなかった。
そこからは早かった。
既に衰弱していた烝さんは起き上がれなくなり、十日と保たずにこの世を去ったのだ。その時言われた義母の言葉は、今でも耳から離れない。
「あの子はあんたはんの為に、私財も命も投げ打ったんや。この意味をしっかり考えや!」
私のせいだ。
全て私が悪いんだ。
私がいなければ……!
毎日毎日、自分を責め続けた。この頃芹沢さんに会っていなければ、私はきっと自ら命を絶っていただろう。
「後悔して死ぬくらいなら、亭主と同じく誰かを助けて死ぬが良い」
何の気なしに言ったであろう芹沢さんの言葉が、私を支えてくれていた。
「例え効果が薄くても、一分でも可能性があるのでしたら全て試します。無理でも無茶でも構いません。私は沖田さんを助けたい!」
それは沖田さんの為であると同時に、自分の生きる意味でもある。この信念は曲げられない。
「……という事ですが、如何でしょう? 土方さん」
「……え?」
南部先生が声をかけた先を見る。そこにはいつの間にか、副長が立っていた。
