時の泡沫
「あ~……やっとお天道様の下を歩ける……っ!!」
八月も終わりに差し掛かる頃。私は診療所から屯所への道を歩いていた。
傷自体はしばらく前に塞がっていたのだが、思ったより体力の回復に時間がかかってしまい。更に副長の過保護によって、完治まで南部先生の診療所から出るなという無体な命令を出されていた。そのお陰で南部先生の医術をじっくり教わる時間は出来たが、ほぼ軟禁状態はやはり辛くて。お天道様がとにかく恋しかった。
そして今日やっと、屯所に戻るお許しが出たのである。鼻歌でも歌いながら歩きたくなるほどの快晴に、私は浮足立っていた。
ずっと診療所の中で過ごしていた体は鈍っている。今日はただ屯所に戻るだけで予定は無いからと、私は少し遠回りをする事にした。
二条城方面へと向かい、神泉苑で少し休憩をとる。そこから光縁寺を経由して、総長の墓を参った。たったこれだけの道程で少々息があがってしまっているのは頂けないが、こればかりは仕方が無いか。
そこからは屯所へと一直線に向かった。久しぶりの京の町はやはりとても華やかで賑やかに感じる。どんどん焼けの名残はまだ其処彼処に残ってはいるが、それでもなお衰える事の無い神々しさとでも言うか……。
「まぁずっと外に出られんかったから、見るもん全てが輝いて見えるけどな。団子ですら……ん?」
通りすがりの店先に大きく書かれた『団子』の文字に目を引かれてそちらを見ると、店の前に懐かしい後ろ姿があるのに気付いた。あれは――。
「沖田さん!」
それは広島行き以降、全く会えていなかった沖田さん。副長からは一応の健康状態を聞いてはいたが、やはり直接会わないと本当の所が分からない。
南部先生も、顔を合わせる機会がほぼ皆無だったと聞いている。屯所に戻ったらまずは沖田さんに会いに行くつもりだった私は、これは好機と沖田さんに駆け寄った。
「沖田さぁん!」
ところが、だ。大きな声で名を呼んだのだが聞こえなかったらしく、すぐ脇の路地へと入ってしまった。
「待って下さい! 沖田さん!」
私もその路地に入ろうと、角に差し掛かった時。
「ゴホッ……ゴホゴホッ……」
激しく咳き込む音が聞こえ、思わず足を止める。そっと覗き込むと、前屈みに胸を押さえて苦しそうに咳き込む沖田さんの姿が見えた。
「沖田さん……」
ゆっくりと近付けば、ハッとしたように振り向き、目を見開く。
「山崎さん……」
「いつから……ですか?」
咳で体力を使ったのだろう。額には玉のような汗が吹き出ていた。
「この咳は、いつ頃から始まりましたか?」
久しぶりの再会は、笑顔でしたかったのに。こんな形で、胸を締め付けられる再会になるなんて――。
「……今日で丁度十日ですよ。ゴホゴホッ……咳だけで血は吐いていませんから、未だ……ゴホッ、大丈夫ですが……」
ふっ……と皮肉な笑みを浮かべた沖田さんは言った。
「私も立派な労咳、ですね」
「沖田さん……」
その言い方が全てを悟った諦めにも聞こえて、私は何も言えなくなってしまう。
健康診断をした時には空咳だった沖田さんの咳は、痰の絡んだ労咳独特の咳に変わりつつあった。間違いなく、彼の体に巣食っている労咳は進行している。
「いつ、自分が労咳だと気付いたんですか?」
今更この人に誤魔化すことは出来ないだろう。そう判断した私は、正面から向き合う覚悟をした。
「気付いたのは結構……ゴホッ、最近ですよ。確かにずっと咳は続いていましたが、熱も時々しか無かったですし。ゴホゴホッ……でもひと月ほど前から微熱が長引くようになって……」
苦しそうな沖田さんの背中をさすると、以前より痩せているのが分かった。これはかなり無理をしているのだろう。
「とりあえずこのまま南部先生の診療所に行きましょう。健康診断以来、医者にかかっていないんでしょう? 一度診てもらわねば……」
「嫌です」
間髪入れず拒否されてしまい、固まってしまった。
だがそれを受け入れる訳にはいかない。病が進行している以上、少しでも早く治療を開始しなければ。
「嫌じゃないです! 南部先生の所なら、松本先生の治療も受けられます。少しでも早く……」
「私は医者が嫌いです。ゴホッ……絶対行きません」
「……阿呆っ!」
プイと顔を背ける沖田さんの姿が、私の中にある冷静さを吹き飛ばす。まるで火山が噴火したかのように湧き出した感情は、もう止められなかった。
「好き嫌いの問題なんて、通り越してしもてんのやで! はよ診察受けて、治す努力をしぃや! あんたはんは新選組に必要なお人なんやから! 」
私の剣幕に驚いた沖田さんは、咳を忘れて目を丸くしながら私を見ている。
「このまま何もせんと、病を受け入れて最期の時を待つおつもりなん? 冗談やない! 沖田はんはそない弱気なお人や無いはずや!」
そう言って私は沖田さんの腕を掴むと、強引に引っ張った。そのまま南部先生の診療所を目指す。あそこには、こうなる事を見越した材料が揃っているから。
最初は私の手を振り払って逃げようとしていた沖田さんも、最後には諦めたのか無言で私に付いてきた。
「南部先生!」
「おや、山崎さん。何か忘れ物でも?……沖田さんもご一緒ですか。では……」
「はい、お願いします」
何も言わずとも全てを悟ってくれた南部先生は、すぐに私達を診察室に通してくれる。まな板の上の鯉となった沖田さんを診察すれば、漸く現状を把握する事が出来た。
「肺に雑音がありますね。ただ喀血をしていないようですし、どちらかと言うと今気になるのは体力的な問題でしょうか。沖田さん、最近疲れやすく無いですか?」
「そう言えば……確かに以前よりは。」
「しっかり寝られていますか?」
「特に睡眠不足を感じた事はありませんが」
その答えに南部先生は暫し何かを考えていたが、一つ頷くと立ち上がり、棚から薬を出してきた。
「使わせていただきますね」
と私に笑顔を向け、その薬を沖田さんの前に置く。訝しげに薬と私の顔を見比べる沖田さんに、南部先生は説明した。
「これは咳止めですが、沖田さん用に特別な処方をしてあります。山崎さんが高麗人参を手に入れて下さいましてね。かなり高価な物ですが、疲労回復に良いので調合してあります。暫く飲んでみましょう」
「山崎さんが……?」
驚いた顔で私を見る沖田さんにドヤ顔を向けると、苦笑いを返された。
高麗人参は、高価なだけに効果も高いと言われていた。だからこそ手に入れるのがなかなか難しく、売っていたとしても粗悪な物に当たる事もある。
その点私は幸運だった。広島行きのお陰で、京にいるより余程長崎の出島に近い為、国内外問わずの医術の情報に触れられ、幅広い薬の知識や原材料の見分け方を知る機会を得た。
また探索ついでに様々な商人とも知り合うことが出来た。そこで偶然高麗人参を扱う者に出会い、親しくなった事で幾らか安く購入が出来、この診療所に届けておいたわけである。
因みにこちらからは、話のネタにと持っていた石田散薬を格安で売り込んでおいたのだが……バレたら怖いので、当時一緒にいた吉村さんにすら秘密にしていたりする。勿論こちらの素性は隠してある為、足がつく事は無い。
「今この段階なら、治せる可能性は十分にあります。しっかり栄養を摂り、適度な運動を心掛け、きちんと睡眠を取ってください。疲れたら直ぐに休んで下さいね」
南部先生の指示を、沖田さんは真剣に聞いていた。
「治せるかもしれない」
その言葉はきっと、何よりの薬だろう。いつの間にか沖田さんの表情は明るくなり、咳も落ち着いていた。
「咳は可能な限り我慢して下さいね。あと、労咳は憂さを晴らせば治る気の病だ、などと言う話もありますが、全くのデタラメです。とにかく体力を落とさないよう心掛けて下さい。薬も必ず忘れないように」
「分かりました」
沖田さんが頭を下げると、南部先生は優しい笑顔で沖田さんの肩に手を乗せた。
「貴方には沢山の味方がいます。一緒に頑張って、必ず治しましょう」
「はい。宜しくお願いします」
再び頭を下げた沖田さんの眦に、光る物があったのは気付かなかった事にしよう。そう思った。
屯所への足取りは、軽い。お互いの近況報告をしながら歩けば、あっという間に辿り着いてしまった。
そのまま副長室へと向かい、沖田さんの病状と今後の方針を伝えると、副長の瞳が少し潤んでいた。私だけなら大人の対応で気付かぬフリも出来たのだが。子供代表の沖田さんには通用せず。自分の事を棚に上げて副長をからかい、しっかりとゲンコツを喰らうのだった。
八月も終わりに差し掛かる頃。私は診療所から屯所への道を歩いていた。
傷自体はしばらく前に塞がっていたのだが、思ったより体力の回復に時間がかかってしまい。更に副長の過保護によって、完治まで南部先生の診療所から出るなという無体な命令を出されていた。そのお陰で南部先生の医術をじっくり教わる時間は出来たが、ほぼ軟禁状態はやはり辛くて。お天道様がとにかく恋しかった。
そして今日やっと、屯所に戻るお許しが出たのである。鼻歌でも歌いながら歩きたくなるほどの快晴に、私は浮足立っていた。
ずっと診療所の中で過ごしていた体は鈍っている。今日はただ屯所に戻るだけで予定は無いからと、私は少し遠回りをする事にした。
二条城方面へと向かい、神泉苑で少し休憩をとる。そこから光縁寺を経由して、総長の墓を参った。たったこれだけの道程で少々息があがってしまっているのは頂けないが、こればかりは仕方が無いか。
そこからは屯所へと一直線に向かった。久しぶりの京の町はやはりとても華やかで賑やかに感じる。どんどん焼けの名残はまだ其処彼処に残ってはいるが、それでもなお衰える事の無い神々しさとでも言うか……。
「まぁずっと外に出られんかったから、見るもん全てが輝いて見えるけどな。団子ですら……ん?」
通りすがりの店先に大きく書かれた『団子』の文字に目を引かれてそちらを見ると、店の前に懐かしい後ろ姿があるのに気付いた。あれは――。
「沖田さん!」
それは広島行き以降、全く会えていなかった沖田さん。副長からは一応の健康状態を聞いてはいたが、やはり直接会わないと本当の所が分からない。
南部先生も、顔を合わせる機会がほぼ皆無だったと聞いている。屯所に戻ったらまずは沖田さんに会いに行くつもりだった私は、これは好機と沖田さんに駆け寄った。
「沖田さぁん!」
ところが、だ。大きな声で名を呼んだのだが聞こえなかったらしく、すぐ脇の路地へと入ってしまった。
「待って下さい! 沖田さん!」
私もその路地に入ろうと、角に差し掛かった時。
「ゴホッ……ゴホゴホッ……」
激しく咳き込む音が聞こえ、思わず足を止める。そっと覗き込むと、前屈みに胸を押さえて苦しそうに咳き込む沖田さんの姿が見えた。
「沖田さん……」
ゆっくりと近付けば、ハッとしたように振り向き、目を見開く。
「山崎さん……」
「いつから……ですか?」
咳で体力を使ったのだろう。額には玉のような汗が吹き出ていた。
「この咳は、いつ頃から始まりましたか?」
久しぶりの再会は、笑顔でしたかったのに。こんな形で、胸を締め付けられる再会になるなんて――。
「……今日で丁度十日ですよ。ゴホゴホッ……咳だけで血は吐いていませんから、未だ……ゴホッ、大丈夫ですが……」
ふっ……と皮肉な笑みを浮かべた沖田さんは言った。
「私も立派な労咳、ですね」
「沖田さん……」
その言い方が全てを悟った諦めにも聞こえて、私は何も言えなくなってしまう。
健康診断をした時には空咳だった沖田さんの咳は、痰の絡んだ労咳独特の咳に変わりつつあった。間違いなく、彼の体に巣食っている労咳は進行している。
「いつ、自分が労咳だと気付いたんですか?」
今更この人に誤魔化すことは出来ないだろう。そう判断した私は、正面から向き合う覚悟をした。
「気付いたのは結構……ゴホッ、最近ですよ。確かにずっと咳は続いていましたが、熱も時々しか無かったですし。ゴホゴホッ……でもひと月ほど前から微熱が長引くようになって……」
苦しそうな沖田さんの背中をさすると、以前より痩せているのが分かった。これはかなり無理をしているのだろう。
「とりあえずこのまま南部先生の診療所に行きましょう。健康診断以来、医者にかかっていないんでしょう? 一度診てもらわねば……」
「嫌です」
間髪入れず拒否されてしまい、固まってしまった。
だがそれを受け入れる訳にはいかない。病が進行している以上、少しでも早く治療を開始しなければ。
「嫌じゃないです! 南部先生の所なら、松本先生の治療も受けられます。少しでも早く……」
「私は医者が嫌いです。ゴホッ……絶対行きません」
「……阿呆っ!」
プイと顔を背ける沖田さんの姿が、私の中にある冷静さを吹き飛ばす。まるで火山が噴火したかのように湧き出した感情は、もう止められなかった。
「好き嫌いの問題なんて、通り越してしもてんのやで! はよ診察受けて、治す努力をしぃや! あんたはんは新選組に必要なお人なんやから! 」
私の剣幕に驚いた沖田さんは、咳を忘れて目を丸くしながら私を見ている。
「このまま何もせんと、病を受け入れて最期の時を待つおつもりなん? 冗談やない! 沖田はんはそない弱気なお人や無いはずや!」
そう言って私は沖田さんの腕を掴むと、強引に引っ張った。そのまま南部先生の診療所を目指す。あそこには、こうなる事を見越した材料が揃っているから。
最初は私の手を振り払って逃げようとしていた沖田さんも、最後には諦めたのか無言で私に付いてきた。
「南部先生!」
「おや、山崎さん。何か忘れ物でも?……沖田さんもご一緒ですか。では……」
「はい、お願いします」
何も言わずとも全てを悟ってくれた南部先生は、すぐに私達を診察室に通してくれる。まな板の上の鯉となった沖田さんを診察すれば、漸く現状を把握する事が出来た。
「肺に雑音がありますね。ただ喀血をしていないようですし、どちらかと言うと今気になるのは体力的な問題でしょうか。沖田さん、最近疲れやすく無いですか?」
「そう言えば……確かに以前よりは。」
「しっかり寝られていますか?」
「特に睡眠不足を感じた事はありませんが」
その答えに南部先生は暫し何かを考えていたが、一つ頷くと立ち上がり、棚から薬を出してきた。
「使わせていただきますね」
と私に笑顔を向け、その薬を沖田さんの前に置く。訝しげに薬と私の顔を見比べる沖田さんに、南部先生は説明した。
「これは咳止めですが、沖田さん用に特別な処方をしてあります。山崎さんが高麗人参を手に入れて下さいましてね。かなり高価な物ですが、疲労回復に良いので調合してあります。暫く飲んでみましょう」
「山崎さんが……?」
驚いた顔で私を見る沖田さんにドヤ顔を向けると、苦笑いを返された。
高麗人参は、高価なだけに効果も高いと言われていた。だからこそ手に入れるのがなかなか難しく、売っていたとしても粗悪な物に当たる事もある。
その点私は幸運だった。広島行きのお陰で、京にいるより余程長崎の出島に近い為、国内外問わずの医術の情報に触れられ、幅広い薬の知識や原材料の見分け方を知る機会を得た。
また探索ついでに様々な商人とも知り合うことが出来た。そこで偶然高麗人参を扱う者に出会い、親しくなった事で幾らか安く購入が出来、この診療所に届けておいたわけである。
因みにこちらからは、話のネタにと持っていた石田散薬を格安で売り込んでおいたのだが……バレたら怖いので、当時一緒にいた吉村さんにすら秘密にしていたりする。勿論こちらの素性は隠してある為、足がつく事は無い。
「今この段階なら、治せる可能性は十分にあります。しっかり栄養を摂り、適度な運動を心掛け、きちんと睡眠を取ってください。疲れたら直ぐに休んで下さいね」
南部先生の指示を、沖田さんは真剣に聞いていた。
「治せるかもしれない」
その言葉はきっと、何よりの薬だろう。いつの間にか沖田さんの表情は明るくなり、咳も落ち着いていた。
「咳は可能な限り我慢して下さいね。あと、労咳は憂さを晴らせば治る気の病だ、などと言う話もありますが、全くのデタラメです。とにかく体力を落とさないよう心掛けて下さい。薬も必ず忘れないように」
「分かりました」
沖田さんが頭を下げると、南部先生は優しい笑顔で沖田さんの肩に手を乗せた。
「貴方には沢山の味方がいます。一緒に頑張って、必ず治しましょう」
「はい。宜しくお願いします」
再び頭を下げた沖田さんの眦に、光る物があったのは気付かなかった事にしよう。そう思った。
屯所への足取りは、軽い。お互いの近況報告をしながら歩けば、あっという間に辿り着いてしまった。
そのまま副長室へと向かい、沖田さんの病状と今後の方針を伝えると、副長の瞳が少し潤んでいた。私だけなら大人の対応で気付かぬフリも出来たのだが。子供代表の沖田さんには通用せず。自分の事を棚に上げて副長をからかい、しっかりとゲンコツを喰らうのだった。
