時の泡沫
「小瀬川で使者の者が撃たれた!」
「戦だ! 戦が始まるぞ!」
いけない! 周囲の状況を把握できていないの!?
川を渡っていては、敵の標的になりに行くようなものだ!
闇雲に戦っても命を落とすばかりだというのが何故分からない!?
川の水が赤く染まり、数え切れない程の者達が水の底へと沈んで行くのを、私は見ている事しか出来なかった。
「大島が落とされたらしいぞ!」
「ここも時間の問題だ。長州には敵わない。逃げてしまえ!」
「俺達は最初から戦う気なんて無かったんだ!」
幕府はこんなにも脆い存在だったの?
武士の誇りを持った、本物の武士はもう存在しないの?
別の戦地からの戦況報告があまりにも遅いのは、藩同士の連携が全く取れていないという事。
更には戦う度に浮き彫りになる、諸藩の戦闘意欲の無さ。幕府に対する忠誠心の薄さは、幕府の衰退を如実に表している。いつの間にか長州に取り込まれた藩も増えており、長州の外交力の高さも見せつけられた。
戦場を駆けずり回る最中、避けたはずの銃弾が木に跳ね返り、私の脇腹に突き刺さる。焼けるような激しい痛みで意識を飛ばしそうになりながらも、必死に逃げ果せる事が出来たのは、あの人のいる場所に戻りたいという強い意志があったから。
私は必ず生きて帰る。見てきた全てを伝える為に、貴方の元へ。
「歳三はん……」
ハッと目を開けると、見慣れた天井。無意識に伸ばした手が、空を彷徨っていた。
自分の声が眠りを覚まさせた事に気付き、夢だったのかとホッとする。
「……きっつい夢やな……」
夢で見たのは全て、自分が経験した過去の記憶だ。伸ばしていた手で目を覆うと、未だに鮮明に覚えているあの光景が浮かんでしまう。
報告書と口頭で見聞きした事を伝えはしたが、今私がこうして悪夢としてまで見ている光景を見せる事は出来ないわけで。
「監察っちゅーのはほんまに難儀な仕事や」
皮肉な笑みを浮かべ、小さく嘆息する。その時ふと、足の辺りに誰かがいる事に気が付いた。
見るとそれはまさかの副長。どの位の時間が経ったのかは分からないが、ずっと付いていてくれたのだろうか。しかも驚いた事に、
「寝てはるやん……」
胡座をかいて舟を漕ぐ姿はとても無防備で、いつもの副長とは全く別人のようだ。
下から覗き込みたい衝動に駆られ、そっと体を起こす。傷跡が疼いたが、それをも凌ぐ好奇心が私の体を突き動かした。
実は私は、副長の寝顔を見た事が無い。二人きりの時も寝たふりの姿は見ていたが、いつも必ず私より後に寝て、先に起きていた。だからこそ、こんな貴重な寝姿を拝める機会を逃す手はない。
「……睫毛、こない長かってんなぁ……」
役者のような面立ち、とはよく言ったもので。静かな笑顔で佇んでいれば、数多の女子が虜になる程に整った顔立ちをしている。町ではよく、頬を染めて副長を見つめる女子達の姿をあちこちで見かけていた。
「こんお人なら、きっと若くて可愛い、綺麗な体の娘はんと一緒になって、幸せな家を作れるんやろな……」
ふとそんな事を考えてしまい、落ち込んでしまった。
「……こんな傷を負うてしもてる中年増なんて、男はんから見たら嫌やろしな」
そっと傷口に触れる。
塞がりはしても、一生消えない痕になるであろうこの傷は、体だけでなく私の心にも大きな痛みを与えていた。
以前原田さんが切腹傷を見せ、男の勲章だと笑っていたのを思い出す。だが銃創を女の勲章だとはさすがに言えまい。
「だから見せたなかったんや。帰って来た時、副長が……歳三はんが屯所にいてはらへんかったのを知って、ほっとしたんえ。それやのにこんなとこまで来はるから……」
南部先生の取り計らいで、一部屋を貸し切りにしてもらえていて、心の底から良かったと思う。
「歳三はん」
と名前を口にした瞬間、溢れ出た涙は止める事が出来なくて。
「仕事で傷を負うなんて当たり前やのに……男として新選組におんねやし、覚悟してたはずやのに……」
嗚咽が止まらない。
「うちの女の部分が……歳三はんを愛してる気持ちが……怖いてずっと泣き続けてんのや……」
未だ眠り続けている彼に向かって、私は語り続ける。自分でも滑稽だとは思っていたが、止めることが出来なかった。
「お願いやし、嫌いにならんとって? 一隊士としてでええから、最期の瞬間まで側に置いたって……後生やから……!」
その時、ゆっくりと歳三さんの瞼が開いた。しばし焦点が合わなかったようだが、私と目が合ったことですぐに状況を把握したのか、眉間に皺を寄せる。
「おい、何で泣いてんだよ……」
戸惑いの表情で、優しく頭を撫でられた。それが余計に苦しくて、更に涙が溢れてしまう。
「お、おい! そんなに傷が痛むのか!? すぐに南部先生を……」
「ちゃいます! そうやないんえ。うちは……っ!」
大きく頭を振ると傷口に響いて、思わず呻いてしまった。
「ばっかやろう! 無理してんじゃねぇよ!…よく分かんねーけど南部先生を呼ばれたくねぇんなら、おとなしく横になりやがれ!」
口調は厳しいが、優しい手つきで私を支え、体を横にしてくれた。
本当にこの人は優しい。心が締め付けられるほどに優しくて、愛しくて……それなのに私は……。
「なぁ、痛みじゃないなら何でそんなに悲しそうに泣いてるんだ? 腹に何を溜めこんでんだよ、お前は」
懐から出した手拭いで、私の涙を拭ってくれた。
「帰京したら真っ先に俺んとこに来ると言ってたくせに、隠れてここに来てやがるし。しかもこんな大きな傷までこさえてやがって。俺がどんな気持ちで今ここにいるのか分かってやがるのか? 更には目の前でこんなにボロボロと泣かれちまって、何が何だかサッパリだ。惚れた女がこんなに辛そうにしてるのを見てるだけなんてのは、俺には出来ねぇよ。なぁ琴尾、お前の心の内を話してくんねぇか? それとも俺じゃ頼りねぇのか?」
不安気に私を見つめる歳三さんに全てをぶちまければ、楽になれるだろうか。だがそれはきっと、彼のこの先の人生を縛り付ける枷になりそうで。
私はどうすれば良い? どうしたら貴方の負担にならず、側に居続けられるーー?
何も答えられずに泣き続ける私を暫く見ていた歳三さんは、諦めたように小さくため息を吐いた。
「今は言えないってんなら、傷が治るまでは待ってやるさ。とにかくまずは傷を治せ。今のままじゃお前を抱けねぇしな」
まさかの衝撃発言に、思わず涙も止まってしまう。
「え……? 抱くって……」
「その傷じゃ、触るのも怖ぇからな。治るまで待っててやるんだ。さっさと治しやがれ」
ニヤリと笑った歳三さんは、傷を気遣ったのかいつもより優しい口付けを与えてくれた。
「こんなもんじゃ、お前が足りねぇんだよ。何カ月お預け食らってると思ってんだ」
そして、耳元で囁く。
「お前が……無事で良かった……」
「……っ!」
何故いつもこの人は、私の欲しい言葉をくれるのか。こみ上げる喜びが、涙となって溢れ出る。嗚咽の声を漏らす私の頭を、歳三さんは泣き止むまでずっと、優しく撫で続けていてくれた。
結局傷が完全に塞がり、隊務に復帰出来るまでに回復したのは、それからひと月ほど後の事。その間に起きた数々の出来事は全て、副長経由に診療所で聞かされた。
中でも七月二十日に将軍家茂公が大阪城で身罷られた話は、正にその場にいた松本先生からも直接聞かせて頂く事となり。南部先生の診療所に立ち寄った松本先生の憔悴たるや尋常ではなく、いかに家茂公が人々に愛されていた将軍だったかが偲ばれた。
「戦だ! 戦が始まるぞ!」
いけない! 周囲の状況を把握できていないの!?
川を渡っていては、敵の標的になりに行くようなものだ!
闇雲に戦っても命を落とすばかりだというのが何故分からない!?
川の水が赤く染まり、数え切れない程の者達が水の底へと沈んで行くのを、私は見ている事しか出来なかった。
「大島が落とされたらしいぞ!」
「ここも時間の問題だ。長州には敵わない。逃げてしまえ!」
「俺達は最初から戦う気なんて無かったんだ!」
幕府はこんなにも脆い存在だったの?
武士の誇りを持った、本物の武士はもう存在しないの?
別の戦地からの戦況報告があまりにも遅いのは、藩同士の連携が全く取れていないという事。
更には戦う度に浮き彫りになる、諸藩の戦闘意欲の無さ。幕府に対する忠誠心の薄さは、幕府の衰退を如実に表している。いつの間にか長州に取り込まれた藩も増えており、長州の外交力の高さも見せつけられた。
戦場を駆けずり回る最中、避けたはずの銃弾が木に跳ね返り、私の脇腹に突き刺さる。焼けるような激しい痛みで意識を飛ばしそうになりながらも、必死に逃げ果せる事が出来たのは、あの人のいる場所に戻りたいという強い意志があったから。
私は必ず生きて帰る。見てきた全てを伝える為に、貴方の元へ。
「歳三はん……」
ハッと目を開けると、見慣れた天井。無意識に伸ばした手が、空を彷徨っていた。
自分の声が眠りを覚まさせた事に気付き、夢だったのかとホッとする。
「……きっつい夢やな……」
夢で見たのは全て、自分が経験した過去の記憶だ。伸ばしていた手で目を覆うと、未だに鮮明に覚えているあの光景が浮かんでしまう。
報告書と口頭で見聞きした事を伝えはしたが、今私がこうして悪夢としてまで見ている光景を見せる事は出来ないわけで。
「監察っちゅーのはほんまに難儀な仕事や」
皮肉な笑みを浮かべ、小さく嘆息する。その時ふと、足の辺りに誰かがいる事に気が付いた。
見るとそれはまさかの副長。どの位の時間が経ったのかは分からないが、ずっと付いていてくれたのだろうか。しかも驚いた事に、
「寝てはるやん……」
胡座をかいて舟を漕ぐ姿はとても無防備で、いつもの副長とは全く別人のようだ。
下から覗き込みたい衝動に駆られ、そっと体を起こす。傷跡が疼いたが、それをも凌ぐ好奇心が私の体を突き動かした。
実は私は、副長の寝顔を見た事が無い。二人きりの時も寝たふりの姿は見ていたが、いつも必ず私より後に寝て、先に起きていた。だからこそ、こんな貴重な寝姿を拝める機会を逃す手はない。
「……睫毛、こない長かってんなぁ……」
役者のような面立ち、とはよく言ったもので。静かな笑顔で佇んでいれば、数多の女子が虜になる程に整った顔立ちをしている。町ではよく、頬を染めて副長を見つめる女子達の姿をあちこちで見かけていた。
「こんお人なら、きっと若くて可愛い、綺麗な体の娘はんと一緒になって、幸せな家を作れるんやろな……」
ふとそんな事を考えてしまい、落ち込んでしまった。
「……こんな傷を負うてしもてる中年増なんて、男はんから見たら嫌やろしな」
そっと傷口に触れる。
塞がりはしても、一生消えない痕になるであろうこの傷は、体だけでなく私の心にも大きな痛みを与えていた。
以前原田さんが切腹傷を見せ、男の勲章だと笑っていたのを思い出す。だが銃創を女の勲章だとはさすがに言えまい。
「だから見せたなかったんや。帰って来た時、副長が……歳三はんが屯所にいてはらへんかったのを知って、ほっとしたんえ。それやのにこんなとこまで来はるから……」
南部先生の取り計らいで、一部屋を貸し切りにしてもらえていて、心の底から良かったと思う。
「歳三はん」
と名前を口にした瞬間、溢れ出た涙は止める事が出来なくて。
「仕事で傷を負うなんて当たり前やのに……男として新選組におんねやし、覚悟してたはずやのに……」
嗚咽が止まらない。
「うちの女の部分が……歳三はんを愛してる気持ちが……怖いてずっと泣き続けてんのや……」
未だ眠り続けている彼に向かって、私は語り続ける。自分でも滑稽だとは思っていたが、止めることが出来なかった。
「お願いやし、嫌いにならんとって? 一隊士としてでええから、最期の瞬間まで側に置いたって……後生やから……!」
その時、ゆっくりと歳三さんの瞼が開いた。しばし焦点が合わなかったようだが、私と目が合ったことですぐに状況を把握したのか、眉間に皺を寄せる。
「おい、何で泣いてんだよ……」
戸惑いの表情で、優しく頭を撫でられた。それが余計に苦しくて、更に涙が溢れてしまう。
「お、おい! そんなに傷が痛むのか!? すぐに南部先生を……」
「ちゃいます! そうやないんえ。うちは……っ!」
大きく頭を振ると傷口に響いて、思わず呻いてしまった。
「ばっかやろう! 無理してんじゃねぇよ!…よく分かんねーけど南部先生を呼ばれたくねぇんなら、おとなしく横になりやがれ!」
口調は厳しいが、優しい手つきで私を支え、体を横にしてくれた。
本当にこの人は優しい。心が締め付けられるほどに優しくて、愛しくて……それなのに私は……。
「なぁ、痛みじゃないなら何でそんなに悲しそうに泣いてるんだ? 腹に何を溜めこんでんだよ、お前は」
懐から出した手拭いで、私の涙を拭ってくれた。
「帰京したら真っ先に俺んとこに来ると言ってたくせに、隠れてここに来てやがるし。しかもこんな大きな傷までこさえてやがって。俺がどんな気持ちで今ここにいるのか分かってやがるのか? 更には目の前でこんなにボロボロと泣かれちまって、何が何だかサッパリだ。惚れた女がこんなに辛そうにしてるのを見てるだけなんてのは、俺には出来ねぇよ。なぁ琴尾、お前の心の内を話してくんねぇか? それとも俺じゃ頼りねぇのか?」
不安気に私を見つめる歳三さんに全てをぶちまければ、楽になれるだろうか。だがそれはきっと、彼のこの先の人生を縛り付ける枷になりそうで。
私はどうすれば良い? どうしたら貴方の負担にならず、側に居続けられるーー?
何も答えられずに泣き続ける私を暫く見ていた歳三さんは、諦めたように小さくため息を吐いた。
「今は言えないってんなら、傷が治るまでは待ってやるさ。とにかくまずは傷を治せ。今のままじゃお前を抱けねぇしな」
まさかの衝撃発言に、思わず涙も止まってしまう。
「え……? 抱くって……」
「その傷じゃ、触るのも怖ぇからな。治るまで待っててやるんだ。さっさと治しやがれ」
ニヤリと笑った歳三さんは、傷を気遣ったのかいつもより優しい口付けを与えてくれた。
「こんなもんじゃ、お前が足りねぇんだよ。何カ月お預け食らってると思ってんだ」
そして、耳元で囁く。
「お前が……無事で良かった……」
「……っ!」
何故いつもこの人は、私の欲しい言葉をくれるのか。こみ上げる喜びが、涙となって溢れ出る。嗚咽の声を漏らす私の頭を、歳三さんは泣き止むまでずっと、優しく撫で続けていてくれた。
結局傷が完全に塞がり、隊務に復帰出来るまでに回復したのは、それからひと月ほど後の事。その間に起きた数々の出来事は全て、副長経由に診療所で聞かされた。
中でも七月二十日に将軍家茂公が大阪城で身罷られた話は、正にその場にいた松本先生からも直接聞かせて頂く事となり。南部先生の診療所に立ち寄った松本先生の憔悴たるや尋常ではなく、いかに家茂公が人々に愛されていた将軍だったかが偲ばれた。
