時の泡沫
慶応元年(1865年)閏五月も半ばを過ぎた頃。
「健康診断……ですか?」
その日、呼び出された私が最初に聞かされたのは、『健康診断』という耳慣れない言葉だった。
何だか体に良さそうな言葉だなと思いながら副長を見ると、どうやらあまり良い感情を持っていないらしく、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「その健康診断とやらは、どういう物なのでしょう?」
とりあえず話を促すと、副長が説明を始めた。
「以前から近藤さんと交流のある松本良順先生が、将軍家茂公と共に侍医として京に来ておられるんだが、ついでに隊士達の健康状態を診に来て下さることになったんだ」
「なるほど、それが『健康診断』というやつなわけですか。御典医に診て頂けるとは凄いですね」
「ああ、まぁ有難いっちゃー有難いんだろうが……」
「何か困り事でも?」
人々は皆、怪我や病を自覚して初めて医者にかかるのが当たり前だというのに、医者の方からやってきた上に健康な者まで診てくれるというのは画期的だ。ひょっとすると、隠れた病も見つかるかもしれない。
「最近は体調を崩している者も増えて来ていますし、この機会にしっかりと診てもらっておきましょう」
何故かいつも任されてしまう感冒や食傷で寝込んでいる者たちの看病も、少しは楽になるかもしれない。そんな期待に胸を膨らませていると――。
「お前……自分の事忘れてるだろ?」
「……あ!」
やれやれ、と深いため息を吐く副長。確かに私は医者に診られるとまずい存在だ。
「すっかり忘れてました。でもそれならば、当日は何か仕事を頂いて屯所を離れていれば……」
「そうもいかねぇんだよ。全員必ず受けさせろと、近藤さんの命令だ。……もちろん伊東さんの入知恵からの、な」
つまりは先手を打たれていたという事か。これはどう足掻いても、逃げられないだろう。
「ちなみに、どのような形で健康診断とやらは行われるのでしょう?」
「大広間でまとめてやるんだとよ。上半身を諸肌出してって話だ」
「えぇ……」
まずい。
これは相当まずい。何とか回避策を練らねば、と必死に頭を回転させる。
その時、不意に名案が浮かんだ。
「でしたら副長。私を松本先生の助手として付けていただくことはできないでしょうか?」
「あん?」
私の考えはこうだ。
皆の健康診断をしている間は、松本先生の手伝いでやり過ごす。その後別室で私は一人、診てもらえば良い。場所に関しては、健康診断の結果をまとめるとでも言えば誤魔化せるだろう。私の性別はどうしても松本先生には明かすことになるが、ここだけの秘密としてもらえるよう脅し……ではなく説得すれば何とかなる。上手くすればその場で簡単な医療知識を学ぶ事もでき、良い事づくめではなかろうか。
「確かにそいつは良い案かも知れねぇな」
私の考えに、副長が頷いた。
実際の所、以前から新選組に医療知識のある人材が欲しいという話は出ていた。
屯所にいる怪我人や病人は、かかりつけの医者を呼べば良い。だが戦いの最中の応急処置のために、医者を帯同することは出来ない。これから必要なのは、いつどんな時にでも対応できる、医術に明るい人材だ。そんな人材が一人でもいれば、手遅れになる人間は減るだろう。
「私自身も、機会があれば学びたいとは思っていました。いくらかの書物は読んでいましたが、やはり実際の手技を見たいです」
「……分かった。近藤さんに話してみよう」
「ありがとうございます」
少々危ない橋ではあるが、きっと何とかなるだろう。久しぶりに心が躍るのが分かる。その後あっさりと局長の許可は下り、私は初めての健康診断の日を心待ちにするのだった。
そして、当日。
「一体ここは何なんだ!?」
松本先生の怒鳴り声が、屯所中に響き渡った。
着いて早々、挨拶もそこそこに屯所内をくまなく歩き、最初に発したのがこの言葉だ。案内をして回っていた局長と副長に向かって、遠慮の無い発言が続く。
「どこもかしこも汚れだらけで汚ねぇわ、臭ぇわ、所構わずごろ寝してるわ。厨なんざ腐った生ごみだらけじゃねぇか。不衛生にも程があるってんだよ!」
「面目ない。ごろ寝している者たちは、主に病人でして」
「そりゃぁこの環境なら病人も多いだろうよ。ったく……えらい所に来ちまったぜ」
ぶつくさと言いながら最後に大広間へと足を運ぶ。全体を見渡し、全てを確認し終えた松本先生は言った。
「さっきも言ったが、とにかく全体的に不衛生だ。それにいくら病人だからって、あちこちで好き勝手転がってて良いわけねぇだろうが。上役の前で素っ裸のままごろ寝するなんて、ありえねぇ! 目上の者に対する礼ってやつを知らねぇのか!?」
「ではどのように致せば……」
松本先生の剣幕に少々狼狽え気味の局長だったが、意を決したように尋ねる。それに対しての答えは、とても具体的なものだった。
「そうだな。まずは病人を一か所にまとめ、そいつらを看護する人間を付ける。次に、いつでも風呂に入れるようにしておき、常に体を清潔に保つ。もちろん室内も常に掃除し、空気を通しておけよ。あとは、豚を飼え」
「豚……ですか?」
「そうだ。厨の汚さは尋常じゃなかったからな。毎日の生ごみは、豚に食わせりゃ餌として無駄にならねぇ。その豚も、肥えたら食料とすれば栄養にもなる。食ってみりゃ結構美味いぜ? 解体の仕方が分からなけりゃ、分かる奴を紹介してやるさ」
「なるほど……」
局長が神妙に頷く。その後ろでは副長が、顎に手を当てて何かを考え込んでいた。
「ま、おいおいやってきゃ良いさ。とりあえずは……」
一通りの対応策を話した松本先生は、部屋の隅に置いていた大きな風呂敷を広げて中身を確認し、部屋の真ん中にどかりと座ると、「診察を始めるぞ! さっさと隊士達を集めてくれ」と言い放った。
副長に言われて来訪時から着いて回っていた私は、慌てて皆を呼びに行こうとしたのだが、松本先生に止められる。
「おい、助手がいなくなってどうする。近藤さんと土方が呼びに行きゃ良いだろうが」
「さすがにそれは……」
副長はともかく、局長はさすがにまずいだろう。そう思って自ら志願しようとすると、「良い、山崎。お前は残れ。俺達で行くさ。やる事もあるしな」と、副長からも止められた。
すぐに二人が隊士達を呼びに大広間を出て行く。私は言われた通りその場に残り、松本先生の傍に膝をついた。
「改めまして、諸士調役兼監察の山崎烝と申します。よろしくお願いいたします」
頭を下げると、松本先生は私をちらりと一瞥し、ため息を吐く。そして診察の準備をしながら、小声で話しかけてきた。
「土方から話は聞いた。ったく……よくここまでやってこれたもんだな。分かるやつには分かるだろうに」
「意外とばれないものですよ」
「単に馬鹿が多いだけだろうが。俺からすりゃぁ、遠目からでも分かっちまう」
気付かねえ方がおかしいだろうが! と呟きながらも手の動きは止まらず、あっという間に簡易の診察室が出来上がってしまった。
同時に少しずつ隊士も集まり始める。
「まぁその話は後でするとして、山崎! 助手ってぇからにはこき使うから覚悟しやがれ!」
「はい!」
「おい、お前ら! 来た奴から上半身裸になって順番に並べ! 山崎。お前はそこの帳面に隊士の名前と、俺が言う事を書き記していけ。モタモタすんな!」
「承知しました」
「よし、始めるぞ!」
その言葉を合図に診察が始まると、本当に容赦無くこき使われた。
だが口の悪さを除けば診立ては早く的確で、ソツが無い。病気が見つかればすぐに治療法を示し、簡単な処置ならその場ですぐに終わらせた。薬の指示も分かりやすく、教えられた事を書き記しておけば、知識の無い者でも書かれた治療は可能だろう。
私自身も書き記すばかりでなく、診察や治療の手解きもして貰えた事で、かなり医務的な視野が広くなったように感じられた。
「健康診断……ですか?」
その日、呼び出された私が最初に聞かされたのは、『健康診断』という耳慣れない言葉だった。
何だか体に良さそうな言葉だなと思いながら副長を見ると、どうやらあまり良い感情を持っていないらしく、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「その健康診断とやらは、どういう物なのでしょう?」
とりあえず話を促すと、副長が説明を始めた。
「以前から近藤さんと交流のある松本良順先生が、将軍家茂公と共に侍医として京に来ておられるんだが、ついでに隊士達の健康状態を診に来て下さることになったんだ」
「なるほど、それが『健康診断』というやつなわけですか。御典医に診て頂けるとは凄いですね」
「ああ、まぁ有難いっちゃー有難いんだろうが……」
「何か困り事でも?」
人々は皆、怪我や病を自覚して初めて医者にかかるのが当たり前だというのに、医者の方からやってきた上に健康な者まで診てくれるというのは画期的だ。ひょっとすると、隠れた病も見つかるかもしれない。
「最近は体調を崩している者も増えて来ていますし、この機会にしっかりと診てもらっておきましょう」
何故かいつも任されてしまう感冒や食傷で寝込んでいる者たちの看病も、少しは楽になるかもしれない。そんな期待に胸を膨らませていると――。
「お前……自分の事忘れてるだろ?」
「……あ!」
やれやれ、と深いため息を吐く副長。確かに私は医者に診られるとまずい存在だ。
「すっかり忘れてました。でもそれならば、当日は何か仕事を頂いて屯所を離れていれば……」
「そうもいかねぇんだよ。全員必ず受けさせろと、近藤さんの命令だ。……もちろん伊東さんの入知恵からの、な」
つまりは先手を打たれていたという事か。これはどう足掻いても、逃げられないだろう。
「ちなみに、どのような形で健康診断とやらは行われるのでしょう?」
「大広間でまとめてやるんだとよ。上半身を諸肌出してって話だ」
「えぇ……」
まずい。
これは相当まずい。何とか回避策を練らねば、と必死に頭を回転させる。
その時、不意に名案が浮かんだ。
「でしたら副長。私を松本先生の助手として付けていただくことはできないでしょうか?」
「あん?」
私の考えはこうだ。
皆の健康診断をしている間は、松本先生の手伝いでやり過ごす。その後別室で私は一人、診てもらえば良い。場所に関しては、健康診断の結果をまとめるとでも言えば誤魔化せるだろう。私の性別はどうしても松本先生には明かすことになるが、ここだけの秘密としてもらえるよう脅し……ではなく説得すれば何とかなる。上手くすればその場で簡単な医療知識を学ぶ事もでき、良い事づくめではなかろうか。
「確かにそいつは良い案かも知れねぇな」
私の考えに、副長が頷いた。
実際の所、以前から新選組に医療知識のある人材が欲しいという話は出ていた。
屯所にいる怪我人や病人は、かかりつけの医者を呼べば良い。だが戦いの最中の応急処置のために、医者を帯同することは出来ない。これから必要なのは、いつどんな時にでも対応できる、医術に明るい人材だ。そんな人材が一人でもいれば、手遅れになる人間は減るだろう。
「私自身も、機会があれば学びたいとは思っていました。いくらかの書物は読んでいましたが、やはり実際の手技を見たいです」
「……分かった。近藤さんに話してみよう」
「ありがとうございます」
少々危ない橋ではあるが、きっと何とかなるだろう。久しぶりに心が躍るのが分かる。その後あっさりと局長の許可は下り、私は初めての健康診断の日を心待ちにするのだった。
そして、当日。
「一体ここは何なんだ!?」
松本先生の怒鳴り声が、屯所中に響き渡った。
着いて早々、挨拶もそこそこに屯所内をくまなく歩き、最初に発したのがこの言葉だ。案内をして回っていた局長と副長に向かって、遠慮の無い発言が続く。
「どこもかしこも汚れだらけで汚ねぇわ、臭ぇわ、所構わずごろ寝してるわ。厨なんざ腐った生ごみだらけじゃねぇか。不衛生にも程があるってんだよ!」
「面目ない。ごろ寝している者たちは、主に病人でして」
「そりゃぁこの環境なら病人も多いだろうよ。ったく……えらい所に来ちまったぜ」
ぶつくさと言いながら最後に大広間へと足を運ぶ。全体を見渡し、全てを確認し終えた松本先生は言った。
「さっきも言ったが、とにかく全体的に不衛生だ。それにいくら病人だからって、あちこちで好き勝手転がってて良いわけねぇだろうが。上役の前で素っ裸のままごろ寝するなんて、ありえねぇ! 目上の者に対する礼ってやつを知らねぇのか!?」
「ではどのように致せば……」
松本先生の剣幕に少々狼狽え気味の局長だったが、意を決したように尋ねる。それに対しての答えは、とても具体的なものだった。
「そうだな。まずは病人を一か所にまとめ、そいつらを看護する人間を付ける。次に、いつでも風呂に入れるようにしておき、常に体を清潔に保つ。もちろん室内も常に掃除し、空気を通しておけよ。あとは、豚を飼え」
「豚……ですか?」
「そうだ。厨の汚さは尋常じゃなかったからな。毎日の生ごみは、豚に食わせりゃ餌として無駄にならねぇ。その豚も、肥えたら食料とすれば栄養にもなる。食ってみりゃ結構美味いぜ? 解体の仕方が分からなけりゃ、分かる奴を紹介してやるさ」
「なるほど……」
局長が神妙に頷く。その後ろでは副長が、顎に手を当てて何かを考え込んでいた。
「ま、おいおいやってきゃ良いさ。とりあえずは……」
一通りの対応策を話した松本先生は、部屋の隅に置いていた大きな風呂敷を広げて中身を確認し、部屋の真ん中にどかりと座ると、「診察を始めるぞ! さっさと隊士達を集めてくれ」と言い放った。
副長に言われて来訪時から着いて回っていた私は、慌てて皆を呼びに行こうとしたのだが、松本先生に止められる。
「おい、助手がいなくなってどうする。近藤さんと土方が呼びに行きゃ良いだろうが」
「さすがにそれは……」
副長はともかく、局長はさすがにまずいだろう。そう思って自ら志願しようとすると、「良い、山崎。お前は残れ。俺達で行くさ。やる事もあるしな」と、副長からも止められた。
すぐに二人が隊士達を呼びに大広間を出て行く。私は言われた通りその場に残り、松本先生の傍に膝をついた。
「改めまして、諸士調役兼監察の山崎烝と申します。よろしくお願いいたします」
頭を下げると、松本先生は私をちらりと一瞥し、ため息を吐く。そして診察の準備をしながら、小声で話しかけてきた。
「土方から話は聞いた。ったく……よくここまでやってこれたもんだな。分かるやつには分かるだろうに」
「意外とばれないものですよ」
「単に馬鹿が多いだけだろうが。俺からすりゃぁ、遠目からでも分かっちまう」
気付かねえ方がおかしいだろうが! と呟きながらも手の動きは止まらず、あっという間に簡易の診察室が出来上がってしまった。
同時に少しずつ隊士も集まり始める。
「まぁその話は後でするとして、山崎! 助手ってぇからにはこき使うから覚悟しやがれ!」
「はい!」
「おい、お前ら! 来た奴から上半身裸になって順番に並べ! 山崎。お前はそこの帳面に隊士の名前と、俺が言う事を書き記していけ。モタモタすんな!」
「承知しました」
「よし、始めるぞ!」
その言葉を合図に診察が始まると、本当に容赦無くこき使われた。
だが口の悪さを除けば診立ては早く的確で、ソツが無い。病気が見つかればすぐに治療法を示し、簡単な処置ならその場ですぐに終わらせた。薬の指示も分かりやすく、教えられた事を書き記しておけば、知識の無い者でも書かれた治療は可能だろう。
私自身も書き記すばかりでなく、診察や治療の手解きもして貰えた事で、かなり医務的な視野が広くなったように感じられた。
