時の泡沫
副長は複雑そうな顔をしているが、何も言おうとはしない。しんみりとした空気の中、私は続けた。
「そうなりますと、私が呼び戻されたのは伊東組長の策略ですね」
「伊東さんだぁ? その根拠は?」
私が屯所に戻った時、総長の切腹した部屋に行くまでに伊東さんの姿を目にしていない。だが、私より少し後に戻った加納さんが言ったのは『伊東さんが号泣していた』という言葉。これは加納さんが帰屯後、真っ先に伊東さんを訪ねた証しではないだろうか? そうでなければ普通、まずは総長、若しくは私の所へ足を運ぶのが心情ではないかと思うのだ。
それを話すと、副長が頷いた。
「確かに怪しいな。独断で動いたなら、声をかけた人間の動向を確認したくなるもんだろう」
「それに、私が総長の姿を見て気絶してしまった際、迷う事無く伊東組長の部屋に運ばれたのも気になります」
「気絶って……伊東の部屋っ!?」
動揺しすぎだ。立ち上がりかけて裾を踏み、膝を着いてしまうという見事なお約束を見せられ、思わず目を覆った。
「篠原さんが運んで下さったんですよ。話をしただけで、何もありませんでしたから」
「あ、当たり前だっ!」
顔を真っ赤にしながら、取り繕うように腕組みして胡座をかく副長があまりにも可愛くて、吹き出すのを我慢するのが辛かった。
「ただ、どうやら俺は伊東組長に気に入られているようです。『貴方が欲しい』と言われました」
「ブッ!」
多分気持ちを落ちつけたかったのだろう。文机に置かれていたお茶を口に含んだ副長だったが、私が続けた言葉に驚いて思わずそれを吹き出していた。
気管に入ったのか、ゲホゲホと咳き込みながら、涙目になっている。
「副長……汚いです」
「冷静に言ってんじゃねぇよ! 次から次へと恐ろしい話を出してきやがって……」
こんなに動揺が続く副長は珍しい。多分沖田さんがここにいたら、水を得た魚のように嬉々としてからかうだろう。
「そ、それで……お前はどう答えたんだよ」
そう言った副長は、まだ涙目のままだ。そこに不安の色が加えられているものだから、何とも妙な気分になってしまう。
もしここが隠れ家なら、抱きしめて頭を撫でていたかもしれない。こんな事を考えられるのはきっと副長の動揺とは裏腹に、とても冷静でいられているという事なのだろう。
私は、濡れた畳を拭きながら事も無げに答えた。
「別に特別な事は言ってませんよ。副長を通してもらえれば、どんな仕事でも受けます、とだけ言いました」
「そうか……」
副長が、あからさまにほっとした顔をする。それを見て、思わず苦笑いが漏れてしまった。
「ほんまにもう……今日の副長は鬼を捨ててしもてはるな。真面目に仕事として話すつもりやったから、こちらは気ぃ張ってたんに。こんだけ人間臭い姿を見せられたら、こっちかて力抜けてまうわ」
わざとらしく大きなため息を吐き、肩をすくめた。そしてすっかり冷めきってしまっている湯呑を下げる。
「これ、ずいぶん前から置きっぱなしにしてはったんやろ? うちも飲みたいから淹れ直してくるし、待っとって。それまでに気持ちを落ち着かしといてや」
そう言うと返事を待たず、私は厨に向かった。
廊下に出て、今度は小さく一つため息を吐く。屯所の中で仕事の話をしている時に鬼でいられないという事は、かなり心が弱っている証拠だろう。
あそこまで動揺してしまう程に、私を大切に思ってくれているのは素直に嬉しい。でもそれではダメなのだ。総長の切腹で副長に不満を持つ者も増え始めている今、副長が揺れているようでは新選組は成り立たない。
ましてや伊東さんという存在があるのだ。気を抜けば、今まで築き上げた物を全て食らいつくされてしまうだろう。
私はどうすれば良い? あの人のために出来る事は、何?
お茶の準備をしながら、私は必至に考えた。
「お待たせしました」
お茶と、ついでに見つけた茶菓子もつけて置く。私の動作に見入っていた副長だったが、何も言わずに湯呑を手にした。
チラチラとこちらを伺いながらお茶を飲む副長に、私は真剣な面持ちで言った。
「私は、総長を追い込んだ貴方を信じられなくなりました」
私の言葉に、副長が固まる。湯呑みを持つ手が小さく震えているのに気付いてはいたが、先を続けた。
「あれだけ総長を気にするようお願いしていたのに、切腹まで追い込んだ。知った時は絶望感で一杯でした」
これは私があの時感じた素直な気持ち。驚きと悲しみに飲まれ、気を失う程に混乱した私の本音だ。
「一つ聞かせて下さい。西本願寺に移転を決めた時、どうして総長にだけ話を通していなかったのですか?」
あれだけ警戒していた伊東さんにすら、話をつけてあったと言うのが腑に落ちない。そうせざるを得ない何らかの理由があるのかと、疑問に思っていた。
「……あれは元々、雑談中に伊東さんが言い出した事だ。屯所が手狭になったって話から、冗談半分で出てきたのが西本願寺なんだよ。本気にゃしてなかったが、確かに長州への牽制になるなと言ったら、近藤さんがえらく乗り気になっちまってな」
確か……と記憶の糸を手繰るように空を見る。
「お前に小姓を頼む数日前の話だ。お前に山南さんを任せたと同時に俺は島田に、別の屯所候補を当たらせた。だがどこも梨の礫でな。結局こちらの望む条件を満たした西本願寺に、強引に了解させるしかなかったわけだ」
なるほど、それなら合点がいく。
伊東さんに相談したのでは無く、最初から全てを知っていたわけだ。もしかしたら西本願寺の名を出したのは、新選組内部に揺さぶりをかけるための伊東さんの策略かもしれない。そんな事まで考えてしまった。
「そうなりますと、私が呼び戻されたのは伊東組長の策略ですね」
「伊東さんだぁ? その根拠は?」
私が屯所に戻った時、総長の切腹した部屋に行くまでに伊東さんの姿を目にしていない。だが、私より少し後に戻った加納さんが言ったのは『伊東さんが号泣していた』という言葉。これは加納さんが帰屯後、真っ先に伊東さんを訪ねた証しではないだろうか? そうでなければ普通、まずは総長、若しくは私の所へ足を運ぶのが心情ではないかと思うのだ。
それを話すと、副長が頷いた。
「確かに怪しいな。独断で動いたなら、声をかけた人間の動向を確認したくなるもんだろう」
「それに、私が総長の姿を見て気絶してしまった際、迷う事無く伊東組長の部屋に運ばれたのも気になります」
「気絶って……伊東の部屋っ!?」
動揺しすぎだ。立ち上がりかけて裾を踏み、膝を着いてしまうという見事なお約束を見せられ、思わず目を覆った。
「篠原さんが運んで下さったんですよ。話をしただけで、何もありませんでしたから」
「あ、当たり前だっ!」
顔を真っ赤にしながら、取り繕うように腕組みして胡座をかく副長があまりにも可愛くて、吹き出すのを我慢するのが辛かった。
「ただ、どうやら俺は伊東組長に気に入られているようです。『貴方が欲しい』と言われました」
「ブッ!」
多分気持ちを落ちつけたかったのだろう。文机に置かれていたお茶を口に含んだ副長だったが、私が続けた言葉に驚いて思わずそれを吹き出していた。
気管に入ったのか、ゲホゲホと咳き込みながら、涙目になっている。
「副長……汚いです」
「冷静に言ってんじゃねぇよ! 次から次へと恐ろしい話を出してきやがって……」
こんなに動揺が続く副長は珍しい。多分沖田さんがここにいたら、水を得た魚のように嬉々としてからかうだろう。
「そ、それで……お前はどう答えたんだよ」
そう言った副長は、まだ涙目のままだ。そこに不安の色が加えられているものだから、何とも妙な気分になってしまう。
もしここが隠れ家なら、抱きしめて頭を撫でていたかもしれない。こんな事を考えられるのはきっと副長の動揺とは裏腹に、とても冷静でいられているという事なのだろう。
私は、濡れた畳を拭きながら事も無げに答えた。
「別に特別な事は言ってませんよ。副長を通してもらえれば、どんな仕事でも受けます、とだけ言いました」
「そうか……」
副長が、あからさまにほっとした顔をする。それを見て、思わず苦笑いが漏れてしまった。
「ほんまにもう……今日の副長は鬼を捨ててしもてはるな。真面目に仕事として話すつもりやったから、こちらは気ぃ張ってたんに。こんだけ人間臭い姿を見せられたら、こっちかて力抜けてまうわ」
わざとらしく大きなため息を吐き、肩をすくめた。そしてすっかり冷めきってしまっている湯呑を下げる。
「これ、ずいぶん前から置きっぱなしにしてはったんやろ? うちも飲みたいから淹れ直してくるし、待っとって。それまでに気持ちを落ち着かしといてや」
そう言うと返事を待たず、私は厨に向かった。
廊下に出て、今度は小さく一つため息を吐く。屯所の中で仕事の話をしている時に鬼でいられないという事は、かなり心が弱っている証拠だろう。
あそこまで動揺してしまう程に、私を大切に思ってくれているのは素直に嬉しい。でもそれではダメなのだ。総長の切腹で副長に不満を持つ者も増え始めている今、副長が揺れているようでは新選組は成り立たない。
ましてや伊東さんという存在があるのだ。気を抜けば、今まで築き上げた物を全て食らいつくされてしまうだろう。
私はどうすれば良い? あの人のために出来る事は、何?
お茶の準備をしながら、私は必至に考えた。
「お待たせしました」
お茶と、ついでに見つけた茶菓子もつけて置く。私の動作に見入っていた副長だったが、何も言わずに湯呑を手にした。
チラチラとこちらを伺いながらお茶を飲む副長に、私は真剣な面持ちで言った。
「私は、総長を追い込んだ貴方を信じられなくなりました」
私の言葉に、副長が固まる。湯呑みを持つ手が小さく震えているのに気付いてはいたが、先を続けた。
「あれだけ総長を気にするようお願いしていたのに、切腹まで追い込んだ。知った時は絶望感で一杯でした」
これは私があの時感じた素直な気持ち。驚きと悲しみに飲まれ、気を失う程に混乱した私の本音だ。
「一つ聞かせて下さい。西本願寺に移転を決めた時、どうして総長にだけ話を通していなかったのですか?」
あれだけ警戒していた伊東さんにすら、話をつけてあったと言うのが腑に落ちない。そうせざるを得ない何らかの理由があるのかと、疑問に思っていた。
「……あれは元々、雑談中に伊東さんが言い出した事だ。屯所が手狭になったって話から、冗談半分で出てきたのが西本願寺なんだよ。本気にゃしてなかったが、確かに長州への牽制になるなと言ったら、近藤さんがえらく乗り気になっちまってな」
確か……と記憶の糸を手繰るように空を見る。
「お前に小姓を頼む数日前の話だ。お前に山南さんを任せたと同時に俺は島田に、別の屯所候補を当たらせた。だがどこも梨の礫でな。結局こちらの望む条件を満たした西本願寺に、強引に了解させるしかなかったわけだ」
なるほど、それなら合点がいく。
伊東さんに相談したのでは無く、最初から全てを知っていたわけだ。もしかしたら西本願寺の名を出したのは、新選組内部に揺さぶりをかけるための伊東さんの策略かもしれない。そんな事まで考えてしまった。