時の泡沫
元治二年(1865年)二月二十三日。
その日も私は忙しく西本願寺内を走り回っていた。移転の話が強引にではあるが何とかまとまった為、少し前から北集会所の改修を行うための監督を任されているのだ。
三百畳程の巨大な建物をいかに我々が使いやすく作り変えていくか。これはなかなかに骨の折れる仕事だった。だが大工達の協力もあり、少しずつ形になってきている。
この忙しさも、結果が見えてくると心地良く感じられていた。
「ふぅ……ちょいと休憩せな、さすがにしんどいな」
八つ時もとっくに過ぎ、そろそろ日が傾きだす頃か。人影の無かった太鼓楼の前に腰を下ろし、空を仰ぐ。気心の知れた棟梁がくれた金平糖を口に放り込むと、優しい甘さが体にしみ込んでほぅっとため息が出た。
「棟梁は甘党なんかな?」
大工との最初の商談の際、担当となった斉藤組長が直々に仕事を頼んだのだが、真っ先に突っかかってきたのはこの棟梁だった。
新選組なんぞの為に腕なんぞふるってやるものか! と啖呵を切られたのである。この辺りの大工を仕切っているため、この人に断られると非常に困ると斉藤組長は頭を悩ませていた。
それを聞いた私が代わりに棟梁の元へと足繁く通い、何とか口説き落としたというわけで。それ以来何故か棟梁には気に入られ、時々こうして菓子なんぞをもらったりしている。
「沖田さんはともかく、棟梁と言い島田さんと言い、顔に似合わんなぁ」
男たちの顔と菓子を頭の中で想像し、一人でくすくすと笑っていると……。
「山崎さぁんっ!!」
大きな声で必死に手を振りながら走り寄る者がいた。
見るとそれは伊東さんと一緒に入隊してきた加納鷲雄で。普段なら私に関わることの無い人物が私の所にやってきた事に、妙な胸騒ぎを感じた。
「どうなさったんですか? そんなに慌てて」
屯所から走ってきたのだろうか。顔を真っ赤にして、荒い息を必死に落ち着かせようとしている。
「急いで……かえっ……せっぷ……っ」
「落ち着いて下さい、息が整うまで待っていますから。何か火急の用でも?」
加納さんの表情はとても苦しそうなのだが、それは走ったからというだけでは無さそうなのが見て取れる。屯所で何か問題でも起きたのだろうか?
「落ち着いてなんて……いられませんっ! 早急に屯所に戻ってください。山南総長が切腹されます!!」
「……は??」
意味が分からなかった。この人は一体何を言っている?
「加納さん……今何と……?」
「ですから、総長が切腹すると!!」
「切腹!? 何故!?」
頭が混乱している。何をどうしたら、総長と切腹が結び付くというのか。
「話は後で! とにかく早く戻ってください!! 総長が貴方を呼んでるんです!」
「わ、分かりました! ここは宜しくお願いしますっ!!」
私は事態の一つも理解出来ぬまま、とりあえず屯所へと走った。
「総長が切腹ってなんやねん……っ! 一体何が起こってんのや!?」
ひたすらに走りながら、あらゆる可能性を模索する。だが、気が動転しているのか頭の中はゴチャゴチャで、まともな答えが見つからない。
「お願いや……何かの間違いであって……!」
染まり始めた空の赤が、心に追い打ちをかけてきているかのようで。不吉な予感を振り払うように、息を切らしながら私は八木邸に駆け込んだ。
ところが何故か邸内はひっそりと静まり返っており、人の気配もほとんど無い。
「前川邸か……っ!」
すぐに踵を返し、前川邸にむかう。と、前川邸の門を入ってすぐに、沖田さんの姿を見つけた。
「沖田さんっ!」
走り寄り、間髪入れず問い詰める。
「何があったん!? 何で総長が切腹せなあかんのや! 気鬱が酷なって何ぞやらかしたんやったら、病のさせた事やし見逃したっても……」
「無理……ですよ……」
そう言った沖田さんは、下を向いたまま私を見ようとはしない。
「何でや? 訳を教えたってぇな!」
「切腹は……山南さんが望んだ事なんですよ」
「そんな阿呆な! 何ぞ理由でもあるんか?」
「それは……」
「何で山崎がここにいる!?」
語ろうとした沖田さんを遮るように、副長の声が被さった。つかつかと近寄り、有無を言わせず怒鳴りつけてくる。
「誰が山崎を呼び戻せと言った? 山崎。お前はすぐ持ち場に戻れ!」
持ち場に戻れ……? この一大事に?
流石に我慢ならず、言い返した。
「嫌です。総長が呼んではるて聞いたんや。総長んとこに行きます!」
「呼んでねぇよ! むしろお前は呼ぶなと通達してあったはずだ」
「そんな通達知らんわ! 切腹理由を聞くまでは戻らんしな!」
殺気を放ち、睨み合う。その目が赤い事に不自然さを覚えはしたが、今はそんな事などどうでも良い。絶対的な意志を見せつけようとしていると、私が退かぬと悟ったか副長は「勝手にしろ!」と言い残して立ち去った。
後に残された私は、未だ俯いて立ち尽くしたままの沖田さんに再び尋ねる。
「切腹の理由って何なん? いつ執り行われるん?」
「脱走の罪で……つい先程……」
「嘘やっ! これからなんやろ? まだ総長は生きて……」
「嘘じゃ無いですよ。私が……介錯したんですから……」
漸く私を見た沖田さんの目は、泣き腫らしたかのように真っ赤になっていた。それを見て、彼が嘘を言っていないという事に気付かされる。
「ど……して……」
何故? どうして?
そんな言葉がグルグルと回るばかりで、何も考えられない。それなのに体は勝手に前川邸の奥へと歩みを進めていた。
フラフラと歩いていると、人の流れで嫌でもその場所が分かる。すれ違う者たちが一様に口にしていたのは「立派な最期だった」という言葉。
一室の前に出来た人集りを抜け、最前列まで進む。そこにあったのは『山南敬助』という名の抜け殻だった。
ああ、本当だったんだ……。
白地を染め上げる紅。充満する血の臭い。それらは人間の本能を刺激するのだろう。ボンヤリした意識の中でも、総長の死はハッキリと認識できてしまった。
「大丈夫ですか? 山崎さん」
余程顔色が悪かったのか、声をかけられた。そこにいたのは、私の後に帰屯したのであろう加納さんで。
「すみません、間に合わなかったようですね……私が西本願寺に向かった後に行われたらしくて……」
「いえ……教えて下さってありがとうございます……」
無理矢理意識を引っ張り戻し、笑顔を作ろうとする。しかし上手く笑えない。
「山崎さん、無理しないで下さい。泣いて良いんですよ。私が戻った時、伊東さんも号泣してました」
「伊東さんが……?」
「はい。だから無理しないで下さいね」
「ありがとう……ございます……」
それだけ言うと、加納さんは総長に手を合わせて部屋を出て行った。
「無理しないで……か……」
私は今、無理をしているのだろうか? だってほら。涙も出ていない。
本当は、こんな日が来るような気はしていたのだ。気鬱を患った人間が追い詰められた時、どんな選択肢を見つけてくるか。分かっていたからこそ、何度も総長の部屋を訪ねていたのだ。貴方は新選組にとって必要な人なのだと感じてもらう為に。
それなのに最悪の結果になった今の私はどうだろう。驚き呆然とはした物の、涙は全く出てこない。そういえば烝さんの時も、芹沢さんの時も泣かなかった。
根は薄情な人間だったんだな……。
そんな事を考えている内にふっと体の力が抜け、私はいつの間にか意識を手放していた。
その日も私は忙しく西本願寺内を走り回っていた。移転の話が強引にではあるが何とかまとまった為、少し前から北集会所の改修を行うための監督を任されているのだ。
三百畳程の巨大な建物をいかに我々が使いやすく作り変えていくか。これはなかなかに骨の折れる仕事だった。だが大工達の協力もあり、少しずつ形になってきている。
この忙しさも、結果が見えてくると心地良く感じられていた。
「ふぅ……ちょいと休憩せな、さすがにしんどいな」
八つ時もとっくに過ぎ、そろそろ日が傾きだす頃か。人影の無かった太鼓楼の前に腰を下ろし、空を仰ぐ。気心の知れた棟梁がくれた金平糖を口に放り込むと、優しい甘さが体にしみ込んでほぅっとため息が出た。
「棟梁は甘党なんかな?」
大工との最初の商談の際、担当となった斉藤組長が直々に仕事を頼んだのだが、真っ先に突っかかってきたのはこの棟梁だった。
新選組なんぞの為に腕なんぞふるってやるものか! と啖呵を切られたのである。この辺りの大工を仕切っているため、この人に断られると非常に困ると斉藤組長は頭を悩ませていた。
それを聞いた私が代わりに棟梁の元へと足繁く通い、何とか口説き落としたというわけで。それ以来何故か棟梁には気に入られ、時々こうして菓子なんぞをもらったりしている。
「沖田さんはともかく、棟梁と言い島田さんと言い、顔に似合わんなぁ」
男たちの顔と菓子を頭の中で想像し、一人でくすくすと笑っていると……。
「山崎さぁんっ!!」
大きな声で必死に手を振りながら走り寄る者がいた。
見るとそれは伊東さんと一緒に入隊してきた加納鷲雄で。普段なら私に関わることの無い人物が私の所にやってきた事に、妙な胸騒ぎを感じた。
「どうなさったんですか? そんなに慌てて」
屯所から走ってきたのだろうか。顔を真っ赤にして、荒い息を必死に落ち着かせようとしている。
「急いで……かえっ……せっぷ……っ」
「落ち着いて下さい、息が整うまで待っていますから。何か火急の用でも?」
加納さんの表情はとても苦しそうなのだが、それは走ったからというだけでは無さそうなのが見て取れる。屯所で何か問題でも起きたのだろうか?
「落ち着いてなんて……いられませんっ! 早急に屯所に戻ってください。山南総長が切腹されます!!」
「……は??」
意味が分からなかった。この人は一体何を言っている?
「加納さん……今何と……?」
「ですから、総長が切腹すると!!」
「切腹!? 何故!?」
頭が混乱している。何をどうしたら、総長と切腹が結び付くというのか。
「話は後で! とにかく早く戻ってください!! 総長が貴方を呼んでるんです!」
「わ、分かりました! ここは宜しくお願いしますっ!!」
私は事態の一つも理解出来ぬまま、とりあえず屯所へと走った。
「総長が切腹ってなんやねん……っ! 一体何が起こってんのや!?」
ひたすらに走りながら、あらゆる可能性を模索する。だが、気が動転しているのか頭の中はゴチャゴチャで、まともな答えが見つからない。
「お願いや……何かの間違いであって……!」
染まり始めた空の赤が、心に追い打ちをかけてきているかのようで。不吉な予感を振り払うように、息を切らしながら私は八木邸に駆け込んだ。
ところが何故か邸内はひっそりと静まり返っており、人の気配もほとんど無い。
「前川邸か……っ!」
すぐに踵を返し、前川邸にむかう。と、前川邸の門を入ってすぐに、沖田さんの姿を見つけた。
「沖田さんっ!」
走り寄り、間髪入れず問い詰める。
「何があったん!? 何で総長が切腹せなあかんのや! 気鬱が酷なって何ぞやらかしたんやったら、病のさせた事やし見逃したっても……」
「無理……ですよ……」
そう言った沖田さんは、下を向いたまま私を見ようとはしない。
「何でや? 訳を教えたってぇな!」
「切腹は……山南さんが望んだ事なんですよ」
「そんな阿呆な! 何ぞ理由でもあるんか?」
「それは……」
「何で山崎がここにいる!?」
語ろうとした沖田さんを遮るように、副長の声が被さった。つかつかと近寄り、有無を言わせず怒鳴りつけてくる。
「誰が山崎を呼び戻せと言った? 山崎。お前はすぐ持ち場に戻れ!」
持ち場に戻れ……? この一大事に?
流石に我慢ならず、言い返した。
「嫌です。総長が呼んではるて聞いたんや。総長んとこに行きます!」
「呼んでねぇよ! むしろお前は呼ぶなと通達してあったはずだ」
「そんな通達知らんわ! 切腹理由を聞くまでは戻らんしな!」
殺気を放ち、睨み合う。その目が赤い事に不自然さを覚えはしたが、今はそんな事などどうでも良い。絶対的な意志を見せつけようとしていると、私が退かぬと悟ったか副長は「勝手にしろ!」と言い残して立ち去った。
後に残された私は、未だ俯いて立ち尽くしたままの沖田さんに再び尋ねる。
「切腹の理由って何なん? いつ執り行われるん?」
「脱走の罪で……つい先程……」
「嘘やっ! これからなんやろ? まだ総長は生きて……」
「嘘じゃ無いですよ。私が……介錯したんですから……」
漸く私を見た沖田さんの目は、泣き腫らしたかのように真っ赤になっていた。それを見て、彼が嘘を言っていないという事に気付かされる。
「ど……して……」
何故? どうして?
そんな言葉がグルグルと回るばかりで、何も考えられない。それなのに体は勝手に前川邸の奥へと歩みを進めていた。
フラフラと歩いていると、人の流れで嫌でもその場所が分かる。すれ違う者たちが一様に口にしていたのは「立派な最期だった」という言葉。
一室の前に出来た人集りを抜け、最前列まで進む。そこにあったのは『山南敬助』という名の抜け殻だった。
ああ、本当だったんだ……。
白地を染め上げる紅。充満する血の臭い。それらは人間の本能を刺激するのだろう。ボンヤリした意識の中でも、総長の死はハッキリと認識できてしまった。
「大丈夫ですか? 山崎さん」
余程顔色が悪かったのか、声をかけられた。そこにいたのは、私の後に帰屯したのであろう加納さんで。
「すみません、間に合わなかったようですね……私が西本願寺に向かった後に行われたらしくて……」
「いえ……教えて下さってありがとうございます……」
無理矢理意識を引っ張り戻し、笑顔を作ろうとする。しかし上手く笑えない。
「山崎さん、無理しないで下さい。泣いて良いんですよ。私が戻った時、伊東さんも号泣してました」
「伊東さんが……?」
「はい。だから無理しないで下さいね」
「ありがとう……ございます……」
それだけ言うと、加納さんは総長に手を合わせて部屋を出て行った。
「無理しないで……か……」
私は今、無理をしているのだろうか? だってほら。涙も出ていない。
本当は、こんな日が来るような気はしていたのだ。気鬱を患った人間が追い詰められた時、どんな選択肢を見つけてくるか。分かっていたからこそ、何度も総長の部屋を訪ねていたのだ。貴方は新選組にとって必要な人なのだと感じてもらう為に。
それなのに最悪の結果になった今の私はどうだろう。驚き呆然とはした物の、涙は全く出てこない。そういえば烝さんの時も、芹沢さんの時も泣かなかった。
根は薄情な人間だったんだな……。
そんな事を考えている内にふっと体の力が抜け、私はいつの間にか意識を手放していた。