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時の泡沫

 ――ふと、目を覚ます。どうやら私はあのまま寝てしまっていたらしい。凍えるような寒さの中、くしゅん、と一つくしゃみをすると、慌てて準備しておいたかい巻を羽織った。
 この寒さで熟睡してしまう程、私の体は疲れていたようだ。手足はすっかり冷え切ってしまい、指先の間隔は失われている。
 空を見上げると既に月は見えなくなっており、うっすらと空が白み始めていた。せめて体が温まるまで、もう少しうつらうつらしておこうと部屋の隅で丸まっていると……

 カタン

 誰もいないはずの部屋から、音が聞こえた。
 寝ぼけていた意識が一瞬で覚醒し、神経が研ぎ澄まされる。未だかじかんでいる手を擦り温めながら、気配を探った。

「二人……いや、三人?」

 少しずつ近付いて来る音に耳を澄ませると、次第に話し声も聞こえてくる。あの声は……。

「阿部十郎と佐原太郎……あとは、内海次郎? 御陵衛士!」

 私が名を呼んだと同時に目の前の襖が大きく開け放たれ、まさにその三人が姿を現した。

「君は……山崎くんか!」

 抜き身を手に、私に気付いた三人が驚いた顔を見せる。だがすぐに気を取り直した佐原さんが、私に殺気を向けて言った。

「沖田は何処だ!? 妾宅はもぬけの殻だった。この屯所ですらお前しかいないのはどういう事だ!」

 どうやら彼らは沖田さんの命を奪いに来たらしい。あまりに急な屯所移転は、彼らに情報が伝わる間も無かったようだ。

「残念でしたね。既に新選組は屯所を移転しています。私は最後の片付けをする為に留まっているだけですよ」

 急襲を想定していなかった為、苦無は無い。そうなると、隙をついて刀を奪うしかないのだが、果たして私がどこまでやれるか――。
 一触即発。冷や汗を流しながら間合いを計っていると、何故か内海さんが刀を鞘に納めた。

「内海? 何故刀を納める。こいつも新選組なんだぞ! 伊東さんの仇なんだ! 一人でも多く斬ってしまわねば……!」

 佐原さんが、内海さんを怒鳴りつける。だが内海さんは頭を横に振ってそれを否定した。

「いや、ダメだ。山崎くんは斬っちゃいけない」
「どういう事だ!?」

 阿部さんも、内海さんの言う意味が分からずに戸惑っているようだ。かくいう私も、何故私『は』なのかが気になっていた。

「忘れたのか? 伊東さんはずっと、山崎くんを御陵衛士に欲しがっていた。彼は新選組に所属してはいるが、伊東さんに認められている人物なんだよ」
「それは……確かにそうだが、今となっては……」

 苦しげな表情の佐原さんは、納得がいかないのだろう。刀を握る手は白くなるほど力が込められ、震えていた。

「何でよりによって、ここにいるのがお前なんだ! 伊東さんが認めていない輩なら、心置きなく斬れたものを……っ!」

 刀を畳に突き刺し、佐原さんが咽び泣く。この人は、こんなにも伊東さんに心酔していたのかと驚くと同時に、複雑な気分だった。あれだけ迷惑をしていた伊東さんの想いが、今の私を救ったようなものだから。

「山崎くんに一つ聞きたい。貴方は油小路にはいたのか?」

 内海さんが真剣な面持ちで私に聞く。否、と答えると、ホッとしたような笑みを見せた。

「伊東さんは常々、人を斬るのは野蛮な行為だと言っていた。無益な殺生など、何も生み出さない、とね。そんな思いを持った伊東さんが、認めていた貴方に斬られたのでは無くて良かったよ」

 そう言った内海さんは、佐原さんの肩に手をかけ退却を促す。フラフラと歩く佐原さんを支えながら内海さんと阿部さんも出て行こうとした為、私は彼らを引き留めて聞いた。

「人を斬るのが野蛮なら、何故夜襲などかけてきたんですか? 復讐こそ無益な殺生そのものじゃないですか! それに、伊東さんは私の何を認めていたと……」

 そこまで言った時、彼らの表情が変わった。佐原さんと阿部さんは、憎しみを。内海さんは悲しみを湛えた顔に。

「お前は近藤や土方が殺されたら、平気な顔をしていられるか? 何もせずにいられるか? 例え大切な人が復讐を望まなくても、残された者にはそれしか縋る物がないんだ!」

 阿部さんの叫びが、深く心に突き刺さる。それ程までに御陵衛士の彼らにとって、伊東さんの存在は大きかったのだと、改めて思い知らされた。
 そんな阿部さんを落ち着かせるように、内海さんが視線を送る。フイと目を逸らした阿部さんは、苛立ちを残したまま佐原さんを支え、今度こそこの場を立ち去った。
 そして内海さんはと言うと、悲しそうな微笑みを浮かべながら私を見ている。

「彼が貴方の何を認めていたのかは、貴方自身がよく知っているはずだ。かなり積極的な態度を見せていたようだしね。私も長い付き合いだが、あんな伊東の姿を見るとは思わなかったよ」

 そう言えば内海さんは確か、御陵衛士の中では伊東さんと最も古くから付き合いのある人物だったはず。ならば余計に伊東さんへの思い入れがあるのだろう。

「彼は、本気で貴方を欲しがっていたよ。そこまで彼が惚れ込んだ人を、私達が斬ってしまったら……きっと彼は怒るだろう」

 自嘲するようにため息を吐いた内海さんは、手で顔を覆った。その体が震えているのが分かって何も言えず、私はただ見ているしかない。
 暫しの間、沈黙が続いた。内海さんの頬を涙が伝い、着物に小さなシミを作っては消えて行く。

「私は……貴方を斬れない」

 ようやく落ち着いたのか、瞳を涙で濡らしたまま口を開いた内海さんは言った。

「貴方を斬る事は出来ないが、一糸は報いたい。……あの人は、本気で貴方を想っていたから……」

 それは、ほんの一瞬の出来事だった。
 脇差を抜きながら私の背後に回り込んだ内海さんが、ザリッと音を立てる。咄嗟に振り向くと数本の髪が散らばり、内海さんの手には、私の髷の束が握られていた。

「せめて、このくらいはしても良いだろう。この髪は頂いていくよ」
「何故そんな物を……?」
「髪は……女の命だろう? その命、伊東さんの為にもらっていく」
「なっ!」

 この人にも私の事が伝わっていたのか、と焦りが募る。だが内海さんは事も無げに言った。

 「貴方の性別がどちらだろうと私にはどうでも良い話だが、私は伊東さんの為に出来る限り重い物を貰い受けたかったのでね。敢えて命と同様である髪を頂いた」

 私の髪を懐紙に包み、懐に納めると、内海さんは踵を返す。

「……伊東さんは心から貴方の幸せを願っていたよ。それだけは忘れないで欲しい」

 背中越しにそう言った内海さんは、二度と振り返る事無くその場を走り去った。
 まるで突然の嵐が通り過ぎたかのようなこの状況に、私はしばらく呆然と立ち尽くす。やがてそっと触れてみた髪は元結のすぐ下で切り落とされており、とても軽くなっていた。

「……唯一残ってた女子らしさやってんけどな……」

 元結をはずせば、肩にすら届かない髪を撫でる。何度指で梳いても変わらない感触に、私は小さくため息を漏らしたのだった。
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