第7章 胸裏

 部屋に戻った蘭を迎えたのは、子猫だった。

「何だ……ずっと部屋にいたのか?」
「にゃあ」

 まるで人間の言葉が分かるかのように返事をする子猫に、蘭が微笑む。外出用に雅から渡されていた羽織を脱ぎ、部屋の隅に座り込むとようやくほっとした。

「巡察ってのは、案外つまらない物なんだな」

 子猫に手を伸ばすと喜んで走り寄り、その膝に乗る。そして蘭の話を聞こうとしているのか、ピン、と耳を立てていた。

「ただ歩くだけで何もなかった。せいぜい京雀達からの誹謗中傷を肌で感じるくらいだ」

 子猫の耳をこしょこしょとくすぐり、相手をする。プルプルと頭を震わせ、今度は尻尾を振りだした子猫の背中をそっと撫でてやった。

「新選組ってのは相当の嫌われ者らしいな。……私と同じ、か」

 子猫を撫でながら、もう片方の手で前髪を掻き上げる。視界を遮る物が無くなり、眩しそうに細めた瞳には、悲しみの色が見て取れた。

「いや、私は新選組ですら疎ましがる存在だろう。全てを知れば平助ですらきっと……」

 眉間に皺を寄せ、目を閉じた蘭が口にしたのは平助の名。それは蘭が平助の存在を意識し始めている証だという事に、本人は未だ気付いていない。

「にゃ?」

 いつの間にか子猫を撫でる手が止まっていたのか「どうしたの?」とでも言うように子猫が鳴いた。

「ん? ああ、すまない。何でもないさ」

 緑の瞳をほんの少し揺らしながら、蘭は微笑んで見せる。その時ふと視界の端に入ったのは、先ほど子供達から渡された金平糖の入った箱。

「そう言えば、忘れていたな」

 そっと子猫を膝から降ろすと、蘭はその箱を手に取った。一粒口に含んでみると、甘さが口の中に広がっていく。

「懐かしい味だ……」

 最後にこの甘さを感じたのは、いつだったか。
 何だか噛み砕くのが勿体なくて、蘭は出来るだけゆっくりと口の中で転がしていた。そんな蘭の頬の動きが気になるのか、子猫が動きに合わせて頭を左右に動かす。そのあまりの可愛さに、蘭はわざと頬を大きく膨らませてみせるのだった。




 半分食べ終えた所で、満足したのか蘭は立ち上がる。

「少し散歩にでも行くか?」

 子猫を抱き上げ、玄関へと向かった。草履を履いていると、すぐに雅がやって来る。

「何処か行かはるん? 誰か一緒に行くよう頼んだろか?」
「必要ない。用心棒をするなら、この周辺を知っておく必要があるだろう」

 いかにも取って付けた理由だが、何かを言っておかねば強引に話を進められると判断したのだろう。実際雅も納得したようで、それ以上の追及も無く蘭は屋敷を出る事が出来た。
 とは言え、当てもなく歩くと言うのは割と難しい。

「さて、何処に行くか……」

 子猫を肩に乗せたまま、ブラブラと壬生村を歩いて行く。何処までも続くのどかな風景は、蘭の心を癒してくれる……はずだった。

「普通こういう時は、遠慮するもんだと思うんだがな」

 八木邸を出てすぐ、感じていた気配は三つ。しかもどうやら、新選組の者では無さそうだ。
 念のため、相手の出方を伺う。蘭が足を速めると、それらの気配も小走りに追ってきた。歩みを止めると、同じく動きが止まる。

「やれやれ……」

 まず標的が蘭な事に間違いは無い。ここ最近狙われる可能性があるとすれば、先日八木を助けた時の相手か。

「撒いてやりたいが、ここら辺の事は分からないしな。刀も無いし……さて、困った」

 そう言っている割にはあまり困った風でもなく、平然と歩いている。だが暫く歩いている内に状況が変わった。

「この先はまずいな」

 蘭の歩みが止まる。耳を澄ませると、直ぐ目の前の通りを曲がった辺りから子供達の声が聞こえた。

「仕方ない、か」

 蘭は覚悟を決めたのか、子猫を肩から降ろした。

「少しの間、ここで大人しくしていてくれ」
「にゃあ」

 蘭を見上げ、分かったとでも言うかのように鳴く子猫に笑みを向けると、すぐに口元が引き締まる。そしてすうっと息を深く吸い込むと、一気に駆け出した。
 ただし、尾行して来た者達に向かって。

「何っ!?」

 男の声が上がるのと、蘭の蹴りが繰り出されるのとは同時だった。
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