第5章 温もり

「ちっ……表面だけか」

 刀が触れたのは、あくまで着物のみ。蘭の肌には傷一つ付いてはいない。だがこの事が、蘭の意識を変えていく。

「本気、なんだな……」
「は? 当たり前だろう。私は伊達や酔狂で刀を向けているわけじゃないんだからな」
「そう、か」

 ゆらり、と蘭の体が揺れた。ハッとして刀を構え直した次の瞬間、総司は信じられない光景を目にする事となる。

「な……っ!」

 それは目の前に迫る、いつの間にか奪われていた自らの脇差の切っ先。
 避ける間など無かった。目を閉じる事すら叶わぬ速さに、総司は死を覚悟する。

 ――殺られる……っ!

「ニャア」

 ピタリ。
 刀は総司の鼻先一寸足らずの所で止まった。
 今動けば、確実にその切っ先は総司の顔に吸い込まれるだろう。そんなギリギリの所で刀を止めたのは、先程の子猫の鳴き声だった。

「ニャーオ」

 ピタリと止まったまま、身動ぎしない二人を不思議そうに見ながら歩み寄ってきた子猫は、もう一度鳴くと蘭の足に纏わりつく。ゴロゴロと喉を鳴らし、構ってくれと言いたげに頭を擦り付けて来る子猫の姿に、蘭の殺気は消えてしまった。
 総司の脇差を放り投げると、擦り寄る子猫を抱き上げる。そして何事も無かったかのように、八木邸に向かって歩き出した。
 その姿に、固まったまま動けなくなっていた総司が、漸く正気を取り戻して叫ぶ。

「何で殺さない!」

 急いで蘭の前へと回り込み、行く手を塞ぐ。だが総司の存在など無かったかのように、蘭は通り過ぎようとした。

「私も、この間の不逞浪士達も。何故殺さなかった!?」

 総司の問いに、返事は無い。そのまま歩き続ける欄に、総司は歯噛みしながら言った。

「八木さんからあんたが不逞浪士を屠ったと聞いて、山南さんが現場に向かったら、確かに斬られた男達が倒れていたそうだ。だがそいつらは一刀のもとに斬り捨てられてはいたものの、皆一命を取り留めていた」
「……そこには何人いた?」

 珍しく蘭が反応する。

「へぇ……気になるんだ。重傷者四人と、気を失ってた輩が二人だよ。一人は逃げていたらしい」
「ちっ……」

 舌打ちする蘭に、総司は首を傾げた。

「何? 逃したのがそんなに悔しい? だったら最初から全員殺せば良かったんだ」

 総司が呆れたように言ったが、それに対しての蘭の言葉は意外なものだった。

「私は自分の意思で誰かを殺した事など、一度も無い」
「……は? あれだけの強さを持ちながら、誰一人? 用心棒だってしていたんだろ?」
「身動き出来なくするか、徹底した恐怖を味わえば、大抵は戦う意欲を失う。お前のようにしつこい輩はほとんどいなかった」

 事実、蘭は自身の関わった戦いの中で、死人を見たことは皆無に近い。数多の実戦経験を持つ蘭だったが、人を斬っても殺さない事だけは守り続けていた。

「殺して全てが終わる程、簡単な生き方はしていない」
「……何だよ、それ。私が単純だと言いたいのか?」

 イラつきを隠さずに総司が噛み付く。どんな時でも自分の気持ちに正直な総司に、蘭は小さく笑みを浮かべた。
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