第5章 温もり

「さて、腹拵えが終わったら出かけるしな。蘭、用心棒として付いてきてくれるか?」

 いつの間にか当たり前のように敬称が消え、蘭と呼んだ八木が言う。その瞬間、蘭の纏う空気が変わった。
 わいわいと賑やかに食事をしていた子供達がびくりと震え、慌てて夫婦の所へと逃げる。

「……蘭、未だ大丈夫やし、そない気ぃ張る必要無いんえ」

 雅がため息を吐きながら八木を見ると、その視線に八木は小さく頷き、苦笑いをした。

「蘭、先に言うとくけどな、わては確かに用心棒を必要とする時がある。こないだみたいな輩に狙われた事も一度や二度や無い。だからと言って常に誰かに狙われとるわけやないんやで。お前はあくまで念の為の用心棒や」

 そう言いながら八木は、にやりと笑う。その笑みに、蘭は前髪で隠れている眉をひそめた。

「ま、狙われる理由は新選組に屋敷を貸しとる事が一番の理由やからな。それやのに隊士を用心棒に歩いとったら目立ってしゃぁないやろ。その点お前やったら普通の親子としても歩けるし安心や」

 要は新選組に迷惑をかけられているという事。だがその割に八木は楽しそうな顔をしている為、蘭からすれば不可解でならない。

「命を狙われたり、屋敷を好き勝手使われて迷惑なのでは無いのか? 追い出すなり受け入れを断るなりすれば良かったのに」

 嫌なら断れば良いではないか。蘭にとっては簡単な話だ。だが世の中そんなに単純な物では無いという事を、八木は知っている。

「京都守護職であられる松平容保公お預かりやしな。断る事なんぞ出来んわ」

 とは言えもちろん最初は、壬生村全体で否の態度を見せはしたのだ。だが御公儀の為という名目で、最終的には押し切られてしまっている。結局民が何を言おうとも、お上の命に逆らう事など出来はしない。

「確かに最初は揉め事が多ゆうて、迷惑ばかりかけられて困ってたんえ。そやけどな、時が経つにつれてええ所もたくさん見えてきたんや」

 新選組に所属している若者達は、最も血気盛んな年頃の者ばかりだ。それが集まれば、意見の相違や性格の違いからぶつかり合う事があって当然だろう。
 しかし個々を見れば、意外と心優しく素直な若者が多いのもまた事実。現に幹部から平隊士まで、八木家の者に対しては皆態度がとても丁寧であり、基本従順でもあったりするのだ。

「そら未だに迷惑をかけられる事はあるんえ。それでも彼らは出来得る限りの気を、わてらに使うとるんや。今度じっくり観察しとってみぃ。結構おもろいもんが見られたりするしな」

 八木の言葉に、何か思い当たる節があるのか雅がクスクスと笑う。
 二人の表情は、決して作られた物ではない。心からの笑顔という事が分かり、ますます蘭は混乱しているようだ。迷惑なら関わらなければ良いのに、それを受け入れるだけでなく、更に深入りしようとする八木夫婦の心が蘭には分からない。

「……あんた達がそれで満足しているのならそれで良い。私には関係の無い話だからな」

 どうせ考えてみたところで、彼らを理解する事など出来はしまい。そう思った蘭は、もうこの話は終わりだといった風にむっつりとしたまま箸を進めた。
 だが一つ話を終わらせても、すぐまた次の話が振られてくる。

「あれあれ、蘭。何で玉子に手ぇ伸ばさんの? あんたの為に買うてきたんえ」

 蘭が玉子に箸を付けていないことに気付いた雅の言葉に、皆が一斉に蘭を見た。別に避けていたわけではないのだが、子供達の争奪戦を見ていたら、何となく食べ辛くなってしまって。そのまま玉子には手を付けずに箸を進めていたのだった。

「別に私は……」
「何やお姉ちゃん、玉子嫌いなん?」

 皆の視線に戸惑う蘭に、さっきまで雅の後ろで怯え隠れていた下から二番目の子、為三郎が近寄って来る。そして蘭の箸を取ると、玉子に突き刺して蘭の口元に運んだ。

「好き嫌いはあかんてお母ちゃんに言われとんねん。それにこの玉子はそこいらのもんとは比べものにならんくらい美味いんやで。お母ちゃんの玉子は、一度食べたら病み付きになる事間違いなしや!」

 まるで自分の手柄のように、自慢気に玉子を渡してくる為三郎に、蘭は一瞬嫌そうな表情を見せた。だが「ん! 食べや!」と更に顔に近付けられ、断るのも大人げないかと考え直した蘭はそれを受け取り、一口齧る。それは京らしい薄味のだし巻き玉子で、口の中が蕩ける感覚に蘭は思わず呟いた。

「美味しい……」

 蘭にとって、食べる事は単に生きる手段だった。味などは二の次で、とにかく腹を膨らませる事ができればそれで良いと思っていた為、金があれば店に並ぶ物を適当に買い、金が無ければそこらに生えている草を齧るなどして飢えを凌いでいたのだ。盗み、奪い、命からがら逃げた事もある。
 そんな自分が今、温かく美味しいと思える物を食べているなんて。 しかも、大勢の者達に囲まれながら。飲み込んだ玉子は、胃だけでなく心までも満たしていくような気がして。

「何やお姉ちゃん、そない泣く程この玉子が美味かったん?」
「……え……?」

 未だ雅の陰に隠れていた一番年下の勇之助がゆっくりと蘭に近付き、そっと頬に触れる。そこには一筋の涙の痕が残っていた。

「お母ちゃんの玉子焼き、最高やろ?」

 満面の笑みで蘭を見る勇之助と、その指に付いた涙の滴を見て、蘭は弾かれるように立ち上がる。

「私は……っ」

 そして箸を放り出し、そのまま屋敷の外へと駆け出して行ってしまった。
 突然の事に、今度は勇之助が泣きそうになっていたが、雅が近寄りその頭を撫でながら言う。

「為坊も勇坊もええ事してくれたな。おおきに」
「……お母ちゃん?」

 何故礼を言われたのか分からぬ子供達は、不思議そうに雅を見る。だがその理由は言わず、雅はニコニコと勇之助を抱きしめたのだった。
2/6ページ
応援👍