序章

 元治元年(1864年)春。
 うららかな日差しと美しい桜の花が咲き乱れる京の町は、活気に満ち溢れている。

「今日は厄日か……?」

 そんな町中で一人、ボヤきながら歩く若者がいた。名を、蘭と言う。
 身の丈四尺七寸(142cm前後)程。長めの黒髪を後ろに束ね、前髪は目を覆っているため、その表情は分かりにくい。皺だらけの着流しは薄汚れており、すれ違う者達は気付くとさり気無く避けていく風体だ。

「ちっ……しけてんな」

 スッたばかりの巾着を開き、蘭は舌打ちした。
 今日はあまり収穫が無い。景気が悪いのか、はたまた自らの調子が悪いのか。このままだと空腹を満たせるほどのおまんまにはありつけそうにない。

 「どこかに良いカモはいないか?」

 町をうろつきながら、獲物を探す。町人、坊主、飛脚に子供。人の行き来は引っ切り無しだ。
 そんな賑やかな往来の中、ふと一人の侍が蘭の目に入った。身形は決して派手ではなく、裕福そうでもない。だが蘭の中の野生の勘が、次の獲物はあれだと囁いていた。

「やる、か」

 狙いを定めてしまえば、その後は決まっている。蘭はゆっくりと侍に近付いて行った。
 その侍の若者は、自分が狙われている事など全く気付いていないのだろう。連れとの話に夢中になりながら、こちらへと歩いて来ていた。

「おっと、ごめんよ!」

 出来るだけ自然にぶつかり、素早く立ち去る。仕事はたったこれだけだ。そのまま何事も無かったように一番近い路地へと入り込み、懐に収めたスったばかりの財布を取り出すと……。

「へぇ……思ってた以上だな、こりゃ」

 持った時の重みでそれなりとは思っていたが、実際に見ると結構な量の金子が入っていた。

「最後に良い仕事が出来たってね。数日は遊んで暮らせそうだ」

 思わず笑みが浮かんでしまう。
 やはり獲物を手にしたこの瞬間が、一番嬉しい。再び財布を懐に入れた蘭は鼻歌を歌いながら、足取り軽くねぐらへと向かった。
 だがこの気の緩みがまさか、この者の人生を大きく変える事になろうとは誰が予想していただろう。

 そして今この時より、新たな物語が始まろうとしていた――。
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