隣の芝生が青くても

 昨夜は確かに、自分の部屋で寝たはずだった。

 一人暮らしの寂しい部屋で、田舎の温もりを思い出しながら、冷たいベッドに潜り込んだ事まで鮮明に覚えている。
 それなのに、今自分が立っているのは芝生の上。低いブロックに囲まれ、ただ芝生しかないこの空間は、まるで現実味を感じられなかった。

「そっか、これは夢か」

 それなら目を覚ませば良い話。だがどうすれば良いのかが分からないから困ったものだ。

「何かヒントでも無いかな?」

 キョロキョロと辺りを見回すと、ブロックを隔てた向こう側に人影を見つけた。急いで駆け寄ると、その人物もまたキョロキョロとして不安げだ。

「すみません」

 声をかけると、その人物はホッとしたようにこちらに駆け寄る。だが私の顔から後ろに視線を移すと何故か目を見開き、突如叫んだのだ。

「あんたの方が青いじゃ無いか!」
「は?」

 意味が分からず首を傾げた私に、その人物は言った。

「なんだ知らないのか。自分の芝生が一番青くなるまでは、ここから出られないんだよ」
「芝生が青くなる?」

 見れば確かにこの人物の周りも芝生で覆われている。だが私から見れば、向こうの芝生の方が青々としているように感じられた。

「それなら貴方の……」

 芝生から視線を戻して言おうとした私だったが、その人物は「困った困った」と言いながら足早に遠のいていく。

「ちょっと待って!」

 咄嗟に追いかけようとするも、不思議な力が働いているのか、目の前のブロックを乗り越える事はできなかった。

「芝生の青さで帰れるか否かが決まると言われても……」

 意味が分からぬままに今度は反対方向を見ると、これまた新たな人影がある。近寄ってみれば、同じように困っている人物がいた。
 念のため覗き込むと、やはり私よりも青々とした芝生に立っているのだが、向こうはこちらを見るなり絶望の表情で項垂れてしまう。

「一体どういう事なんだろう? 同じものを見ているつもりで、違うものを見ている?」

 どちらも芝生には変わりなく、違うのは色の濃さだけ。光の角度によって違いはあれど、特におかしな事は無いはずだ。

 頭を悩ませつつ意識して周りを見ると、いつの間にか周りには、たくさんのブロックに囲まれた芝生の空間ができていた。見える範囲でそれらを見比べれば、確かに皆色の濃さが違う。しかもそれら全てが私の芝生よりも青かった。
 現状を理解しショックを受けると共に、私の頭に浮かんだ言葉を口にする。

「まさに『隣の芝生は青い』……だな」

 次の瞬間、私の体は何かに強く引っ張られーー。



「うわ……っ!」

 驚いて叫んだ私は、勢いよく体を起こす。冷や汗をかきながら、肩で息をしつつ周りを見ると、そこは見慣れた自分の部屋だった。

「なんだ……やっぱり夢だったのか……」

 はぁっと大きなため息を吐き、サイドテーブルの上のペットボトルに手を伸ばす。とその時、テーブルの上に置かれたスマホの通知が目に入った。

 昨夜届いていたメールには、タイトルから察するに、学生時代に仲の良かった友人の近況が書かれているようだが、実は未だ読んでいない。卒業後、お情けで入れてもらった会社で淡々と働く私とは違い、好きな仕事に就いて順風満帆な人生を歩んでいる友人からのメールだと思うと、何だか惨めな気持ちになってしまって。
 だから昨夜は結局読めぬまま、床に就いてしまったのだ。

 水を飲み、もう一度ため息を吐いた私は、ぼんやりと先ほどの夢を思い出す。何故かあの夢とメールが重なる気がして落ち着かず、気乗りはしないが思い切って読んでみる事にした。
 するとそこには友人の愚痴がいくつも書き込まれていて、思わず目を丸くする。仕事としては華やかでありながら、思いもよらぬ苦労をしているのだと私はこの時初めて知った。

 そして最後に書かれた言葉が、私に大きな驚きを与える。

『うちの営業が、貴方を有能だと褒めていたよ。周りに認めてもらえている貴方が羨ましい』

「羨ましい? 私が……?」

 私からすれば、友人の方がよっぽど羨ましい存在だというのに。

「分からないもんだなぁ」

 それは、ずっと羨み続けていた友人の言葉が、私の世界を変えた瞬間でもあった。

「まるで夢の続きみたい。……私の芝生も青かったんだ」

 クスリと溢れた笑みは、自然と返信ボタンを押す。

「でも相変わらずお隣の芝生も青いって事、伝えた方が良さそうだな」

 そう呟いた私はこちらの近況と共に、私の中にある羨望と嫉妬の感情をメールに認めたのだった。

〜了〜
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