記憶の欠片 〜沖田総司〜

 きっと彼女は覚えていない。あの夏の日の出来事を。



 文久三年、夏。その日は私、沖田総司は非番だった。
 屯所の中は珍しく人がまばらで、とても静かだ。

「たまにはこんな時間も良いですねぇ」

 縁側に横になると、ぼんやり空を眺める。外の日差しは強いが、ここは日陰で風がとても心地良く、このまま少し寝たいと思ってしまう程だ。
 トロトロとした甘やかな眠気に身を委ねると、自然に瞼が落ちていく。

「壬生寺に行けば誰かがいるでしょうけど、今日くらいはここでノンビリと……」
「あっかーんっ!」
「!?」

 突如聞こえた叫び声に、思わず飛び起きた。

「今の声は一体……?」

 声は芹沢さん達の宿所の方から聞こえてきたはず。私は慌てて走り向かった。
 玄関から中を見ると、部屋の奥で芹沢さんがこめかみを押さえている。見えない所では、新見さんと誰かが言い争う声が聞こえていた。

「だから、何で貴様はいつもそうなんだ!? 芹沢先生が所望されてるのは酒であって……」
「だからあかん言うてますやろ! 飲み過ぎは体に毒やし、今日はお茶にしたってや。ほんまに芹沢はんの事を思うんやったら、体の事を気にせなあかんえ!」

 どうやらあの新見さんが押されているようだ。要するに、芹沢さんに酒を与えるか否かで揉めているわけか。
 それにしても、あの女性は一体……。怒鳴り声だけを聞いていると、何だか厳つい大年増を想像してしまう。

「ああもう分かったから黙れ。いい加減煩くて頭が痛いわ」

 芹沢さんも困っているらしい。でも何故かその声から怒りは感じられなかった。いつもなら爆発してしまってるだろうに。

「ほな芹沢はん。うちのお茶、飲んでくれはるん?」
「分かった分かった。だからもう騒ぐな」
「やったぁ! さっすが芹沢はん。それに比べて新見はんは……」
「煩い! 芹沢先生はこいつに甘すぎますよ!」
「……面倒だからに決まってるだろうが」

 繰り広げられる会話は、今まで見た事も無いくらいバカバカしくて、優しかった。
 あれは本当に芹沢さんか? あの父親が娘を甘やかすような声を出しているのが、いつも周囲を恐れさせている筆頭局長と同一人物なのだとしたら、天変地異の前触れだ。

「あ、でもお茶菓子はうちが一番大きい奴やしな」
「勝手にしろ」
「だから芹沢はん好きやー」
「俺には聞かんのか?」
「新見はんには聞かんでも勝手にするし」
「何なんだよ、その扱いの差は!」

 芹沢さんだけでなく、新見さんまで手玉に取り、自由奔放に振る舞えるこの女性は一体何者なのか。とても興味を持った。

 それから半刻程経ち、中から「ほな、帰りますよって」という声が聞こえた。
 急いで門の外へと走り、屯所の前で待機する。

「また来るし、待っとってなー」

 そう叫びながら出てきたのは、年の頃なら二十代半ば位だろうか。私より少し年上の、可愛らしい女子で。想像とは全く違う見目に、思わず目を瞬いた。
 屯所の中から聞こえる新見さんの「もう来んな!」という叫び声を聞きながらクスクスと笑う姿に惹かれるものを感じて、このまま通り過ぎてしまうのが何だか嫌だと思ってしまう。だが声をかけるのも……。
 どうしようかと躊躇っているその時だった。

「危ない!」

 足元の小さな段差に彼女が躓く。咄嗟に手を出して支えると、フワリと甘い匂いがした。

「おおきに、すんまへん。うち、ほんまそそっかしゅうて」

 恥ずかしそうに舌を出して笑う顔が余りに可愛くて。思わず見惚れてしまう。

「あの……お侍はん?」
「あ、あぁ、大丈夫でしたか?」

 笑顔を訝しげな表情に変えてしまった事に慌てたが、彼女はまた直ぐに笑顔を見せてくれた。

「お陰さんで。ほな、うちは失礼します」

 ペコリと頭を下げ、何事も無かったように彼女が立ち去る。その姿を見送る内に、どうして名前を聞かなかったのかと後悔の念が湧いた。
 初めて見た彼女に、私は何故こんなに心を掻き乱されているのか。自分でも訳の分からない感情が生まれ掛けていたが、その時の私は気付いていない。

「芹沢さんの知り合いなら、きっとまた会えますよね。その時名前を聞いてみようかな」

 聞けばきっと、忘れられない名前になる。そんな確信だけがあった。

 結局その後会える機会は無く。芹沢さん達はいなくなり、彼女の記憶も次第に薄れて消えてしまったけれど。あの不思議で甘い感情は、一瞬でも確かに存在していた。

 あれは、文久三年夏。まだお互いの存在を知らなかった頃の話ーー。

~了~
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