君が紡ぐ名の下で
慶応4年(1868)3月。
新選組は甲陽鎮撫隊と改称して、甲州鎮撫せよとの幕命が下った。
「内藤隼人、か……」
今日から俺は『土方歳三』ではなく『内藤隼人』として、寄合席格の地位を与えられている。しかも姓の『内藤』は、徳川様からの賜りものだ。近藤さんも『大久保』の名を賜り、『大久保剛』として若年寄格の地位を与えられたと喜んでいる。
確かに名誉な事なんだろうけどな。正直なところ、手放しで喜べねぇ俺がいた。
「今ここにお前がいたら、俺をどう呼ぶ?」
――歳三はん
甘く優しいお前の声で、そう呼ばれるのが好きだった。
以前は特になんとも思っていなかった自分の名前を意識するようになったのも、お前に呼ばれるようになってからだ。例えそこに怒りがあったとしても、不思議と名前の部分にだけは温かみがあるように感じられて。他の誰が呼んでも……血を分けた兄弟に呼ばれたとしても、そんな風に思う事は無かった。
――隼人はん
これからの名前で紡がれる自分を想像してみる。だがやはり、釈然とはしない。
そもそも『隼人』の名は、土方家の当主が代々世襲するものだ。今回偽名が必要だという事で借り受けたが、どうも俺には不相応な気がしてならねぇ。
「偽名でいなきゃならない理由は分かっちゃいるが、馴染めねぇな」
良くも悪くも俺たちの名は売れすぎた。最近じゃあ名前だけが一人歩きしちまって、俺なんざ悪鬼羅刹の如き扱いだ。そのせいで薩長を刺激するからと、偽名を使う羽目になっちまったわけだが……
「『琴尾』には『歳三』だよな?」
そう言って、俺は懐に入れていた巾着を取り出した。中から髪飾りを取り出すと、自らの胸元を開いてそれを押し当てる。
二人きりで過ごした最後の夜に琴尾が付けた、琴尾だけの場所という証。それが消えかかる度に、俺はこの髪飾りで紅を蘇らせていた。多分端から見ると、その行動は病んでいるかもしれない。だが俺は至って冷静に、はっきりとした意志を持ってやっている。琴尾との繋がりを、決して断ち切らぬために。俺のこの腕の中が、間違いなく琴尾だけの物であるという証明をするために。
「琴尾……」
髪飾りに口付け、再び巾着の中にしまう。無機質な冷たさは俺に現実を見せるが、間違いなく琴尾が身に付けていた物であるという事実が、辛うじて俺を癒してくれていた。
「歳」
丁度襟を正したところで、近藤さんが部屋に入ってくる。呼ばれ慣れている名前にホッとしながらも、切り替えられていない事に苦笑いしてしまった。とは言え、俺も頭ん中じゃついつい『近藤さん』と呼んじまうんだがな。
「歳、じゃねぇよ。内藤隼人だ」
「ああ、そうだったな。でも今は二人だけだし、歳のままで良いだろう?」
「何だよ、大久保の名前を頂戴して喜んでたんじゃねぇのか?」
感動に咽び泣きながら『大久保剛』の名を喜んでいたはずなのに。今は少し恥ずかしそうに顔を赤らめているところを見ると、この人も違和感を感じているのだろう。
「まぁそうなんだが……未だ慣れなくてな。お前も今は元の名で呼んでくれ」
「んじゃ、『かっちゃん』か?」
「そこまで戻すのか?」
驚いて目を丸くしたが、すぐにいつもの屈託のない笑顔を見せる。それを見た俺の顔にも自然と笑みが浮かんだのだが、「ようやく笑ったな、歳」という近藤さんの言葉に「あん?」と顔をしかめてしまった。
その変化に慌てたように、近藤さんが叫ぶ。
「ああ! せっかくの笑顔が……」
心底がっくりとする近藤さんに、俺の方が慌てちまった。
「な、何だよ、俺が笑うと何かあんのか?」
「いや、その……山崎くんを見送ってからずっと、お前が塞ぎこんでいるのが気になっててな」
言いにくそうに頭を掻く近藤さんの顔は、心底俺を心配していた。
「別に俺は……ちゃんと副長としての仕事は全うしてるはずだが?」
「もちろんお前はよくやってるよ。だが俺の目は節穴じゃない。何年お前と一緒にいると思ってるんだ?」
そう言いながら、近藤さんは俺の胸の辺りを指でトントンと叩く。そこはついさっき、琴尾の印を付けた場所だった。
「あの日以来、お前は事ある毎にこの場所へと手を当てているな。気が付いていたか?ココに手を当てている時のお前は、愛おしい者を想う切ない表情をしているぞ」
言われて気付く。
何かに打ち込んでいる時は良いのだが、ふとした時に思い出してしまうのはあの愛しい温もり。だがどんなに求めても、それを感じることは出来なくて。俺は自らの体に残された、唯一の痕跡に縋るしかなかった。
新選組は甲陽鎮撫隊と改称して、甲州鎮撫せよとの幕命が下った。
「内藤隼人、か……」
今日から俺は『土方歳三』ではなく『内藤隼人』として、寄合席格の地位を与えられている。しかも姓の『内藤』は、徳川様からの賜りものだ。近藤さんも『大久保』の名を賜り、『大久保剛』として若年寄格の地位を与えられたと喜んでいる。
確かに名誉な事なんだろうけどな。正直なところ、手放しで喜べねぇ俺がいた。
「今ここにお前がいたら、俺をどう呼ぶ?」
――歳三はん
甘く優しいお前の声で、そう呼ばれるのが好きだった。
以前は特になんとも思っていなかった自分の名前を意識するようになったのも、お前に呼ばれるようになってからだ。例えそこに怒りがあったとしても、不思議と名前の部分にだけは温かみがあるように感じられて。他の誰が呼んでも……血を分けた兄弟に呼ばれたとしても、そんな風に思う事は無かった。
――隼人はん
これからの名前で紡がれる自分を想像してみる。だがやはり、釈然とはしない。
そもそも『隼人』の名は、土方家の当主が代々世襲するものだ。今回偽名が必要だという事で借り受けたが、どうも俺には不相応な気がしてならねぇ。
「偽名でいなきゃならない理由は分かっちゃいるが、馴染めねぇな」
良くも悪くも俺たちの名は売れすぎた。最近じゃあ名前だけが一人歩きしちまって、俺なんざ悪鬼羅刹の如き扱いだ。そのせいで薩長を刺激するからと、偽名を使う羽目になっちまったわけだが……
「『琴尾』には『歳三』だよな?」
そう言って、俺は懐に入れていた巾着を取り出した。中から髪飾りを取り出すと、自らの胸元を開いてそれを押し当てる。
二人きりで過ごした最後の夜に琴尾が付けた、琴尾だけの場所という証。それが消えかかる度に、俺はこの髪飾りで紅を蘇らせていた。多分端から見ると、その行動は病んでいるかもしれない。だが俺は至って冷静に、はっきりとした意志を持ってやっている。琴尾との繋がりを、決して断ち切らぬために。俺のこの腕の中が、間違いなく琴尾だけの物であるという証明をするために。
「琴尾……」
髪飾りに口付け、再び巾着の中にしまう。無機質な冷たさは俺に現実を見せるが、間違いなく琴尾が身に付けていた物であるという事実が、辛うじて俺を癒してくれていた。
「歳」
丁度襟を正したところで、近藤さんが部屋に入ってくる。呼ばれ慣れている名前にホッとしながらも、切り替えられていない事に苦笑いしてしまった。とは言え、俺も頭ん中じゃついつい『近藤さん』と呼んじまうんだがな。
「歳、じゃねぇよ。内藤隼人だ」
「ああ、そうだったな。でも今は二人だけだし、歳のままで良いだろう?」
「何だよ、大久保の名前を頂戴して喜んでたんじゃねぇのか?」
感動に咽び泣きながら『大久保剛』の名を喜んでいたはずなのに。今は少し恥ずかしそうに顔を赤らめているところを見ると、この人も違和感を感じているのだろう。
「まぁそうなんだが……未だ慣れなくてな。お前も今は元の名で呼んでくれ」
「んじゃ、『かっちゃん』か?」
「そこまで戻すのか?」
驚いて目を丸くしたが、すぐにいつもの屈託のない笑顔を見せる。それを見た俺の顔にも自然と笑みが浮かんだのだが、「ようやく笑ったな、歳」という近藤さんの言葉に「あん?」と顔をしかめてしまった。
その変化に慌てたように、近藤さんが叫ぶ。
「ああ! せっかくの笑顔が……」
心底がっくりとする近藤さんに、俺の方が慌てちまった。
「な、何だよ、俺が笑うと何かあんのか?」
「いや、その……山崎くんを見送ってからずっと、お前が塞ぎこんでいるのが気になっててな」
言いにくそうに頭を掻く近藤さんの顔は、心底俺を心配していた。
「別に俺は……ちゃんと副長としての仕事は全うしてるはずだが?」
「もちろんお前はよくやってるよ。だが俺の目は節穴じゃない。何年お前と一緒にいると思ってるんだ?」
そう言いながら、近藤さんは俺の胸の辺りを指でトントンと叩く。そこはついさっき、琴尾の印を付けた場所だった。
「あの日以来、お前は事ある毎にこの場所へと手を当てているな。気が付いていたか?ココに手を当てている時のお前は、愛おしい者を想う切ない表情をしているぞ」
言われて気付く。
何かに打ち込んでいる時は良いのだが、ふとした時に思い出してしまうのはあの愛しい温もり。だがどんなに求めても、それを感じることは出来なくて。俺は自らの体に残された、唯一の痕跡に縋るしかなかった。
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