土方慕情
やがて甲板から人がいなくなる。
だが総司は俺を気にしてか、船室に戻ろうとはしなかった。この寒さは、労咳の体に堪えるだろうに。けれども俺はそれに気付いていていながら、総司に声をかける事無く海を見つめていた。
我ながら情けない話だが、声をかける気力が無い。きっとそれが分かったのだろう。総司が言った。
「土方さん……山崎さんって一体なんだったんでしょうね」
一体何と言われても、琴尾は琴尾だ。俺にとってこの世で……いや、あの世でもきっとかけがえのない大切な女だ。
それがどうしたってんだと思いながらも、やはり答える気が起きなくて、俺は海を見つめていた。
「いつの間にか現れて、いつの間にか消えてしまって……それなのに、誰よりも印象深い。不思議な人だったなぁ」
しみじみと言う総司に、俺は仕方なくぼそりと答えてやった。
「あいつは泡沫なんだとよ」
「はい?」
言ってる意味が分からないと言いたげに俺を見る総司に、俺は苛立ちを覚えた。
何で分からないんだよ。琴尾が命懸けて俺に伝えた言葉の意味を、どうして読み取ろうとしない?
だが……そうは思いながらも俺だって実の所意味なんて分かりゃしない。俺が寂しくならないようにとの、あいつの心遣いなんだろう、くらいのもんだ。
目の前で生まれて消えゆく泡沫を見ながら、俺は眉間に皺を寄せた。
「泡沫……ですか?」
「あいつは時の中を揺蕩う泡沫だったらしい。だから……消えちまった」
そう言いながら俺は、ぐっと手を握りしめる。髪留めが突き刺さるような痛みはあったが、それすらも琴尾の生きた証だと思いたかった。
「山崎さんが……言ったんですか?」
「ああ……」
俺が肯定すると、総司はふむ、と頷く。
そして暫く何かを考えていたようだったが、何故か明るい声で海を指さしながら言った。
「じゃあ、またすぐ会えますね。だって泡沫ってあちこちで生まれてるじゃないですか。ほら、そこにもあそこにも」
手すりから乗り出すようにほらほら、と指で泡沫の場所を教えてくる総司。俺は意味が分からず総司を見た。
その時ふと気付いたのは、俺はさっきから一度も総司を見ていなかったという事。しかし今の自分は総司の方を向いてはいても、どこかぼんやりしていた。
そんな俺に苦笑いを向けながら、総司が言う。
「水のある所、山崎さんだらけですね。怖いなぁ。弾ける度に色々な突っ込みを入れられそうです。『さっさと薬を飲んで下さい!』とか『甘い物ばかり食べないで食事をしなさい!』とか」
わざとらしく肩を竦める総司を、俺はポカンと見つめていた。だがすぐにその意図が分かり、フッと小さく笑みが漏れる。
全くこいつは……自分だって琴尾に惚れてて、悲しいはずなのに。俺を気遣って、俺の気持ちを少しでも明るくしようとしてやがる。
もし琴尾がここにいたら、やはり言うのだろうか。
『沖田はんに心配かけんと、きばらなあかんえ』
ってな。俺は、総司の言葉に答えた。
「そうだな……あいつなら言いそうだ」
「でしょう? あの人怖いんですよ。可愛い顔して、やり手婆みたいに口うるさいんですから」
「……お前、直接言ったら締め上げられてたぞ」
何気に年を気にしていた琴尾を思い出し、やり手婆の言葉に苦笑いが漏れる。だが、こんなやり取りは久しぶりで、少しだけ気持ちが晴れた気がした。
俺の表情が明るくなったのだろう。総司が笑顔で言った。
「そろそろ船室に戻りましょう。さすがに体が冷え切ってしまっています。もうすぐ江戸に着くってのに、風邪でも引いてたら松本先生にどやされます」
確かに近々松本先生とは顔を合わせる。あの人は病人に厳しいからな。少しでも体調を崩していたら、面倒だ。
「……だが……」
やはり琴尾をこの海に一人きりにするのは……そう思った時だった。
「土方さんの手の中の山崎さんも、風邪をひいちゃいますよ。温かくしてあげて下さい」
という総司の言葉にハッとする。俺は手の中の巾着を見て、思わず泣きそうになった。
思い出すのは、二人きりの時を過ごした最後の夜。
「歳三はんの手って、いつも温かいんな。うちはすぐ冷えてまうよって羨ましいわ」
確かにその手を握ると氷のように冷たくて。俺が温めてやると、とても嬉しそうに目を細めた。
「歳三はんの体温を分けてもろたみたいで、なんかええな。こういうのをほんまの幸せって言うんやろか」
あの時の笑顔は忘れない。心の底から幸せそうに俺を見る琴尾は、何よりも愛おしく感じられた。
それなのに、今の俺の体はこんなに冷たくなり、手の中の琴尾までも凍り付かせている。
このままでは、ダメだ。俺は下唇をぐっと噛み締め、総司の言葉に小さく頷いた。
「……そうだな」
「あまり寝ていないんでしょう?仮眠を取っておいてくださいね。これからますます激化する戦いを、睡眠不足が原因で負けてたらかっこ悪いですから」
「分かってらぁ」
軽口に応えるように、俺はポン、と総司の頭に手を置く。
「ありがとよ」
小さくそう言うと、一度だけ海を振り返った。
その時弾けた泡沫が、俺の心に語りかける。
うちはいつでも歳三はんの側におりますえ
せやから、安心して前に進んどくれやす
愛してるから――。
永遠に。
ああ、そうだな。
俺も愛してるよ、琴尾。
心の中で語りかけると、もう振り返る事なく船室へと戻った。
お前がいつでも側にいるというなら信じよう。泡沫の弾ける音に耳を傾け。手の中にあるお前の形見と温もりを分かちあいながら。
「俺は戦い続ける。命尽き果てる最期の瞬間まで、お前と共に」
やがて、冷え切っていた体に温かみが戻った頃。俺は琴尾の巾着を手にしながら眠りに就いた。
この腕の中に、琴尾を抱く夢を見ながら――。
~了~
だが総司は俺を気にしてか、船室に戻ろうとはしなかった。この寒さは、労咳の体に堪えるだろうに。けれども俺はそれに気付いていていながら、総司に声をかける事無く海を見つめていた。
我ながら情けない話だが、声をかける気力が無い。きっとそれが分かったのだろう。総司が言った。
「土方さん……山崎さんって一体なんだったんでしょうね」
一体何と言われても、琴尾は琴尾だ。俺にとってこの世で……いや、あの世でもきっとかけがえのない大切な女だ。
それがどうしたってんだと思いながらも、やはり答える気が起きなくて、俺は海を見つめていた。
「いつの間にか現れて、いつの間にか消えてしまって……それなのに、誰よりも印象深い。不思議な人だったなぁ」
しみじみと言う総司に、俺は仕方なくぼそりと答えてやった。
「あいつは泡沫なんだとよ」
「はい?」
言ってる意味が分からないと言いたげに俺を見る総司に、俺は苛立ちを覚えた。
何で分からないんだよ。琴尾が命懸けて俺に伝えた言葉の意味を、どうして読み取ろうとしない?
だが……そうは思いながらも俺だって実の所意味なんて分かりゃしない。俺が寂しくならないようにとの、あいつの心遣いなんだろう、くらいのもんだ。
目の前で生まれて消えゆく泡沫を見ながら、俺は眉間に皺を寄せた。
「泡沫……ですか?」
「あいつは時の中を揺蕩う泡沫だったらしい。だから……消えちまった」
そう言いながら俺は、ぐっと手を握りしめる。髪留めが突き刺さるような痛みはあったが、それすらも琴尾の生きた証だと思いたかった。
「山崎さんが……言ったんですか?」
「ああ……」
俺が肯定すると、総司はふむ、と頷く。
そして暫く何かを考えていたようだったが、何故か明るい声で海を指さしながら言った。
「じゃあ、またすぐ会えますね。だって泡沫ってあちこちで生まれてるじゃないですか。ほら、そこにもあそこにも」
手すりから乗り出すようにほらほら、と指で泡沫の場所を教えてくる総司。俺は意味が分からず総司を見た。
その時ふと気付いたのは、俺はさっきから一度も総司を見ていなかったという事。しかし今の自分は総司の方を向いてはいても、どこかぼんやりしていた。
そんな俺に苦笑いを向けながら、総司が言う。
「水のある所、山崎さんだらけですね。怖いなぁ。弾ける度に色々な突っ込みを入れられそうです。『さっさと薬を飲んで下さい!』とか『甘い物ばかり食べないで食事をしなさい!』とか」
わざとらしく肩を竦める総司を、俺はポカンと見つめていた。だがすぐにその意図が分かり、フッと小さく笑みが漏れる。
全くこいつは……自分だって琴尾に惚れてて、悲しいはずなのに。俺を気遣って、俺の気持ちを少しでも明るくしようとしてやがる。
もし琴尾がここにいたら、やはり言うのだろうか。
『沖田はんに心配かけんと、きばらなあかんえ』
ってな。俺は、総司の言葉に答えた。
「そうだな……あいつなら言いそうだ」
「でしょう? あの人怖いんですよ。可愛い顔して、やり手婆みたいに口うるさいんですから」
「……お前、直接言ったら締め上げられてたぞ」
何気に年を気にしていた琴尾を思い出し、やり手婆の言葉に苦笑いが漏れる。だが、こんなやり取りは久しぶりで、少しだけ気持ちが晴れた気がした。
俺の表情が明るくなったのだろう。総司が笑顔で言った。
「そろそろ船室に戻りましょう。さすがに体が冷え切ってしまっています。もうすぐ江戸に着くってのに、風邪でも引いてたら松本先生にどやされます」
確かに近々松本先生とは顔を合わせる。あの人は病人に厳しいからな。少しでも体調を崩していたら、面倒だ。
「……だが……」
やはり琴尾をこの海に一人きりにするのは……そう思った時だった。
「土方さんの手の中の山崎さんも、風邪をひいちゃいますよ。温かくしてあげて下さい」
という総司の言葉にハッとする。俺は手の中の巾着を見て、思わず泣きそうになった。
思い出すのは、二人きりの時を過ごした最後の夜。
「歳三はんの手って、いつも温かいんな。うちはすぐ冷えてまうよって羨ましいわ」
確かにその手を握ると氷のように冷たくて。俺が温めてやると、とても嬉しそうに目を細めた。
「歳三はんの体温を分けてもろたみたいで、なんかええな。こういうのをほんまの幸せって言うんやろか」
あの時の笑顔は忘れない。心の底から幸せそうに俺を見る琴尾は、何よりも愛おしく感じられた。
それなのに、今の俺の体はこんなに冷たくなり、手の中の琴尾までも凍り付かせている。
このままでは、ダメだ。俺は下唇をぐっと噛み締め、総司の言葉に小さく頷いた。
「……そうだな」
「あまり寝ていないんでしょう?仮眠を取っておいてくださいね。これからますます激化する戦いを、睡眠不足が原因で負けてたらかっこ悪いですから」
「分かってらぁ」
軽口に応えるように、俺はポン、と総司の頭に手を置く。
「ありがとよ」
小さくそう言うと、一度だけ海を振り返った。
その時弾けた泡沫が、俺の心に語りかける。
うちはいつでも歳三はんの側におりますえ
せやから、安心して前に進んどくれやす
愛してるから――。
永遠に。
ああ、そうだな。
俺も愛してるよ、琴尾。
心の中で語りかけると、もう振り返る事なく船室へと戻った。
お前がいつでも側にいるというなら信じよう。泡沫の弾ける音に耳を傾け。手の中にあるお前の形見と温もりを分かちあいながら。
「俺は戦い続ける。命尽き果てる最期の瞬間まで、お前と共に」
やがて、冷え切っていた体に温かみが戻った頃。俺は琴尾の巾着を手にしながら眠りに就いた。
この腕の中に、琴尾を抱く夢を見ながら――。
~了~
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