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短編

「もう泣くなって」
「だって、だっでえええ……」
「あーあー、シャツにまで」
「いいのよお、今日が最後なんだがらあ……最後?最後?!ああ、今日がもう最後なんだあ……うええええん」
「だからさっきから言ってるだろ、今生の別れじゃないんだぞ」
「でも、会えなくなるのは一緒じゃない!」
「会おうと思えば会えるだろ」
「なによぞれえ、適当なごどいま言ったらごろずわようっ」
「適当じゃねえ。だからいい加減離せよ、な?」
 抱きしめられた、というよりふたつの贅肉の塊に押し潰された当の羽瀬川小鳩は、ほとんど気を失っていた。兄たる小鷹も一応助けようとはしているが、胸のふくらみに挟まれた妹を見るたび顔を赤くして逸らすので、まったく役に立ってはいなかった。
 いつものように部室のソファに足を組んで腰掛けていた夜空は、大きなため息を吐いた。
 話題以外に、部室にいつもと変わった兆候はない。小鳩がひっつかれて嫌がり、それを小鷹が止めようとして出来ず、マリアが三人の周りを跳ね回り、理科は面白そうに、幸村(いつものメイド服を身につけている)は無表情で眺めるばかり。
 卒業式の余韻に浸る気はなかったし、そもそも浸るような余韻を夜空は持ち合わせていなかったのだけれど、それでもすこしだけ、違和感が頭の端に引っかかっていた。
 3月9日。本日をもって夜空と小鷹と、おまけに星奈は聖クロニカ学園を卒業した。
「あの、夜空先輩、あれは流石に止めだほうがいいんじゃ」
「お前、あの間に入ってみるか?」
「遠慮しておきます」
「おふたりとも、お茶をどうぞ」
「ああ、ありがとうございます幸村くん」
 なのに夜空には明日も部室に自分がいるイメージを捨てられず、傍観者三人の間には、のんびりした空気すら流れはじめている。
 結果から言えば、夜空が部長を勤めあげた代の隣人部は失敗だった。友達を作るという大義名分は少なくとも卒業する三人の間には果たされず、かといって夜空が小鷹をここクロニカ学園にて見つけた日から持ち続けてきたささやかな願いも叶わなかった。もっとも、後者について言えば、4月にはふたりは同じく地元の国立大学に進学することになっているから、夜空はまだまだ諦めるつもりはなかった。なにしろいま号泣しながら小鳩にすがっている邪魔者の星奈はひとり上京することになっているのだから。
 だから、夜空は今頃、楽になった軽い気持ちで部室を眺められるはずなのに、たとえば明日来てみたところでこの空間は保たれていないであろうことにどこかでいらついている。
 温かい緑茶を一口含んでゆっくりと飲み込む。縺れ合う4人から目を離し、ゆっくりと部室を見まわしてみる。古いものの心地よく使い込まれたソファ、ところどころやたら高級感を漂わせるテレビ台まわりの電化製品、英語でない外国語のロゴが印刷されたコーヒーメーカー、黄ばんだカーテンをはためかせるやわらかな春の風。受験の追い込み期には理科も含めた三人がかりで小鷹を教えた名残の、参考書がまだ何冊か窓際に置かれている。
 名残惜しくはない、けれど心地良かったことはどうやら認めなければならないらしかった。
 なぜか戦国武将の話題で盛り上がりはじめた理科と幸村に辿り着いた視線を自分の手元に戻す。いつの間にか小鳩が解放されていたのだった。綺麗にアイロンがかかっていた袖で容赦無く顔をごしごしと拭いた星奈は布地についた色で自らの、気合を入れたのだろうナチュラルメイクがすっかりはげたついでに鼻水がついたおぞましい形相にようやく気づいたらしい。音もなく悲鳴を上げるやいなや鞄を引っ掴み部室を飛び出してゆく。
 今更見送る者もなく、夜空の後ろで理科と幸村のおしゃべりは続けられ、所在なさげにマリアがぺたりと絨毯に腰かけてテレビゲームをはじめた。目を回した小鳩をソファのもう片端に横たえた小鷹が、
「なあ、あれ追いかけたほうがいいよな」
「無駄足になるだけだ。やめておけ」
「けど、さすがに……いや、残念なことは残念な行動だったが、あれでも星奈のやつは……」
「小鷹」
「なんだ?」
「あれを見ろ」
 指差すまでもなく顎をしゃくってやる。
「ああ……」
 小鷹はゆっくりとドアに歩み寄り、腰をかがめて黒い紙筒を拾い上げた。ついでに扉を閉めてしまう。
「肉といえども、卒業証書を置き去りにはしまい。化粧直しが終われば戻ってくるだろう」
「化粧直し?」
 聞き返しながら椅子を引いて小鳩の前あたりに座る。
「そのためにわざわざ鞄を持っていったに決まっているだろう。それより小鷹、さっきの言葉の続きはなんだったんだ?」
「さっきの続きって、どれのだよ」
「『あれでも星奈のやつは……』。あれでも肉のやつが、どうしたんだ?」
「どうって……」
 口ごもる指が、汗に濡れた幼い額に張り付いた前髪を払って小鷹が妹を見るふりをしている隙に、夜空はとっくりと彼の横顔を眺めた。今でもすこし慣れない。目付きの鋭さではなくて、変わってしまったことに。
 思ってもみなかった再会を再会だと明かした日を夜空はまだすこし後悔していた。時間ばかりかかって近づけずに馴れ合いを積み上げてきた結果生まれた胸の痛みを連れてきたのもまた、あの日の告白だったから。
「どうしたんだ?」
 上履きを見つめたまま声を重ねる。
「夜空、お前機嫌悪いのか?」
 それに、星奈――柏崎星奈。
「機嫌は悪くない。お前の答えで今更悪くもしない。だから話せ。さあ、小鷹」
 彼女の入部があまりにも早い誤算のはじまりだったと夜空は思う。恥ずかしげもなく小鷹に近づき、部室中に特有の残念なエネルギーを撒き散らしてちっとも悪びれない。そうしてはためにも分かりやすく小鷹を慕う彼女を、小鷹もまた少なからず気にしている、今目の前で繰り広げられているような場面に出会うと、夜空の心は自ずと沈んだ。
 貧乏揺すりしそうになるのをかろうじてこらえ足を組み替えながら、それでも夜空は小さなため息を漏らした。
 今日、夜空はまだ星奈と会話を交わしていない。目をあわせてすらいない。卒業式の間は不可能だったし、この狭い部室でお互いを避けることも難しい。
(一言くらい、胸のすくような台詞でギャフンって言わせてやりたいな。……そうしたらさすがにすっきりするだろうし)
 やがて諦めがついたのか、小鷹が頑なに小鳩を見下ろしたまま、早口で言い切った。
「……別に大したことじゃねえよ、ただ、あいつも寂しいんだろって。なんてたって」
「卒業だから?」
「あ、ああ」
「なら、わたしは?」
「は?」
「お前はわたしが、どうだと思うんだ?」
 口にしてからもしばらく、夜空は自らの台詞の重大さに気づかなかった。眉尻を下げて、顔全体もふにゃふにゃに歪めて、情けなく鼻を啜り上げる星奈の顔を浮かべていたところだったから、ほとんど呆けていたと言ってもいい。
 談話室にいる全員が息をひそめ、ただ小鳩の間の抜けた寝息だけが響く奇妙な静けさに気づいた瞬間、まず口を開けっぱなしにした理科と目が合った。
「あのぉ、夜空先輩……いまのはちょっと、クリティカル過ぎたんじゃないかって理科は……」
 幸村もひょっこり脇から顔を出す。
「よぞらのあねき……」
「なっ、なんだお前ら。わたしがなにをしたっていうんだ?」
「えっ?なにがなにが?お兄ちゃんはなんで止まっちゃってるんだ?あははー触っても反応がないぞー。おもしろいなー!」
「うわ幼女が雰囲気をぶち壊しにしやがりました!!!」
 ここではじめて夜空が小鷹をまっすぐ見てみれば、マリアの言葉の通り小鳩の上で不自然に腕を持ち上げたまますっかり凍りついてしまっている。夜空の頬に一気に熱さがこみ上げ、勢いで立ち上がってそのまま小鷹のそばへ、肩に手をかけてこちらに振り向かせ、
「い、いい今のはそういう意味じゃないぞ?!わたしはだな、ただわたしだって、そう!小鷹がなんだと思ってるのかは知らないが、わたしだってすこしくらいは寂しいってだけ、知らしめておかないとって、ただそれだけなんだから――」
 ドアが小さな軋みをたてて開いた。
「夜空、あんた」
 西日に当たった金色の髪がきらきらと光る。ただでさえ大きな瞳を更に大きく見開き、小鷹からなにかが伝わったかのように立ち尽くす夜空へとつかつか歩み寄ってきた星奈の指先は小さく震えている。騒ぎを聞きつけてうっすら目を開けた小鳩にも構わずに夜空の腕を引き、小鷹から引き剥がした彼女は、けれどどうしてかゲームをしているときのような、にやけた表情を浮かべている。
「あんた今、『寂しい』って言った?!」
「お前のことは話していないぞ肉」
「『寂しい』、って、言・っ・た・わ・よ・ね?!」
「……ああ、はいはい。言いました。言いました。これでいいか?」
「なにか投げやりね……まあいいわ。許してあげましょう。その代わり」
 鼻息も荒く迫ってきた顔(メイクは完璧なものに戻っていた)をぐいっと離し、指を一本たててみせる星奈。
「あたしが東京に行っても、夜空、あんたあたしに今まで通りメールしなさい」
「意味がわからないんだが」
「即答?!」
 おかげで完璧に冷静になれた。
「当たり前だろう。何故わたしが一介の肉塊などとメールをしなければならないのだ」
「め、メールくらい、いいじゃないのよう」
「あのお、星奈先輩?」
 ひと通り大げさに眉を顰めてみせたり腕をぶんぶん振り回したり拗ねたように腕を組んでみたり、と星奈の一人芝居が果てしなく続きそうなところへ、理科が割って入った。
「理科にもよくわからないのですが、あの、先輩は今まで夜空先輩と特にメールしてましたっけ?」
「そんなのしたことないわよ。必要もなかったし」
「なら何故いまさらメールなんです?」
 もっともな質問に小鷹と幸村が同じタイミングで激しく頷く。年少組ふたりは首をかしげながらも早々に興味を失ったらしい。マリアもソファにのぼって小鳩と指遊びなどをはじめた。
 星奈は自信満々に胸をはっている。
「あのね、あたしってパパのことがなくとも最高のコネクションでしょう?夜空、あんたコミュニケーション能力に問題があるんだから、だったらそう、この女神のあたしが自分から、自分からよ、夜空と連絡を取り続けたいって言ってるの。それってあんたみたいなコミュ障には願ってもない好機じゃないのかしら」
「……ああ、まさに願ってもいない好機だな……」
「ちょっと意味がわからないんですけど、それなら小鷹先輩はどうなるんですか?」
「だって小鷹とはパパ同士が友達だもの、いつでも会えるじゃない。。それに比べたら夜空、あんたはほうっといたら絶対あたしと連絡しなくなる。だから、勝手にメルアドなんか変えたりしたら、あたしこっちに飛んで戻ってあんたの首を絞めてやるんだからね!」
 ふふん、と得意げに鼻を鳴らすおまけが最後についた。
「……だそうですが、夜空先輩」
「……何故わたしに振るのだ」
「いやあ、だって星奈先輩は、夜空先輩に向かってアピールしてるわけですし」
「馬鹿を言うな。あれはただ自分に酔ってるだけだろう」
「それっていつものことじゃないですか」
「いつものことだからこその無視だろうが」
「あ、なるほど。それは正しい選択ですね」
「ちょっとふたりとも?!あたしをほうってこそこそ話してるんじゃないわよっ」
 かがんで夜空に顔を寄せていた理科が小さく肩をすくめてみせる。でも、ともっと小さな声を漏らして、
「でも、星奈先輩はたぶん、本気ですよね」
「……ああ」
(それは、分かっている)
 理科に言われるまでもない。本気でなければ騒ぎ立てる必要など星奈にはなかったはずだ。だから分からない、とも夜空は思う。分からないけれど分かるような気がする。矛盾しているはずの気持ちなのに、すこしだけ心地よいのは、答えを自分が保留しているからだろうか。
 けれど、期待に満ちた瞳で見つめる視線はやはり気まずくて、星奈のほうからは一番遠い天井をしばらく見つめたあと、えいやっと目をつぶり、咳払いをし、夜空はやっと、
「いい」
「なに?!夜空いまなんか言った?!」
「メール、しても、いい」
 聞き返されるのが面倒で、区切りながらはっきりと口にした。
 星奈は黙ったままでいた。真っ直ぐな目をして腕を組みじっと夜空を見つめている。
 やがて沈黙に夜空が耐えきれなくなったころ、破顔一笑した彼女はくるりと後ろを振り向いた。ようやく解放されて肩の力を抜いた夜空をよそに弾んだ足取りでドアの前へ。そのまましゃがみ込んだ。
「ああ録音しておけばよかった、だって夜空がいいって、『いい』って、あーあ、なんで用意しとかなかったんだろう今日に限って、うん、今のうちにちゃんと脳内再生して、……うへへ、おじょうちゃんなにが『いい』のかなあ、ねえ、」
 ほんのすこしあったかもしれない余韻が派手に吹き飛ぶ音がした。
「うわあああああ!!!」
「ひゃあっ?!」
「今日はもう解散だ、解散!」
 ほうっておけばいつまでも小声で気色の悪い台詞を唱え続けそうだった星奈にたまらず夜空が声を上げる。肩を大きく跳ねさせた星奈が身体を震わせているうちに、傍観者モードに入っていた部員たちに振り返って叫ぶ。ふたたび顔に熱が上りつつあった。
「ほら、もうすぐ最終下校時刻になるだろう。お前らもさっさと帰れ!あと小鷹、お前は肉にあれ、渡してやれ、卒業証書を、な――」


 聖クロニカ学園の正門から伸びる通学路は、市内のメインストリートのひとつにもなっている。ゆるやかに坂を下る道の両端には学園創立時に植えられたらしい立派なソメイヨシノが何本も続いていた。
 今年のサクラは咲くのが早かった。そんなことを夜空が知っているのは、真っ先に進学先が決まり、ほとほと暇になった星奈が談話室でさんざん騒いでいたからだ。
(2月中には、すでに暖かかったしな)
 思いながら見上げる桜並木は季節の印象を抜きにしても確かに綺麗だった。からっと晴れた薄い水色の空と白に近いピンク色の花びらの輪郭はほとんど溶け合っているように見えるくせに色同士が混ざり合うことはなく、下に視線を向ければ、黒に近い褐色の幹が視界全体を引き締めている。潔い、と言われることもあるのはたしかにその通りで、ピンク色のくせにやたら清潔感あふれる光景でもある。
 と、その下に立つ自分すら「似合っている」かもしれないことに思い当たり、夜空は小さく舌打ちをした。いまさらセンチメンタルになぬたところでどうしようもないではないか。
 革靴を鳴らして歩く、最後になるであろう通学路。サクラになるべく意識をやるようにして、けれどやはりもうひとつの足音が気になってしまうのを止められず、仕方なく振り向かずに立ち止まって、
「……で、何故お前はわたしについてくるんだ」
「え、えっと……ついていっちゃ、だめ?」
「何故、ついてくるのかと聞いている」
「えっとお……」
 逡巡したまま自分の世界へと入ってしまった星奈に、夜空は深くため息を吐いた。ついてくるな、と一言言えばよかったのに、問い詰めてしまったせいでこうしてまだ向き合う羽目になっていることに苛々する。
(また呪いでも送ってやろう)
 もっとも反応する本人が近くにいなければ、その楽しみだって半減してしまうに決まっている。
 と、ようやく深呼吸の音がして、ちらりと見た両拳を握りしめた彼女としっかり目が合って慌てて前を向いた。
「実は!今日!まっすぐ家に帰れない用事がある、の」
「で?」
「だから、方向、こっちかなって思ったんだけど」
「どうやら間違えたようだな」
「そ、そう!間違えちゃったのよ、ねー」
「ならさっさと引き返さないか」
「へっ?!!」
「間違いがあるのならただすべきだろう」
 言いながらも、夜空はやはり立ち止まったままでいる。
 彼女自身も気づけないままの歩き出せない理由を、星奈は勿論気づけずに地団駄でも踏みそうな唸り声を上げた。
「よ、夜空のいけずぅ……」
「いけずで結構。というかお前、気づいていなかったのか?」
「なに、よう」
「わたしはお前が大っ嫌いだ。意地が悪いのも知ってのとおり。ならば茶番に付き合ってやる必要もないだろう」
 相変わらず青い空を見上げて言い切ったころには振り向かずにはいられなくなっていた。サクラの並ぶ道を背にして星奈は両膝をくっつけるようにして立ち、片手に卒業証書の入った紙筒を、もう片手に通学鞄を握りしめている。ブレザーでも相変わらず憎たらしいほど存在を主張する胸元には、未だに卒業式前に配布された赤いポピーが金色のピンで止められ、萎れるがままにされていた。
 そうして、小さく震えているのが見て取れた。ふたりの間を吹き抜ける春の風のせいではなく。
「だって」
 とうつむいたまま口を開く星奈。
「だって、夜空は自己中でドSのくせにヘタレででもドSであたしの気に触ることばっかり言ってくるしすきあらば仲間外れにしようとするし口も悪いしひどい上から目線だし意地悪だし平気な顔で嘘吐いてあたしを騙すし」
 言っているうちに2年足らずの日々を思い出しているのかヒートアップしてどんどん早口になっていく。
「すぐにあたしの弱みにつけこもうとするし善意でしてやることを無視するしそもそもせっかくあたしがあんたのレベルに合わせたてやろうとするのに拒否するしフィクションのなかとはいえあたしをレイプするし……ああ、もう!なんだかなおさらいらいらしてきたわ!」
「いらついているのはわたしのほうだ」
「えっ、なんでよ」
「説明が面倒だ」
 それより。
 肩をすくめた夜空は、密かに深く息を吸った。星奈の震えはまだこちらには伝わっていない。つまり夜空はまだ上位に立っている。
 2年足らずの日々。
 夜空は決して星奈と馴れ合ったつもりはないし、つれない態度を取ってきたことを後悔してもいなかった。上下関係を明らかにしてきたつもりでもあった(そもそも、星奈を隣人部に入部させてやったのが最大の譲歩だったと夜空は認識している)。星奈の気持ちをてのひらの上で転がして反応を見るくらいはしたけれど、その心地よさはただ夜空を刹那楽しませただけで、なにも心に残らずに去っていくものである。むきになって競いあった記憶も又然り、なにしろ、残るのはわたしなのだ、と夜空は自分に言い聞かせた。去っていくのは彼女のほうだ。だからいくら彼女が両足で地面をしっかり踏みしめていても、夜空が動揺する必要も、意味もない。
 なるだけゆっくりと、ひとつひとつの単語を重視するように、けして言葉に詰まらないように台詞を発声していく。
「なら、何故お前はわたしと……その、メールなんてしたいと思ったんだ?」
 短い沈黙のあとで星奈が顔を上げたとき、見開かれた大きな目には純粋な疑問の色が浮かべられていた。
 きょとん、と擬音がつきそうな首の傾げ方をする星奈は、いままで身体を震わせていた事実などなかったかのように正面から夜空と目を合わせ、
「さっきも言ったじゃない。黙ってたら夜空はきっとあたしと連絡しなくなるだろうから」
「わたしはお前が嫌いだと言った。お前だってわたしにはいらいらするんだろう。ならばいかなる方法でも連絡を取る意味はどこにもないと思うが」
「だって、しないと夜空は干からびちゃうじゃない」
「……は?」
 心から、夜空なりに重さをつけ足して放ったはずの言葉を彼女はいとも簡単に打ち返してみせた。
 涙を浮かべても、夜空から目を逸らしてもいない。
「目に浮かぶようだわ。夜空は大学に入ってもきっと友達を作ることなんてできやしないの。話らしい話ができる相手といったら小鷹くらいのもの、教室でも最前列に座って、それで隣には誰も来ないんだわ。成績はトップクラスでも、ノートをコピーさせて欲しい、なんて聞かれることはまったくないの。良ければ孤高の美少女だとは呼ばれるかもしれないけど、悪かったら――」
「それが、お前とメールをすることで解決されるとでも?」
「勿論よ」
 腕を組み胸を張った星奈はサクラの中の一本を見上げ、夜空から視線を逸らした。言葉の先を待つために唇に注目した夜空に見えたのは、小さく震える濡れた桃色だけだった。同じ色を限りなく薄めたようなサクラの花びらが、ときおり目の前をちらつく。金色の髪が風ではためく。どうしてか自分の前髪が気になって、指先でそっと掻き上げる。
「……分からない、な。永遠に分からないと思う」
「ええと、あんたがあたしを嫌ってるのは知ってる。あたしもあんたのことはだいっきらい」
「それは重畳だ」
「でも、あたしは夜空のこと、けっこうマシな人間だって知ってるのよ」
「マシ?」
「クラスの馬鹿な女子共に比べれば」
「比較対象が最悪だな」
「だって、間に挟むものがないんだもの」
 星奈の頬がほのかに赤らんでいるのに気づいたのは、夜空自身も謂れのない気まずさにとらわれて一枚の花びらを目で追っているときだった。白い頬は血が上るとわかりやすく色を変える。慌てて自分の顔に手を当ててみて、小さく苦笑する。
「……ばかばかしい」
「……そうね、こんなの、ばかばかしいわね」
 でもあたしはいつもとおり、あたしの正しさを確信しているわ。
 顔を夜空から背けたまま言い切る立ち姿に近づくには三歩もかからなかった。
「おい、肉」
「なによ」
「メールしてやる」
「それは、さっき約束したでしょ。この一瞬で破ったとは言わせないわよ」
「ああ」
「返事、サボるんじゃないわよ」
「ああ」
「いまの返事みたいな、適当な返信は認めないから」
「ああ」
「呪いのメールも禁止!」
「ああ」
「……ねえ、夜空」
「なんだ」
 顔が近いわ、と星奈が小さくつぶやく。生返事をして、ほとんど身体が触れんばかりの距離にまで近づくと、頬の赤みが増したのが分かった。
 それからしばらく星奈はじっとしたままだったので、夜空は手持ち無沙汰に長い髪に何枚もくっついた花びらをひとつずつ丁寧に取り除いてやった。枝毛もなにもない艶々のロングヘアを羨ましくも妬ましくも思いながら、ときどき指先で梳くと星奈がくすぐったそうに瞼をきつく閉じた。
 そしてまたほんのすこしだけ出会いの日を思い返した。完璧な姿形をしているとはそもそも知っていたし、遠慮なく他人の懐の内に近づいてしまおうとする態度、開けっぴろげで悪びれない、底抜けに明るい性格、どれも夜空にとってはやはり羨ましくも妬ましくもあったもので、そばに置いていても、全体で見れば不快なものではなかった。
 やがて、髪を梳く指は濡れはじめた目元に自然と近づいていき、星奈は瞳を大きく見開き、青い目の中で夜空の影がふたつ揺らいだ。こんなに間近で見るのは勿論はじめてだった。とてもとても長い時間、同じ空間の中にいたのに。
「あたしは、案外あんたのこと――」
 風が強く吹いた。
 条件反射で夜空は瞼を閉じ、次に目を開けたとき、目の前にあったのは輝かんばかりのはにかんだ笑顔。
 けれど聞き返しはしなかった。はじめから、どこかで結末を聞いてきたような気がしていた。
 驚くべきことに、夜空は笑っていられた。



(終)
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