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短編

 今ではめずらしくもないオートロック付きのマンションの1LDK。夏には花火も見える1201号室(最上階南向き角部屋)。
 田井中律は家賃を知らない。知りたいとも思わない。ただ、玄関ホールで部屋番号をパンチするとき、すこし緊張するだけだ。
『律』
 そして彼女の声は、いつも確信に満ちている。
『早く上がって来い。ドアの鍵は開けておくから』


 ドアを閉めた律はそのまま鍵をふたつともかけ、肩のトートバックの位置を調整してからブーツを脱いだ。玄関に入ってすぐの左手側にある、ウォークインクローゼット、ということになっている小部屋の扉を開けると、冬場の低い気温のおかげで、まだ異臭は生まれていなかった。積まれているビニール袋の中身はたいてい生ごみではないのだけれど、夏にはひどい臭いを放つこともしばしばだ。
 扉はいったん閉めて、丁寧に揃えられていたふかふかのスリッパを改めて履き、音をたてず廊下を歩く。三歩で1LDKの中心のリビングルームにつく。ちりひとつないとまでは言えないが、さっぱりと片付けられた印象を与えられる8畳は、つまり澪はただ単に外に出たくないだけなのだと律に改めて感じさせた。ゴミ出しなんてもってのほか。
 就職がうまく行かなかったわけでも、勤め先でつまづいたわけでもない。兎に角いつの間にか、律の知らないうちに澪は目に見える、もしくは触れられるかたちで外界と関わることをやめてしまい、この豪華な部屋にひとりきりで過ごすようになった。律から見える、クッションをいくつも重ねた中に体育座りする背中に垂らされた髪は相変わらずまっすぐ滝のように美しく黒々としているけれど、光を浴びてきらきら輝くことはなくなってしまった。
 その後ろ姿から目が離せないまま、しばし立ち尽くしながら律は思う。澪は、と。澪は、こいつは、さみしがりの、こわがりのくせに。ひとりの夜をどうしているのだろう?
 やがて頭を横に振って、詮無い考えを追い払った。少なくとも今夜は、律は澪の隣にいる。
「律」
 振り向いた彼女は、黒縁の眼鏡を外しながら、
「いつも悪いな。こないだのタッパー、洗っておいたから。いつもの場所にあるよ」
「悪いって思うんならたまには澪が料理してくれよな」
「生ごみが出るからいやだ」
「……あっそう」
 今更こんな応酬で気を悪くする関係でもない。律とて、気まぐれな頻度で訪れるだけだ。一ヶ月も澪を忘れていることもあれば、何日も泊まり込むこともある。再び液晶モニタに向き直った澪から視線をはずして、律はトートバックをキッチンの作業台に下ろした。ここも清潔そのもので、使われた気配もないけれど埃も溜まってはいない。
 バックから次々に取り出されるのは、日持ちのする料理がたっぷり詰め込まれたいくつものプラスチック製の密閉容器だ。唐揚げ、肉じゃが、筑前煮、きんぴらごぼう、切り干し大根。白米と混ぜ込みごはんと炊き込みご飯と三種類のおにぎり。それらを冷蔵組と冷凍組とに分けて素早く冷蔵庫に入れていく。澪のおかげで料理が上手くなったと律は自分でも思う。親には喜ばれるのできっとよかったんだろうと思っている。あの律が、と笑う弟の反応が、一番的を射ているとも思う。
 最後に空になったトートバックを持ち上げると、今度は振り向かずに澪が言う。
「買い物に行くんなら、私の財布を持っていけ。カードが使えるスーパーは知ってるな?」
「うん」
「買い物リストは中に入ってる」
「なんか食いたいもんとかあるか?」
「……特にない、かな」
「じゃあ」
「鍵も財布の中にあるから」
 それからもうひとつ、あの律が、とほんとうに驚かれることがある。
 律はもう、彼女の部屋以外では男言葉に類するものを使わない。ほんとうに。


 昼食はサーモンと小松菜のパスタ。夕食はホワイトシチューとグリル野菜のサラダを、キッチンから漂うカレーの匂いを嗅ぎながら食べた。いっぱいになったゴミ袋は律が出かけがけに何回か往復しながらマンションのゴミ捨て場に運んだ。
 小さな折りたたみテーブルの上は、ひとつのガラスのボウルとふたつずつの水の入ったコップとパンの小皿とシチュー皿でいっぱいになっているので、向かいあったふたりが食べている間、ときどき肘と肘がぶつかりあった。
 食べながら律は澪を観察する。蝋のようにつやのない肌に心は痛まないけれど、野菜を食べさせてやる方法を考える。ときどきこぼされる言葉に、すこし考えてから返事をしてやる。
 いつもじっとしたままだから、おなかはあまり空かないのだと澪は言う。だから昼食はさっぱりとしたパスタにした。夕食もその流れで洋食。大鍋に入ったシチューと圧力鍋に入ったカレーは、あとで小分けして冷凍する。明日の朝なはホテルみたいな和風の朝食を作ってやろうと律は思う。中華料理を食べさせるにはまず少なくとも澪の身体が、いや胃が三食摂ることに慣れるまで待たねばならないだろうから、一週間はかかるだろうと見積もりを立ててみる。
「律?」
「どうした」
「律はテレビとか見たいって思う?」
「うーん」
「家では食べながら見るんだよな」
「まあな」
「律が見たいんなら、買ってやってもいいんだぞ」
 確信に満ちた口調で言う。
「いらない」
「遠慮するなよ」
「だって、澪は見ないんだろ?」
「ろくな番組をやってないからな」
「なら、必要ないよ」
「そうか」
「うん」
 律がシチュー皿から顔をあげると、澪はつまらなさそうな顔をしていた。皿に落ちようとする髪を掻きあげ、半分以上残ったシチューから液体の部分だけを掬い出し、口に近づけ、もうとっくに冷めているのに息を吹きかける。自分はもうほとんど食べ終わっていた律は残しておいたフランスパンでシチュー皿を拭い、水を飲み干して皿とコップを持って立ち上がった。キッチンまで二歩。シンクに食器を下ろし水につけながら、でもこの時間は確かに面倒だと思う。澪が食べ終わるまで待つ時間。昔みたいに気軽に携帯電話をいじるのもなんとなく気が咎めたし、澪の一日中向き合っている液晶モニタに向かう気にもなれない(だいたい、彼女はそれを自分の使いいいようにチューンナップしていたので、仕事でしか触れない律には手に余る代物だった)。
 結局、律は澪を眺めて過ごすことにする。髪を掻きあげ、シチューを掬い、口に近づけ、息を吹きかける。ルーティンが繰り返され、やがていつか皿は空になる。澪は顔を上げて、戻ってきた律など見もしなかったくせに律の居場所を向いて、大きな目を微笑ませながら「ごちそうさま」と言うだろう。ごちそうさま、美味しかったよ。ふとんは敷いておくから。


「ああ、ふとんを干さなきゃ」
 なにしろ澪はベランダにすら出ないのだから。ドライヤーの音を聞きながら律はひとりつぶやいた。ヘアバンドはさすがにもう使わなくなったけれど、今でも律の髪は短いし、皿洗いよりも当然ふとんの用意のほうが早く終わるので、澪のほうが先に風呂に入るのに律はいつも待つ側にまわった。
 ベランダに天日干しすることを考える。明日は月曜日だから律はここから出勤するつもりだ。なら、取り込む人間はもういない。この家にはふとん乾燥機はあるけれど、今からでは間に合わないし、外に干すのと同じ結果が得られる機能があるとも限らない。
 ため息を吐き、この部屋で寝床から一番遠ざかれる場所に座った律はその上膝まで抱えてもっと小さくなれるように縮まる。石のように堅い敷布団、湿った匂いのする羽根布団、そろいのふたつの枕。ひとつはくたびれていて、もうひとつのほうがあきらかに高く見える。
 耳を済ますと、ドライヤーの音の中にエアコンのたてる、かすかな風音が聞こえるような気がした。かと思うとドライヤーが止められ、このときばかりはうきうきした足取りで澪がリビングに戻った。その証拠に、彼女が律に向き直ったのは横になってからだった。一度潜り込んでから、上半身だけ起こして怪訝そうにこちらをまじまじと見つめる。
「律、そんなところでなにやってるんだ?」
「別に」
「拗ねてるのか?」
「別に」
「なら、おいで」
 言ったのに反応しない律を見て、素早くふとんを剥ぎ取って澪がこちらにやってきた。
「それとも、ほんとうに拗ねちゃったのか?」
「するのはいつも澪じゃんか」
「そうじゃなくて、共同作業だと思うよ、私は。それにやっぱり拗ねてる」
「拗ねてないって言ってる」
「律」
 言い聞かせようとしているのだ、ととっさに思った。澪は言い聞かせようとしている。もしくは誘おうとしている。
「いいか、厳しいことを言うようだけれど、私は律がいなくたって十分生きていかれるんだ。私たちはそういう時代に生きてるんだ。ここに、部屋の中にいて、なんでもできる。律が自立しているのも、外に出て働いてるのも、私にごはんを作ってくれるのも、ほんとうは必要ない。それは全部、律の勝手」
「なら澪は私なんかいらないんだ」
「むしろ、逆なんだけどな」
「……どういう意味」
「いつも言ってるじゃないか。私は律にここに一緒にいて欲しい。なのに律が出て行ってしまうから、仕方なく、仕方なく待ってるだけで」
「なんだよそれ」
「愛の告白」
 ひとつ、軽いキスを額に落とされる。生乾きの髪が頬に触れる。澪がにっこり笑い、律とあたたかい指を絡めた。
 律の疑問は澪の陶酔の中に置き去りにされた。それはたしかにいつものことだった。
「しようよ、律。私は今日、律とセックスがしたいよ。だって、もう律を見ちゃったんだ。いや、律が入ってきたときから、声を聞いたときから、ずっと我慢してたんだぞ?」
 それでそういうことになった。
 勿論、ふたりともふとんに入ってから。


 翌日、律は6時に起き(自宅よりもこのマンションのほうが律の勤め先に近い)焼き鮭と卵焼きと切り干し大根の和え物と味噌汁と白米の朝食を丁寧に作り、澪を起こし、ふたりで食べた。今度は澪は食べるのが早くなっていて、それを彼女は昨夜運動したからだと笑って言った。だから律がもっと頻繁に来てくれれば私はもっと健康的になれるよ、とも。
「あ、虹」
 律が身支度を終えたころには食べ終わっていた澪に洗い物は任せて外に出ると、青空の上にうっすらと七色の橋がかかっていた。地面はうっすら濡れている。昨夜雨が降ったことに、ふたりとも気づかなかったのだ。
 今の澪がどうかは分からない。
 できることなら律はロマンチックな高校生だった澪にこの虹を見せて、彼女の書く甘ったるい歌詞を読みたいと思った。



(終)
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