短編集・その他

「先生、コーヒーです」
 マグカップを渡す。受け取りやすいように、取っ手を相手に向けて。保温のものだから、温度は淹れたときのままだ。

「ありがとう、〇〇」
 彼はにこにこと笑ってそれを受け取る。手のひらから重さが消える。

「ちょうど飲みたかったところなんだ。いただくよ」
 朝のふたりきりの診療所に、コーヒーの香りが漂っている。ひとくち飲むと、「本当においしいね。いつもありがとう」と感謝された。

 その満足そうな笑顔を見ていたら、あの四文字を伝えられるわけなくて。この穏やかな「友達」という関係を、続けたままでいたくて。
 ぬるい温度に浸り、私は、どこにも進めずに動けないままでいる。心はこんなにも熱を求めているのに。

「どうしたの?」
「あ、いえ! なんでもないです」
「そうなのかい?」
 心配してくれる顔が愛おしくて、私はその気持ちを悟られぬよう早々に診療所を後にした。

 秋の冷たい風が頬をかすめていく。歩きながら思考は乱れていく。
 私なんかが彼の隣に立つ資格はあるのだろうか。

 先生は頭がいいが、私はそこまで頭がいいわけでもないし、ましてや医療なんて手を触れたことのない分野だ。
 そこにふさわしいのは、マルさんのような立場の近い人ではないのか。一介の牧場主とは土俵が違うのではないか。
 そう考えると、あと一歩が踏み出せない。

 潮風が鼻を刺激して、私は足を止める。
 あぁ、そうだった。今日は昨日お願いし損ねたジオードを割ってもらおうと思っていたんだ。私は海に向かっていた足の向きを変えて、鍛冶屋へと歩く。



 翌日。ピエールさんから手紙が届いていた。
 新しい商品の入荷のお知らせかな? と思っていたら、どうやら花束の話らしい。住人と仲の良いことを知っていて、入荷したそうで。それを贈れば、恋人になれると。

「バ、バレてる……」
 頬が熱い。応援してくれてる人がいると思うと、少しは前向きになれるような気がする。

 水やりを終え、作物をボックスに入れて、目的地へ向かう。
「いらっしゃいませ! おや、〇〇さんじゃないですか!」
「おはようございます、ピエールさん」
 朝の九時。私は診療所ではなく、隣のピエール商店に来ていた。

 ピエールさんがにこにこっと笑って、さりげなく私の目当ての商品を手で示す。
「お手紙、見てくれましたか?」
「……はい」

「それで、お求めのものは?」
「はな……」
 言いかけて、口を閉ざした。

 本当に、私でいいのだろうか。

「……」
「おや、これではないのですか?」
 ピエールさんが商品を持ってくる。そこには、ピンク、オレンジ、スカイブルーと色とりどりの花が選ばれた花束があった。とてもきれいで、私は視線を奪われる。

「あなたのために、入荷したんです。いかがですか?」
「でも、私……彼の隣に、ふさわしくないんじゃないかなって、思って」
 伝えると、ピエールさんは「どうしてですか?」と尋ねてきた。

「あなたとハーヴィーさんの仲は、とてもよさそうに見えますよ。お似合いの二人だってみんな思っているのに」
「そんなこと、ないですよ。私は……」
 否定的な言葉しか頭に浮かばなくて、口をつぐんだ。喉の奥がぎゅっと狭くなっていて、苦しい。

「では、なぜハーヴィーさんはあなたと一緒にいてくれるのか、わかりますか?」
「それは……友達だから、でしょうか」
「大丈夫ですよ、〇〇さん」
 ピエールさんは笑う。

「ハーヴィーさんは、私によくあなたのことを話してくれるんですよ。温かいコーヒーを持ってきてくれるいい友達だって」
「えっ……」

「ね? わざわざ他人にそんな話を伝えるくらい、彼はあなたのことを好ましく思っているんですよ」
 先生は、私のことをそういう風に考えてくれているんだ。ピエールさんの言葉に、苦しい気持ちが和らいでいく。

「少し、楽になりました……」
「それで、どうですか? 購入されますか?」
「ひとつ、ください」
「まいどあり!」

 お金を払い、引き換えに花束を受け取る。想いを表現した確かな重みが両手に伝わる。
 あぁ、これを渡すのか。そう考えると緊張してきてしまった。

「頑張って! 〇〇さんならできます!」
 ピエールさんの応援に、私は頷く。
 隣の建物に向かう。後ろ手に花束を持って。



 診療所のドアを開けると、先生が受付カウンターに立っていた。

「おはよう、〇〇」
「お、おはようございます……」
 テンパっている私を置いて、先生はいつも通りにのんびりとしている。

「患者さんもいないし……少し、話すかい? ほら、隣においで」
 私は花束を見られないように変な横歩きでカウンターの中に入ったから、「今日の〇〇はなんだかカニみたいだね」なんて、笑われてしまった。

 いつもの定位置。医師と患者ではなく、友達として話すときのポジション。いざ相手を目の前にすると、どう伝えればいいのかわからなくなってしまった。
 緊張で手が震え、後ろに隠しているものがカサカサと音を立てる。

「おや、何か隠し持っているのかな? サプライズかい?」
「えっと……」
 先生は首を傾げる。微笑む顔は、ひどく愛おしい。

 今だ!

 後ろに回していた手をばっと前に出す。目の前の相手に、それを見せる。

「好きです、先生。付き合って、くれま、せん、か」

 声が震えて、すらすらと言えなかった。手も足も緊張で震えっぱなしだ。
 相手の顔が見れなくて、手の中の震える花束に目を向ける。視界がぼやけて、勝手に涙があふれ出てくる。

「ごめんなさい……」
「謝る必要はないよ」
 手に、あたたかな感触。先生が、私の手に触れている。そして、花束を受け取ってくれた。

「僕も君のことが好きだからね」
「……えっ」

 先生は、ズボンのポケットからハンカチを取り出して私に差し出した。飛行機の刺繍の入った、大人の男性が使ってもおかしくない落ち着いたデザインのハンカチだった。
 その好意に甘えて、私は涙を拭いた。呼吸も落ち着いた頃、私はハンカチを畳む。

「洗って返します」
「いいよ」
「すみません。ありがとうございます」

「その、ずっと隠していたんだけど」
 ハンカチを返すと、先生は小さな声で話し出す。

「コーヒーを朝届けてくれる君のことが気になっていたんだ。君や周りの人の話を聞いているうちに、君の頑張ってる姿が……姿、が……」

 途切れ途切れの言葉に気がついて相手を見ると、先生は顔を真っ赤にしていた。友達のときには決して見せることのなかった表情だった。

「とにかく、好きなんだ」
 眼鏡の奥の翡翠色の瞳は、熱を持ってまっすぐにこちらを見つめている。

「これから、恋人としてもよろしくね。〇〇」
「はい、先生……」

「……」
 私の返事に、先生は手を顎に当てる。

「僕の名前を呼んでくれないか?」
「え? 名前、ですか?」
「うん」

 恐る恐る相手の名前を口にする。
「えっと……ハーヴィー先生……」

「あはは、先生呼びはまだ抜けないか!」
「えっとですね、これは親しみと尊敬の含まれた呼び方でして……決して距離を置きたいとかそういうわけではなく……!」
「わかってるよ。〇〇なりの敬意なんだね。ありがとう」

 先生は微笑む。心がぎゅっとなる。私はこの人と恋人なんだって実感があまりなくて、まだ夢の中にいるのではないかと錯覚してしまう。

 夢見心地な私に、「釣りはいいのかい?」と声が降ってくる。私は意識を現実に戻す。
「そろそろスターデューバレーまつりだろう? 品評会に向けて、いい魚を釣った方がいいんじゃないかい?」
「あっ、そうですね……! 行ってきます!」
「気をつけて!」
 カウンターの中から先生が手を振る。私は笑顔で大きく手を振り返して、診療所をあとにする。



 愛しい彼女が釣りに向かったあと。

「……いつか、名前で呼んでくれる日が来るといいな」
 独り言は、診療所の静かな空気に溶けて消えていった。
2/3ページ
スキ