今剣

 ぼくは、あるじさまの仕事部屋と廊下を挟んで反対側の部屋に座っています。いわゆる大部屋というやつです。こちらの大部屋の障子は開け放たれているのに、あるじさまの部屋は閉められたままです。

 どうしてぼくが岩融と遊ぶのではなく、一人でこんなところにいるのかって? それには、ちゃんと理由があるのです。

「大将、任務達成してるぞ。資材受け取っとくか?」
「あーうん、やっといてもらっていい? ……あれ? あの書類どこだっけ……」
「これか?」
「あー! それ! さすが薬研!」
 やり取りの声がする度、ぼくは仕事部屋の障子を見つめます。

 部屋には二人いるようです。一人はあるじさま。仕事がお忙しいのか、声に疲れが混じっています。
 もう一人は、薬研藤四郎。同じ第一部隊の短刀です。

 ぼくがなぜここから動かないのか。それは、近侍の仕事が羨ましくて、嫉妬で動けないからです。

 ぼくだって近侍の務めくらいできます。
 なんで同じ部隊なのに、同じ刀種なのに、なんなら彼より足が速いのに、ぼくは近侍に選ばれないのでしょう。

「むぅ……」

 頬を膨らませたその瞬間、仕事部屋から誰か出てきてしまいました!
 ぼくは気持ちを悟られぬよう、平然とした顔でなにもなかったかのように、たまたまそちらを向いているように努めます。

「あるじさま、おしごとおわったんですか?」
「何か用か」
「って、薬研かー……」
 ぼくはがっくりと肩を落としました。

「悪いな。大将は仕事中だ。もう少しで終わりそうだから、話したいなら待っててくれ」
 薬研はそう言ってぼくの前から動こうとします。その白衣の裾を思わず掴んでしまいました。

「……今剣?」
 足を止めた薬研に、ぼくの口は本音を発してしまいます。

「うらやましいです」
「……」
「きんじ。どうして薬研だけなんですか!」

 言ってしまってから、言わなければよかったと後悔しました。相手が驚いた顔をしたからです。力なく白衣を掴む手を離します。
 どうして薬研にぶつけてしまったのでしょう。彼はなにも悪くないのに。

 薬研はこちらに向き直り、そしてぼくの悩む赤い目を見て話します。

「俺っちにもよくわからん。多分大将はそこまで考えてないと思うぞ」
「でも、あるじさまはぼくのこと、きんじにしてくれたことはあまりないです」
「そうかもしれないな。俺も昔は加州の旦那に嫉妬してたもんだ……気持ちはわかるぞ」

 藤四郎兄弟の中では年上の彼は、ぼくのこんなぐちゃぐちゃした感情を収めることなど慣れっこなのでしょう。
 しかし、その慰めはぼくには効きませんでした。

「でも、ぼくは。それでも、あるじさまと一緒にいたいんです」
「……おや?」
 薬研は顎に手を当てて考えています。やがて、眼鏡の奥の藤色の瞳が僕を見つめました。

「それは、別に近侍じゃなくてもいいんじゃねぇか?」
「え?」
「今剣は『一緒にいたい』と言ったな? っていうことは、必ずしも近侍じゃなくてもいいんじゃないのか?」
「……そうなんでしょうか」

 薬研は「瓦版、一緒に確認しにいくか?」と玄関の方に歩き出したので、ぼくもついていきました。ぼくより少し背の高い薬研、身長の差にぼくは近侍を務めるにはまだまだなんだなぁなんて思ってしまいます。

「近侍は大将が任命するものだ。そこは変えられない。なら、ほかのところで大将と一緒にいられないか探してみたらいいんじゃないか」
「でも……あるじさまはいつもいそがしそうです」

 玄関を出ます。秋の空は青く晴れ渡っていて、この素敵な風景をあるじさまにも見てほしいな、なんて思いました。

「それなら今日は、仕事が終わったら特別に教えてやるよ」
「いいんですか……!」
 郵便受けから薬研が瓦版を取り出します。新しい催し物のようです。

「でも、あるじさまがおつかれのところにとつげきするのも……どうなのかな」
 悩みを伝えると、薬研は振り返って口の端を上げます。

「まぁまぁ、やってみなくちゃわからないぜ? もしそのとき会話も難しそうだったら、俺っちが先に伝えておくから」
 そしてぼくの頭を撫でてくれました。岩融よりも小さな手。しかし、その手は確かに優しさのあふれた手でした。



 空が橙色に染まった頃。

「今剣」
 本丸にある池の魚をしゃがんで観察していたぼくに、薬研が話しかけます。こちらを見ている彼の目の下にはうっすらとクマができていました。

「大将、仕事終わったぞ」
 ぼくは嬉しさのあまり立ち上がります。

「薬研、ありがとうございます! あるじさまはつかれていませんか?」
「疲れているだろうな。急な仕事が数件入ったからな……」
「そんな……じゃあ、おはなししないほうがいいですか?」
 悲しむぼく。より疲れさせてしまうのなら、話さない方がいいのではないかと思ったのです。

 しかし、薬研は首を横に振ります。
「少し話すくらいなら大丈夫だろう。これを逃すと今日はもう機会がないぞ!」
 薬研は自らの肩越しに、立てた親指をあるじさまの仕事部屋の方に向けました。

「いってきます! 薬研、ありがとう!」
 ぼくは急いであるじさまのいる仕事部屋に向かいます。

 到着すると障子は開いていて、お茶の香りがしました。あるじさまはおせんべいを添えてそれを飲んでいるようでした。

「あるじ……さま」
 恐る恐る声をかけると、あるじさまはぼくに気づいたのか微笑んでくれました。

「今剣。なにか用かな?」
 あるじさまは笑っているけれど、顔には疲れが見えました。薬研の言っていたことは本当だったのでしょう。

「あの……おはなし、したくて」
 あるじさまはぼくを手招きします。そばに来て、とのことのようです。近くに行くと、おせんべいを一枚渡されました。

「いいんですか」
「一緒に食べよう。で、話って?」

「その、なんでもないはなしなんですが……」
 そう、ただ、あるじさまとなんでもない話をしたいだけなんです。

「いいよ。聞かせて」
 あるじさまの隣に座って、ぼくは話し出します。

「きょうのことなんですけど。にわにかきがなっていたので、岩融といっしょにたくさんとったんです」
「うんうん」

「あまくておいしくて……きっときょうのおゆうはんにでるはずです! あるじさまにも、たべてほしいなって」
「おー、たのしみにしてるね!」

 あるじさまは「今年も豊作だね」なんて言って、お茶を飲みました。
 ぼくはおせんべいをかじります。硬い醤油のおせんべい。あるじさまの好きなものです。噛みごたえ抜群です。

「おいしいです!」
「よかった。それね、ちょっと遠くの万屋で買ったんだ。お口に合ったみたいでうれしいな」

 するとあるじさまはふぅ、と息を吐きました。少し、疲れた顔。

「今剣が癒しだよー……」

 へへ、と疲れを隠して笑うあるじさまに、ぼくはどうすることもできなくて。

 ぼくがいることで、あるじさまの疲れが少しでも楽になるなら。ぼくは質問をします。

「もっといっしょにいてもいいですか?」
「もちろん」
 あるじさまの返事は、ぼくの悩みを消し飛ばしてくれました。なんだ、聞いてみればよかっただけだったんですね。

「仕事なんかやらないで、今剣といっぱい遊びたいよー……」
「おっ、やるきですか! ではこんど、ちかくのやまでおにごっこはどうですか?」
「山で鬼ごっこかー、負ける気しかしないな〜」

「えー! それではあるじさまがたのしめないでしょうか? それなら、うーん……いっしょにかきをとりましょう!」
「それいいね。じゃあ食べるの専門で」
「あるじさまもしゅうかくしましょうよー!」

 頬を膨らませるぼく。あるじさまはそんなぼくを見てくすくすと笑いました。その笑顔が見たかったんだって気づきました。ぼくもつられて笑います。

 ふたりしか知らない、秋の夕方の出来事でした。
1/1ページ
    スキ