薬研藤四郎

「ただいまぁ……」
 小さく声を出すも、返事はない。
 深夜一時。本丸は静かで、みんなはもう眠っているようだ。起こさぬようそろりそろりと廊下を歩くと、あちら側から歩いてくる人影が見えた。
「大将、お疲れさん。晩飯用意してあるぜ」
「薬研~……」
 近侍の彼はにこっと笑う。帰りを待っていてくれたことが嬉しくて、涙が出そうになるところをぐっとこらえる。
「着替えてくるね」
「ああ。温めておくよ」
 ささっと部屋着に着替え、台所に入るとピーと電子音。薬研がレンジから食事を取り出すところだった。
「やるよ」
「いや、いい。疲れてるだろ?」
 指摘されて自分が疲れていたことに気づく。それぐらい、会社で気を張っていたのだろう。瞼は一瞬で疲労に反応し、脳の回転が遅くなったのを感じた。椅子に座ると疲れという魔物が私の体全体を包み込んできた。魔物は離れない。だらしなく開いた口からは「つかれた……」と声が漏れた。
「お疲れ。ほれ、できたぞ」
「……ありがとう」
「食べな」
「いただきます……」
 口に箸で食事を運び、顎を動かして咀嚼する。味がよくわからない気がする。疲れのせいか。それでもどうにか飢えを満たすため、食べるという行為をし続けた。
 薬研は何も言わず向かいに座ってくれている。その静かな対応がありがたかった。話す気力も湧かないくらい、疲れていたから。
「ごちそうさま……」
「おう。皿洗いはやっとくから風呂入っちまいな」
 風呂。その言葉を聞いて、魔物がよりずっしりと重くなったのを感じた。
「……」
「どうした?」
「行きたくない」
「あー、疲れてるもんな。行けばさっぱりするぜ?」
「んんー……」
 渋る声を出すと、薬研は「大将」と声をかけてきた。
 差し出された黒手袋の手のひらには、透明なパッケージに包まれた球体があった。サイズは1cmくらい。うすい黄色に透き通っている。
「これ、なに」
「これはおくすりだ」
「おくすり?」
「あぁ。元気が出る魔法のおくすりだ」
 これが? こんなちっぽけなもので元気になれるのかと私は疑いの視線を向ける。薬研は「まぁまぁ」と「おくすり」を勧めてくる。
「なめるだけだ。それだけで元気が出てくるんだ。極秘るーとで手に入れたのさ。物は試し、やってみないか?」
「……それなら」
 それを受け取り、袋を開ける。なにか怪しい物質が入っていないかと電灯にかざしてみるも、見える限りでは変なものは入っていなさそうだった。むしろ、明かりを受けることできらきらと輝き、まるで宝石のように見えてきた。
 口に含むとまず感じたのは苦みではなく、甘みだった。砂糖のような優しい甘さは、私の疲れ切った脳に広がり、力の抜けた体にしみわたっていく。甘い宝石は、荒れ果てた私を穏やかな状態に導いてくれるようだった。
「おいしい……」
「そうだろ? な、この調子なら風呂行けそうか?」
「うん、行けそう。ありがとう、薬研」
 ふわふわした柔らかい黄色の雲の中にいるような気持ちだ。伝えると、彼は優しく微笑んでくれた。

 あの日、初めておくすりをもらったあの日。あの日から、薬研は残業で疲れていると私におくすりをくれるようになった。
「大将、お疲れさん」
「今日もよく頑張ったな」
「ゆっくり休むんだぞ」
 優しい言葉とともに渡されるおくすり。ぱくりと食べると、変わらぬ甘い世界が私の疲労を吹き飛ばしてくれる。いつの間にか、私はそれを仕事中に欲しいと思うようになってしまっていた。
 ある日の朝。会社へ向かう私を見送ってくれる近侍に、声をかける。
「薬研、おくすりって現世にも持っていけないかな?」
 彼は一瞬ぽかんとしたのち、「なぜだ?」と尋ねてきた。
「だって、あのおくすりがあれば残業しんどくても乗り切れそうだもん」
「本丸で俺っちがあげるのじゃだめなのかい?」
「だって……一番しんどいのは会社にいるときだから。疲れてるとこに仕事が増えるときが一番つらいの」
「そうか……」
 薬研は少し考え、そして私にあの包みを渡してきた。
「ただし、一日一個までな」
「えー」
「これが守れないのなら渡さないぞ」
「……わかった」
 私は渋々一つだけのおくすりを受け取り、スカートのポケットに入れる。「行ってきます」と本丸をあとにした。なんだか少し気になって振り返る。寂しそうな薬研の顔が、ちらりと見えた気がした。

「これ、やっといて」
 上司に書類の束を渡された。
「でも、私まだ仕事残ってて」
「ほかの人も忙しいんだ。頼む」
「……承知しました」
 上司はほかの社員にも追加の仕事を振っているようだった。
 書類を前にはぁ、とため息をつく。繁忙期だから残業があるのはわかってる。去年もそうだったから。でも、やっぱり仕事が増える瞬間はつらくなる。そして、そのあとの鎖でぐるぐる巻きにされて逃げられない未来の時間も。
 書類は漬物石のようだ。動かない、重たい、私を苦しめるもの。
 休憩を取ろうとデスクをあとにして、トイレでちょっとだけスマホを見る。メッセージアプリに本音を書きだして送信する。
「残業マジ無理……」
 定時なんてとっくのとうに過ぎ去った時刻が液晶に浮かぶ。返信はすぐに返ってきた。
「応援してるぜ大将! 燭台切の旦那の飯が待ってるぜ!」
「ううー頑張ります……」
 また一つため息をついて、帰ろうと振り向いた私の姿が鏡に映る。メイクは崩れ、疲労が見て取れる。でもほかの社員もそうだろう。仕方のないことだ。せめて髪型だけでもと手櫛で整え、髪を結びなおす。隈がしっかりとできているがコンシーラーをつける暇はない。そんな時間があったら先に仕事を片付けたい。薬研に会いたい。
 薬研? 薬研に――?
 そして、気づいた。
 私にはおくすりがあるじゃないか! そうだ、あれをなめれば仕事も楽しくできるのではないか?
 ポケットからおくすりを取り出し、口に入れる。その瞬間に広がったふわふわした甘さに、張り詰めていた脳がほどけていく。少しだけ頭の回転が悪くなったような気がした。
 しかし、そんなのは杞憂だった。なんとやる気が湧いてきたのだ。目の前の課題をこなそうという気持ちが、デスクに戻って仕事をやっつけてやるという気持ちがふつふつと浮かび上がってきたのだ。なんということだ。今までこんなに簡単なワンステップで、これほどやる気が出るだなんていうことはなかった。
「おし、やるか……」
 デスクに戻る。なんということだろう、机の上の書類がただのペラペラの軽い書類に見えてきた。私でもできそうな、そんなものに。
 パソコンのスリープを解除して一枚目の書類に手を伸ばす。

「大将、仕事は大丈夫だったか? まただいぶ遅いみたいだが」
 帰宅後、食卓でそんなことを聞かれた。いつものことだ。薬研は優しい。
「うん、大丈夫。おくすりのおかげでかなり元気になれて、終わらせられたよ。すごく幸せになれて、それで片付けられたんだ」
「そうか」
 薬研はにこ、と笑ったのち視線を泳がせた。覗かせた不安そうな表情に、私は違和感を覚える。
「薬研?」
「いや、なんでもない」
 誤魔化すように微笑まれた。こうされたら、深くは突っ込めない。私は話を変えようとする。
「それでさ、おくすりって二個持ってっちゃだめなの?」
「ああ……だめだ。二つもあると、ほら……だめって書いてあったんだ。袋に。そうなると危険だって。一日二個以上服用すると危ないおくすりなんだ」
「へぇ……わかった。気を付けるよ」
 薬研は「そうだな、大将の体になにかあっちゃ危ないからな。一つだけならあげるぞ」と言う。声は優しく、いつもの薬研だった。言い終わってから見せた表情は、いつもの薬研ではなかった。笑って話を聞いてくれる彼が見せた、珍しく戸惑いの見える顔だった。

 あれから、私はおくすりをねだることはなくなった。本丸でどうしてもというときだけ薬研からもらうことにしている。
 薬研の態度が気になったのだ。あんなに不安そうな彼を、今まで見たことがなかったから。彼を安心させたくて、現世に持ち込むようなことはやめた。すると、薬研は少しずつではあるが日に日に怪訝な表情を見せることも減っていき、いつも通りの日常が、戻ってきたような気がしていた。
 その一方で、私の中の満たされない感覚は日に日に増していった。一日一つ、かつ本丸で、どうしてもというときだけ。そのときにしかねだらなくなっていたため、おくすりを口に入れたいという願望が叶う日は少なかった。こんなにも毎日おくすりが欲しいと思っているのに、理性は正反対に私の行動を止める。あれがあれば、いつだって私は元気になれて、仕事なんかちょちょいのちょいで片付けられるし、帰ってからのお風呂だってそのあとの歯磨きだってすぐに終わらせられるのに。
 しかし、こうして我慢していれば彼の寂しそうな表情を見ることもない。それも手伝って私は我慢し続け、少しずつ、少しずつだが着実に不満を募らせていた。仕方のないことだと割り切って、見ないふりをしていた。
 おくすりがほしい。ほしい。ほしい。
 一個なんかじゃ足りない。もっとたくさん。たくさんほしい。
 そんな願いは叶うことなく、たまのあの雲の上のような甘さを虚ろな目で味わうしかなかった。
 
 繁忙期も終わり、定時に帰れるようになったある日。
 帰ろうとした私の足を引き留めたもの。それは、「新装開店セール」の字の躍る派手なポスターだった。
 帰り道には商店街があり、その一角の店舗がリニューアルしたらしい。普段寄らないお菓子のお店だが、なんとなく入ってみようと足が向いた。
 チョコレート、ビスケット、駄菓子。カラフルなパッケージに包まれたおいしそうなそれらは、おなかの空いた私の目線を掴んで離さない。明るいBGMのかかる中、店員がセールのことを伝えている。お客さんもそこそこいる。改装前とは少し違う雰囲気だ。きれいになったし、なにより買いたいという気持ちをそそられる。
 店内を見て回ると、キャンディーのコーナーについた。いろんな飴がある。カラフルなものもあれば、昔ながらののど飴まで。ふーん、と立ち去ろうとしたときにふと目についたものがあった。
 それはべっこう飴と書かれた袋だった。何の変哲もないパッケージだった。かつての私なら気にもとめないものだ。しかし、それは確かに私を立ち止まらせた。
 クリアな外袋で、中を見ると同じようなべっこう飴が私を見つめている。
 1cmの球体の、薄く黄色く透き通ったおくすりが。
 私はそれを一つ掴むと、レジに向かった。店員がバーコードをスキャンし、値段を告げる。こんなに安くていいのかと私は驚いた。興奮で力加減を誤り、出した小銭が派手な音を立てた。
 店を出て、外袋を開ける。たくさんの透き通る黄色が私を見つめる。
 ああ、やっと。
 私は周りの人に変な目で見られないよう、あくまで普通の会社員のようにして、小さな包みを開ける。親指と人差し指で球体をつまむと、それはお菓子屋の照明を受けてきらきらと透き通る。手は歓喜に震え、それを落としそうになる。
 口に含むと、おくすりと同じ甘さがじんわりと口の中に広がる。
 足取りは軽く、喜びに満ちた脳は私を駅の方へ進ませる。
 やった。やった! これでいつでも、いくつでもなめられる!
 普通を装いながら、私は上機嫌だった。口角はにんまりと上がってしまっているだろう。
 しかし駅に着いても、口に入れているものは、私の脳疲労を中和してくれそうにない。そこにあるのはだるい甘さだけで、私を雲の上に連れていってくれるような感覚はない。
 ……おかしい。薬研にもらったおくすりはこんなもんじゃなかった。
 そうだ。量が足りないんだ。もっと摂取しなくては。
 ホームでバリバリと飴を噛み砕き、次を口にする。それも噛み、次も噛み、噛み砕く。音を立てて飴を噛む女を見て、周囲の人は怪訝そうな顔をしては足早に去っていく。
 顎が疲れた。疲労は消えない。むしろ増した。私は肩を落とす。手のひらで握りしめていた包みを数えると六つあった。元の形に戻ろうとビニールの音が鳴る。これだけ食べても意味がない。
 なにをしているんだろう。
 私はべっこう飴をカバンにしまい、帰りの電車に乗り込む。ぎゅうぎゅうの満員電車。逃げ出したかった。逃げ出して、早く本丸へ帰りたかった。早く、薬研と話したかった。

 日は暮れている。暗い帰路、視界の遠くにうちの本丸の明かりが見える。疲労で速さの出ない足を、どうにか動かす。
 あと少し。そうすればみんなと――
「大将、おつかれさん」 
 本丸に戻る道の途中、誰かが迎えに来てくれていた。この声はよく知っている。うちの本丸の薬研だ。
「……大丈夫か?」
 薄明かりに照らされ、心配そうに顔を覗き込んでくる薬研に、私は言う。
「おくすり、たくさん食べてもだめだった」
 カバンからべっこう飴を取り出して見せる。薬研は目を見開いた。どうやら当たりのようだった。
「ねぇ、薬研。あなたのくれるおくすりがほしい」
 ねだってみる。
「どうしたら、あんな一粒で疲れが、取れるんだろう」
 言葉がうまく紡げない。気づけば呼吸が乱れている。
「もう、どうしたらいいのか、わかんないよ」
 ぼろぼろと出てくる涙は、一体なんのため?
「おくすりがほしい」
 薬研のくれるおくすりでないといけないんだ。
「おくすりは、飴なの?」
 あの宝石の幻想は、もうどこにも見えない。
「なんで、ああやって渡したの」
 嘘をつかれたことに対する悲しみが、じわじわと心を食む。
「だめって言われたのに、いっぱい噛んじゃった」
 決まりを破った私は、卑怯者だ。出来損ないのダメな奴だ。
「会社、行きたくない」
 労働はつらい。仕事はつらい。本音は口から飛び出てしまう。
「もう、むり」
 生きることが、つらい。もう、進めない。
「つかれちゃった」
 なんにもわからなくなって、夜空の下、私は立ち尽くす。
「大将」
 呼ばれて薬研の顔を見る。ぼやけた視界に優しい彼の顔が映っている。
「まずは本丸に行こう。それから話をするから。それでいいか?」
 頷くと、彼はニッと笑って私の荷物を持ってくれる。空いた手で私の手を引く。ただ、それに連れられて歩くしかなかった。
「ごめんなさい」
 謝る私。呼応するように、握られた手の力が、少しだけ強くなる。

 私を部屋に連れていくとき、薬研は他の男士たちに「大将は疲れてるから、また後でな」と言ってくれた。そのおかげで、私は自分の感情を落ち着かせることだけに集中することができた。
 自室に入ると、ふっと力が抜けて崩れ落ちてしまった。薬研が障子を閉める。
「大丈夫だ」
 薬研は隣にいて優しい言葉をかけ続けてくれた。
「ゆっくり息吐きな」
 言われた通りにすると、しゃくりあげていた呼吸がだいぶ収まった。
「……ごめんなさい」
「大将が謝ることはひとつもない」
「……」
 薬研はふぅ、と息を吐くと「じゃあ、ネタばらしだ」と寂しそうに笑う。
「おくすりは……べっこう飴だ。極秘るーとってのも嘘で、万屋で手に入れただけだ。一日一回までっていうのも嘘」
 なんとなく、わかっていた。消えない一つの疑問が浮かぶ。
「なんで、こんなことしたの」
「……」
 薬研は一瞬顔の動きを止めると、目を泳がせる。
「大将に、笑ってほしかったんだ」
 そして、少しだけ微笑んだ。
「ごめんな」
 薬研は言葉を続ける。
「大将が疲れているところを見て、なにか元気になるものをあげたいと思ったんだ。そのときちょうど持っていたのがべっこう飴でさ。おくすり、なんてごっこ遊びをしたら大将も喜んでくれるんじゃないかと思ったのさ」
「……」
「それが、逆に大将を泣かせちまうなんてな。俺は近侍失格だな」
 はは、と自嘲ぎみた笑い声が、薄く開いた口からこぼれ出た。
 近侍、失格。私の頭に、彼との記憶が次々に蘇る。
 残業のとき、チャットで励ましてくれたこと。私が帰るまで、ずっと待っていてくれたこと。ほかにもたくさん。
 思い出は私の口を動かす。
「そんなこと、ない」
 紡がれた否定に、近侍の視線は言葉の主に向けられる。
「薬研は、いつも私を応援してくれた。残業のときだって、そうじゃないときだって、いつだってあなたは私を支えてくれた」
「それは近侍の仕事で……」
「あなたがいてくれるから、私は仕事を頑張れてるの」
「大将……」
「あなたがいるから、つらくても生きていけるの」
「……」
「だから、どうか失格だなんて言わないで。薬研は、とっても大切な近侍だよ」
 薬研はこちらを見つめ、口を開いている。それから目を少しの間閉じて微笑むと、私を見た。
「そうか。おくすりなんてなくても、よかったんだな。俺がいれば、それでよかったのか」
 薬研はそう言って、白衣のポケットから「おくすり」を取り出す。黒い手袋の上には二つ、それが乗っている。
 きらきらの、宝石みたいな、べっこう飴。
「ほれ、これで終わりにしよう。ごっこ遊びはもうやめだ。俺も食べる。それでいいか?」
「うん。ありがとうね、薬研」
「いやいや、大将。感謝なんてしなくていいんだぜ。俺っちはただ大将を泣かせただけで……」
「でも、私を笑わせようとしてくれた」
「……まぁ、そうだな」
 最後のおくすりを受け取る。何の変哲もない、ただのべっこう飴。薬研がくれた、べっこう飴。
 二人の、秘密。
「準備はいいか?」と彼は穏やかに笑う。私も微笑みを返す。
 包みを破って、一緒に食べる。
「いただきます」
 なんとも甘い快楽が、じんわりと口の中に広がる。私は最後のおくすりを、なくなるまでじっくりと楽しみ続けた。
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