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しるし前日譚ss

太陽がのぼって、しずんで。月が夜を照らして、朝焼けが次の日を運んで。
そうやって、今日も世界は続いていきます。

ある村に羊飼いの男が住んでいました。
ちいさな村です。村人みなが顔見知りで、外からひとが訪れることもあまりありません。
羊飼いの男は彼の家族と共にのんびりと暮らしていました。
そんな村に、「それ」はたどり着きました。

雲かすみのからだに、吹けばとぶようなからっぽの知性。
人でなしの「それ」は、世界のあまり物とも言うべき存在です。何にでもなれるけれど、「それ」はなるべき姿も、己がいったい何なのかも知りません。

けれど、生まれたばかりの「それ」は、初めて目にするヒトに興味を抱きました。
かすみの肉から、四つ足の身体へ。
頭を持たないカタマリは、ヒトにそっくりの形を作り出します。
ただし、「それ」のちっぽけな脳みそでは、ヒトの思考や理性まではまねできませんでした。

ヒトのかたちを得た「それ」は、村の片隅でぼんやりと人々の営みを見つめます。
ほとんどの村の人々は「それ」に気づきませんでした。そして気づいた人も、「それ」に関わることはありませんでした。
ひとり物陰でちっとも動かず彼らを見つめる「それ」は、人でなし故に声を出す方法さえ知らないのです。ヒトが空気を吸って、吐いて、息をしていることさえ知らないのです。
そんな「それ」を見つけた人は、「それ」の存在に気づいたとしても、恐ろしくて声などかける気になりません。



「それ」に声をかけたのは、羊飼いの娘が初めてでした。

頭上に降る音に、「それ」は初めてヒトが声を発する生き物であることを知りました。それまでは周りの音とヒトの声の区別などついていなかったのです。
反射的に「それ」は娘のものまねをしました。顔の大きな穴を開いたり閉じたりすると、かすかに空気が揺れたような気がします。
けれども娘のように声を出すことができず、「それ」はぱくぱくと口を動かすことしかできません。
娘は眉を下げてころころとした声をあげました。
「それ」には娘の言葉はわかりませんでしたが、その日から毎日娘は「それ」のもとを訪ねるようになりました。



太陽がのぼって、しずんで。月が夜を照らして、朝焼けが次の日を運んで。
また太陽がのぼって、しずんで。
何度も繰り返します。

羊飼いの娘がひとつ歳を重ねるころに、「それ」は人でなしから立派なヒトへと変化していました。
今はもう、生まれた頃の「それ」とは違います。
娘とふれあううちに、言葉を覚え、考える力を身につけた「それ」は、己が何者であるかを理解しています。

世界の余剰。分配されるべきリソース。
とてつもないエネルギーの塊が肉体と自我を得たもの。「それ」は正真正銘の人でなしです。そもそも生きものと呼べるかどうかさえ、よくわかりません。
けれども、「それ」はヒトであることを望みました。ヒトになろうとしました。

「それ」は、娘に与えられた名前を名乗るようになりました。娘と一年過ごしたとしても、村では余所者の「それ」は、村人たちにに受け入れてもらうためにさまざまなことをしました。

「それ」がひとたび望めば、あらゆる空想は現実へ変わります。「それ」の持つ現象としての莫大なチカラが、空想すら真に変えてしまうのです。

ある日突然、村の子供が雪を見たいと言いました。
真夏にに雪が降りました。次の日にはきのうの一面の雪景色がウソのように、かんかんと太陽が照りつけていました。
雨が少なく作物に元気のない日が続きました。
突如乾いた土を潤す恵みの雨が降りました。そして一度潤った土は、その年の収穫の日まで乾くことがありませんでした。

現実離れした現象を目の当たりした村の人々は、「それ」の力を恐れます。「それ」がいくら人々のためと思って世界を変えても、人々は理解の及ばない「それ」を拒絶するばかりです。

「それ」は、己は決してヒトにはなれないのだと悲しみました。「それ」の愛する世界に、「それ」が属することはできないのです。「それ」の嘆きは深く、「それ」はいつの間にか村の人々の前に姿を現すことはなくなりました。


誰もが「それ」を拒絶した村の中でただひとり、羊飼いの娘だけは「それ」に寄り添い続けました。
初めは気まぐれで「それ」に声をかけた娘でしたが、いつしか「それ」に深い情を抱くようになっていました。
「それ」もまた、娘のことを大切に思っていました。「それ」が村の人々に認められたいと願ったのも、娘の愛する村を「それ」もまた愛し、そしてその輪に憧れたからなのです。



「それ」は娘と共に過ごしたいと願います。彼にすべてを与えたのは娘なのです。人々に拒まれたことで感じた悲しみさえ、娘のもたらした憧れから生じた感情です。
「それ」は娘に伝えます。できることなら、永遠に娘と共にありたいと。
娘は困ったように「それ」の願いを否定しました。


娘が言うことには、ヒトはいずれ死ぬらしいのです。

人でなしの「それ」には、信じられない話でした。
娘とふれあうことも、語らうことも二度と叶わない日が訪れるということ。
「それ」の中に初めて「死」の概念が生まれました。酷い寒気が「それ」を襲いました。「それ」は恐怖しました。
自らもまた、すべてを感じることさえ出来なくなる日が訪れるかもしれないということ。

ヒトのように振る舞い、ヒトのように生きてきた「それ」にとって『死』は、もはや他人事ではなかったのです。

「それ」にとって『死』とは、なによりも恐ろしい事象です。
「それ」が感情を、肉体を、感覚を、自我を手に入れたことは、すべて偶然の産物です。いくら「それ」がヒトではないといえ、一度『死』によって自我を失えば「それ」と同一の個体が再びこの世に成立することなどあり得ないでしょう。

なおかつ「それ」は、明確に自身が死ぬその瞬間がいつなのか、理解していました。
「それ」は空を揺蕩う世界の余剰です。未だ使われていない莫大なエネルギーそのものです。

エネルギーがすべて消費されきったときが、「それ」の永遠の終わりなのです。


「それ」は人でなしです。その存在からしてヒトではありません。
そしてヒトにもなれません。
ヒトのように誰かを愛し、孤独に苦しんだとしても、誰かのためにその身を捧げても。
「それ」が文字通り身を削ったところで、娘以外のヒトに受け入れられることはありませんでした。けれど「それ」は、いずれヒトのように死ぬでしょう。ヒトになれず、然してヒトのように死ぬ。「それ」の世界を祝福していたはずの全てが、今は「それ」を追い立てていました。




──「それ」は、人でなしです。

ヒトのように、自らの欲のためなら愛するものさえ踏みにじることができます。
「それ」は自らの願いを叶えるための計画を考えました。「それ」は自らが“とこしえに存えるため“になんだってしようと決意しました。



「それ」はやさしい声をして、娘の頬に手を伸ばします。
柔らかな髪が指先をくすぐって、娘はこそばゆい感覚に首をすくめました。
人肌のぬくもりは、「それ」に抗い難い感情を呼び起こしました。













太陽がのぼって、しずんで。月が夜を照らして、朝焼けが次の日を運んで。
突然「それ」は娘のもとを去りました。





それからまた。
太陽がのぼって、しずんで。月が夜を照らして、朝焼けが次の日を運んで。

羊飼いの男は大きなため息をつきました。
いつの間にか彼の娘の腹には子どもができていたのです。
男が娘に問い詰めても、娘は決して子どもの父親のことを話しませんでした。






太陽がのぼって、しずんで。月が夜を照らして、朝焼けが次の日を運んで。
また太陽がのぼって、しずんで。月が夜を照らして、朝焼けが次の日を運んで。
のぼって、しずんで。照らして、運んで。
のぼって、しずんで。照らして、運んで。























酒池肉林を極めたような醜悪な様相で、荘厳な祭壇に坐す少年がからからと笑っている。
趣味の悪い金細工が山のように積まれた室内は、清貧を美徳とする教義を悪辣に侮辱している。
少年に群がる狂信者たちは譫言のように彼の名前を呼んでは、自らの口から溢れたその響きに陶酔して身を震わせていた。

異様な光景に言葉も出ないのだろう。金髪の少女は乗り込んだ当初の勢いを完全に失っている。
彼女の目線がふらふらと祭壇の少年と隣の少年を行き来した。


よく似たその容貌は、なによりも雄弁に彼らの関係を物語っている。
少女は一言も発さない隣の少年の名前を思わず呟いてしまう。

「エヴァンズ……」

そのちいさな音に、祭壇の少年が嬉しそうに反応した。

「へえ! エヴァンズかあ、エマもいい名前をつけたねえ」

先ほどまで信者たちのうめき声に似た恍惚の声がこだましていた室内は、今は衣擦れの音ひとつ聞こえない。誰もが祭壇の少年に集中している。その言葉をひとつたりとも取り零さないよう、彼の一挙一動に細心の注意を向けている。

目を細めて笑う祭壇の少年が無邪気に問いかけた。


「きみが大きくなってくれてて僕も嬉しいよ。なあ、僕のために死んでくれないかい」


穢れを知らない幼子のように、無垢に、清廉に、ちっとも気兼ねなどせずに。
まるでそれが当たり前のことのように息子の死を望む父親の姿に、エヴァンズとルーシアは言葉を失うしかなかった。
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