その後
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最後の客が帰った。表の札を支度中に裏返した。
騒々しさのなくなった一人きりの店内。治はカウンターに手をついて項垂れた。
……とんでもない勘違いをしてもうた。途遥は、浮気なんかしとらんかった。俺が途遥と思っていたのは、背格好がそっくりなだけの、赤の他人やった。
トイレに歩くその姿は、まんま途遥だった。信じられるだろうか、世の中にあんなにそっくりな背中があるだなんて。いっそ途遥だと思いたいくらいだ。だが、顔が違うのは入ってきた時の印象で覚えている。途遥とは、似てもに似つかない。
決めつけた証拠の服だって、翌々考えれば説明がつく。
そうやんな。あれはしまむら、チェーン店で買った服や。背格好が一緒なんやから、同じ服を持っていてもおかしないわな。
最悪の偶然が重なった結果がこれだ。
1人で勘違いして、落ち込んで、から回って。滑稽過ぎて、空笑いした。
治の不幸は男を正面から見ることができなかったことだ。
途遥からしたら、いい迷惑やろうな。勝手に浮気したことにされて、いきなり何も言わんと連絡拒否されたんやから。
申し訳ないと思った。浮気を疑った途遥にも、浮気相手と疑った女にも、途遥と間違えた男にも。
不幸中の幸いは、途遥本人に浮気を問い詰めていないところだろうか。冤罪で喧嘩など、しなくてよかった。
治は顔を上げて大きく息を吐いた。
落ち込んでばかりもいられない。可哀想なことをしてしまった恋人に連絡をとらなければ。
久しぶりに開いた連絡先。最後の会話は治の拒絶で終わっている。文字を打つ指先が小刻みに揺れた。
付き合って初めての恋人関係の危機をこれから乗り越えなくてならない。
ビビらんでええ、直接理由を話したら途遥はきっと分かってくれる。
自分に言い聞かせて、送信ボタンを押した。
夜営業の間も、絶えず心の隅には途遥からの返信のことがあった。話す以前に、その場を設けてもらえるか心配だった。閉店直後、快諾の返事でようやく胸を撫で下ろすことができた。
心もとない電灯が照らすコンクリートの歩道を治は歩いていた。心は急いているのに、足取りは重かった。袋を持つ右手が湿っている。詫びを兼ねた手土産におにぎりを握ってきたのだ。
扉の前で体を止めた。
早く自分のマヌケな話をして、謝って、傷ついている途遥を安心させよう。
今しなければいけないことを再確認して、インターホンを押した。
「おさむ?」
ゆっくり開いた扉の隙間から途遥が覗いた。白の部屋着を着ている。風呂に入った後なのか、サラサラの髪からシャンプーがほのかに香った。
自分で拒んだくせに、久しぶりに見る途遥の顔が嬉しかった。
「おん」
「上がって。待ってね、スリッパ出すから」
途遥はドアを大きく開いて治を招き入れた。
部屋は前回来た時と何も変わらない。知り合った時の前のアパートとレイアウトはほぼ一緒だ。
おにぎりを渡すと途遥は目を大きくして喜んでくれた。
「ありがとう。今食べていい?」
「ん。夕飯何食べたん?」
「きのこうどんとひじきの煮物。ちょっと足りなくて小腹が空いてたんだ」
治と自分のマグカップにお茶をいれて、途遥はおにぎりを食べだした。
「いただきます」
行儀よく手を合わせて一口頬張った。治のおにぎりを食べるのは久々だね、と笑っている。
「しゃけだ、美味しい」
「そうか、よかったわ。4つ握ってきたけど、そんな食べられるん?」
「2つ食べるよ。残りは明日の朝頂くね」
もきゅもきゅと食べ進める途遥を治はじっと見つめた。
玄関での言い争いも覚悟していたが、途遥は何も言わずに治を家に上げた。そして本題に入る前におにぎりに食いついてしまった。
早く切り出して、解決させたい。
治の焦りとは逆に、途遥はゆっくりと幸せそうにおにぎりを食んでいる。
たっぷり時間をかけて、途遥は完食した。
「ご馳走様でした。やっぱり治が握ったおにぎりが一番だね」
いつも言ってくれていた褒め言葉を言って、お茶を飲んだ。
仕事帰りに治の店に寄ることもできなかった途遥には約1ヶ月ぶり治の手料理だった。
「……あんな、話があんねん」
「……うん。大丈夫、ちゃんと聞くよ。覚悟はできてるから」
覚悟? 覚悟を決めるんは俺やのに、……ん?
目を伏せて、眉を下げた途遥は唇を固く引き結んでテーブルの上で手を組んでいる。指が白くなるほど、力を入れていた。
まるで、俺から別れ話をされるのに身構えとるような……しもた!
あることに気づいて、声を張上げた。
「ちゃうねん! 別れに来たんやない、説明しにきたんや!」
なんで気づかんかったんや。連絡とらんかった間、俺は途遥に振られる心配ばかりしとったけど、“途遥が俺に振られる心配”をしとる可能性がすっぱ抜けとった……!
途遥は目を見開いて口をポカンと開けている。
「え……えっ? そ、そうなの? てっきり別れの話をしきにたんだと思ってたんだけど……」
目を白黒させて困惑している。
「途遥を避けてたんには理由があるんや。嘘みたいな話やけど、ホントのことやってん、聞いてや……」
治はこの前までの一件を全て話した。途遥は相槌をうちながら、余計な口を挟むことなく聞いていた。
「そういうことやから、慌てて連絡してん」
すっかり話終えると喉がカラカラだった。治はお茶を飲み干した。途遥が立ち上がって、おかわりをいれてくれた。
「そっか、そういうことだったんだね」
途遥は治の説明で落ち着きを取り戻していた。
「信じてくれるん?」
そっくりさんと間違えて浮気を疑ってました、なんて、簡単に納得できる話とは治も思えなかった。
「うん。多分その人たちのこと知ってるから、信じるよ」
「えっ!?」
治は仰天した。驚いた拍子に手がマグカップに当たり、お茶が揺れた。
「その女の人って、赤っぽいショートカットで小柄な人じゃなかった?」
「おん」
「じゃあやっぱりそうだ。その女の人、僕の会社の1つ下のフロアの人で、エレベーターでたまに一緒になるんだ」
途遥はお茶を1口含んだ。
「前に声を掛けられたことがあって、彼氏と後ろ姿がそっくりで間違えましたって、謝られた」
彼氏も近くで働いており、昼食はいつも一緒に摂っているそうだ。途遥に声をかけてきたのは、てっきり彼氏が迎えに来たのだと思ったそう。
「彼女さんが間違えるってことは、よっぽどそっくりなんだなぁってその時は思ってたけど、まさか治まで間違えちゃうとは、ビックリだよ」
途遥の話に治は体の力が抜けた。
「知ってたんなら教えてや……」
話が早くてよかった、よりも雑談の時にでも知らせてほしかった不満の方が大きかった。
「一瞬の事だったから報告しなくても大丈夫かと思って……ごめん」
「ええよ、そもそも俺が最初から途遥に聞いていれば済んだことなんやから」
ショックのあまり途遥本人への事実確認をしなかったのが大きな間違いだった。
「途遥、疑ってごめん」
治は頭を下げた。途遥の愛情を疑った事への謝罪だった。
途遥も治の気持ちは理解できる。憶測で疑われたのならまだしも、現場を見てしまったのなら思い込むのも無理は無い。
「治が勘違いしちゃったのは分かった。そこはしょうがないよ、そっくりだったんだから。けど、……何も言わずに距離を置かれたのは悲しかった」
「ほんまにすまん! 言い訳やけど、途遥にどんな顔して合えばええか、迷ってもうたんや……」
最後の方は声が小さくなってしまった。自分のことばかりで、途遥を悲しませていたことが今になって心にのしかかってきた。
「僕は、治だけが好きだよ。これからもずっと。浮気はしない」
「っ! 俺も途遥が好きや。もう疑ったりせん!」
途遥の柔らかい声に、治は縋った。キッパリ宣言した治の答えに満足したのか、途遥は優しく笑いかけた。
「いいよ、治。もう、仲直りしようか」
「する!」
誤解も解けたし、元通りや。
無意識に握りしめていた手を解いた。これでもう、この話は終わりだ。
今すぐ途遥に甘えたくなった。甘えて、離れていた空白を埋めたい。元通りを実感したい。
「な、ギューってしてええ? 仲直りのギュー、しよ」
答えを聞く前に体が動いていた。途遥も立ち上がってそれに応えた。
抱きしめた途遥の体温がじんわりと伝わってくる。温かい、自分よりは細い体。首筋に顔を埋めて、ボディソープと途遥の匂いを吸い込んだ。幸福感にクラクラする。もっと、途遥がほしい。
見えるところに痕はつけられない。首を柔く食んで、弱い力でちゅ、と何度も吸い付いた。
「ん、治」
名前を呼ばれて顔を上げた。頬に手を添えられて、熱っぽい目をした途遥と視線が合う。熱い手のひらに従って目を伏せた。
唇を押し当てる軽いキス。その先を期待して、僅かに口を開いて舌を差し出した。すかさず絡め取られて、激しく口内を荒らされる。
「ふっ……っん……はぁ」
触れ合う舌先に夢中になった。吸い上げて、歯列をなぞられる。背筋にビリビリと電流が走った。
薄目を開けた先、途遥の目がギラギラとしている。
穏やかな途遥が男らしくなるこの瞬間が好きだ。
酸欠になる前に口が離された。治は乱れた息を整えることもせず、途遥の耳に囁いた。
「途遥、俺、風呂入ってから来てん」
治の言いたいことが分かったのか、途遥は喉をならした。
「治、」
「今日は途遥の好きにしてええから」
温いを通り越して火照った体を押し付ける。話し合いが上手くいけば、この展開に持ち込むつもりでいた。連絡を送った時から、そのつもりだった。
ダメ押しとばかりに、もう一度唇に噛み付いた。効いたのか、途遥は治の腰に手を回した。
「治がいいっていうなら、そうするね」
治を押す腕の力は強くない。けれど、それには強制力があった。
明日は1日、途遥の為に空けてある。動けなくなることは見越していた。誘われるままに治は布団へ押し倒された。
─────────────────────
薄らと意識が浮上してきた。自分の近くで人が動く気配がする。カツン、カツンと軽やかな音に目を開いた。
「……おはよぉさん」
掠れた声が出た。
「おはよう。起こしちゃった?」
途遥は洗濯物を干していた。
「ううん、平気や」
瞼をこすってスマホを手に取る。11時前だった。起き上がろうとしたら腰に鈍痛が走った。昨夜は途遥のために気張りすぎてしまった。それでも後悔はない。
痛くない角度を探して、どうにか体を起こした。
「大丈夫? ごめんね、無理させちゃって」
「ええよ、明日には治るわ」
のそのそと服を着替えた。干し終わった途遥は布団を畳んでくれた。窓から降り注ぐ光が眩しい。
ふいに、一緒に生活しているような錯覚がした。昨日の感傷がまだ残っているのか。夢想していた光景が現実になった感覚に、温かいものが込み上げてきて堪らず抱きついた。
「途遥」
名前を呼べば背中に手が回された。
今が言うべき時だと思った。
「……俺、途遥と一緒暮らしたい。店も軌道に乗ってきたし、そろそろあの約束を守らんでもええんやないかって思ってん……。途遥は、どう思う?」
耳元で鼓動が鳴っている。色良い返事がほしい。息を呑んだ途遥は優しく答えた。
「……僕も、一緒に住みたい。治のいる家に帰りたい」
「っ! ほんまに?」
「うん、本当だよ。僕も考えてた」
同じ気持ちでいてくれたんや! 嬉しい。嬉しくてしゃあない。途遥の恋人は俺なんや!
散々要らない遠回りをした気がするが、結果的によかった。これが雨降って地固まるというやつだろうか。
数cm下から呻き声が聞こえた。感極まって腕に力を入れすぎたようだ。途遥が潰れている。
「はっ、すまん!」
「うぅ、だ、大丈夫」
相変わらず逞しいね、と治を褒めた。
途遥は普通体型だ。力の差は、片割れ に負けじと鍛えている治に軍配が上がる。
「一緒に住んだら、途遥も鍛えたろか?」
「そうだね、お願いしようかな」
途遥は照れくさそうに答えた。
「ふっふ、そうと決まればさっそく考えなあかんな」
「筋トレのメニューを?」
「そっちちゃうわ。家や、俺らの家」
「あ、そっか」
2人で顔を見合せて笑った。
「なぁ、一緒に昼飯作ろう。同棲の予行練習や」
「いいね。食材は冷蔵庫にいっぱいあるよ」
寄り添いながら、並んでキッチンまで歩く。治はこれが日常になる日が待ち遠しかった。
騒々しさのなくなった一人きりの店内。治はカウンターに手をついて項垂れた。
……とんでもない勘違いをしてもうた。途遥は、浮気なんかしとらんかった。俺が途遥と思っていたのは、背格好がそっくりなだけの、赤の他人やった。
トイレに歩くその姿は、まんま途遥だった。信じられるだろうか、世の中にあんなにそっくりな背中があるだなんて。いっそ途遥だと思いたいくらいだ。だが、顔が違うのは入ってきた時の印象で覚えている。途遥とは、似てもに似つかない。
決めつけた証拠の服だって、翌々考えれば説明がつく。
そうやんな。あれはしまむら、チェーン店で買った服や。背格好が一緒なんやから、同じ服を持っていてもおかしないわな。
最悪の偶然が重なった結果がこれだ。
1人で勘違いして、落ち込んで、から回って。滑稽過ぎて、空笑いした。
治の不幸は男を正面から見ることができなかったことだ。
途遥からしたら、いい迷惑やろうな。勝手に浮気したことにされて、いきなり何も言わんと連絡拒否されたんやから。
申し訳ないと思った。浮気を疑った途遥にも、浮気相手と疑った女にも、途遥と間違えた男にも。
不幸中の幸いは、途遥本人に浮気を問い詰めていないところだろうか。冤罪で喧嘩など、しなくてよかった。
治は顔を上げて大きく息を吐いた。
落ち込んでばかりもいられない。可哀想なことをしてしまった恋人に連絡をとらなければ。
久しぶりに開いた連絡先。最後の会話は治の拒絶で終わっている。文字を打つ指先が小刻みに揺れた。
付き合って初めての恋人関係の危機をこれから乗り越えなくてならない。
ビビらんでええ、直接理由を話したら途遥はきっと分かってくれる。
自分に言い聞かせて、送信ボタンを押した。
夜営業の間も、絶えず心の隅には途遥からの返信のことがあった。話す以前に、その場を設けてもらえるか心配だった。閉店直後、快諾の返事でようやく胸を撫で下ろすことができた。
心もとない電灯が照らすコンクリートの歩道を治は歩いていた。心は急いているのに、足取りは重かった。袋を持つ右手が湿っている。詫びを兼ねた手土産におにぎりを握ってきたのだ。
扉の前で体を止めた。
早く自分のマヌケな話をして、謝って、傷ついている途遥を安心させよう。
今しなければいけないことを再確認して、インターホンを押した。
「おさむ?」
ゆっくり開いた扉の隙間から途遥が覗いた。白の部屋着を着ている。風呂に入った後なのか、サラサラの髪からシャンプーがほのかに香った。
自分で拒んだくせに、久しぶりに見る途遥の顔が嬉しかった。
「おん」
「上がって。待ってね、スリッパ出すから」
途遥はドアを大きく開いて治を招き入れた。
部屋は前回来た時と何も変わらない。知り合った時の前のアパートとレイアウトはほぼ一緒だ。
おにぎりを渡すと途遥は目を大きくして喜んでくれた。
「ありがとう。今食べていい?」
「ん。夕飯何食べたん?」
「きのこうどんとひじきの煮物。ちょっと足りなくて小腹が空いてたんだ」
治と自分のマグカップにお茶をいれて、途遥はおにぎりを食べだした。
「いただきます」
行儀よく手を合わせて一口頬張った。治のおにぎりを食べるのは久々だね、と笑っている。
「しゃけだ、美味しい」
「そうか、よかったわ。4つ握ってきたけど、そんな食べられるん?」
「2つ食べるよ。残りは明日の朝頂くね」
もきゅもきゅと食べ進める途遥を治はじっと見つめた。
玄関での言い争いも覚悟していたが、途遥は何も言わずに治を家に上げた。そして本題に入る前におにぎりに食いついてしまった。
早く切り出して、解決させたい。
治の焦りとは逆に、途遥はゆっくりと幸せそうにおにぎりを食んでいる。
たっぷり時間をかけて、途遥は完食した。
「ご馳走様でした。やっぱり治が握ったおにぎりが一番だね」
いつも言ってくれていた褒め言葉を言って、お茶を飲んだ。
仕事帰りに治の店に寄ることもできなかった途遥には約1ヶ月ぶり治の手料理だった。
「……あんな、話があんねん」
「……うん。大丈夫、ちゃんと聞くよ。覚悟はできてるから」
覚悟? 覚悟を決めるんは俺やのに、……ん?
目を伏せて、眉を下げた途遥は唇を固く引き結んでテーブルの上で手を組んでいる。指が白くなるほど、力を入れていた。
まるで、俺から別れ話をされるのに身構えとるような……しもた!
あることに気づいて、声を張上げた。
「ちゃうねん! 別れに来たんやない、説明しにきたんや!」
なんで気づかんかったんや。連絡とらんかった間、俺は途遥に振られる心配ばかりしとったけど、“途遥が俺に振られる心配”をしとる可能性がすっぱ抜けとった……!
途遥は目を見開いて口をポカンと開けている。
「え……えっ? そ、そうなの? てっきり別れの話をしきにたんだと思ってたんだけど……」
目を白黒させて困惑している。
「途遥を避けてたんには理由があるんや。嘘みたいな話やけど、ホントのことやってん、聞いてや……」
治はこの前までの一件を全て話した。途遥は相槌をうちながら、余計な口を挟むことなく聞いていた。
「そういうことやから、慌てて連絡してん」
すっかり話終えると喉がカラカラだった。治はお茶を飲み干した。途遥が立ち上がって、おかわりをいれてくれた。
「そっか、そういうことだったんだね」
途遥は治の説明で落ち着きを取り戻していた。
「信じてくれるん?」
そっくりさんと間違えて浮気を疑ってました、なんて、簡単に納得できる話とは治も思えなかった。
「うん。多分その人たちのこと知ってるから、信じるよ」
「えっ!?」
治は仰天した。驚いた拍子に手がマグカップに当たり、お茶が揺れた。
「その女の人って、赤っぽいショートカットで小柄な人じゃなかった?」
「おん」
「じゃあやっぱりそうだ。その女の人、僕の会社の1つ下のフロアの人で、エレベーターでたまに一緒になるんだ」
途遥はお茶を1口含んだ。
「前に声を掛けられたことがあって、彼氏と後ろ姿がそっくりで間違えましたって、謝られた」
彼氏も近くで働いており、昼食はいつも一緒に摂っているそうだ。途遥に声をかけてきたのは、てっきり彼氏が迎えに来たのだと思ったそう。
「彼女さんが間違えるってことは、よっぽどそっくりなんだなぁってその時は思ってたけど、まさか治まで間違えちゃうとは、ビックリだよ」
途遥の話に治は体の力が抜けた。
「知ってたんなら教えてや……」
話が早くてよかった、よりも雑談の時にでも知らせてほしかった不満の方が大きかった。
「一瞬の事だったから報告しなくても大丈夫かと思って……ごめん」
「ええよ、そもそも俺が最初から途遥に聞いていれば済んだことなんやから」
ショックのあまり途遥本人への事実確認をしなかったのが大きな間違いだった。
「途遥、疑ってごめん」
治は頭を下げた。途遥の愛情を疑った事への謝罪だった。
途遥も治の気持ちは理解できる。憶測で疑われたのならまだしも、現場を見てしまったのなら思い込むのも無理は無い。
「治が勘違いしちゃったのは分かった。そこはしょうがないよ、そっくりだったんだから。けど、……何も言わずに距離を置かれたのは悲しかった」
「ほんまにすまん! 言い訳やけど、途遥にどんな顔して合えばええか、迷ってもうたんや……」
最後の方は声が小さくなってしまった。自分のことばかりで、途遥を悲しませていたことが今になって心にのしかかってきた。
「僕は、治だけが好きだよ。これからもずっと。浮気はしない」
「っ! 俺も途遥が好きや。もう疑ったりせん!」
途遥の柔らかい声に、治は縋った。キッパリ宣言した治の答えに満足したのか、途遥は優しく笑いかけた。
「いいよ、治。もう、仲直りしようか」
「する!」
誤解も解けたし、元通りや。
無意識に握りしめていた手を解いた。これでもう、この話は終わりだ。
今すぐ途遥に甘えたくなった。甘えて、離れていた空白を埋めたい。元通りを実感したい。
「な、ギューってしてええ? 仲直りのギュー、しよ」
答えを聞く前に体が動いていた。途遥も立ち上がってそれに応えた。
抱きしめた途遥の体温がじんわりと伝わってくる。温かい、自分よりは細い体。首筋に顔を埋めて、ボディソープと途遥の匂いを吸い込んだ。幸福感にクラクラする。もっと、途遥がほしい。
見えるところに痕はつけられない。首を柔く食んで、弱い力でちゅ、と何度も吸い付いた。
「ん、治」
名前を呼ばれて顔を上げた。頬に手を添えられて、熱っぽい目をした途遥と視線が合う。熱い手のひらに従って目を伏せた。
唇を押し当てる軽いキス。その先を期待して、僅かに口を開いて舌を差し出した。すかさず絡め取られて、激しく口内を荒らされる。
「ふっ……っん……はぁ」
触れ合う舌先に夢中になった。吸い上げて、歯列をなぞられる。背筋にビリビリと電流が走った。
薄目を開けた先、途遥の目がギラギラとしている。
穏やかな途遥が男らしくなるこの瞬間が好きだ。
酸欠になる前に口が離された。治は乱れた息を整えることもせず、途遥の耳に囁いた。
「途遥、俺、風呂入ってから来てん」
治の言いたいことが分かったのか、途遥は喉をならした。
「治、」
「今日は途遥の好きにしてええから」
温いを通り越して火照った体を押し付ける。話し合いが上手くいけば、この展開に持ち込むつもりでいた。連絡を送った時から、そのつもりだった。
ダメ押しとばかりに、もう一度唇に噛み付いた。効いたのか、途遥は治の腰に手を回した。
「治がいいっていうなら、そうするね」
治を押す腕の力は強くない。けれど、それには強制力があった。
明日は1日、途遥の為に空けてある。動けなくなることは見越していた。誘われるままに治は布団へ押し倒された。
─────────────────────
薄らと意識が浮上してきた。自分の近くで人が動く気配がする。カツン、カツンと軽やかな音に目を開いた。
「……おはよぉさん」
掠れた声が出た。
「おはよう。起こしちゃった?」
途遥は洗濯物を干していた。
「ううん、平気や」
瞼をこすってスマホを手に取る。11時前だった。起き上がろうとしたら腰に鈍痛が走った。昨夜は途遥のために気張りすぎてしまった。それでも後悔はない。
痛くない角度を探して、どうにか体を起こした。
「大丈夫? ごめんね、無理させちゃって」
「ええよ、明日には治るわ」
のそのそと服を着替えた。干し終わった途遥は布団を畳んでくれた。窓から降り注ぐ光が眩しい。
ふいに、一緒に生活しているような錯覚がした。昨日の感傷がまだ残っているのか。夢想していた光景が現実になった感覚に、温かいものが込み上げてきて堪らず抱きついた。
「途遥」
名前を呼べば背中に手が回された。
今が言うべき時だと思った。
「……俺、途遥と一緒暮らしたい。店も軌道に乗ってきたし、そろそろあの約束を守らんでもええんやないかって思ってん……。途遥は、どう思う?」
耳元で鼓動が鳴っている。色良い返事がほしい。息を呑んだ途遥は優しく答えた。
「……僕も、一緒に住みたい。治のいる家に帰りたい」
「っ! ほんまに?」
「うん、本当だよ。僕も考えてた」
同じ気持ちでいてくれたんや! 嬉しい。嬉しくてしゃあない。途遥の恋人は俺なんや!
散々要らない遠回りをした気がするが、結果的によかった。これが雨降って地固まるというやつだろうか。
数cm下から呻き声が聞こえた。感極まって腕に力を入れすぎたようだ。途遥が潰れている。
「はっ、すまん!」
「うぅ、だ、大丈夫」
相変わらず逞しいね、と治を褒めた。
途遥は普通体型だ。力の差は、
「一緒に住んだら、途遥も鍛えたろか?」
「そうだね、お願いしようかな」
途遥は照れくさそうに答えた。
「ふっふ、そうと決まればさっそく考えなあかんな」
「筋トレのメニューを?」
「そっちちゃうわ。家や、俺らの家」
「あ、そっか」
2人で顔を見合せて笑った。
「なぁ、一緒に昼飯作ろう。同棲の予行練習や」
「いいね。食材は冷蔵庫にいっぱいあるよ」
寄り添いながら、並んでキッチンまで歩く。治はこれが日常になる日が待ち遠しかった。
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