薄氷の落椿
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一方通行の路地を自転車につっかかりながら進んでいくと、日に焼けて薄くなった「望田音楽教室」の小さな看板が見えた。指定の駐車場に車を停め、確認した時間は19時ピッタリだった。村雨は車の中でため息をついた。
村雨礼二がなぜ就業後に音楽教室にいるのか。それは一昨日かかってきた兄からの電話のせいだった。
自宅で寛いでいる時のことだ。村雨は珍しくもない兄からの着信をとった。
「あ、礼二。今ちょっといいか?」
第一声に焦燥を感じ取り、早くも内容の検討がついた。
「他人絡みの厄介事を引き受ける気は無い」
「まだ何も言ってねぇよ。頼みがあるんだけどさぁ」
「知らんな。自分で何とかしろ」
「そんな冷たいこと言うなよ。何とかなりそうならわざわざ礼二に連絡しねぇって。とりあえず聞くだけ聞いてくれよ」
食い下がる兄に折れたのは村雨の方だった。
「……それで、要件は?」
「嫁さんがヘルニアの手術しなきゃいけなくなっちまってさ。1ヶ月くらい入院しないとだって言うんだけど、その間舞の習い事の迎えに行ってやってくれないか?」
舞、というのは兄夫婦の娘の名前だ。
「断る」
「そこをなんとか。礼二が忙しいのは分かってるんだけど、俺も今月忙しくてさぁ。礼二が無理な時は俺が行くから」
「なら毎回あなたが何とかすればいい。なぜ私がそんなことをしなくてはならない」
「社長が毎回仕事抜けるのは周りに悪いだろ。頼むよ。姪っ子が可愛くねぇのか? 礼二おじさん」
「私を足に使う気か」
「迎えだけでいいんだ。行きは同じ方向の塾に通ってる友達の車に乗っけてってもらえるからさ」
「帰りもそちらに頼め」
「時間が違うんだよ。向こうの方が長いからわざわざになっちまう。それは申し訳ないだろ」
「私への申し訳なさは無いのか」
「そこは兄弟仲良く助け合いだろ! とにかく、週2回、ヴァイオリン教室へ迎えに行ってくれ。頼む」
頼み込む声が深刻になる。わざわざ電話をかけてきたと思えば家族のことで、つくづく自分より人を優先する人間であると村雨は実感させられた。
「……はぁ、その教室はどこにあるんだ」
「マジか!! 礼二ありがとな! 」
斯くして、村雨礼二の根負けで話し合いはついた。
村雨は車から出て玄関の扉を開いた。靴を脱いでスリッパに履き替える。受付で名前を告げ、姪のいる教室を教えられた。3部屋しかない小さな個人教室のひとつに入室すると、既に帰り支度をした姪と講師の女が待ちわびていた。
「おじさん! 久しぶりー!」
元気のいい姪が突撃してきた。両親に似て明るい性格の彼女は無愛想な村雨に物怖じしない。返って村雨の方が対応に困る時もあるくらいだ。引っ付いてくる姪をそのままにして、村雨は講師に目を向けた。
「村雨さん、こんばんは」
「こんばんは」
見た事のある顔だと思った。整った顔と気品ある佇まいに見覚えがある。知り合いではなく、テレビや新聞などで間接的に知っている顔だと瞬時に思い至った。
講師は丁寧に会釈した。
「舞ちゃんの叔父さまですよね。聞き及んでいます」
「どうも」
「いつもはレッスン後、お母さまと舞ちゃんの練習についてお話しているんですが……」
伝言係までやさられるのか。
村雨は内心舌打ちをした。
「兄に伝えますので、話してください」
「分かりました。課題曲の……」
姪の現状について、講師は綿密に話をしてきた。村雨はその姿をつぶさに観察する。仕事熱心さが伺えた。村雨は素人だか、姪の技量を考慮した正しい指導だと感じた。途中、褒められた姪が村雨の傍で機嫌よく笑った。
さりげなく、女のぶら下げた名札を盗み見た。隈に縁取られた赤い目が千路霞晶の文字を捉える。村雨の脳裏に、回診先のテレビで放送されていたコンサート映像が過ぎった。
村雨礼二がなぜ就業後に音楽教室にいるのか。それは一昨日かかってきた兄からの電話のせいだった。
自宅で寛いでいる時のことだ。村雨は珍しくもない兄からの着信をとった。
「あ、礼二。今ちょっといいか?」
第一声に焦燥を感じ取り、早くも内容の検討がついた。
「他人絡みの厄介事を引き受ける気は無い」
「まだ何も言ってねぇよ。頼みがあるんだけどさぁ」
「知らんな。自分で何とかしろ」
「そんな冷たいこと言うなよ。何とかなりそうならわざわざ礼二に連絡しねぇって。とりあえず聞くだけ聞いてくれよ」
食い下がる兄に折れたのは村雨の方だった。
「……それで、要件は?」
「嫁さんがヘルニアの手術しなきゃいけなくなっちまってさ。1ヶ月くらい入院しないとだって言うんだけど、その間舞の習い事の迎えに行ってやってくれないか?」
舞、というのは兄夫婦の娘の名前だ。
「断る」
「そこをなんとか。礼二が忙しいのは分かってるんだけど、俺も今月忙しくてさぁ。礼二が無理な時は俺が行くから」
「なら毎回あなたが何とかすればいい。なぜ私がそんなことをしなくてはならない」
「社長が毎回仕事抜けるのは周りに悪いだろ。頼むよ。姪っ子が可愛くねぇのか? 礼二おじさん」
「私を足に使う気か」
「迎えだけでいいんだ。行きは同じ方向の塾に通ってる友達の車に乗っけてってもらえるからさ」
「帰りもそちらに頼め」
「時間が違うんだよ。向こうの方が長いからわざわざになっちまう。それは申し訳ないだろ」
「私への申し訳なさは無いのか」
「そこは兄弟仲良く助け合いだろ! とにかく、週2回、ヴァイオリン教室へ迎えに行ってくれ。頼む」
頼み込む声が深刻になる。わざわざ電話をかけてきたと思えば家族のことで、つくづく自分より人を優先する人間であると村雨は実感させられた。
「……はぁ、その教室はどこにあるんだ」
「マジか!! 礼二ありがとな! 」
斯くして、村雨礼二の根負けで話し合いはついた。
村雨は車から出て玄関の扉を開いた。靴を脱いでスリッパに履き替える。受付で名前を告げ、姪のいる教室を教えられた。3部屋しかない小さな個人教室のひとつに入室すると、既に帰り支度をした姪と講師の女が待ちわびていた。
「おじさん! 久しぶりー!」
元気のいい姪が突撃してきた。両親に似て明るい性格の彼女は無愛想な村雨に物怖じしない。返って村雨の方が対応に困る時もあるくらいだ。引っ付いてくる姪をそのままにして、村雨は講師に目を向けた。
「村雨さん、こんばんは」
「こんばんは」
見た事のある顔だと思った。整った顔と気品ある佇まいに見覚えがある。知り合いではなく、テレビや新聞などで間接的に知っている顔だと瞬時に思い至った。
講師は丁寧に会釈した。
「舞ちゃんの叔父さまですよね。聞き及んでいます」
「どうも」
「いつもはレッスン後、お母さまと舞ちゃんの練習についてお話しているんですが……」
伝言係までやさられるのか。
村雨は内心舌打ちをした。
「兄に伝えますので、話してください」
「分かりました。課題曲の……」
姪の現状について、講師は綿密に話をしてきた。村雨はその姿をつぶさに観察する。仕事熱心さが伺えた。村雨は素人だか、姪の技量を考慮した正しい指導だと感じた。途中、褒められた姪が村雨の傍で機嫌よく笑った。
さりげなく、女のぶら下げた名札を盗み見た。隈に縁取られた赤い目が千路霞晶の文字を捉える。村雨の脳裏に、回診先のテレビで放送されていたコンサート映像が過ぎった。
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