もしもゲーチスが良い人だったら
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
トウコがNに連れられて入った城の部屋は、驚くほど静かだった。
豪華絢爛ではあるが、上品に整えられていて何故か温かみを感じる。
そしてその中心に、現代のゲーチスがいた。
その周囲ではNが言っていた通りの、優しいゲーチスの相棒たちがいた。
サザンドラはトウコを見るや否や近づいてきた。三つの頭が嬉しそうに揺れている。
デスカーンも、ただ黙ってその場に浮き、穏やかな気配だけを漂わせていた。
当然だ。彼らもトウコを覚えているのだから。
(……本当だったんだ)
その光景に、トウコの瞳はゆるやかに震えた。
「とうさん、トウコを連れてきたよ」
Nがそう声をかけると、ゲーチスはイライラとした口調で背を向けたまま返した。
「やめなさいナチュラル!ワタクシは今立腹してます!アナタが秘密を漏らしたことで、過去のワタクシがその子と出会えなくなるって言ったでしょうが!!おかしいと思ったんです!ある日を境に急に来なくなってしまった!!」
「……トウコが困惑してるよ」
「嫌です!絶対に見たくありません!今ならまだ間に合う!お引き取りください!」
ゲーチスは子供のように意固地になって背を向けたままだ。
その様子を誤解したトウコは、やはり自分に会いたくないのだと悲観していた。
「ゲーチス……」
そのか細い言葉を聞いたゲーチスは、我を忘れ振り返り、トウコを見た。
一瞬。時が止まったように、部屋の空気が張りつめる。
トウコは胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
そこに立つのは、世界を変える以前のゲーチスと全く同じ顔の男。
ゲーチスは、言葉も出てこないほどに呆然とし、口元だけがゆっくりと緩んでいく。
長い間閉じていた何かが、唐突に開かれたように。
「トウコ……」
その声は、過去で聞いたものよりも少し低く、落ち着いている。
けれど震えは明らかだった。
「本当にあの時の姿のままで……ここに……」
ゲーチスは左の目元を押さえ、深く息を吸うと、感極まったように目を細めた。
「ワタクシの……初恋の人が……何十年も経って、このままの姿でっ……!」
「え、えぇ……?」
あまりに真っ直ぐな言葉に、トウコは思わず顔を赤くする。
だが問題はその次だった。
ゲーチスは数秒の沈黙の後、眉を寄せ、ふらつくように頭を抱えた。
「アナタを見ると胸が苦しっ……しかし年齢差がとんでもない……!いえ、それならいっそ……!」
嫌な予感がしたのはNが一番早かった。
ゲーチスは非常に真剣な表情で、トウコに向き直った。
「トウコ!どうか、過去のワタクシのところへ戻り子作りを存分に……もがっ!」
そこで物凄い速さでNがゲーチスの口を塞ぐ。
「とうさん! 生々しいってば!! トウコの前でそんなこと言わないでよ!!」
トウコは真っ赤になって固まった。
「ナチュラル! これはワタクシたち2人の問題です!」
ゲーチスはNと揉み合いになりながらも、トウコに向かって必死に言葉を投げる。
「トウコ、安心なさい! 過去のワタクシはアナタにゾッコンなので――むぐぐ!ナチュラル、離しなさい! ワタクシはトウコとの未来設計を語りた」
「トウコ! 聞かないで!」
部屋の隅でサザンドラがあくびをし、デスカーンは宙に浮かびながらため息のような音を立てていた。
そんな騒動を前に、トウコは胸の奥が温かくなり、そして安堵した。
(……やっぱり……このゲーチスも、あの過去のゲーチスなんだ)
目の前のどれだけ滑稽なやり取りも、過去のゲーチスが見せた不器用な恋心と、根っこは同じなのだから。
・・・
……結局、Nが強引に部屋から追い出され、扉が静かに閉まると、部屋の空気は一気に落ち着いた。
トウコはそっとサザンドラに近づき、その大きな体に腕をまわして抱きしめる。
柔らかな毛の感触に、胸の奥がほっとした。
「……この世界が変わってて本当に良かった……」
サザンドラの胸元に顔を埋めたまま、ぽつりと呟く。
その声は涙ぐんでいるようにも聞こえた。
ゲーチスはその姿を見つめ、表情を緩ませる。
さっきまでの取り乱した様子が嘘のように、深い安堵の色に満ちていた。
「ワタクシは元より想定していましたがね。同じ世界だと。でなければセレビィがときわたりポケモンなどと分類されないでしょう?」
「え……」
言われてみればそうだ。
「……過去のゲーチスも分かってたの……?」
「当然です。N……ナチュラルがメッセンジャーだと聞いて、おかしいと。未来のワタクシを想像し……アナタに嘘の情報を流すことぐらいはすると思ったのです」
「な……!なんでそんなことする必要が……?」
「ワタクシが改心したと知ったら、もう過去に行く必要が無い…つまりアナタが来なくなると考えたからです」
「来なくならないよ!もう……!本当に辛かったんだから……!」
ゲーチスは申し訳無さそうに背を向けた。
「結局、今のワタクシも非常に利己的なのです。なのでアナタに合わせる顔がない」
「そんなこと……っ」
トウコは涙を流していた。サザンドラが慌ててそれを自身の毛で拭ってくれる。
「じゃあゲーチスは……覚えてるんだね、全部」
「ええ、忘れないようにしっかりと」
ゲーチスはそっと机の引き出しへ手を伸ばした。
引き出しから、古びた木箱が取り出された。
ゲーチスがまるで宝物のように扱うその箱を開けると、中には色褪せたノートの数ページと、一本のペンが丁寧にしまわれていた。
「それ……!私が過去に行った時にあげた……!」
「大切な情報ですからね。他山の石としての」
ゲーチスは指先でノートの紙をそっと持ち上げる。
そこには、細かい文字でびっしりと文章が綴られていた。
初めの方は乱雑で読みにくい字であったが、ページが重なるにつれ、どんどん文字は上達している。
トウコのこと。彼女と話した内容。彼女が語った“未来のゲーチス”の姿。
自分がどうあるらしいか、が……細かく書き込まれていた。
「まったく……セレビィというのは、実に厄介な存在ですね」
ゲーチスは肩をすくめ、わずかに苦笑した。
「ほ、他にも覚えてる…?その…初めての…こととか……」
トウコがためらいがちに顔を上げて尋ねると、ゲーチスは微笑というより、息を呑んでこらえた幸福のような表情になった。
「……忘れるわけないでしょう」
静かで、強い断言だった。
ゲーチスは少し視線を落としながら続ける。
「当時ワタクシは毎日、アナタが来てくれるのを願っていました。姿が見えず、急に来なくなった時など……心配で眠れない夜もありましたよ」
その声音には、確かに不器用な過去のゲーチスの面影があった。
トウコは胸が温かくなり、そっと小さく笑った。
「……若い頃もカッコよかったけど、今も……すごく素敵だよ」
その言葉は照れではなく、純粋な気持ち。
ゲーチスはそれにわずかに肩を揺らし、ほんの僅かだけ顔をそむける。
「……あまり話しすぎると……ワタクシも歯止めが効かなくなりますが。やはりこんな中年に言い寄られてはあまりいい気はしないでしょう」
トウコは首を横に振った。
「過去のゲーチスに言われたんだ。もし未来の自分がわたしを求めたら……その……応えてあげてって」
「……覚えてますとも。まさか過去の自分自身に感謝する日が来るとは」
・・・
扉の外で、Nは意地でも内部の話し声に聞き耳を立てていた。
「参ったな……これ、完全に良いムードだ……」
Nの複雑な心境は未だ顕在だった。
当然だ。過程にいかに感動的なドラマがあろうが、父親が自分より年下の子に惚れている事実は変わらない。
しかしNは不意に、幼少期のことを思い出した。
・・・
夕暮れの赤い光が廊下を染める頃、幼いNはそっとゲーチスのローブの裾をつまんだ。
「とうさん。ひとつ、聞いてもいい?」
ゲーチスは足を止め、振り返る。
幼い瞳は、曇りも不満もなく、ただ真っすぐだった。
「どうしました?」
Nは小さな声で問いかける。
「どうしてボクには、かあさんがいないの?」
その一言に、ゲーチスの胸がかすかに波立つ。
彼は短く息をつき、Nの隣にしゃがみ込んだ。
穏やかに、しかしどこか申し訳なさそうな声音で話し始める。
「……バーベナやヘレナでは、不満ですか?」
Nはきょとんとした。
「え?ちがうよ。二人はお姉ちゃんみたいな感じで優しいし、ちゃんとボクのこと見てくれる。ただみんなにはかあさんがいるから、なんでボクにはいないのかなって思っただけ」
そう言ってNは少し照れくさそうに笑う。
その表情に、ゲーチスの肩の力がわずかに抜けた。
決して寂しいわけではない……ただ純粋な好奇心。
それでも、心のどこかが痛んだ。
自分が彼に真実を完全に語れないことが。
ゲーチスはそっとNの頭に手を置いた。
「何かがもし、もう少し変わっていたなら……アナタの母代わりになってくれる方はいましたよ」
「えっ?ホント!?」
Nの瞳が大きく開く。
ゲーチスは遠くを見るように視線をそらし、しかし言葉にはどこか慈しみの色があった。
「とても強く、優しい人でした。アナタのことをきっと大切にしたでしょう」
「とうさん、その人のこと好きだったの?」
小さな問い。
幼いからこそのまっすぐさ。
“好きだった”などと、軽々しく言えない。
彼の中では、その感情はもっと複雑で、深く、苦く、そして温かかった。
しかし、嘘だけはつきたくなかった。
「……ええ。ワタクシはその人を大切に想っていました」
Nはうれしそうに、けれど少し不思議そうに首をかしげる。
「じゃあどうしていないの?」
ゲーチスは穏やかに目を細めた。
「……時というのは、残酷ですよ。出会いたい時に出会えない」
幼いNには小難しい言葉。
けれど、その声には確かな想いが宿っていた。
「その人と過ごした記憶はワタクシの中に消えずに残っています……でもアナタがいつかその人と会ったら、どうか大切にしてください」
「……そっか」
Nはゆっくり笑い、ゲーチスの手を握った。
「とうさんがそう言うなら……それでいいよ!」
その笑顔に、ゲーチスは思わず小さく目を伏せる。
言えないことはまだ多い。
名前も、顔も…けれど――いつか、時が満ちたら。
その人の名を、この子に伝える日が来るのだろうか。
ゲーチスは立ち上がり、Nの肩に手を添えた。
「さぁ、戻りましょう。夕食の時間ですよ」
「うん!」
夕陽色の廊下を並んで歩く二人の影は、柔らかく寄り添っていた。
・・・
そんな記憶。
その瞬間、過去の記憶の欠片が静かに噛み合った。
長いあいだ説明のつかない違和感として彼を悩ませていたものが、今ようやく形を持ったのだ。
Nはそっと、自分の中に収まっていく霧が晴れるかのような感覚にうなずいた。
あれはそういうことだったのかと、ようやく理解できたのだ。
「……ああ、そうか。トウコがボクの……かあさんか……」
Nはキャップを被り直すと、ただクールに自室に戻るのであった。
豪華絢爛ではあるが、上品に整えられていて何故か温かみを感じる。
そしてその中心に、現代のゲーチスがいた。
その周囲ではNが言っていた通りの、優しいゲーチスの相棒たちがいた。
サザンドラはトウコを見るや否や近づいてきた。三つの頭が嬉しそうに揺れている。
デスカーンも、ただ黙ってその場に浮き、穏やかな気配だけを漂わせていた。
当然だ。彼らもトウコを覚えているのだから。
(……本当だったんだ)
その光景に、トウコの瞳はゆるやかに震えた。
「とうさん、トウコを連れてきたよ」
Nがそう声をかけると、ゲーチスはイライラとした口調で背を向けたまま返した。
「やめなさいナチュラル!ワタクシは今立腹してます!アナタが秘密を漏らしたことで、過去のワタクシがその子と出会えなくなるって言ったでしょうが!!おかしいと思ったんです!ある日を境に急に来なくなってしまった!!」
「……トウコが困惑してるよ」
「嫌です!絶対に見たくありません!今ならまだ間に合う!お引き取りください!」
ゲーチスは子供のように意固地になって背を向けたままだ。
その様子を誤解したトウコは、やはり自分に会いたくないのだと悲観していた。
「ゲーチス……」
そのか細い言葉を聞いたゲーチスは、我を忘れ振り返り、トウコを見た。
一瞬。時が止まったように、部屋の空気が張りつめる。
トウコは胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
そこに立つのは、世界を変える以前のゲーチスと全く同じ顔の男。
ゲーチスは、言葉も出てこないほどに呆然とし、口元だけがゆっくりと緩んでいく。
長い間閉じていた何かが、唐突に開かれたように。
「トウコ……」
その声は、過去で聞いたものよりも少し低く、落ち着いている。
けれど震えは明らかだった。
「本当にあの時の姿のままで……ここに……」
ゲーチスは左の目元を押さえ、深く息を吸うと、感極まったように目を細めた。
「ワタクシの……初恋の人が……何十年も経って、このままの姿でっ……!」
「え、えぇ……?」
あまりに真っ直ぐな言葉に、トウコは思わず顔を赤くする。
だが問題はその次だった。
ゲーチスは数秒の沈黙の後、眉を寄せ、ふらつくように頭を抱えた。
「アナタを見ると胸が苦しっ……しかし年齢差がとんでもない……!いえ、それならいっそ……!」
嫌な予感がしたのはNが一番早かった。
ゲーチスは非常に真剣な表情で、トウコに向き直った。
「トウコ!どうか、過去のワタクシのところへ戻り子作りを存分に……もがっ!」
そこで物凄い速さでNがゲーチスの口を塞ぐ。
「とうさん! 生々しいってば!! トウコの前でそんなこと言わないでよ!!」
トウコは真っ赤になって固まった。
「ナチュラル! これはワタクシたち2人の問題です!」
ゲーチスはNと揉み合いになりながらも、トウコに向かって必死に言葉を投げる。
「トウコ、安心なさい! 過去のワタクシはアナタにゾッコンなので――むぐぐ!ナチュラル、離しなさい! ワタクシはトウコとの未来設計を語りた」
「トウコ! 聞かないで!」
部屋の隅でサザンドラがあくびをし、デスカーンは宙に浮かびながらため息のような音を立てていた。
そんな騒動を前に、トウコは胸の奥が温かくなり、そして安堵した。
(……やっぱり……このゲーチスも、あの過去のゲーチスなんだ)
目の前のどれだけ滑稽なやり取りも、過去のゲーチスが見せた不器用な恋心と、根っこは同じなのだから。
・・・
……結局、Nが強引に部屋から追い出され、扉が静かに閉まると、部屋の空気は一気に落ち着いた。
トウコはそっとサザンドラに近づき、その大きな体に腕をまわして抱きしめる。
柔らかな毛の感触に、胸の奥がほっとした。
「……この世界が変わってて本当に良かった……」
サザンドラの胸元に顔を埋めたまま、ぽつりと呟く。
その声は涙ぐんでいるようにも聞こえた。
ゲーチスはその姿を見つめ、表情を緩ませる。
さっきまでの取り乱した様子が嘘のように、深い安堵の色に満ちていた。
「ワタクシは元より想定していましたがね。同じ世界だと。でなければセレビィがときわたりポケモンなどと分類されないでしょう?」
「え……」
言われてみればそうだ。
「……過去のゲーチスも分かってたの……?」
「当然です。N……ナチュラルがメッセンジャーだと聞いて、おかしいと。未来のワタクシを想像し……アナタに嘘の情報を流すことぐらいはすると思ったのです」
「な……!なんでそんなことする必要が……?」
「ワタクシが改心したと知ったら、もう過去に行く必要が無い…つまりアナタが来なくなると考えたからです」
「来なくならないよ!もう……!本当に辛かったんだから……!」
ゲーチスは申し訳無さそうに背を向けた。
「結局、今のワタクシも非常に利己的なのです。なのでアナタに合わせる顔がない」
「そんなこと……っ」
トウコは涙を流していた。サザンドラが慌ててそれを自身の毛で拭ってくれる。
「じゃあゲーチスは……覚えてるんだね、全部」
「ええ、忘れないようにしっかりと」
ゲーチスはそっと机の引き出しへ手を伸ばした。
引き出しから、古びた木箱が取り出された。
ゲーチスがまるで宝物のように扱うその箱を開けると、中には色褪せたノートの数ページと、一本のペンが丁寧にしまわれていた。
「それ……!私が過去に行った時にあげた……!」
「大切な情報ですからね。他山の石としての」
ゲーチスは指先でノートの紙をそっと持ち上げる。
そこには、細かい文字でびっしりと文章が綴られていた。
初めの方は乱雑で読みにくい字であったが、ページが重なるにつれ、どんどん文字は上達している。
トウコのこと。彼女と話した内容。彼女が語った“未来のゲーチス”の姿。
自分がどうあるらしいか、が……細かく書き込まれていた。
「まったく……セレビィというのは、実に厄介な存在ですね」
ゲーチスは肩をすくめ、わずかに苦笑した。
「ほ、他にも覚えてる…?その…初めての…こととか……」
トウコがためらいがちに顔を上げて尋ねると、ゲーチスは微笑というより、息を呑んでこらえた幸福のような表情になった。
「……忘れるわけないでしょう」
静かで、強い断言だった。
ゲーチスは少し視線を落としながら続ける。
「当時ワタクシは毎日、アナタが来てくれるのを願っていました。姿が見えず、急に来なくなった時など……心配で眠れない夜もありましたよ」
その声音には、確かに不器用な過去のゲーチスの面影があった。
トウコは胸が温かくなり、そっと小さく笑った。
「……若い頃もカッコよかったけど、今も……すごく素敵だよ」
その言葉は照れではなく、純粋な気持ち。
ゲーチスはそれにわずかに肩を揺らし、ほんの僅かだけ顔をそむける。
「……あまり話しすぎると……ワタクシも歯止めが効かなくなりますが。やはりこんな中年に言い寄られてはあまりいい気はしないでしょう」
トウコは首を横に振った。
「過去のゲーチスに言われたんだ。もし未来の自分がわたしを求めたら……その……応えてあげてって」
「……覚えてますとも。まさか過去の自分自身に感謝する日が来るとは」
・・・
扉の外で、Nは意地でも内部の話し声に聞き耳を立てていた。
「参ったな……これ、完全に良いムードだ……」
Nの複雑な心境は未だ顕在だった。
当然だ。過程にいかに感動的なドラマがあろうが、父親が自分より年下の子に惚れている事実は変わらない。
しかしNは不意に、幼少期のことを思い出した。
・・・
夕暮れの赤い光が廊下を染める頃、幼いNはそっとゲーチスのローブの裾をつまんだ。
「とうさん。ひとつ、聞いてもいい?」
ゲーチスは足を止め、振り返る。
幼い瞳は、曇りも不満もなく、ただ真っすぐだった。
「どうしました?」
Nは小さな声で問いかける。
「どうしてボクには、かあさんがいないの?」
その一言に、ゲーチスの胸がかすかに波立つ。
彼は短く息をつき、Nの隣にしゃがみ込んだ。
穏やかに、しかしどこか申し訳なさそうな声音で話し始める。
「……バーベナやヘレナでは、不満ですか?」
Nはきょとんとした。
「え?ちがうよ。二人はお姉ちゃんみたいな感じで優しいし、ちゃんとボクのこと見てくれる。ただみんなにはかあさんがいるから、なんでボクにはいないのかなって思っただけ」
そう言ってNは少し照れくさそうに笑う。
その表情に、ゲーチスの肩の力がわずかに抜けた。
決して寂しいわけではない……ただ純粋な好奇心。
それでも、心のどこかが痛んだ。
自分が彼に真実を完全に語れないことが。
ゲーチスはそっとNの頭に手を置いた。
「何かがもし、もう少し変わっていたなら……アナタの母代わりになってくれる方はいましたよ」
「えっ?ホント!?」
Nの瞳が大きく開く。
ゲーチスは遠くを見るように視線をそらし、しかし言葉にはどこか慈しみの色があった。
「とても強く、優しい人でした。アナタのことをきっと大切にしたでしょう」
「とうさん、その人のこと好きだったの?」
小さな問い。
幼いからこそのまっすぐさ。
“好きだった”などと、軽々しく言えない。
彼の中では、その感情はもっと複雑で、深く、苦く、そして温かかった。
しかし、嘘だけはつきたくなかった。
「……ええ。ワタクシはその人を大切に想っていました」
Nはうれしそうに、けれど少し不思議そうに首をかしげる。
「じゃあどうしていないの?」
ゲーチスは穏やかに目を細めた。
「……時というのは、残酷ですよ。出会いたい時に出会えない」
幼いNには小難しい言葉。
けれど、その声には確かな想いが宿っていた。
「その人と過ごした記憶はワタクシの中に消えずに残っています……でもアナタがいつかその人と会ったら、どうか大切にしてください」
「……そっか」
Nはゆっくり笑い、ゲーチスの手を握った。
「とうさんがそう言うなら……それでいいよ!」
その笑顔に、ゲーチスは思わず小さく目を伏せる。
言えないことはまだ多い。
名前も、顔も…けれど――いつか、時が満ちたら。
その人の名を、この子に伝える日が来るのだろうか。
ゲーチスは立ち上がり、Nの肩に手を添えた。
「さぁ、戻りましょう。夕食の時間ですよ」
「うん!」
夕陽色の廊下を並んで歩く二人の影は、柔らかく寄り添っていた。
・・・
そんな記憶。
その瞬間、過去の記憶の欠片が静かに噛み合った。
長いあいだ説明のつかない違和感として彼を悩ませていたものが、今ようやく形を持ったのだ。
Nはそっと、自分の中に収まっていく霧が晴れるかのような感覚にうなずいた。
あれはそういうことだったのかと、ようやく理解できたのだ。
「……ああ、そうか。トウコがボクの……かあさんか……」
Nはキャップを被り直すと、ただクールに自室に戻るのであった。