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牛山


その方の膝の上に乗ることが、幼い頃から好きだった。その方の名前は牛山さんといって、柔道の道場をひらいている父の、弟子にあたる人だった。父と競る実力の牛山さんに父は目をかけ、よく稽古終わりには夕餉に招いていた。

わたしが牛山さんとはじめて出会ったとき、身長の差があるから顔を見るためには首を痛いほど曲げなくてはならなくて、こんなに大きな人がいるのかと驚いたのを覚えている。
動く度に畳が沈みこむほど体格が良かったが、彼は大らかで親切な方だった。十以上は離れているであろうわたしのことをぞんざいに扱わず、丁寧にお嬢、と呼んでくれた。夕餉にあとには、半刻ほどわたしを膝の上に乗せて、尋常学校での算術の勉強を教えてくださった。父のお弟子さんはみんな怖い方ばかりだったなかで、そんな紳士的な牛山さんのことをわたしはすぐに好きになった。

父も母も牛山さんと結婚したいと言っても子供の戯れだと思い本気にしなかったが、あれは間違いなく恋心だったように思う。
牛山さんにはじめて想いを告げたのは会ってから数年経った後で、確かわたしが十五になったばかりのころのはずだ。
その頃になると、夕餉の後の勉強の時間に牛山さんはわたしを膝の上に乗せてはくれないようになっていた。何度ねだってもお嬢はもう子供じゃないんだから、と断られ、わたしは頬を膨らませた。こんな仕草は普段はしなかったが、子供らしい仕草をすれば牛山さんはわたしの言うことを聞いてくれるのではないかと思っていた。
陽が落ちた後の、暗がりに沈んだ部屋に行灯を置く。教本を読むために手元は燭台の上にろうそくを置いて照らした。
牛山さんがわたしのすぐ横に座って、教本を読み上げてくれる。稽古の後だから汗の匂いが夕暮れの匂いに混じって漂ってきた。
髪から視線を外して、牛山さんの横顔に甘えるような視線を向けた。牛山さんはなにも言わないけれど、
わたしの視線に気が付いたのだということが、かすかに上がった片眉のおかげでわかった。
「……お嬢、集中しなさい」
牛山さんはわたしの方を見ずに言った。
「集中していますよ」
「顔じゃなくて、教本にだ。それとも俺の顔になにかついているかい?」


稽古終わりだから髪が崩れ晒されたこめかみに、汗が滲んでいる。筋肉のある牛山さんにとっては、部屋の隅で燃える火鉢で暖められた部屋は暑いのかもしれない。
牛山さんについて新しいことに気が付く度に、小さいころに標本を友人に見せてもらったときのことを思い出す。板の上にピンで磔にされた美しい紫の蝶。箱の外のこちらにはなにも干渉できずに、見られるためだけにそこにあるもの。
「ふふ、汗をかかれてますよ」
着物の袖を伸ばし、汗で光るこめかみに当てた。薄紫色の袖の布が水分を含んで色を濃くする。
「いいよ、自分で拭くから」
牛山さんはやんわりと体を遠ざけようとしたが、その体をわたしは追った。彼に寄りかかるように体を傾け、筋肉で丸太のように太くなった膝のそばの畳に手をついた。
「こら、やめなさい」
熊にすら勝ってしまいそうな大きな体の持ち主が、わたしの少しの仕草で声を震わせる。それを自覚した瞬間、形容しがたいしびれが体に走った。指先の電流を伝えるように、牛山さんの膝の上に手を乗せた。腕に体重をかけて体を持ちあげ、牛山さんの膝に乗り上げる。着物の合わせからでたふくらはぎが、牛山さんのかたい素足に触れた。
火鉢のせいか、お互いの肌は汗ばんでいた。触れたところから汗が混じり合うように肌が張りつく。
「牛山さん……」
「やめなさい、お嬢」
牛山さんの語調が強まるけれど、それも気にせずにわたしは牛山さんの肩の上に、彼には簡単に折れるであろう細い腕を乗せた。絡みつくように背中に回し、呼吸の隙間を詰める勢いで顔を近づける。

だれも、こない。牛山さんは厚く信用されているから、この屋敷にいる全員はわたしと牛山さんは真剣に勉強していると思いこんでいる。誰もこないはずだ。おとうさまも、おかあさまも。ただ、牛山さんとわたしだけでひめごとをしている。
牛山さんは紳士だから、わたしがなにをしたところでわたしに手をあげることはできない。それも自分の師範代の娘となったらなおさら。こんなに体が大きくて強いのに、うさぎにも負けてしまいそうなほど弱いわたしにたじろぐ牛山さんが、かわいらしい。尋常学校の低学年の子たちを思いだしてしまう。

部屋に入る前に薄く紅を塗った唇を、牛山さんの乾燥した厚い唇に近づける。蒸気のような熱い吐息が唇の表面にかかった瞬間、わたしの動きが止められた。牛山さんに後ろ襟を掴まれて、目元にまでかかるほどの大きな手に口を塞がれると、もう口づけはできないことを悟った。
「お嬢、これ以上やるなら師範を呼ぶよ」
牛山さんは今日で一番声を低くして言った。それが本気であることを感じとって、前腕が首の皮膚を掠めるようにしながら、背中に回していた腕を名残おしげに解いた。
いつの間に油が切れたのか、行灯の光は消えてしまっていた。和室の暗がりの中で、牛山さんのことをもうひとつだけ知れた。

わたしの唇を手で塞いでいるときに、指の隙間から見えた黒い瞳の表面に、欲がかすかに滲みかけていたことを。いまの段階では一瞬で消えてしまうほどの揺らぎだ。けれどこのまま煽っていけばいつか、わたしが大人になったときに、瞳の奥の欲望がろうそくの炎のように静かに、けれどあたたかく揺らめくだろう。そう考えると、指の先に溜まった痺れが熱を持って弾けるような気がした。



それから、牛山さんはわたしの家に来なくなった。お父様やお母様に聞いてもふたりとも理由を教えてくれず、牛山さんの名前を出す度に怒るものだから、徐々にわたしも話題に出すのを避けるようにしていた。そしてそのうちに、わたしも牛山さんのことを忘れていき、あの時の想いは尊敬を恋だと勘違いしていただけなのだと気が付いた。

牛山さんとの縁が切れた件の真相を知ったのは、わたしが成人する頃、お見合い相手と結婚する直前の冬のことだった。
その日母は先に寝てしまい、わたしが父の晩酌に付き合っていた。日本酒をなみなみと飲んで酔った父が、牛山さんが母に手を出し、不貞を働こうとしたということをわたしに打ち明けた。その話を聞いたとき、幼い頃の自分が彼にしていたことの危うさに気がつき、自分の身が無事だったことに心の底から安堵した。

父はそのまま寝入ってしまった。一人で黙々とお酒を片付けていると、牛山さんへの恐怖が足の先から冬の冷気のようにこみ上げてきた。喉の奥になにかが詰まっているかのように喉がざらつき、水で潤したくなった。厨房に行ってから、水がめの中に水がないことに気が付く。

寒いから外に出るのが億劫で、ため息をつきながら井戸のある庭にでた。銀紙を切ったような月が天に張り付きている。まるで作り物のようで不気味に思いながらも、井戸の傍に寄った。金属の井戸の手押しポンプに体重をかけ押し下げる。水が汲みあがる音の後、桶の底には打ち付けられながら水が溜まった。十分に水の入った桶を持ち上げようとした瞬間、庭に熊のように大きな人影がいることに気がついた。
「……うしやまさん?」
辺りは暗く、人影は輪郭すら朧げだった。確信は持てないはずなのに少し前に話題に出たばかりだからか、ふとわたしの口から彼の名前が漏れた。
「久しぶり、お嬢」
「やっぱり、牛山さんなんですね」
鼓膜に響く声の心地よい低さと懐かしさに、彼がしたことも忘れて声が弾んだ。子供のように高い声が庭の木々の間に反響する。
「聞いたよ、お嬢。結婚するんだってね」
「ええ、隣街の四つ上の方です。小説家をしているそうで……」
「そうかい、おめでとう」
数年間と変わらず口調はやわらかく、彼の態度は紳士的で優しかった。
懐かしさで胸がいっぱいになって、話したいことがたくさん出てくる。父が寝ているならお茶のひとつくらいだせるかもしれないと屋敷の中に入るように誘ったが、牛山さんの影はここでいい、と首を横に振った。
「あの、まだお話できますか」
「お嬢は昔から甘えるときの声が変わらないね」
牛山さんはしみじみとした声でいいながら、わたしに近づいてきた。大きな影がわたしに覆い被さるのと同時に、牛山さんの体の輪郭が徐々に頼りない月明りによって浮かびあがってくる。
稽古の道着も似合っていたが、いま来ている西洋の上半身と下半身で分かれた黒い服もよく似合っていた。
影の中から、牛山さんがわたしに手を伸ばしてきた。驚いて後ずさると、かかとが水の入った桶にぶつかって桶が倒れた。
あっと声を上げる隙もなく、牛山さんの手がわたしの肩を掴んだ。肩を簡単に包みこみ、握りつぶしてしまえそうな手の大きさに本能的に体が震えた。零れた水が庭を濡らし、湿った土の匂いが鼻先まで浮き上がってくる。
鈍い銀色に照らされ、濡れたように黒々とした瞳が、わたしに向けられていた。
「お嬢は、昔からその色の着物が似合うね」
十代の前半の頃から好んできていた、紫色の着物。褒められているはずなのにどこか背筋の凍る声だった。
牛山さんは痛くない程度の力で肩を掴んだまま、わたしの体を井戸の淵に押し付けた。背中に触れた石の感触が冷たい。反対に牛山さんの手は焼けつくように熱く、その差に脳がかき混ぜられるように混乱していくのを感じた。
だれも、こない。父も母も寝ている。数年前に感じた静寂なんかより、ずっと恐ろしくて不気味な感じがした。自分の心臓の早い拍動が、感触すら感じられそうなほど大きく聞こえる。濡れた土の匂いで気持ちわるくなる。
牛山さんは、わたしに静かに顔を近づけてきた。昔はしたくてたまらなかった接吻が、わたしの言葉を止めるように唇を塞いできた。髪からは嗅いだことのない化学的な匂いがして、つんと鼻を刺すそれに自然に涙が滲んだ。

牛山さんは唇を離した後、息のかかる距離で楽しそうに笑った。まるで、美しい標本でも見るときのように瞳は細められていた。
「それを着ているお嬢は、蝶みたいに見えるな」
絡めとられていたのは、わたしだった。気が付いたときにはもう遅かった。自分より年上を翻弄した気になりながらも、膝の上で好きなように金属のピンを刺されて飾りつけられていたのは、間違いなくわたしの方だったのだ。
濡れた土と知らない牛山さんの匂いに包まれながら、自分の脳が産湯に沈められたようにぬかるんでいくのを感じた。







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