ファウ晶
青白い月明りが、やわらかく中庭に降り注いでいる。まるで夢の中にいるように、建物や植物の輪郭は霞んでいた。
体はひどく疲れているけど、今日はもう眠れないかもしれない。
ひどい悪夢を見た。できたら思い出したくないような、次に眠るのが怖くなってしまうような夢。暗く沈んだ悪夢から覚める直前、誰かに名前を呼ばれているような気がした。ようやく目を覚ましたとき、月は高い位置にあってまだ深夜だった。体に汗をかいていたから、じっとりと寝巻きが肌に張り付くのが気持ち悪い。
横になってせめて疲れを取ろうと思ったけれど、このまま静かな部屋にいると嫌なことばかり考えてしまうだろうからと、部屋から中庭に出たのだった。
草の上を通り抜けて、石の階段の上に座る。風が体を芯から凍えさせてしまいそうなほど冷たかったから、ローブを体にまきつけるように自分の体を抱き締めた。私のいた世界とこの世界のどちらの方が寒いかなんて、もう覚えていなかった。
石畳にうめこまれた、細かい透明の石が光をきらきらと月の光を反射しているのが、座って地面との距離が近くなったことでわかった。その石を見つめたり、指先で撫でたりしていると、ふとその光が途絶えたのがわかった。私の体に影がかかる。月が雲に隠れたのかと思いつつも見上げると、背の高い、黒い人影がすぐそばに立っていた。
「わっ!」
「こら、静かに」
驚いて大きな声を上げた私に、人影はかがんで顔を近づけてきた。光の当たる角度が変わって、影の顔の部分が白く照らされる。
「ファウスト……」
私の目の前にいたのはファウストだった。寝巻きまで黒いせいで、体の線は闇と同化している。流石にこの時間だからか帽子やサングラスはつけていなかった。
「すみません……ファウストはどうしてここに?」
答えるより先に、彼は自然に私の横に座った。気遣って、自分のローブを脱いで私の肩にかけてくれる。香でも焚いていたのか、いつもと少し違う匂いがした。
「たまたま目を覚ましたら、きみが廊下を歩いているのを見かけたから。何回か声をかけたのに聞こえていないようだったから、ついてきたんだ」
「あ、ごめんなさい。少しぼーっとしてたみたいで……。心配してきてくれたんですか?」
ファウストの横顔が赤く染まったのが、月の光のおかげでよく見える。嬉しくなって、体を傾けてファウストの肩によりかかった。
「きみね、」
「きっとみんな寝てますよ」
ファウストが咎めるより先に、内緒話でもするように囁く。息が耳にかかったのがくすぐったかったのかファウストはひくりと体を揺らした。
「……まぁ、それもそうだな」
自分に言い聞かせでもするようにファウストは言うと、静かに私の肩に腕を回した。まだファウストの体は冷え切っていなくて、じわじわと私の体にも熱を移してきた。体温の移る感触が心地よくて、目を瞑る。
ファウストとは、付き合っているわけではない。どちらかが亡くなるかもしれない戦いの中で、堂々と思いを告げられるほどどちらにも勇気があるわけではなかった。ただ私は優しくて繊細なファウストのことが好きだったし、おそらくファウストも私のことを好きでいてくれていた。
ファウストの好意は周りに対するときの態度の違いや、ちょっとしたときの柔らかい笑い方でもわかる。けれど、なによりも決定的に思えたのは、瞳だった。
ファウストの瞳の奥には、炎がある。よく近づいても数回しか見えない、熱いけれど密やかな炎。星のように燃えているのに、淡く瞬くいている炎。
アミュレットであるキャンドルの炎をみつめているときみたいに、私を見つめるファウストの瞳の奥で、そんな炎が揺らめくことがある。
図書館で本を探しているときに、ファウストがちょうどすぐ後ろを通ったのに気が付かないで振り向いてしまい、狭い棚と棚の間で息づかいも感じられそうなほど、体がくっついたとき。バーでふたりで飲んでいるときに、少し酔って態度がゆるくなったファウストが、私に愛おしそうに微笑みかけるとき。
ファウストが深く傷ついて帰ってきたとき、箒から下りたファウストを私が思わず抱き留めて、生きていてくれてありがとうと言ったとき――。
目を瞑りながら記憶の中のファウストを反芻していると、瞼を撫でられるような感触がした。少しでも乱暴にしたら崩れてしまう砂糖菓子に触れるみたいな、丁寧な撫で方。
ファウスト、と目を瞑ったまま、静かに名前を呼んだ。
「どうした」
ファウストの慈愛すら滲んでいるような優しい声は、中庭にそっと反響した。
「このまま聞いてくれますか」
ああ、とファウストは頷く。目を開けるように強制してこないのが、心地いい。
「夢を見たんです。向こうの世界にいるときの夢。私、あの世界は好きだけど、でもみんなのこと、この世界のことも好きなんです……その、わたしは……」
夢の中の映像が瞼の裏に浮かぶ。口を噤みそうになって、唇を叱咤するように内側に軽く歯を立てた。
「ああ。続けて」ファウストの穏やかな声に促されてまた口を開く。舌がひやりと冷えた。
「どっちも置いてはいけないから、せめて大いなる厄災がいなくなるまではここにいようと思っていました。そしたら、向こうのみんなに忘れられちゃう夢を見たんです。向こうに私の居場所はなくて、こっちの世界でも賢者じゃなくなった私の居場所はなくて、それで……」
「ああ」
ファウストの相槌が全てを受け止めるように優しいから、なんでも言ってしまいたくなる。
あなたのことが好きだから、まだここにいたい。あなたの心からの笑顔が見たい。
口が裂けても言ってはいけないことだった。繊細な彼にこんな悩みを言うと、彼まで一緒に傷ついて、背負ってしまう。明るくへらりと笑って、話題を切ろうとした。
「ごめんなさい、こんなこと言って。忘れてください」
忘れないでほしい。忘れないよ、と言ってほしかった。けれどファウストはできない約束をする人間じゃないということくらい、私が一番知っていた。私が賢者をやめても私のことを縛りつけておいてほしいと願ってしまう自分に、必死で気が付かないふりをした。
ファウストは、ただ黙っていた。返事の代わりのように手は温かな感触に包まれた。ファウストが私の手を握っている。細長くてすらりとした指にはペンだこがある。そのペンタだこは東の魔法使いのことを紙にまとめたりしているときについたタコだと知ったとき、たまらない気持ちになった。
冷たすぎず熱すぎないファウストの手の温度は、私に合わせるかのようにちょうどいい。
すぐに解けてしまうような弱さでもなければ、こちらが痛くなるほど強くはなく握られた手の力。
彼の全てが、彼の人との誠実で繊細な距離の取り方を象徴しているみたいで、大好きだ。
いつの間にか少し泣いていたらしい。ファウストの指が私の目じりにたまった雫をぬぐった。まつげと指先が触れるのがくすぐったくて薄く目を開けると、顔の輪郭のぼやけたファウストが、私の顔をじっと覗き込んでいた。
「ファウストの目は、星空みたいですね」
「色が、か?」
「ええ、それもありますけど、星みたいに、ファウストの中でいろいろ燃えている」
「……怨みの炎だと言っただろう」
彼の声がかすかに沈んだ。見られていることが気恥ずかしかったのか、ファウストは目を伏せた。白い肌の上に、まつげの影が長く乗る。私は、空いている方の手をファウストの頬にあてた。手に少し力を籠めると、ファウストの顔は抵抗なく動き、また瞳の上には私が映った。
「どんな炎でもいいですよ、きれい、だから……」
どんな炎でも、いつか行き場のなくなった私を燃やしてくれる炎なら。いつか役目が終わったら私のことを看取ってほしいなんて、そんな約束してくれるはずもない。口を噤んだままでいると、ファウストも私に倣うように私の顔に手をあてた。
「もう寝るといい。疲れているだろう。話したいことがあったら明日聞くよ」
「わかってます。こうやって手を握ってもらっていたから、戻ったら眠れると思うの」
そうかい、とファウストは息を漏らすように笑って立ち上がった。私も手を引かれて、ファウストの横に並ぶ。
歩きはじめる前に、私はとっさにファウストの手を弱弱しく引いた。
ファウストがこちらを向いて、星空をすくいとった瞳と目があう。奥では、星が幾千も燃えているように見えた。
この炎を見られるだけで、幸福なはずなんだ。これ以上私はなにを望んでいるのだろう。
「抱きしめてください。一瞬だけでいいから」
ファウストは辺りを見渡して人がいないのを確認すると、そっと私のことを抱き寄せた。いつもと違うファウストの香りと、やわらかくて青白い月明りに包まれて、疲労のたまった体が癒えていくのを感じた。心が凪ぐ。胸元に頬を摺り寄せると、腕の力が強まった。
「眠れそうかい?」
ファウストが耳元で尋ねた。その声を聞いていると悪夢のことなんて頭の片隅に行ってしまい、やはり彼は魔法使いなんだと思った。小さく頷く。ファウストは安心したようによかった、と言い、私の後頭部を撫でた。
しばらくしてから、ファウストは私の体を離した。私の体に熱を奪われたはずなのに、恥ずかしいのかいつもは白い頬は上気していた。
さっき願いをかなえてもらったばかりだけど、もう少しだけなら許される気がする。ふたりきりのときのファウストは私を甘やかすから。
「……手をつないだまま、魔法舎まで戻ってください」
「いいよ」
「このローブも明日の朝まで貸してくれませんか」
「わかった、好きに使いなさい」
「名前を、よんで」
ファウストが名前を呼んでくれたら、どんな悪夢からも覚められる。
願い事も、約束してほしいことも数えきれないほどあった。小さなひとつをファウストに押し付ける度に、ファウストの目の奥で星が流れているように、ファウストの目の奥の炎が強まることを知っている。
名前を呼んで、の次のお願いは言えない。ファウストに魔法を使えなくなってほしくはない。
ただ、名前を呼んで、一瞬だけ抱きしめて、手をつないでくれれば、それだけでよかった。それさえあれば、私は。
体はひどく疲れているけど、今日はもう眠れないかもしれない。
ひどい悪夢を見た。できたら思い出したくないような、次に眠るのが怖くなってしまうような夢。暗く沈んだ悪夢から覚める直前、誰かに名前を呼ばれているような気がした。ようやく目を覚ましたとき、月は高い位置にあってまだ深夜だった。体に汗をかいていたから、じっとりと寝巻きが肌に張り付くのが気持ち悪い。
横になってせめて疲れを取ろうと思ったけれど、このまま静かな部屋にいると嫌なことばかり考えてしまうだろうからと、部屋から中庭に出たのだった。
草の上を通り抜けて、石の階段の上に座る。風が体を芯から凍えさせてしまいそうなほど冷たかったから、ローブを体にまきつけるように自分の体を抱き締めた。私のいた世界とこの世界のどちらの方が寒いかなんて、もう覚えていなかった。
石畳にうめこまれた、細かい透明の石が光をきらきらと月の光を反射しているのが、座って地面との距離が近くなったことでわかった。その石を見つめたり、指先で撫でたりしていると、ふとその光が途絶えたのがわかった。私の体に影がかかる。月が雲に隠れたのかと思いつつも見上げると、背の高い、黒い人影がすぐそばに立っていた。
「わっ!」
「こら、静かに」
驚いて大きな声を上げた私に、人影はかがんで顔を近づけてきた。光の当たる角度が変わって、影の顔の部分が白く照らされる。
「ファウスト……」
私の目の前にいたのはファウストだった。寝巻きまで黒いせいで、体の線は闇と同化している。流石にこの時間だからか帽子やサングラスはつけていなかった。
「すみません……ファウストはどうしてここに?」
答えるより先に、彼は自然に私の横に座った。気遣って、自分のローブを脱いで私の肩にかけてくれる。香でも焚いていたのか、いつもと少し違う匂いがした。
「たまたま目を覚ましたら、きみが廊下を歩いているのを見かけたから。何回か声をかけたのに聞こえていないようだったから、ついてきたんだ」
「あ、ごめんなさい。少しぼーっとしてたみたいで……。心配してきてくれたんですか?」
ファウストの横顔が赤く染まったのが、月の光のおかげでよく見える。嬉しくなって、体を傾けてファウストの肩によりかかった。
「きみね、」
「きっとみんな寝てますよ」
ファウストが咎めるより先に、内緒話でもするように囁く。息が耳にかかったのがくすぐったかったのかファウストはひくりと体を揺らした。
「……まぁ、それもそうだな」
自分に言い聞かせでもするようにファウストは言うと、静かに私の肩に腕を回した。まだファウストの体は冷え切っていなくて、じわじわと私の体にも熱を移してきた。体温の移る感触が心地よくて、目を瞑る。
ファウストとは、付き合っているわけではない。どちらかが亡くなるかもしれない戦いの中で、堂々と思いを告げられるほどどちらにも勇気があるわけではなかった。ただ私は優しくて繊細なファウストのことが好きだったし、おそらくファウストも私のことを好きでいてくれていた。
ファウストの好意は周りに対するときの態度の違いや、ちょっとしたときの柔らかい笑い方でもわかる。けれど、なによりも決定的に思えたのは、瞳だった。
ファウストの瞳の奥には、炎がある。よく近づいても数回しか見えない、熱いけれど密やかな炎。星のように燃えているのに、淡く瞬くいている炎。
アミュレットであるキャンドルの炎をみつめているときみたいに、私を見つめるファウストの瞳の奥で、そんな炎が揺らめくことがある。
図書館で本を探しているときに、ファウストがちょうどすぐ後ろを通ったのに気が付かないで振り向いてしまい、狭い棚と棚の間で息づかいも感じられそうなほど、体がくっついたとき。バーでふたりで飲んでいるときに、少し酔って態度がゆるくなったファウストが、私に愛おしそうに微笑みかけるとき。
ファウストが深く傷ついて帰ってきたとき、箒から下りたファウストを私が思わず抱き留めて、生きていてくれてありがとうと言ったとき――。
目を瞑りながら記憶の中のファウストを反芻していると、瞼を撫でられるような感触がした。少しでも乱暴にしたら崩れてしまう砂糖菓子に触れるみたいな、丁寧な撫で方。
ファウスト、と目を瞑ったまま、静かに名前を呼んだ。
「どうした」
ファウストの慈愛すら滲んでいるような優しい声は、中庭にそっと反響した。
「このまま聞いてくれますか」
ああ、とファウストは頷く。目を開けるように強制してこないのが、心地いい。
「夢を見たんです。向こうの世界にいるときの夢。私、あの世界は好きだけど、でもみんなのこと、この世界のことも好きなんです……その、わたしは……」
夢の中の映像が瞼の裏に浮かぶ。口を噤みそうになって、唇を叱咤するように内側に軽く歯を立てた。
「ああ。続けて」ファウストの穏やかな声に促されてまた口を開く。舌がひやりと冷えた。
「どっちも置いてはいけないから、せめて大いなる厄災がいなくなるまではここにいようと思っていました。そしたら、向こうのみんなに忘れられちゃう夢を見たんです。向こうに私の居場所はなくて、こっちの世界でも賢者じゃなくなった私の居場所はなくて、それで……」
「ああ」
ファウストの相槌が全てを受け止めるように優しいから、なんでも言ってしまいたくなる。
あなたのことが好きだから、まだここにいたい。あなたの心からの笑顔が見たい。
口が裂けても言ってはいけないことだった。繊細な彼にこんな悩みを言うと、彼まで一緒に傷ついて、背負ってしまう。明るくへらりと笑って、話題を切ろうとした。
「ごめんなさい、こんなこと言って。忘れてください」
忘れないでほしい。忘れないよ、と言ってほしかった。けれどファウストはできない約束をする人間じゃないということくらい、私が一番知っていた。私が賢者をやめても私のことを縛りつけておいてほしいと願ってしまう自分に、必死で気が付かないふりをした。
ファウストは、ただ黙っていた。返事の代わりのように手は温かな感触に包まれた。ファウストが私の手を握っている。細長くてすらりとした指にはペンだこがある。そのペンタだこは東の魔法使いのことを紙にまとめたりしているときについたタコだと知ったとき、たまらない気持ちになった。
冷たすぎず熱すぎないファウストの手の温度は、私に合わせるかのようにちょうどいい。
すぐに解けてしまうような弱さでもなければ、こちらが痛くなるほど強くはなく握られた手の力。
彼の全てが、彼の人との誠実で繊細な距離の取り方を象徴しているみたいで、大好きだ。
いつの間にか少し泣いていたらしい。ファウストの指が私の目じりにたまった雫をぬぐった。まつげと指先が触れるのがくすぐったくて薄く目を開けると、顔の輪郭のぼやけたファウストが、私の顔をじっと覗き込んでいた。
「ファウストの目は、星空みたいですね」
「色が、か?」
「ええ、それもありますけど、星みたいに、ファウストの中でいろいろ燃えている」
「……怨みの炎だと言っただろう」
彼の声がかすかに沈んだ。見られていることが気恥ずかしかったのか、ファウストは目を伏せた。白い肌の上に、まつげの影が長く乗る。私は、空いている方の手をファウストの頬にあてた。手に少し力を籠めると、ファウストの顔は抵抗なく動き、また瞳の上には私が映った。
「どんな炎でもいいですよ、きれい、だから……」
どんな炎でも、いつか行き場のなくなった私を燃やしてくれる炎なら。いつか役目が終わったら私のことを看取ってほしいなんて、そんな約束してくれるはずもない。口を噤んだままでいると、ファウストも私に倣うように私の顔に手をあてた。
「もう寝るといい。疲れているだろう。話したいことがあったら明日聞くよ」
「わかってます。こうやって手を握ってもらっていたから、戻ったら眠れると思うの」
そうかい、とファウストは息を漏らすように笑って立ち上がった。私も手を引かれて、ファウストの横に並ぶ。
歩きはじめる前に、私はとっさにファウストの手を弱弱しく引いた。
ファウストがこちらを向いて、星空をすくいとった瞳と目があう。奥では、星が幾千も燃えているように見えた。
この炎を見られるだけで、幸福なはずなんだ。これ以上私はなにを望んでいるのだろう。
「抱きしめてください。一瞬だけでいいから」
ファウストは辺りを見渡して人がいないのを確認すると、そっと私のことを抱き寄せた。いつもと違うファウストの香りと、やわらかくて青白い月明りに包まれて、疲労のたまった体が癒えていくのを感じた。心が凪ぐ。胸元に頬を摺り寄せると、腕の力が強まった。
「眠れそうかい?」
ファウストが耳元で尋ねた。その声を聞いていると悪夢のことなんて頭の片隅に行ってしまい、やはり彼は魔法使いなんだと思った。小さく頷く。ファウストは安心したようによかった、と言い、私の後頭部を撫でた。
しばらくしてから、ファウストは私の体を離した。私の体に熱を奪われたはずなのに、恥ずかしいのかいつもは白い頬は上気していた。
さっき願いをかなえてもらったばかりだけど、もう少しだけなら許される気がする。ふたりきりのときのファウストは私を甘やかすから。
「……手をつないだまま、魔法舎まで戻ってください」
「いいよ」
「このローブも明日の朝まで貸してくれませんか」
「わかった、好きに使いなさい」
「名前を、よんで」
ファウストが名前を呼んでくれたら、どんな悪夢からも覚められる。
願い事も、約束してほしいことも数えきれないほどあった。小さなひとつをファウストに押し付ける度に、ファウストの目の奥で星が流れているように、ファウストの目の奥の炎が強まることを知っている。
名前を呼んで、の次のお願いは言えない。ファウストに魔法を使えなくなってほしくはない。
ただ、名前を呼んで、一瞬だけ抱きしめて、手をつないでくれれば、それだけでよかった。それさえあれば、私は。
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