フィガロ
空気を多く含んだ大粒の雪が、特徴のない街並を白く閉じ込めているのが小窓から見える。雪が降ると、いつもあのときのことを思い出す。せりあがってくる懐かしさをの喉の奥に戻すかのように唾を飲みこんだ。皮膚は火照っていてほんのりと赤いのに、自然に産毛が逆立っていた。白いものは、もう見たくないのだ。
甘いカクテルを一気に流し込んでグラスを空にし、次に度数の高いお酒を頼んだ。マスターは、一人でつまらなそうにお酒を飲む私のことを失恋だとでも思ったのか、気の毒そうにカウンター越しにお酒を渡してくれる。
こんな夜は、あいつがくることを知っている。どうせ奢らせるからお酒の値段は気にしない。頼んだばかりのお酒も水のように飲み干し、次を頼もうとした瞬間、横から甘いバニラの匂いがふわりと漂ってきた。
相手も確認せずとも分かった。こんな露骨に女が好みそうな香水をつけてくる男なんて、一人しかいない。
「遅いじゃん」
光を透かす空のグラスを指でなぞりながら呟く。
「待ち合わせはしていないんだけどね」
少し呆れたような、どこか甘やかに聞こえる声がグラスと共鳴するようにカウンターに響いた。
ほら、やっぱりきた。机の上に頬杖をついて、上がりかけた口角を誤魔化す。横目で骨ばった大きな男の手が、机に手を乗せたのを見る。よっと、小さな声をあげ、男は軽やかに私の隣の椅子に座った。白衣の裾が視界の隅で翻る。
「俺にもこの子と同じのちょうだい」と彼は軽薄にマスターに話しかけた。
そいつとは、数十年前から二人きりで飲むようになっていた。約束もしていないのに、示し合わせたように同じバーで。雪の日にだけ。
中央の国は雪が滅多に降らないから、人間の時間の感覚でいえば、会わないうちに顔を忘れてもおかしくないくらいの頻度だろう。しかし私はこの憎くて嫌いな男の顔を忘れたことなんて、一度だってなかった。それくらい鮮烈に、そいつは私の記憶の奥底に刻まれていた。
頬杖をついたまま、自分の指の隙間から男の横顔を盗み見る。
彼は琥珀色の液体に鼻を近づけると、中心にしわを寄せるように顔をしかめた。
うそつき。昔はもっと度数の高いものもけろりと飲んでいたくせに。
百年近く前から、わたしと彼は顔なじみだった。はじめて出会ったときは、鋭い刃がそのまま人の皮を被っているような、血も涙もない男だと思った。フィガロという男は私と同じ正真正銘の、冷徹な北の魔法使いだと。
それがいまはどうだろうか。彼は私との旅をやめて南の国に住みはじめてから、みるみるうちに腑抜けた。人間を殺すことなんて悪いとも思っていなかった癖に、医者をはじめて人間を助けフィガロ先生なんて呼ばれるようになった。気まぐれでは終わらず、長いこと弱い南の魔法使いの振りをしながら、だらしなく頬を緩めて笑っていた。底冷えするような殺意を、腹の底に隠したまま。
私はそんなフィガロが見ていられなくなって、彼の元から去った。出身の北の国に戻る気も起きずそのまま各地を転々としているうちに、フィガロが南の魔法使いとして賢者に召喚されたことを知った。
お前なんかに賢者の魔法使いなんて務まるわけがない。フィガロが中央の国に来てすぐに、私はフィガロに会ってそう吐き捨てた。確かその日も雪の日だった。数十年ぶりに見たフィガロの、変わり果てた柔らかい微笑みを見て、なぜか目の奥がつんと熱くなったのと、その熱のせいで瞼に乗った雪が瞬く間に溶けたことを覚えている。
甘ったるい菓子のような、気の抜けたフィガロの顔を見ているといつも腹の底がかっと熱く、重くなった。それは怒りだった。おまえは私と同じ側の人間の癖に、なぜ善良ぶるのだろう。いまだってバーに来ているのに、まるで自分が医者であることをアピールするかのように白いシャツの上から白衣を羽織っている。
仮初の善性を、まるで元々もっていたもののように振舞える狡猾さが、憎い。
「どうして、きみまで中央の国に住みはじめたの」
フィガロは、唐突に顔を寄せてきた。吐く息から強いアルコールの匂いがした。体の重心の傾きに合わせて背の高い椅子が軋む。
「あなたに関係ないじゃない」
「そうツンケンしないで。世間話じゃないか」
おかしくてたまらないというようにフィガロが笑うのが気に食わなくて、さらに声を冷たくする。
「別に。どの国にも行きやすかったから中央にしただけ」
「俺と南にいるときは不便そうだったから、中央くらい栄えている方がきみにはちょうどいいのかもね。ほら、きみはおしゃれさんだし」
フィガロは音もなく手を這わせ、私の手の甲に自分の手のひらを重ねた。
「爪、塗ってるのいいね、氷みたいだ」
甘い声が耳のそばで聞こえる。よく手入れされたフィガロの手の下で、塗料を塗られた私の爪が輝いた。
青い氷のような色。数日前に開かれた市でなぜか惹かれ、手に取ったのだ。私の手の中で冬の明るい陽射しを浴びているのを見た瞬間、なぜか衝動的に買ってしまっていた。
「少しなにかの色に似ているかも、なんて」
横を見なくてもフィガロがどんな顔をしているのかわかる声音だった。軽く舌打ちをし、握られた手をひっくり返してフィガロの手の平をつねろうとしたが、上からテーブルに手を押さえつけられてうまくいかない。
「こーら、昔からすぐ手が出るんだから」とフィガロは子供を相手にするように笑った。
わたしの指を、宝ものの価値でも確かめるかのようにゆっくりとなぞる。切りそろえられ爪の先が手の甲の薄い皮膚をひっかいた。
こんな小さな傷、はやく消えてなくなってほしかった。
この男が本気になったら、私を殺すことなんて赤子の手をひねるより楽だなんてことは、ずっと昔に知った。自分よりずっと弱い相手だとわかっているからフィガロは私がなにをしても怒ってこないのだ。
フィガロに敵わない。魔法でも、腕力でも。
悔しくて空いた方の手でグラスでも投げつけてやりたくなる。カウンターの前の酒瓶に投げつけて粉々に割り、やりすぎだよ、とフィガロに止められたい。敵うことなら、強いアルコールの飛沫とさんざめきの中で殺されたかった。
自分の心臓の稼働を止めて、石になる。その先には、こんな手に触れられただけで体の奥が熱くなるような、やっかいな想いは存在しないはずなのだ。
「ねえ、今夜は一緒に過ごせるの?」
フィガロが私の肩にもたれるようにしながら尋ねる。用事があるんだからお前は帰れと言ってやれたら楽なのに、どうしても口が開かない。フィガロに触れられる度に口が重くなる気がした。この男に私の一挙一動がどう映っているのかが、私がなににも動じない氷のような心をどこまで動かせるのかが、やけに気になった。やっとの思いで、小さな声で言った。
「……お酒で気持ち悪いから、介抱させてあげる」
「本当かい、それは大変だ。ここを出ようか」
フィガロはわざとらしく小芝居を打ち、私の脇に自分の手を差し入れた。腕を肩に乗せさせて立たせると、テーブルの上の代金を置いた。そういうことにしておいてあげるね、と体が密着した拍子にフィガロは囁いた。
体を支える手は丁寧で手慣れていて、彼が普段からこうしていることがうかがえる。この手の感触を知っているやつが他にもいると思うと、性別を問わずそいつら消してやろうと決意した。とびきり残酷なやり方で。私は北の魔法使いだから。
外に出ると、店に入ったとき以上に辺りは白く染まっていた。こんな時間にで歩く人はいないから、雪の降る音が聞こえてしまいそうなほど静かだった。
北の国に比べたら楽なものだから、防寒の魔法はかけない。わたしに肩を貸すフィガロ向かってにさらに体重をかけ、体をすり寄らせた。いつの間にか甘ったるいバニラの匂いは消えて、つんと鼻にくるお酒の匂いが白衣についていた。私の行動にフィガロはかすかに笑った。
「酔ったっていうの、建前じゃなくて本当だったの? あんま飲んでないようにみえたのに、やっぱりお酒弱いね。そういうとこ、かわいいと思うよ」
かわいいと言われると、自分がか弱くて儚い、庇護されるべき存在になったように思えた。
北の魔法使いでなく、どこにでもいる、男と会う前に爪の手入れをするような女に。
誰にも触れられないような、残酷な刃になりたかった。そういう点で、フィガロは私の理想だった。北の魔法使いは人に会う時はなにかを奪うときだ。数百年前、北の国でフィガロを石にしようとしたとき、返り討ちにされて私はこの男に殺されかけた。
「きみの体はあったかいね。お酒を飲んだからかな?」
知らない男のように笑いかけてくるこいつが、きらいだ。
あの時、フィガロは雪の上に私を押し倒して、なにも感じていないかのような目のまま私の首を絞めた。魔法で簡単に殺せるのに、フィガロは気まぐれに人間のような方法を選んだ。遊びのように力がこめられた手は死人のように冷たかった。
首を絞めたくらいで魔法使いが死にきれるわけもなく、残された私に残ったのは、負けた挙句に情けをかけられたという屈辱だけだった。フィガロに勝ちたくて、その後も何度か勝負を挑んだがフィガロはなぜか、ずっと私を殺さなかった。氷のような視線の冷たさの中に、吹雪の中で見つけた焚火のような淡いぬくみすら感じたこともあった。
「きみの家でいいでしょ?」
「ねえ。家につく前に、魔法で勝負してよ……」
「なんでさ、こんな酔った女の子相手に、俺もひどいことできないよ」
これから、もっとひどいことをするくせに。
北の魔法使いが人に会う時は、なにかを奪うとき。フィガロは私の命をつなぎとめたまま、こころを奪ってくる。心底憎い。殺したい。柔らかく微笑んでくるフィガロも、横の体温に安心して体の力を抜きそうになる自分のことも。
彼よりずっと力の弱い私では要求を通せるわけもなく、引きずられるようにそのまま自分の部屋に帰った。
フィガロは暗い玄関を通り、散らかった床の物を避けながら窓際のベッドに私を寝かせた。
「水もってこようか?」
「いい、いらないもん」立ち上がろうとするフィガロの白衣の裾を掴む。
「なに、そんなに早く俺に触れたい?」
フィガロはかがんで、嬉しそうに目を細めながら私の顔を覗き込んできた。
彼は冗談のように言ったが、その言葉で意識が冴え冴えとした気がした。でもアルコールと、フィガロの手の温度のせいで、思考して言葉にする余裕がなかった。
「きらい、おまえなんて」と手で顔を覆いながら呟いた。
「俺は好きだよ」
フィガロは当たり前のように言う。何度も食べ慣れた朝食を咀嚼するような雑な言い方の方がまだ救いがあった。声に含まれる甘さに変な期待をして、胸が押しつぶされそうだった。
「うそつきのばか。卑怯もの」
子供のような罵倒しか出てこない。部屋の中に入って体が温まり血液が巡るようになったからか、酔いが一気に回ったような気がする。心なしか気持ち悪くなってきた。バーでお酒で喉の奥に収めたはずのものが、舌の上にのって暴れている。
自然に涙が出てきて、情けなくて悔しくてたまらなくて腕で目を擦った。腫れるよ、とフィガロが優しい声で、やんわりと手を掴んで制止する。目の表面の雫がなくなってはっきりとした視界に、目を細めて私を見つめるフィガロの灰色の瞳があった。窓の外からの月明かりでフィガロの目元が照らされ、目の中心に緑色が含まれていることに気が付いた。緑は、南の国の色じゃないか。
そんな声を出すな。そんな目で私を見るな。
あの、強くて、残酷で、私をころしてくれるはずだったフィガロはもういない。私の服を器用に脱がせる手や温かい手の温度からあのときのフィガロは死んだことがひしひしと伝わってくる。どんなに祈っても、どんなに願ってもフィガロは帰ってこない。まずなにかに祈り頼りたくなる時点で、私も北の魔法使いでなくなってしまったのかもしれない。彼が賢者の魔法使いになったからって、わたしもここにいすぎたのだ。
覆いかぶさるように唇を重ねてくるフィガロの体の重みを感じながら、諦めて外を見た。
雪の降り積もった地面に、一本のまっすぐな道を作るように月明かりが反射している。
その光景を見たとき、かつての記憶がぱっと蘇ってきた。
夜の、波のない穏やかな海。月明かりがいまみたいに海面を照らしていて、海面の光が月に階段をかけてるように見えた。私はフィガロに勝負をしかけて負けて、失血してぐったりと砂浜に横たわっていた。
私が気絶していると思っていたのか、フィガロはしばらくの間、私を無視して一人でその海を眺めていた。風が吹いた。泣いているような音の風だった。青い氷の色の髪をなびかせながら、フィガロは吸い込まれるように海に入っていった。止めたかったのに、体が重くて動けなかった。手が届かなかった。触れられなかった。
私は、フィガロに触れたかったのかもしれない。さっき彼に言われてようやき気が付いた。
キスで交換した唾液からお酒の味がする。こんな味を知りたいんじゃなくて、あのときのフィガロの表情を知りたかった。
私の頭を楽しそうに撫でるフィガロの手を強く握ると、フィガロは目を大きく見開いた。その目の奥の緑が、部屋のなかに差してくる雪と月の白の中で、悔しいくらいきれいだった。
あんなに止まれと願っていた心臓が、胸の奥で息を吹き返すように疼いた。
甘いカクテルを一気に流し込んでグラスを空にし、次に度数の高いお酒を頼んだ。マスターは、一人でつまらなそうにお酒を飲む私のことを失恋だとでも思ったのか、気の毒そうにカウンター越しにお酒を渡してくれる。
こんな夜は、あいつがくることを知っている。どうせ奢らせるからお酒の値段は気にしない。頼んだばかりのお酒も水のように飲み干し、次を頼もうとした瞬間、横から甘いバニラの匂いがふわりと漂ってきた。
相手も確認せずとも分かった。こんな露骨に女が好みそうな香水をつけてくる男なんて、一人しかいない。
「遅いじゃん」
光を透かす空のグラスを指でなぞりながら呟く。
「待ち合わせはしていないんだけどね」
少し呆れたような、どこか甘やかに聞こえる声がグラスと共鳴するようにカウンターに響いた。
ほら、やっぱりきた。机の上に頬杖をついて、上がりかけた口角を誤魔化す。横目で骨ばった大きな男の手が、机に手を乗せたのを見る。よっと、小さな声をあげ、男は軽やかに私の隣の椅子に座った。白衣の裾が視界の隅で翻る。
「俺にもこの子と同じのちょうだい」と彼は軽薄にマスターに話しかけた。
そいつとは、数十年前から二人きりで飲むようになっていた。約束もしていないのに、示し合わせたように同じバーで。雪の日にだけ。
中央の国は雪が滅多に降らないから、人間の時間の感覚でいえば、会わないうちに顔を忘れてもおかしくないくらいの頻度だろう。しかし私はこの憎くて嫌いな男の顔を忘れたことなんて、一度だってなかった。それくらい鮮烈に、そいつは私の記憶の奥底に刻まれていた。
頬杖をついたまま、自分の指の隙間から男の横顔を盗み見る。
彼は琥珀色の液体に鼻を近づけると、中心にしわを寄せるように顔をしかめた。
うそつき。昔はもっと度数の高いものもけろりと飲んでいたくせに。
百年近く前から、わたしと彼は顔なじみだった。はじめて出会ったときは、鋭い刃がそのまま人の皮を被っているような、血も涙もない男だと思った。フィガロという男は私と同じ正真正銘の、冷徹な北の魔法使いだと。
それがいまはどうだろうか。彼は私との旅をやめて南の国に住みはじめてから、みるみるうちに腑抜けた。人間を殺すことなんて悪いとも思っていなかった癖に、医者をはじめて人間を助けフィガロ先生なんて呼ばれるようになった。気まぐれでは終わらず、長いこと弱い南の魔法使いの振りをしながら、だらしなく頬を緩めて笑っていた。底冷えするような殺意を、腹の底に隠したまま。
私はそんなフィガロが見ていられなくなって、彼の元から去った。出身の北の国に戻る気も起きずそのまま各地を転々としているうちに、フィガロが南の魔法使いとして賢者に召喚されたことを知った。
お前なんかに賢者の魔法使いなんて務まるわけがない。フィガロが中央の国に来てすぐに、私はフィガロに会ってそう吐き捨てた。確かその日も雪の日だった。数十年ぶりに見たフィガロの、変わり果てた柔らかい微笑みを見て、なぜか目の奥がつんと熱くなったのと、その熱のせいで瞼に乗った雪が瞬く間に溶けたことを覚えている。
甘ったるい菓子のような、気の抜けたフィガロの顔を見ているといつも腹の底がかっと熱く、重くなった。それは怒りだった。おまえは私と同じ側の人間の癖に、なぜ善良ぶるのだろう。いまだってバーに来ているのに、まるで自分が医者であることをアピールするかのように白いシャツの上から白衣を羽織っている。
仮初の善性を、まるで元々もっていたもののように振舞える狡猾さが、憎い。
「どうして、きみまで中央の国に住みはじめたの」
フィガロは、唐突に顔を寄せてきた。吐く息から強いアルコールの匂いがした。体の重心の傾きに合わせて背の高い椅子が軋む。
「あなたに関係ないじゃない」
「そうツンケンしないで。世間話じゃないか」
おかしくてたまらないというようにフィガロが笑うのが気に食わなくて、さらに声を冷たくする。
「別に。どの国にも行きやすかったから中央にしただけ」
「俺と南にいるときは不便そうだったから、中央くらい栄えている方がきみにはちょうどいいのかもね。ほら、きみはおしゃれさんだし」
フィガロは音もなく手を這わせ、私の手の甲に自分の手のひらを重ねた。
「爪、塗ってるのいいね、氷みたいだ」
甘い声が耳のそばで聞こえる。よく手入れされたフィガロの手の下で、塗料を塗られた私の爪が輝いた。
青い氷のような色。数日前に開かれた市でなぜか惹かれ、手に取ったのだ。私の手の中で冬の明るい陽射しを浴びているのを見た瞬間、なぜか衝動的に買ってしまっていた。
「少しなにかの色に似ているかも、なんて」
横を見なくてもフィガロがどんな顔をしているのかわかる声音だった。軽く舌打ちをし、握られた手をひっくり返してフィガロの手の平をつねろうとしたが、上からテーブルに手を押さえつけられてうまくいかない。
「こーら、昔からすぐ手が出るんだから」とフィガロは子供を相手にするように笑った。
わたしの指を、宝ものの価値でも確かめるかのようにゆっくりとなぞる。切りそろえられ爪の先が手の甲の薄い皮膚をひっかいた。
こんな小さな傷、はやく消えてなくなってほしかった。
この男が本気になったら、私を殺すことなんて赤子の手をひねるより楽だなんてことは、ずっと昔に知った。自分よりずっと弱い相手だとわかっているからフィガロは私がなにをしても怒ってこないのだ。
フィガロに敵わない。魔法でも、腕力でも。
悔しくて空いた方の手でグラスでも投げつけてやりたくなる。カウンターの前の酒瓶に投げつけて粉々に割り、やりすぎだよ、とフィガロに止められたい。敵うことなら、強いアルコールの飛沫とさんざめきの中で殺されたかった。
自分の心臓の稼働を止めて、石になる。その先には、こんな手に触れられただけで体の奥が熱くなるような、やっかいな想いは存在しないはずなのだ。
「ねえ、今夜は一緒に過ごせるの?」
フィガロが私の肩にもたれるようにしながら尋ねる。用事があるんだからお前は帰れと言ってやれたら楽なのに、どうしても口が開かない。フィガロに触れられる度に口が重くなる気がした。この男に私の一挙一動がどう映っているのかが、私がなににも動じない氷のような心をどこまで動かせるのかが、やけに気になった。やっとの思いで、小さな声で言った。
「……お酒で気持ち悪いから、介抱させてあげる」
「本当かい、それは大変だ。ここを出ようか」
フィガロはわざとらしく小芝居を打ち、私の脇に自分の手を差し入れた。腕を肩に乗せさせて立たせると、テーブルの上の代金を置いた。そういうことにしておいてあげるね、と体が密着した拍子にフィガロは囁いた。
体を支える手は丁寧で手慣れていて、彼が普段からこうしていることがうかがえる。この手の感触を知っているやつが他にもいると思うと、性別を問わずそいつら消してやろうと決意した。とびきり残酷なやり方で。私は北の魔法使いだから。
外に出ると、店に入ったとき以上に辺りは白く染まっていた。こんな時間にで歩く人はいないから、雪の降る音が聞こえてしまいそうなほど静かだった。
北の国に比べたら楽なものだから、防寒の魔法はかけない。わたしに肩を貸すフィガロ向かってにさらに体重をかけ、体をすり寄らせた。いつの間にか甘ったるいバニラの匂いは消えて、つんと鼻にくるお酒の匂いが白衣についていた。私の行動にフィガロはかすかに笑った。
「酔ったっていうの、建前じゃなくて本当だったの? あんま飲んでないようにみえたのに、やっぱりお酒弱いね。そういうとこ、かわいいと思うよ」
かわいいと言われると、自分がか弱くて儚い、庇護されるべき存在になったように思えた。
北の魔法使いでなく、どこにでもいる、男と会う前に爪の手入れをするような女に。
誰にも触れられないような、残酷な刃になりたかった。そういう点で、フィガロは私の理想だった。北の魔法使いは人に会う時はなにかを奪うときだ。数百年前、北の国でフィガロを石にしようとしたとき、返り討ちにされて私はこの男に殺されかけた。
「きみの体はあったかいね。お酒を飲んだからかな?」
知らない男のように笑いかけてくるこいつが、きらいだ。
あの時、フィガロは雪の上に私を押し倒して、なにも感じていないかのような目のまま私の首を絞めた。魔法で簡単に殺せるのに、フィガロは気まぐれに人間のような方法を選んだ。遊びのように力がこめられた手は死人のように冷たかった。
首を絞めたくらいで魔法使いが死にきれるわけもなく、残された私に残ったのは、負けた挙句に情けをかけられたという屈辱だけだった。フィガロに勝ちたくて、その後も何度か勝負を挑んだがフィガロはなぜか、ずっと私を殺さなかった。氷のような視線の冷たさの中に、吹雪の中で見つけた焚火のような淡いぬくみすら感じたこともあった。
「きみの家でいいでしょ?」
「ねえ。家につく前に、魔法で勝負してよ……」
「なんでさ、こんな酔った女の子相手に、俺もひどいことできないよ」
これから、もっとひどいことをするくせに。
北の魔法使いが人に会う時は、なにかを奪うとき。フィガロは私の命をつなぎとめたまま、こころを奪ってくる。心底憎い。殺したい。柔らかく微笑んでくるフィガロも、横の体温に安心して体の力を抜きそうになる自分のことも。
彼よりずっと力の弱い私では要求を通せるわけもなく、引きずられるようにそのまま自分の部屋に帰った。
フィガロは暗い玄関を通り、散らかった床の物を避けながら窓際のベッドに私を寝かせた。
「水もってこようか?」
「いい、いらないもん」立ち上がろうとするフィガロの白衣の裾を掴む。
「なに、そんなに早く俺に触れたい?」
フィガロはかがんで、嬉しそうに目を細めながら私の顔を覗き込んできた。
彼は冗談のように言ったが、その言葉で意識が冴え冴えとした気がした。でもアルコールと、フィガロの手の温度のせいで、思考して言葉にする余裕がなかった。
「きらい、おまえなんて」と手で顔を覆いながら呟いた。
「俺は好きだよ」
フィガロは当たり前のように言う。何度も食べ慣れた朝食を咀嚼するような雑な言い方の方がまだ救いがあった。声に含まれる甘さに変な期待をして、胸が押しつぶされそうだった。
「うそつきのばか。卑怯もの」
子供のような罵倒しか出てこない。部屋の中に入って体が温まり血液が巡るようになったからか、酔いが一気に回ったような気がする。心なしか気持ち悪くなってきた。バーでお酒で喉の奥に収めたはずのものが、舌の上にのって暴れている。
自然に涙が出てきて、情けなくて悔しくてたまらなくて腕で目を擦った。腫れるよ、とフィガロが優しい声で、やんわりと手を掴んで制止する。目の表面の雫がなくなってはっきりとした視界に、目を細めて私を見つめるフィガロの灰色の瞳があった。窓の外からの月明かりでフィガロの目元が照らされ、目の中心に緑色が含まれていることに気が付いた。緑は、南の国の色じゃないか。
そんな声を出すな。そんな目で私を見るな。
あの、強くて、残酷で、私をころしてくれるはずだったフィガロはもういない。私の服を器用に脱がせる手や温かい手の温度からあのときのフィガロは死んだことがひしひしと伝わってくる。どんなに祈っても、どんなに願ってもフィガロは帰ってこない。まずなにかに祈り頼りたくなる時点で、私も北の魔法使いでなくなってしまったのかもしれない。彼が賢者の魔法使いになったからって、わたしもここにいすぎたのだ。
覆いかぶさるように唇を重ねてくるフィガロの体の重みを感じながら、諦めて外を見た。
雪の降り積もった地面に、一本のまっすぐな道を作るように月明かりが反射している。
その光景を見たとき、かつての記憶がぱっと蘇ってきた。
夜の、波のない穏やかな海。月明かりがいまみたいに海面を照らしていて、海面の光が月に階段をかけてるように見えた。私はフィガロに勝負をしかけて負けて、失血してぐったりと砂浜に横たわっていた。
私が気絶していると思っていたのか、フィガロはしばらくの間、私を無視して一人でその海を眺めていた。風が吹いた。泣いているような音の風だった。青い氷の色の髪をなびかせながら、フィガロは吸い込まれるように海に入っていった。止めたかったのに、体が重くて動けなかった。手が届かなかった。触れられなかった。
私は、フィガロに触れたかったのかもしれない。さっき彼に言われてようやき気が付いた。
キスで交換した唾液からお酒の味がする。こんな味を知りたいんじゃなくて、あのときのフィガロの表情を知りたかった。
私の頭を楽しそうに撫でるフィガロの手を強く握ると、フィガロは目を大きく見開いた。その目の奥の緑が、部屋のなかに差してくる雪と月の白の中で、悔しいくらいきれいだった。
あんなに止まれと願っていた心臓が、胸の奥で息を吹き返すように疼いた。
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