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シグマ

夜明け前のような淡い紫の髪と銀の髪は、手ぐしですくと水を含んだままでもきらきらと光る。
シグマの髪だけをバスタブの外に出して、自分では手入れが大変であろう長い髪を洗ってあげている最中だった。
髪についた泡を流して、髪の奥にある頭皮に触れる。シグマがくすぐったそうに体をよじったから、バスルームには水音が反響した。
「待ってくれ、こそばゆい」
「マッサージしてあげるのに」
「いいよ」
勘弁してくれとでもいうようにシグマは言った。しかし彼ははじめこそは嫌がるものの、マッサージ中に心地良くなってきて、最終的には脱力の声を上げるであろうことを私は知っていた。
「わかりましたぁ」と未だ納得のいっていない声で返しつつも、手の中にある髪の美しさに見とれてしまった。
元々、こんな距離感でシグマの身の回りの世話をしていたわけではない。シグマと私は同じ組織に所属していたが、その間関わりはなかった。シグマが組織からの命令で天空カジノの支配人になったとき、私も偶然彼の秘書役になったのだ。
業務での近さから勘違いしたのか、あるときシグマは私に告白した。それから恋人関係は続き、いまでは業務時間外も彼の世話をするようになっていた。
「シグマ、今日おもしろいことしてたね」
彼の髪をまとめながら、今日の業務中のことを思い出して言った。
「なんのことだ?」およそ検討がつかないとでもいうように返される。私は彼のこういう無防備さが好きだった。
「C57047番」
「ああ、彼か……」顧客番号を言うと彼も思い出したようだった。
「私情で動いちゃって。いいのかしら、支配人さん」
今日の客は経営の傾いた会社の社長だったようで、一発逆転を狙ってカジノに来ていた。散々に負けて残金をなくし、泣き喚いていたところをシグマは助けたのだ。ありもしないイカサマを偽装してゲームをやり直させ、自分がディーラーになって彼に目標の金額を稼がせた。
「サクラ役に頼んでカジノの評判を上げさせてるんだ。損失より利益の方が大きいだろうさ」
シグマの言うことにも一理あるが、これはあくまで建前だろう。シグマは甘い。目の前で「会社を守りたい」と泣かれてしまうと、助けずにはいられないのだ。
天空カジノに来る客だから、クリーンな仕事をしているわけではない。カジノの客の経営がうまくいくことは、すなわち目に見えない所で苦しむ人が増えるということになる。それでもシグマは、自分の手の届く人に思わず手を差し伸べてしまうのだろう。おそらく自分の矛盾にも、残酷にも感じられる優しさにも気がつかないまま。そういう辺りが、シグマはまだ子どもなのだと思う。
上司から彼の秘密を聞かされたとき、得体の知れない世界に触れて慄いた。彼は体こそ成人男性だが、とある事情でまだ三年しか生きていないらしい。彼の望みは、「家族」。なにかあったらこの言葉を使いなさい、と私の名前すら憶えていないような上司からは告げられていた。

お風呂から上がって、シグマの髪を乾かす。凛とした支配人としての面影もなく、大きな鏡の前に立ってねむたげに目を細めるシグマを見ていると、一日が終わったのだということをひしひしと感じた。
カジノは夜から始まるから、就業後には朝になっている。他の人達はこれから活動し始めるというのに、私たちは眠る準備をしているのだと思うと不思議な気持ちだった。
朝食はルームサービスで軽いものをとることにしていた。いつも思い思いに好きなものを食べているが、今日は珍しく、頼んだサンドイッチの具材まで揃った。仲が良いねぇ、と冗談めかしていうと、偶然だろう、とシグマはわざとらしく顔を逸らした。髪の隙間から見える耳は、照れているのか赤かった。
「はいこれ。今日新しく入った顧客ね」
ご飯を食べながら、顧客や経営の情報をいれることはシグマの習慣だった。彼は仕事のために睡眠すら削ることがあるから、どんな時間も無駄にしたくないのだろう。
業務中の空いている時間でまとめた書類を、ソファに座るシグマに渡す。いつもありがとう、とシグマはやわらかく微笑んだ。
「きみはもう覚えたのか」
書類に目を通しながらシグマは尋ねてきた。「作っている最中に覚えたよ」と返す。記憶力だけは生まれつきよく、大抵のことは一度で覚えられたが、組織にいてこれが役立つことがあるとは思ってもみなかった。シグマは初めて私の記憶力について気が付いたとき、「これはきみの才能だな」と言ってくれた。
私の才能。雷にでも打たれたような衝撃だった。この人はこれをそう思うのか、と思った。

だって私はずっと、選ばれなかった。私の家族は、私が小さい頃に組織に殺された。だからずっと孤独だった。生かしてもらってよかったなんてことは、一度も思ったことがない。殺す対象に、〝選ばれなかった〟。カジノの支配人にも――。誰からも必要とされることはなくて、歯車の一部でしかないのだとずっと思っていた。
シグマの秘書になったのも、シグマがカジノの話を聞いている時に、私が偶然近くにいたからという理由でしかなかったのだ。

カジノに来たばかりの頃、全てが嫌になった。カジノで接客することに不満があるわけではないが、今後も組織に流されるまま生きていくのだと思うと苦痛だった。
仕事終わりの朝には、カジノの屋上によく行った。起ききっていない街を見下ろす。もしこのままここから落ちたとしても、この街は私に気がつかないのだろう。
「なにを見ているんだ」
ぼうとしていたからか、背後に支配人がいることに気が付かなかった。
「別になんでもないですよ。それよりなにか御用でしたか」地上に目を向けたまま言う。
「話がある」
その時はシグマのことが苦手だったから、小さな嫌がらせのつもりでわざとゆっくりと降り向いた。私の緩慢な動きを、シグマは焦れることなく待ってくれていた。屋上は寒いからか、シグマの手にはブランケットがあった。
「きみが好きなんだ」
細工のような銀の瞳は緊張に揺れていた。揺れる瞳でこちらをうかがうシグマは、まるで子どものようだった。
まさか自分の上司に好意を向けられていると思っていなかったから、当時はまあ驚いた。けれど、同時にどこか冷静な自分もいた。墨を薄く引き伸ばしたような夜明け前の空がシグマの髪の色と同じだったから。
「……急に驚かせてすまない。言うつもりもなかったんだ。忘れてくれて構わないから」
私より驚いたようにシグマは目を見開いていて、ブランケットを渡すと私の前から去ろうとした。とっさに服の裾を掴んで止める。
「いいですよ、付き合いましょう。いつまでここにいられるか、わからないけれど」
結局、空に混じってもなんの違和感もないほど美しい彼のような人が、街の目を覚まさせたりカジノを眠らせたり、大きなものを動かしてくのだと察してしまったのだ。
緊張で、私の指先までかすかに震える。この先にあるものは破滅だろうか。それでも、寒いだろうと気遣って渡されたブランケットひとつで、それも悪くないとすら思えた。
ここは高度が高いから気温が低い。寒さを言い訳にするように、シグマの体に身を寄せてブランケットをふたりで被った。狭い空間にはふたり分の息しかなかった。さむいですね、と笑うと、同意するようにシグマも頬を緩めた。
ブランケットの隙間から見える夜明けの空は、徐々に朝焼けに変わっていた。かすかな光を受けるシグマの顔には朱が差していた。


体の半身に触れるあたたかさを愛おしく思いながら、シグマに告白された時のことを思い出していた。ふふ、と声を漏らすと、ソファに座って私の身体によりかかりながら書類に目を通すシグマが、不思議そうにこちらを見た。なんでもないよ、と頭を撫でて返す。付き合いはじめは頭に触れることは嫌がられたが、慣れたのか最近は目を瞑って受け入れてくれるようになった。
一時間ほどしてから、シグマから寝ようと声をかけてくれた。暇つぶしにいじっていた携帯を閉じて、一緒に寝室に向かう。いつの間にベッドメイキングをしたのか、キングサイズのベッドにはシーツが敷かれていた。
シグマがやったの、と聞くと、シグマはどこか誇らしげに頷いた。
「うれしい、ありがとう」
ベッドの中心に飛び込む。高級なベッドはスプリングを軋ませることなく私の身体を受けとめた。
仰向けになって、まだ立っているシグマの方を向く。「きて」と両手を広げた。部屋のライトが逆光になってしまってシグマの表情が見えない。シグマは私の上に覆い被さるようにベッドに乗り、私のことをきつく抱きしめた。
「あはは、おつかれさま~」
「きみもおつかれ」
自分より大きな体をしがみつくように抱きしめ返す。張りつめていたものが解けるようにシグマの体からは力が抜けて、重くなっていった。
「仕事のこと、一旦忘れて休もうね」やさしく耳元で囁く。
「ん」とシグマが素直に返事をする。
「起きたらなに食べたい? たまには私が作ろうか」
「前のやつ」
「クッキーか。あれはおやつだからなぁ、スコーンでいいかな」
ありがとう、とシグマは小さな声で言った。耳にかかる息がくすぐったかったが、彼がここにいることを強く感じられて、この体勢のまま話すことが私は好きだった。
私の上から避けてシグマが横に寝る。足元で半分に畳まれている毛布を体にかけて、暖房までつけてくれた。
部屋の電気を消すと、シグマは私のことを腕の中に閉じ込めるように抱きしめた。私はシグマの腕を枕にして、彼の胸板に額をつけた。互いの体温が混じるのを楽しむように、しばらく二人とも口を開かなかった。暖房の音だけが、あたたかな空気と共に空間を満たしていた。
寝るのが、とシグマは眠気の混じる声で呟いた。
「寝るのが、前は少し怖かったんだ。でもいまは、起きたらきみがいてくれるって知ってるから」
「うん。いるからね」
シグマの顔を覗き込みながら頬に触れる。彼は起きた時に私がいないことが苦手だったから、私が先に起きたときは彼も起こすことにしていた。シグマはいつもねむたげに目を開けると、私のいることに安心して微笑むのだった。
「おやすみ」
シグマは愛おしそうな手つきで私の後頭部を撫でながら言った。
「おやすみなさい」
シグマに撫でられると眠くなる。私も、と言いかけた言葉がまどろみに沈んでいく。
私もシグマに、助けられているんだ。世界は複雑なことに満ちている。完全な善悪に分けられない、集団の中で個を押し殺さなければいけない世界で、ただ「家族を守りたい」という自分の願いを通すシグマが私は好きなのだ。その人を助けたら周りがどうなるかなんて考えず、思わず動いてしまうシグマのことが。
彼を見ていると、自分のために生きていてもいい、と思えた。
シグマの顔が見たくなって、暗闇の中で薄く目を開ける。シグマの色素の薄い髪が混ざりながら散らばっていて、銀河のように見えた。ああ、やっぱりこの人はきれいだ、とどこか安心して目を閉じた。

夢の中で、私はシグマの記憶を見ていた。彼が誤って異能を使ってしまったのだろう。
天井につり下がるシャンデリアの光。客の声とチップの配られる音。人の喜びと悲しみが渦巻いて、カジノに異様な熱狂をもたらしている。
私には煩わしく感じる刺激も、シグマにとっては大切なものらしい。感じることすべてが新鮮なのか、シグマの世界は私よりもずっときらきらとしていた。その中で、星の爆発のようにひときわまばゆく輝くものがあった。
人ごみをぬって、その輝きの元に行く。この先に、なにか大切なものを見つけられそうな気がする。シグマの記憶が叫んでいる。
選ばれてしまった自分が、はじめて自分の意志で強く人を欲している。たとえその先にあるものが地獄でも、いつか離れ離れになってしまおうとも構わないと思えるくらい。
知らなかった感情がシグマのなかで産声をあげている。四肢を動かす感覚を確かに感じている。生きていると、思えている。
人の壁を抜けた先にあった輝きは、私だった。シグマと私の目が合う。つくられた心臓は、誕生を喜ぶように素早く鼓動した。
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