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中原

横浜の光は蛍に似ている。以前これを中也さんに話したことがある。そのとき中也さんはそうかい、と笑って、腕のなかに閉じ込めるようにわたしのことを抱き寄せた。傷つけることをなによりも恐れているような、やわくて優しい腕の力だった。

マンションのベランダから、じっと階下に目を凝らす。光は生きもののように不規則に点滅していた。弱くなったり強くなったり、増えたと思ったら急に消えて、そしていなくなる。なくなった光の先を追いたくても見つけられなくて、ただわたしは自分の視界のなかのきれいさを受け止めるしかない。

あたたかい明滅の中心で、一瞬だけなにかがまばゆく光った。中也さんだ、と考えるよりも先に感じとった。中也さんのバイクが、おびただしい光の澱のなかから矢のように、まっすぐにこちらに近づいてくる。

遅くなるから先に寝ているようにと中也さんからは言われていたけど、おかえりなさいと言えるなら待っていてよかった。

ベランダから中也さんのバイクの光を見てから少しもしないうちに、ぎいと扉が開く音がして、わたしは玄関に向かった。
「おかえりなさい、中也さん」

中也さんのお仕事は忙しくて、わたしといつも顔を合わせられるわけではない。わたしが夜に寝ている間に中也さんが帰ってきて、朝目を覚ます前に家を出てしまうこともあるくらいだ。自分のあかるく弾んだ声が玄関に反響する。

「起きてたのか」
「今日はお顔が見たかったんですもの」

中也さんは目を丸くしつつも、靴を脱いで部屋にあがる。バイクのヘルメットと紙袋を棚の上に置いて、わたしの方に手を伸ばしてきた。わたしは自分の身体に中也さんの腕が回るのをゆっくりと受け入れると、自分も少しだけ体を前に倒して、中也さんの胸に顔を沈みこませた。

中也さんの身体は、わたしが体重をかけてもびくともしない。身長差は手のひらくらいしかないはずなのに、骨格や身体のかたさがありありと男性らしさを伝えてきて、夫婦だというのにいまさら顔が熱くなる。

わたしの身体のかすかな緊張を読み取ったのか、中也さんは低く響くように笑った。首元に息がかかるのが擽ったくてひそかに身をよじる。
「はは、いつまでも慣れねえなぁ」
「……だって」
「ん、いーよ。かわいいから」
「う」

結婚してからもうすぐ一年経とうとしているけれど、顔を合わせてすぐは、まだじょうずに触れ合えない。しばらく時間が経つと慣れてくるけれど、はじめはどうしても緊張してしまう。
こんな距離で触れ合うのは、中也さんがはじめてなのだから、しかたがない。

わたしの家は歴史のある家柄で、いつか家の存続のために結婚させられることは決まっていたから、自由な恋愛はおろか異性との関わりも絶たれていた。

わたし達の結婚は、わたしの家と、中也さんの働いている組織の交渉のようなものだった。だから、結婚するまでわたし達はお互いの存在すら知らなかったのだ。

結婚相手のことを聞いたとき、年齢が近いことはうれしかったけれど、好きではなかった生家と繋がりの深い組織の幹部のことを、わたしはとうてい好きになれないだろうと考えていた。

でも、いまはこうやってわかりあって、あたらしい家族になれたのだから、生きているとなにが起こるかわからないものだなあ、とおもう。

中也さんは名残惜しそうにわたしのことを抱き締めてから、そっと身体を離した。棚の上に置いた紙袋を取って、「いい酒を買ってきたんだ。飲むか?」と尋ねながらリビングに入る。

昔は、女性は酌を強要されることが当たり前だと思っていたから、一緒に楽しもうとしてくれる中也さんのことがほんとうに好きだと思った。

お酒を飲む前に、中也さんはシャワーを浴びられた。
その間に、わたしがすることは決まっている。中也さんから預かったジャケットをラックにかけて、無香料のスプレーをかける。洗濯物は自分のものとまとめて洗濯機に入れて、洗剤もいれてスイッチを押した。

中也さんと暮らし始めるまで、わたしは洗濯の方法すら知らなかった。少しずつできることが増えていくのは、自分がひとになっていくような気がしてうれしい。

中也さんはもうお夕飯は済ませてしまったようだから、グラスとナッツとチーズをのせた小皿をソファの前の低いテーブルに並べた。数十分ほどして、シャワー室の水音が止まった。服は着て、髪は濡れたままの中也さんがリビングに顔を出して、
わたしに手招きする。
湿った空気のこもる脱衣所で、「頼むわ」と中也さんからドライヤーを渡された。一瞬だけ触れ合ったゆびはしっとりと濡れていた。
中也さんの背後に立って、ドライヤーの風を赤みがかった茶髪にあてていく。髪はすぐに水分をとばし、手櫛がさらさらと通るまでに乾いた。

揺れる髪の隙間からのぞくうなじは無防備で、いつも人に気を張らないといけない場所で働いている中也さんが、わたしには気をゆるしているとおもうと、とてもたまらなくなった。

たわむれに爪の先で中也さんのうなじに触れると、中也さんは「くすぐってえよ」と笑い声をあげた。

髪を乾かし終えてリビングに戻ると、中也さんはレコードで音楽をかけた。二人がけのソファに並んで座り、中也さんが買ってきてくれたウイスキーをグラスに注ぐ。

乾杯して、ふたり同時にグラスを傾ける。舌の先に度数の強いアルコールが触れて、ぴりとしびれた。

中也さんと一緒にならなかったら、おそらく一生出会わなかったであろう味だ。刺激がありながらも、その直後に果汁のような甘味が残って、思わず中也さんの方をまじまじと見つめてしまった。
「うまいかぁ?」
「ええ。ほんとうに」

「俺が前に、出張先で飲んだもんなんだ。あまりこういうのは飲ませたことがないから買うか迷ったけれど、口に合うならよかったぜ」

「中也さんといると、はじめてのことばかりでたのしいです」
中也さんは照れる様子もなく、まっすぐにわたしの目を見つめ返したまま、やさしく「よかったな」と言った。わたしは小さく頷いた。中也さんの肩にもたれて、視線を自分たちの膝の上に落とす。
中也さんの服の裾から覗く手の甲には細かい傷がついていて、それが中也さんの仕事の過激さを物語っていた。

中也さんの組織がなにをしているかなんて、くわしく探るつもりはない。けれどときどき袖について
いる血だとか、深夜にどこかにいく中也さんを見ていると、なんとなく察しはつく。

しばらくどちらも口を噤んで、お酒と音楽に浸った。静かにときを刻んでいくようなピアノの響きが部屋のなかに満ちていき、それに「呼応するように中也さんの体温がわたしに移っていく。

目を瞑ったまま、中也さんの手にそっと触れた。
「眠ぃか?」と中也さんが低く尋ねるから「いいえ」と返す。あなたに触れていたいだけなんです、と胸の内で呟いた。中也さんは、わたしの手をゆるく握り返した。中也さんのかたい指のはらが、わたしの指の側面を撫でる。くすぐったくて小さく声が漏れた。

「ふふ、くすぐったい」
「くすぐってはねぇよ」
「触れていたいだけ?」
「そーだよ」

わたしの指のあわいに、中也さんの指が差し込まれる。徐々に空気が湿度をおびていく。離れないとでもいうようにきつく絡められ、肩を空いている方の手でゆっくりと押された。身体が倒れ、背中にソファのやわらかい感触を感じる。わたしの顔に中也さんの髪がかかった。

ソファに倒れこんだまま、目をうすく開けて見つめ合う。中也さんはわたしに顔を近づけて、頬にくちづけた。軽く音を立てて離れ、つぎに唇同士が触れる。

「目、とじろよ」
中也さんがやさしい声音で言う。
「みていたくて」

中也さんはしょうがないとでもいうように、口の端をゆるめた。そ、と返事をして、わたしの頭を撫でる。

はじめて会ったときは粗暴なひとだという印象が強かったけれど、いまは彼はこんなにもわたしに、ていねいに触れてくれるようになった。

「少し酔ってっか? 身体があちぃ」
中也さんはわたしの体温を確認するかのように、わたしの身体に腕を回した。せっけんの匂いに包まれて、心地よくて目を閉じた。レコードはいつの間にか消えている。

無音のなかに中也さんの呼吸の音だけ聞こえて、それに合わせているうちにみるみるうちに手足の先があたたかくなった。

「ねむいのかも」
「寝るか?」
「はみがきと洗濯物……」
「洗濯物は俺しとくわ。歯だけ磨いてこいよ」

中也さんに軽くお礼を言って洗面台に向かう。歯を磨いていると、洗濯物を乾燥機に移し終えた中也さんが、横に並んだ。

「ごめんなさいって言わなくなったよな」と急に彼はわたしの頭をぽんと撫でた。
え、と鏡に映る中也さんの顔を見る。中也さんは歯ブラシを口に入れる直前に言った。

「結婚したばっかの頃は、なにしても申し訳なさそうだったから」
歯を磨いている途中だったから、なにも言えずに中也さんの服の裾を握った。上目遣いに中也さんを見ると、深い青の目はゆっくりと細められた。

どちらも歯を磨き終えてから、寝室にいった。広いベッドに並んで寝転がり、薄手の毛布をかける。
「電気消すぞ」
中也さんがベッドボードに手を伸ばす。部屋のなかには均一な暗闇が落ちた。仰向けになって、布団のなかで中也さんの手を探す。中也さんも手をつなごうとしていたのか、すぐに指がからんだ。

「……さっき言っていたことですけど、中也さんと結婚してから、自分ってひとだったんだって感じることが増えたんです」
「どうしたんだよ、急に」
「なんとなく、言っておきたい気がして……」

縁側から蛍の見えるあの家で、昔わたしは人ではなかった。人である前に女であり、子どもを産むための道具だった。滲むような夕闇のなかの、ぽつぽつとした蛍の光だけがわたしを癒していた。

中也さんの手が横から伸びてきて、腕のなかに囲うようにわたしを抱き締める。わたしは横向きになって、中也さんの胸板に顔を押しあてた。薄く香るせっけんの匂いに混じって、中也さんの肌の匂いがした。

あの家で、あのとき、ずっとわたしはなにかを待っていた。待ち続けて、いつの間にか夕方から夜になった。夜の長さは永遠に感じられた。肌に触れる夜風がくるしいほどに冷たくて、痛かった。

幼いころ一度だけ、蛍の群れのなかに、手を伸ばしたことがある。一匹一匹見分けのつかない蛍たちには、よけられてしまって触れられなかった。ただ生命の澱のうつくしさを、受け止めることしかできなくて、自分の輪郭をなくしてしまったようだと思った。

「俺もだ」
中也さんは、掠れた声で言った。繋いでいた手の力が強まる。
「俺も、結婚して、名前を呼んでもらうようになってから、俺が中原中也だと思えるようになった」

中也さんは、わたしの手を自分の胸の上にもってきて、触れさせた。中也さんの胸は呼吸と共に静かに上下する。手のひらからは、彼の身体のなかで心臓が鼓動しているのが感じとれた。
「わかるか?」
「ええ、動いてます……」

中也さんの心臓は、ほかのひとと全くおなじように、規則的に時間を刻む。たとえ、見分けのつけられない蛍のように、中也さんの身体はほかの人となんら変わりがないとしても、それでもいいとおもえた。

横浜の光は、消えていく蛍の光に似ている。あの光は命の揺れであることを知っている。中也さんのなかになにが棲んでいても、中也さんがなにを隠していたとしても、わたしにはどうだってよかった。
ただ、中也さんが触れられるひとなら。そこにいてくれるひとなら。離れないでいてくれるひとなら。

わたしの居場所はいつのまにか、中也さんと住むこの部屋になって、そのうちにもっと狭くなって中也さんの隣になった。

中也さんに名前を呼ばれる度に、中也さんのことを感じとれる度に、あいまいになってしまった自分と世界の境界線を引き直していくかのような気分だった。
「結婚してくれてありがとな」

中也さんは、眠気をにじませたゆったりとした声で言った。わたしは胸の上から手を離して、中也さんに抱き着いた。中也さんはさらにきつくわたしのことを抱き締めた。

彼の身体はあたたかかった。中也さんの、うまく例えられない肌の匂いがして、大好きな匂いに安心してわたしは身体の力を抜いた。
「愛してるぜ」

歯の浮きそうな科白を、恥ずかしげなく中也さんは呟く。彼がこんなにもまっすぐに愛を伝えてくる理由を知っている。きっと、後悔したくないから。

「わたしも愛しています」
はっきりと言って、口を閉じた。しばらくするうちに、ふたりの呼吸の音は重なっていった。ここに彼がいるのだと思うとうれしくて、口の端がほころんだ。

中也さんとねむる夜は、前より少し短い。それでも幾度なく繰り返される、溢れる水のような夜を、中也さんとたゆたっていたい。
光を手のなかに閉じ込めでもするかのように、中也さんの背中の服を握りしめた。そのなかは、少しあたたかいような気がした。


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