太宰治
濡れた衣服を掴む指先の感覚は、とうになくなっていた。
体に打ち付ける雨のせいで、自分の体の震えすらわからなかった。どんなに腕に力をこめても、自分より体の大きなその人を持ち上げられなくて、地面をずるずると引きずる音が、雨音に混じって狭い橋の下に響いていた。
雨に濡れない所に移動して、柔らかい土の上にその人の身体を倒す。空の隙間からの淡い月明りだけを頼りに、顔を覗き込んだ。
暗闇のなかでもはっきりとわかるくらい顔は青ざめて、死人のようだった。太宰さん、とか細く呼んだ。顔を近づけたまま、冷え切った肩を揺する。かすかな唸り声と共に、私の顔に息がかかった。
「……いきてる」
最悪の想像までしていたから、安堵で私の声はひどく震えていた。
ひとの命が散る瞬間を、何度も見たことがある。
死ぬ瞬間は、ふっと体が透明になったように見える。その光景を思い出して、わたしの目の前のひとも、やもすればそれになってしまうのではないかと、狼狽していたのだ。
「ふふ、勝手に殺さないでくれ給え」
疲労のたまった、低い声だった。彼は温度の感じさせない手で私の肩を掴むと、自分の方に軽く引いた。痙攣を起こしていた足では自分の体を支えきれず、体勢を崩して彼の体の上に覆い被さる。潰してしまわないようにとっさについた手が、ぬかるんだ泥を掴んだ。
「また、死に損なってしまった」
ため息と共に彼の胸がへこむのを頬で感じとった。なにも言えなくて、静かに唇を噛んだ。
太宰さんは、いつも死にたがっている。死に惹かれて、恋焦がれて、まるで告白の手段を試しているのかのように、様々な自殺の手段で死に近づくのだ。それでも、必ず失敗して未遂に終わる。その度に、私は動けなくなった彼を助けていた。
今日は夕立がいつもより激しかった。太宰さんが入水をしているのではないかという不安に駆られて、夜に川の周りを歩いた。そうしたら案の定、太宰さんは河原に打ち上げられていて、意識を失っていたのだ。
「毎度すまないね」
彼は申し訳なさげに言って、冷えた手で私の後頭部を摩った。
「いいえ。今更ですよ。もう何度も失敗しているんだから、諦めたらどう?」
なるべく冗談に聞こえるように軽い口調で言った。地面についた両腕が辛くなってきて、力を抜く。体重の重みで肺が縮まったのか、太宰さんが小さく息を吐いた。
「しないよ。いつか美女と心中するのが、私の夢だからね」
太宰さんは、いつもと変わらない科白を言った。私の気持ちの揺れが悟られていないことに一瞬胸を撫でおろす。『美女』の一言で嫉妬するくらいの、子どもではないつもりだった。
「美女? こんなところにいるじゃない。一度も誘われていませんけど?」
安心すると、からかうくらいの余裕は出てきて、挑発的に顔を近づけた。墨を溶かしたような暗闇の中で、太宰さんの顔の輪郭は霞んでいた。
「しないよ、君とは」
太宰さんはきっぱりと言い切った。
声に滲む慈愛が悔しい。いつもそうだ。彼は、私のことを庇護すべき対象だとしか捉えていない。
腕を折りたたんで、さらに顔を近づける。流れの激しい川の飛沫の音が、膜でも張ったように遠のいて聞こえた。唇の場所を検討づけて、口づけようとする。太宰さんが顔を背けたのか、触れた場所は彼の口の端だった。
「私と口づけたいのかい」
楽しげに彼の語尾があがる。自分の方が優位に立ちたかったはずなのに、太宰さんのその声を聞いただけで全ての画策が消えた。太宰さんが、手のひらで私の口を覆う。頷くことしか教わらなかった子供のように、そうです、と呟いた。
心のうちで、指の隙間を抜けた声が、太宰さんの胸に突き刺さればいいのに、と思った。
太宰さんは口を覆っていた手を滑らせ、私の後頭部に回した。そのまま、私の身体をゆっくりと横に倒す。
抵抗する気もなくなるような、気取りのない仕草だった。気が付いた頃には体勢が崩れていて、あっ、と喉を絞った声が狭い空間に反響した。体の横半分が地面にぶつかって、泥が跳ねる。湿った地面のせいで瞬く間に私の服は濡れた。
服が汚れることも気にせずに、太宰さんは腕で檻を作るように私のことを抱いた。腕の中の私に、やさしく低く囁く。雨の中でも彼の声だけはしっかりと聞き取れた。
「素直なことは好い事だ。君は可愛いらしいね」
可愛いらしい、が彼の中でなにを意味しているかくらい、とっくにわかっていた。昔から彼はそうやって私との境界線を引く。自分の内側に踏み込ませないように、少しでも近づいたら、優しい拒絶で押し返してくるのだ。
太宰さんの唇に近づきたくて腕の中でもがいたけれど、彼はむずがる子どもをあやすように笑うだけだった。
「こら、動いちゃだめだよ」
「太宰さん、あの」
「なんだい。はしゃいだ声を出して」
少し前まで自殺に失敗したことで沈んでいたのが嘘のように、彼の声が弾んでいる。彼が私に抱いているものは、欲の滲む愛情ではなく、彼のものとは思えないほど清らかなものかもしれない。
いつの間にか、雲間から差す月明りが強くなっていた。太宰さんの顔がようやく見える。彼の黒い瞳の表面は、人間らしく、静かに揺れていた。風のない日の湖のような、ささやかな変化だった。波紋がこちらにまで伝わってくるかのようだった。彼とはじめて会った時との差に、胸が疼いた。
彼はかつて、血にまみれた道を歩んでいた。彼の世界は暴力で満ちていた。太宰さんの仕事を、一度だけ見たことがある。
誰にも虐げられないで済む圧倒的な強さに、ひどく憧れた。彼はその中で、まるでなにかを探しているみたいに見えたけれど、私には彼がなにを考えているのかわからなかった。
「……心配しているんですからね」
私の震えた声が彼の濡れた服に染みる。どこにいても死を陰に潜めているような生き方をしているから、いつか、本当に太宰さんが亡くなってしまいそうな恐怖がある。
感覚のない指の先で、太宰さんの茶色の外套を握る。
「それは済まないね。でも、君は自分の意思でもうどこにも行けるんだよ。私のことなんて置いていっても構わないんだ」
私のことを救ってくれた彼が、優しい声でそんなことを言う。
指先が震えるほど力を込めて握る。それでも雨で冷えたせいでうまく掴めない。
「君は、もうひとりでも大丈夫だよ」
太宰さんの甘い囁きが、残酷に私を刺してくる。胸の隙間を通った言葉が心臓に破片を残すようで苦しい。いっそ胸をえぐった方が、彼に全てを打ち明けられる気がする。死ぬなら私と一緒にしてくださいと、感情に任せて吐き出してしまえれば、どれだけいいか。
「大丈夫なんて言わないで」
「ごめんね」
太宰さんは、落ち着かせるように私の頭を撫でる。
美女と心中したいと言って、私以外のひとを自分の死に関わらせる気があることが、たまらなく嫌だった。私を傍に置いてくれないことが、私を、太宰さんの人生に巻き込んでくれないことが、思わず泣いてしまいそうなほど嫌で嫌で、たまらなかった。
けれどそれを口にしたいわけでもない。昔より、少し人間らしくなった太宰さん。私は、私の命を救ってくれたあの冷徹な彼が好きなのか、今の仮初の彼が好きなのか、もうわからなくなっている。ただ、ねじれた愛情ばかりが私の中で交錯して、首を絞める。
私の言葉で揺らぐ太宰さんを見たくない。憧れを壊したくない。私の好きな太宰さんのままでいて欲しいから彼の深淵を覗けないくせに、部外者にされることを嫌う。
指に泥がついていることも気にせずに、太宰さんの顔に手を当てた。人は死ぬ瞬間に透明になるから、彼の存在をこの場に刻みたかった。月の光で白く輝いていた太宰さんの肌が汚れ、泥は月明かりで光沢を帯びた。汚れたものの輝きがなによりも美しく見
えた。
「汚れるじゃないか」
太宰さんは、優しい声で言った。聞いていると苦しくなる声だった。
「汚してるんです」
きらい。太宰さんなんてきらい。そんなことを言えるわけもなくて、ただ胸の内で唱える。
憧れだけでは人を愛せない。私に正しい愛情の向け方を教えようとしてくれていた人は、その途中で死んでしまった。
太宰さんは私の手の甲の上に自分の手を重ね、薄く微笑んだ。置きざりにされた子どもが、全て諦める瞬間のような微笑みだった。
「私たちはどちらも、裏切られた青年だね」
芯から冷えた、死んだ指を温めるかのように、太宰さんは私の手を握った。寒さで感覚を失った指に、徐々に血流が戻って温かくなってくるのを感じた。冷たいもの同士なのに、触れていると熱が発生するのが不思議でたまらなかった。かすかなその熱だけが、私たちのよすがである気がした。
「置いていかないで、太宰さん」
「君が、私を置いていくんだよ」
つられたのか、太宰さんの声までかすかに震えた。そんなところからも、私の知っていた太宰さんが徐々に消えていっているのを感じた。
太宰さんの背中に張り付くような夜空に、月が浮いているのが見えた。月の美しさが憎い。美しいものの正しさが憎い。正しさだけで救われるのなら、私も、きっと太宰さんもこんなには苦しんでいない。
指の腹の泥を、さらに太宰さんの頬に強く押しあてる。罰せられているかのように太宰さんは笑った。
□□□
泥と雨の中で私は生まれた。親の顔はほとんど覚えていない。貧民街の子どもたちと、一緒に暮らしていた。飢えと病気で、人が透明になる瞬間も幾度となく見た。
太宰さんと会ったのは、いまから数年前だ。雨の日だった。濡れた金属と血の匂いが狭い路地に漂っていた。本能で近づいてはいけないことは知っていたのに、なぜかその日は興味が引かれた。その先になにか、救済がある気がしていた。
路地に面した扉から、血の匂いが染みついた男がでてきた。男は黒い外套を来て、片目に包帯を巻いていた。彼は包帯のない方の目を冷たく細めて、私を見下ろす。揺らぐことのない、死んだような黒い目だった。長い外套だけ、生きもののように私の視界の端で舞っていた。
私は理由もわからずに彼についていった。きまぐれだったのか殺されはしなかった。広い背中に連れられた先は、古い民家でできた孤児院だった。彼はそこに私を置いていって、それからしばらくの間、尋ねてはこなかった。
孤児院にいつも来て構ってくれたのは、織田さんという男の人だった。年は私を拾った彼よりも少し年上に見えた。織田さんは、私に子供らしさというものを教えてくれた。
お箸の握り方、ものの頼み方、挨拶。織田さんが私の親代わりと言ってもいいくらいだった。
私は、何度か織田さんに私を孤児院に連れてきた男のことを聞いたことがあるが、うまくはぐらかされてしまった。
織田さんとの記憶はもう薄れてしまっていているけれど、ひとつだけ覚えていることがある。
公園で遊んだ帰りの薄暮のなかで、ぽつぽつと髭の生えた顎に触れながら、よく彼は言った。
「暗い道も、明るい道も君はどちらも知ったけれど、好きな方を選んでいいんだ。どちらが正しいなんてない。ただ、後悔しない方を、自分の意思で選ぶように」と。
元々赤に近い髪が、太陽に染められてさらに赤く見えた。血よりも赤いのに、それでも織田さんと死は像が結びつかなかった。
そんなこと、勘違いにすぎなかっただけだと気が付くのは、それからすぐだった。
ある時から唐突に、孤児院に織田さんはこなくなった。少しして、私が孤児院を出る年齢になったとき、また黒い外套の男が私の前に現れた。彼は、予感はできていた織田さんの死を淡々と告げたあと、私を引き取ると言った。
その黒い外套の男が、太宰さんだった。彼は人が変わったように見えた。
はじめて会ったときよりも態度が柔らかく、いや、笑みを張り付けたような、軽薄な気配を帯びていた。私は彼の変化が気になったけれど、深くは追究できなかった。
太宰さんは、アパートの一室を私に貸して、仕事まで紹介してくれた。
太宰さんは、お酒を持って時々私のアパートに顔を出した。
八畳のアパートの二階から、窓の淵に肘をかけた太宰さんが、夜の横浜の街を見渡す。昔のように血の匂いは感じない。なにか、悼むかのような目つきのまま、ゆっくりとお酒の入ったグラスを傾ける。
酔いのせいか、耳の淵はほのかに赤い。そのうちに上機嫌になって、小さく鼻唄を歌う。織田さんが私に教えてくれた子守歌。私はそれに気がつかないふりをする。
太宰さんの視線の先は、どこに向いているのかわからない。私は邪魔にならないように静かに、太宰さんの横顔に視線を注ぐ。耳のそばまで伸びた髪の毛が、風にあおられて瞳を隠した。彼の瞳の揺れを、想像する。
□□□
体に打ち付ける雨のせいで、自分の体の震えすらわからなかった。どんなに腕に力をこめても、自分より体の大きなその人を持ち上げられなくて、地面をずるずると引きずる音が、雨音に混じって狭い橋の下に響いていた。
雨に濡れない所に移動して、柔らかい土の上にその人の身体を倒す。空の隙間からの淡い月明りだけを頼りに、顔を覗き込んだ。
暗闇のなかでもはっきりとわかるくらい顔は青ざめて、死人のようだった。太宰さん、とか細く呼んだ。顔を近づけたまま、冷え切った肩を揺する。かすかな唸り声と共に、私の顔に息がかかった。
「……いきてる」
最悪の想像までしていたから、安堵で私の声はひどく震えていた。
ひとの命が散る瞬間を、何度も見たことがある。
死ぬ瞬間は、ふっと体が透明になったように見える。その光景を思い出して、わたしの目の前のひとも、やもすればそれになってしまうのではないかと、狼狽していたのだ。
「ふふ、勝手に殺さないでくれ給え」
疲労のたまった、低い声だった。彼は温度の感じさせない手で私の肩を掴むと、自分の方に軽く引いた。痙攣を起こしていた足では自分の体を支えきれず、体勢を崩して彼の体の上に覆い被さる。潰してしまわないようにとっさについた手が、ぬかるんだ泥を掴んだ。
「また、死に損なってしまった」
ため息と共に彼の胸がへこむのを頬で感じとった。なにも言えなくて、静かに唇を噛んだ。
太宰さんは、いつも死にたがっている。死に惹かれて、恋焦がれて、まるで告白の手段を試しているのかのように、様々な自殺の手段で死に近づくのだ。それでも、必ず失敗して未遂に終わる。その度に、私は動けなくなった彼を助けていた。
今日は夕立がいつもより激しかった。太宰さんが入水をしているのではないかという不安に駆られて、夜に川の周りを歩いた。そうしたら案の定、太宰さんは河原に打ち上げられていて、意識を失っていたのだ。
「毎度すまないね」
彼は申し訳なさげに言って、冷えた手で私の後頭部を摩った。
「いいえ。今更ですよ。もう何度も失敗しているんだから、諦めたらどう?」
なるべく冗談に聞こえるように軽い口調で言った。地面についた両腕が辛くなってきて、力を抜く。体重の重みで肺が縮まったのか、太宰さんが小さく息を吐いた。
「しないよ。いつか美女と心中するのが、私の夢だからね」
太宰さんは、いつもと変わらない科白を言った。私の気持ちの揺れが悟られていないことに一瞬胸を撫でおろす。『美女』の一言で嫉妬するくらいの、子どもではないつもりだった。
「美女? こんなところにいるじゃない。一度も誘われていませんけど?」
安心すると、からかうくらいの余裕は出てきて、挑発的に顔を近づけた。墨を溶かしたような暗闇の中で、太宰さんの顔の輪郭は霞んでいた。
「しないよ、君とは」
太宰さんはきっぱりと言い切った。
声に滲む慈愛が悔しい。いつもそうだ。彼は、私のことを庇護すべき対象だとしか捉えていない。
腕を折りたたんで、さらに顔を近づける。流れの激しい川の飛沫の音が、膜でも張ったように遠のいて聞こえた。唇の場所を検討づけて、口づけようとする。太宰さんが顔を背けたのか、触れた場所は彼の口の端だった。
「私と口づけたいのかい」
楽しげに彼の語尾があがる。自分の方が優位に立ちたかったはずなのに、太宰さんのその声を聞いただけで全ての画策が消えた。太宰さんが、手のひらで私の口を覆う。頷くことしか教わらなかった子供のように、そうです、と呟いた。
心のうちで、指の隙間を抜けた声が、太宰さんの胸に突き刺さればいいのに、と思った。
太宰さんは口を覆っていた手を滑らせ、私の後頭部に回した。そのまま、私の身体をゆっくりと横に倒す。
抵抗する気もなくなるような、気取りのない仕草だった。気が付いた頃には体勢が崩れていて、あっ、と喉を絞った声が狭い空間に反響した。体の横半分が地面にぶつかって、泥が跳ねる。湿った地面のせいで瞬く間に私の服は濡れた。
服が汚れることも気にせずに、太宰さんは腕で檻を作るように私のことを抱いた。腕の中の私に、やさしく低く囁く。雨の中でも彼の声だけはしっかりと聞き取れた。
「素直なことは好い事だ。君は可愛いらしいね」
可愛いらしい、が彼の中でなにを意味しているかくらい、とっくにわかっていた。昔から彼はそうやって私との境界線を引く。自分の内側に踏み込ませないように、少しでも近づいたら、優しい拒絶で押し返してくるのだ。
太宰さんの唇に近づきたくて腕の中でもがいたけれど、彼はむずがる子どもをあやすように笑うだけだった。
「こら、動いちゃだめだよ」
「太宰さん、あの」
「なんだい。はしゃいだ声を出して」
少し前まで自殺に失敗したことで沈んでいたのが嘘のように、彼の声が弾んでいる。彼が私に抱いているものは、欲の滲む愛情ではなく、彼のものとは思えないほど清らかなものかもしれない。
いつの間にか、雲間から差す月明りが強くなっていた。太宰さんの顔がようやく見える。彼の黒い瞳の表面は、人間らしく、静かに揺れていた。風のない日の湖のような、ささやかな変化だった。波紋がこちらにまで伝わってくるかのようだった。彼とはじめて会った時との差に、胸が疼いた。
彼はかつて、血にまみれた道を歩んでいた。彼の世界は暴力で満ちていた。太宰さんの仕事を、一度だけ見たことがある。
誰にも虐げられないで済む圧倒的な強さに、ひどく憧れた。彼はその中で、まるでなにかを探しているみたいに見えたけれど、私には彼がなにを考えているのかわからなかった。
「……心配しているんですからね」
私の震えた声が彼の濡れた服に染みる。どこにいても死を陰に潜めているような生き方をしているから、いつか、本当に太宰さんが亡くなってしまいそうな恐怖がある。
感覚のない指の先で、太宰さんの茶色の外套を握る。
「それは済まないね。でも、君は自分の意思でもうどこにも行けるんだよ。私のことなんて置いていっても構わないんだ」
私のことを救ってくれた彼が、優しい声でそんなことを言う。
指先が震えるほど力を込めて握る。それでも雨で冷えたせいでうまく掴めない。
「君は、もうひとりでも大丈夫だよ」
太宰さんの甘い囁きが、残酷に私を刺してくる。胸の隙間を通った言葉が心臓に破片を残すようで苦しい。いっそ胸をえぐった方が、彼に全てを打ち明けられる気がする。死ぬなら私と一緒にしてくださいと、感情に任せて吐き出してしまえれば、どれだけいいか。
「大丈夫なんて言わないで」
「ごめんね」
太宰さんは、落ち着かせるように私の頭を撫でる。
美女と心中したいと言って、私以外のひとを自分の死に関わらせる気があることが、たまらなく嫌だった。私を傍に置いてくれないことが、私を、太宰さんの人生に巻き込んでくれないことが、思わず泣いてしまいそうなほど嫌で嫌で、たまらなかった。
けれどそれを口にしたいわけでもない。昔より、少し人間らしくなった太宰さん。私は、私の命を救ってくれたあの冷徹な彼が好きなのか、今の仮初の彼が好きなのか、もうわからなくなっている。ただ、ねじれた愛情ばかりが私の中で交錯して、首を絞める。
私の言葉で揺らぐ太宰さんを見たくない。憧れを壊したくない。私の好きな太宰さんのままでいて欲しいから彼の深淵を覗けないくせに、部外者にされることを嫌う。
指に泥がついていることも気にせずに、太宰さんの顔に手を当てた。人は死ぬ瞬間に透明になるから、彼の存在をこの場に刻みたかった。月の光で白く輝いていた太宰さんの肌が汚れ、泥は月明かりで光沢を帯びた。汚れたものの輝きがなによりも美しく見
えた。
「汚れるじゃないか」
太宰さんは、優しい声で言った。聞いていると苦しくなる声だった。
「汚してるんです」
きらい。太宰さんなんてきらい。そんなことを言えるわけもなくて、ただ胸の内で唱える。
憧れだけでは人を愛せない。私に正しい愛情の向け方を教えようとしてくれていた人は、その途中で死んでしまった。
太宰さんは私の手の甲の上に自分の手を重ね、薄く微笑んだ。置きざりにされた子どもが、全て諦める瞬間のような微笑みだった。
「私たちはどちらも、裏切られた青年だね」
芯から冷えた、死んだ指を温めるかのように、太宰さんは私の手を握った。寒さで感覚を失った指に、徐々に血流が戻って温かくなってくるのを感じた。冷たいもの同士なのに、触れていると熱が発生するのが不思議でたまらなかった。かすかなその熱だけが、私たちのよすがである気がした。
「置いていかないで、太宰さん」
「君が、私を置いていくんだよ」
つられたのか、太宰さんの声までかすかに震えた。そんなところからも、私の知っていた太宰さんが徐々に消えていっているのを感じた。
太宰さんの背中に張り付くような夜空に、月が浮いているのが見えた。月の美しさが憎い。美しいものの正しさが憎い。正しさだけで救われるのなら、私も、きっと太宰さんもこんなには苦しんでいない。
指の腹の泥を、さらに太宰さんの頬に強く押しあてる。罰せられているかのように太宰さんは笑った。
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泥と雨の中で私は生まれた。親の顔はほとんど覚えていない。貧民街の子どもたちと、一緒に暮らしていた。飢えと病気で、人が透明になる瞬間も幾度となく見た。
太宰さんと会ったのは、いまから数年前だ。雨の日だった。濡れた金属と血の匂いが狭い路地に漂っていた。本能で近づいてはいけないことは知っていたのに、なぜかその日は興味が引かれた。その先になにか、救済がある気がしていた。
路地に面した扉から、血の匂いが染みついた男がでてきた。男は黒い外套を来て、片目に包帯を巻いていた。彼は包帯のない方の目を冷たく細めて、私を見下ろす。揺らぐことのない、死んだような黒い目だった。長い外套だけ、生きもののように私の視界の端で舞っていた。
私は理由もわからずに彼についていった。きまぐれだったのか殺されはしなかった。広い背中に連れられた先は、古い民家でできた孤児院だった。彼はそこに私を置いていって、それからしばらくの間、尋ねてはこなかった。
孤児院にいつも来て構ってくれたのは、織田さんという男の人だった。年は私を拾った彼よりも少し年上に見えた。織田さんは、私に子供らしさというものを教えてくれた。
お箸の握り方、ものの頼み方、挨拶。織田さんが私の親代わりと言ってもいいくらいだった。
私は、何度か織田さんに私を孤児院に連れてきた男のことを聞いたことがあるが、うまくはぐらかされてしまった。
織田さんとの記憶はもう薄れてしまっていているけれど、ひとつだけ覚えていることがある。
公園で遊んだ帰りの薄暮のなかで、ぽつぽつと髭の生えた顎に触れながら、よく彼は言った。
「暗い道も、明るい道も君はどちらも知ったけれど、好きな方を選んでいいんだ。どちらが正しいなんてない。ただ、後悔しない方を、自分の意思で選ぶように」と。
元々赤に近い髪が、太陽に染められてさらに赤く見えた。血よりも赤いのに、それでも織田さんと死は像が結びつかなかった。
そんなこと、勘違いにすぎなかっただけだと気が付くのは、それからすぐだった。
ある時から唐突に、孤児院に織田さんはこなくなった。少しして、私が孤児院を出る年齢になったとき、また黒い外套の男が私の前に現れた。彼は、予感はできていた織田さんの死を淡々と告げたあと、私を引き取ると言った。
その黒い外套の男が、太宰さんだった。彼は人が変わったように見えた。
はじめて会ったときよりも態度が柔らかく、いや、笑みを張り付けたような、軽薄な気配を帯びていた。私は彼の変化が気になったけれど、深くは追究できなかった。
太宰さんは、アパートの一室を私に貸して、仕事まで紹介してくれた。
太宰さんは、お酒を持って時々私のアパートに顔を出した。
八畳のアパートの二階から、窓の淵に肘をかけた太宰さんが、夜の横浜の街を見渡す。昔のように血の匂いは感じない。なにか、悼むかのような目つきのまま、ゆっくりとお酒の入ったグラスを傾ける。
酔いのせいか、耳の淵はほのかに赤い。そのうちに上機嫌になって、小さく鼻唄を歌う。織田さんが私に教えてくれた子守歌。私はそれに気がつかないふりをする。
太宰さんの視線の先は、どこに向いているのかわからない。私は邪魔にならないように静かに、太宰さんの横顔に視線を注ぐ。耳のそばまで伸びた髪の毛が、風にあおられて瞳を隠した。彼の瞳の揺れを、想像する。
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