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宇宙人

1

初めて見た時、きっとその人は宇宙人なんだろうと思った。私とは別の星に生まれて、別の物を食べて、別の時間を生きているやんだろう、と。
彼は自動販売機くらい背が高く、人混みの中でも頭ひとつ飛び抜けていた。転んだりしたら軽く地面が揺れてしまいそうなほど大きな体格。

すれ違いざま、失礼かと思いつつもつい目で追っていると、菖蒲色が目の中に飛び込んできた。目が合った、彼がけだるげな仕草で私を見た。その瞬間、眠そうに垂れていた瞼がすばやく瞬いて、その奥の瞳は私を射抜いた。

彼の起こす地震は、私の胸のしんにまで響き、体全体を揺さぶった。その日、私は自分が誕生した日のことを思い出した。そうしてほとんど咄嗟に、私は彼の制服の腰の辺りを掴んだ。それが出会いだった。三年ほど前の話だ――。

喉に痺れるような痛みを感じて、夢から目を覚ました。室内の眩さに顔をしかめながらも、時間を確認すべく携帯に手を伸ばす。だいたい二十三時前、そうだ、今日は……と頭の中で寝る前の記憶を思い起こした。

バッシュと床が擦れる高く渇いた音、踊るように舞っていた紫色の髪の毛が鮮明に脳裏に描かれる。これはついさっきの光景だ。記憶の水面を掬うように、甲高い電子音が携帯から鳴った。すぐに応答のボタンを押し、携帯を耳に当てる。

「もしもし〜?」

電話越しでも表情が想像できるほど聞き慣れた、間延びした声。彼はおそらく頬を弛めて笑っているのだろう。

「敦くん、どうしたの?」
「あれ?ごめんね、寝てたぁ?」

掠れた声から察したのか、彼が気遣うように言った。

「ううん、大丈夫だよ」
「よかった。ねぇ、今から少しでてこれない〜?」

大きな体が見えないからか、敦くんの声は電話越しだといつもより甘えているように幼く聞こえる。バスケをする時の肉食獣が唸るような低い声がよくここまで変わるものだ、と思う。

それにしても、こんな夜更けに彼から誘いが来るのは初めてだ。彼の一言で簡単に胸が跳ね、激しい動悸を感じる。

午後二十三時七分。高校生が出歩くにはいささか遅すぎるほどだ。返事に詰まっていると消えかかりそうな声が、「おねがい」とねだってきた。

「……夜遅いから、少しだけだよ。いまどこにいるの?」

私の了承に敦くんは満足げな相槌を打つ。

「そう言ってくれると思ってたよ〜。実はさ〜、もう近くまで来てるんだよねぇ。窓、開けてみて」

促されてカーテンを開けると、窓から身を乗り出して下を覗いた。視界は白っぽく、数メートル先もぼやける。頬に冷たい感触を感じた。おだやかに雪が降っていることに気がつく。下に目をこらすと、雪男のような影がこちらに手を振っていた。敦くんだ。

「やっほ〜。急に来ちゃってごめんね〜」

耳に当てたままの携帯から、深夜だからボリュームを落とした、秘めた声が聞こえてきた。声は真っ直ぐと私の耳に流れ込んでくる。焼けそうに耳が熱い。耳元で彼に囁かれている。そんな気がした。

2

私の愛しの宇宙人さんは、顔を合わせた瞬間強く私を抱きしめた。頭二つ分ほど身長差があるから、顔が彼の胸に埋もれて苦しい。

「敦くん、どうしたの」
広い背中に手を回しながら尋ねた。これだけ体も大きいと生産される熱の量も段違いなのか、雪の中でも彼の体は暖かかった。
「ん〜、何となく会いたくなっちゃってさ〜」

取り繕うことのない素直な言葉に、頬が熱くなる。

「試合の後なのに疲れてないの?」
「逆に目が冴えちゃって眠れないんだよね〜。そっちこそ、あんな応援したんだから疲れたでしょ〜?」
「そんなことないよ、応援好きだし」

数度やり取りを交わすと、敦くんは「そっか」と言って体を離し、そのまま流れるような動作で私の頭を撫でた。胴体に当たっていた体温が遠ざかり反射的に身震いをすると、敦くんは自分が付けていたマフラーを首に巻いてくれる。マフラーからは敦くんと同じ甘いお菓子の匂いがした。

「寒くない? 少し歩こっか〜」

頷いた後、大きな掌と手を繋ぐ。手の大きさが違いすぎるから、私は敦くんの人差し指から薬指を握って、敦くんは私の手のひらを上から包み込むようにする。敦くんの手は皮が固くてごつごつしている。冬なのにクリームも塗らないから乾燥していて、所々表皮が切れている。その傷から流れる血は緑色かもしれない、とくだらないことを考える。

撫でるように緩やかで優しい雪の中を、私たちは歩いた。永遠に途切れることのなさそうな夜の静寂が、雪と共に私の胸にしんしんと降り積もる。街灯の光が雪を照らしてできた白っぽい靄が美しくて、私はしばらく目を奪われた。

幻想的な光景を前にしても、敦くんは敦くんのままのペースを保つ。彼は空いている方の手でポケットを漁ると、器用に片手でお菓子の袋を開け口に放りこんだ。怪獣のような大きな口の中で、スナック菓子が軽い音を立てる。深夜によくもまあ、と眺めていると、視線に気がついたのか敦くんがちらりとこちらを見た。

「どしたの〜、食べる〜?」
「うーん、私はいいかな」
「まぁそう言わずにさ〜。君が好きそうなものも、持ってきたんだよ〜」

敦くんはそう言うと、またポケットの中に手を入れた。素早く包装を解いたかと思うと、私の口に強引に押し付ける。切りそろえられた爪の先が私の唇に触れた。

「あ〜ん」

敦くんは腰をかがめて、私の顔を覗き込む。裏表のない、子供のような純粋な目付きだ。敦くんのまつ毛の上に雪の結晶が乗って溶けるのが、スローモーションに見える。

束になったまつ毛を見つめつつも、唇をゆっくりと開いた。長い指に摘まれたお菓子が唇の隙間を割って入った。指先が唇の裏側に触れ、ぴりとした痛みが残る。そちらが気になってお菓子の味を感じれなくなってしまいそうで、舌の上でそれを味わうのに集中した。

「あ、甘い……」
「でしょ〜。絶対これ好きだと思ったよ。新作のチョコレートー」

朗らかな人当たりの良い笑みを敦くんは浮かべ、また私の頭を撫でた。敦くんはとてもわかりやすい人で、嬉しくてたまらないといった様子を隠さない。敦くんの先輩の氷室さんとかは、私の前での敦くんを見ると驚く。「敦もそんなことするんだな」と。

彼以外のことを考えていた私の脳内を読み取ったかのように、敦くんは私の頬を軽く抓った。手加減されているから痛みなんて決してなく、寧ろくすぐったいくらい。

「ちょっと〜、今何考えてたの?」
「んーん、なんでもないよ」
「まぁいいけど〜」

拗ねたように頬を膨らませる敦くんが、私の手を引いてまた歩き出す。敦くんの手は冷える気配がなく、私にどんどん熱を送ってくるから寒さを感じない。手のひらの暖かさとマフラーからの甘い匂いで、彼に包まれているように思う。

どれほど歩いたか分からない。ほんの数分の気もするし、もう何時間も歩いているような気もする。敦くんは私を、高台の公園へと連れてきた。

高台からは寝静まりかえった街が一望できた。電気の消えた住宅街、誰もいない公園、人一人どころか、車ひとつ通らない大通り。密集してひとつの塊となっている。

無機質で巨大なそれらの上に、雪が覆い被さるように積もっていく。屋根や木々は白く染めあげられ、均一な色調になった。まるで生まれたばかりの星の地面のような色。

「別の星に来ちゃったみたい……」

自然と漏れた感嘆の声と共に、白い息が空中に溶けた。熱を帯びた蒸気が雪と混じりあっていく。興奮から、繋いでいる手に力を込めた。「ねぇ、」あつしくん、と隣にいる彼の方を向こうとした時だった。

噛み付かれる、と思った。宇宙人。瞬間的にその単語が頭に閃光のように浮かび、その衝撃から目を固く瞑った。脳みそが揺さぶられ視界がちかちかとする。

敦くんは私の肩を私よりずっと大きな手で掴み、腰を曲げ私に唇を寄せた。そして遮二無二、至近距離で静止した。唇はすんでのところで触れ合わない、数センチの距離。視界いっぱいに敦くんの瞳の菖蒲色が広がり、その中に映るちっぽけな私と目が合う。

「敦くん……」

蚊の鳴くような声で彼の名前を呼ぶと、敦くんの瞳の光が強まった。硬い手のひらは私の肩を滑り、上腕、前腕と通って手のひらに辿り着いた。敦くんは私の手のひらと自分の手のひらを重ね合わせる。決して大きさの揃わない手を見比べたかと思うと、惚けた様子でそっと口を開いた。

「小さいね……」

言葉の真意を視線だけで問い返す。敦くんは続けた。

「こうやって暗い所で君を見てるとさ〜、ほんとにここからいなくなっちゃいそうじゃない〜? なんだっけ、かぐや姫? みたいな〜」

語尾を伸ばす口調は変わらないものの、声色は寂しげに沈んでいた。しばらくの沈黙。雪が地面に溶ける気配。頬を刺す冷気。

「……君本当は」と、敦くんは私の手を愛しそうに撫でながら、付け足して言う。

「宇宙人……かなにか?」

敦くんの言葉は地震のように、いつだって真っ直ぐ届いて私を揺さぶる。「そんなわけないでしょ」と一蹴することができなかった。私も彼と同じことを、初めて出会った時に思ったのだ。

私たちは違いすぎる。性別も、体の大きさも、食べる量も、歩く速さも、なにもかも。その差があまりにも大きすぎて、私から見る彼は同じ星に生まれたものじゃないように感じる。それは彼からしても同じことなのだ。彼から見た私も恐らく、異星人のようなもの。

太い指先が、繊細な動きを持って私の頬に触れた。本当におそるおそるといった様子で、その触れ方が心地よくて好ましく思う。「触れたら壊れちゃいそうだね〜」と敦くんが息を潜めて呟いた。

雪が体に触れる角度が変わった。突き刺すような冷たい風が横向きに吹いて、私の体温を奪う。紫色の髪がカーテンのように風にはためいて、骨格の浮き出たごつごつとした顎を露わにした。男らしいなぁ、とまじまじと眺めてしまう。そんな私をよそに敦くんはさりげなく風上に移動して、風から私を庇った。

「初めて会った時のことさぁ」

覚えてる? 敦くんは言いながら、私の脇に手を差し入れた。視界が急上昇する。力を込めたのがわからないほど軽々と持ち上げられ、公園の柵の上に座らされた。敦くんと目の高さが合い、顔が近づいた。

「うん……。覚えてるよ」

忘れるわけがない。私は敦くんに初めて会ったあの日、宇宙人に一目惚れをしたのだ。彼の瞳が私の事を射抜いた瞬間、稲妻に打たれたような衝撃が走り、とっさに体は動いていた。自分が持っていない物を持っている人に、惹かれるのだと思う。

「びっくりしたよね〜、急に腰の辺り引っ張られたと思ったら、ちっちゃい子が俺の服の裾掴んでるからさ〜」

からかうような笑みを敦くんは頬に浮かべる。当時の、まだ大人になりきっていない、いとけない表情がフラッシュバックした。過去の自分の行動を恥じて、「別に誰にでもあんな事するわけじゃないし……それに、」と敦くんに言った。敦くんは照れたようにはにかみながら、「ん〜?」と続きを促す。

「敦くんが最初で最後だよ」

柵に座っていて顔が近いおかげで、視界は敦くんで埋まっていた。私は敦くんの菖蒲色の瞳を見つめ、敦くんも私から目を逸らさなかった。敦くんの硬そうな質感の頬に雪が落ちて溶ける。勢いの強まった雪は私たちを狭い空間に閉じ込め、世界に二人だけしかいないような気分にさせた。

敦くんは優しく微笑み、その動きによって濡れた頬がきらきらと光る。美しい、と心の底から思う。

「初めて会った時、君のこと守らなきゃいけないなって、思ったんだよ〜」
「そうなの?」
「うん〜」と敦くんは言いながら、力を込めずに私の体に手を回した。「こんなふうにね〜」とへらりと笑み漏らし、雪から私を守る。

顔を近づけてまじまじと私を見つめたかと思うと、また溶けそうな笑みを漏らす。「どうしたの?」「かわいくてさぁ〜」なんて、甘ったるいやり取りをして、むず痒くなって身動ぎをする。

袖や襟から露出した部分の肌と肌が触れ合い、熱を産む。敦くんの熱さは全身を瞬く間に巡って、寒い夜でも決して冷めない。そんな不思議な熱。体の奥の、胸の深層に流れ込んできて溢れそうになる。星が生まれるとき、どんどん高温になっていくように私は彼によって、また、生まれる。私は何度だって生まれ変われる。宇宙人である、彼のちからで。
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