共有した静寂
甲高い笛の音が、まるで運動会の合図みたいに体育館の中に響き渡った。その笛の音が消えた瞬間、喉の奥から絞り出されたような呻き声が観客席の方にまで届いてきた。
わたしは数メートル下のコートを覗き込み、事故があったであろう場所に視線を向けた。
着地で痛めたのだろうか。鮮やかなオレンジ色のユニフォームをまとう選手がゴール下の床に転がり、足首を両手で押さえている。すぐさまに審判と選手が敵味方問わず集まった。
呻き声の合間をぬうように、爽やかな声が響いた。
「大丈夫ですか! ベンチに行きましょう。肩を貸します。俺に体重をかけて」
まるで決められていた台本を読むかのように、隙がなく完璧にほつれなく言う。
怪我をした相手チームの選手に肩を貸すその男は、間違いなくわたしの幼馴染の花宮真だった。
真は、選手が痛みを感じないように丁寧にベンチにまで運んだ。怪我をした選手だけでなく、相手チームの他の選手に声をかけることも忘れない。すみません、今後はこのような事故がないように私たちのチームも気をつけて参ります。
大切な選手に怪我を負わせてしまって本当に申し訳なく思っています。残りの時間、お互いに精一杯を出しあいましょう。
怪我をした選手はエース。相手はエースを中心としたワンマンチームで、この試合は全国行きを決める大切なものだった。点差は競っていたが、エースが抜けたいま、その差は開くばかりだろう。
そんな状況に相手の選手は顔を真っ青にして絶望していた。そんな彼らに真は快活なスポーツマンとして声をかけていく。
残りの試合を見なくても、この状況だけで結果はわかっていた。録画していたビデオを止めて鞄の中にしまう。こっそりとつまんでいたチョコレートをポケットの中にいれて席から立ち上がった。踵を返して出口に向かう。
プレイ再開の笛が背後で鳴った。
バッシュの擦れる音と、PGとして味方に指示を出す真の声に混じって、相手チームのベンチからエースの押し殺しきれない泣き声が聞こえる。心が死んでいくかのような泣き声と、プレイ中の明るい声。
普通だったら相容れないはずのそのふたつが、高校生の夢の詰まった体育館のなかでやけに調和して聞こえた。泣き声はなにと混じっても不協和音にならない、むしろ、さらに価値を高めていくのだということを、わたしは幼いころに知った。
会場の出口の重い扉を開ける。素肌に触れる金属が冷たい。外にでた瞬間、体の表面から熱を奪っていくような冬の空気に包まれた。あの会場の熱気がわたしにも染みていたのかもしれない。
体表に纏う熱を留めるかのように黒のダウンのチャックをしめ、真からもらったマフラーに鼻先を埋めた。ふと目線だけを上げると、淀んだ雲に覆われた灰色の空が、理由もわからずにとてもきれいなものに見えて、吐いた息が自然にふるえた。
□
会場を出たはいいものの、一緒に帰る約束をしていたからわたしは真のことを待たなければいけなかった。予定が合えば真の試合を見にいきビデオを撮って、試合の後は一緒に帰るという話を高校の友人にしたとき付き合っているのかと詰め寄られたことがあるけれど、わたしと真はそんな関係ではなかった。
ただの幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもない。新しい関係が欲しいわけでもない。
大体、真の好きな女の子のタイプは『頭のいい女性』だとテレビを見ているときに話の流れで言っていたことを覚えている。わたしとは掠ってすらいなかった。
真のことを考えるのが面倒になって、目の前にある石を軽く蹴る。石は舗装されて地面の上をころころと転がった。体育館の外には運動公園が広がっていて、周りをランニングコースにできるほどの大きな池があった。
せっかくならたまには体を動かそうと思って、池の周りをぶらぶらと散歩することに決めた。
池を半周もしないうちに、池の淵に座り込んでいるおじいさんと男の子を見つけた。横目で確認すると、彼らは池の中にパンくずを放りこんでいた。落ちていく先には、ぱくぱくと必死に口を動かす鯉の大群がいた。
冬の鈍い日光の下で鱗がぎらついている。エサを欲する顔が必死すぎる。目はもう飛び出てしまいそうで、生理的な嫌悪に顔をしかめた。きもちわる、と呟きかけた瞬間、すぐ横であざ笑うような声がした。
「ふはっ、誰かさんにそっくりじゃねえか」
「わっ......! びっくりした、真か……」
驚いて距離をとる。膝ほどまである黒いベンチコートに身を包んだ真が、にやついたように片方の口角をあげながら立っていた。
「驚きすぎだろ」
「声くらいかけてよ。あ、それよりごめん会場出るって連絡してなくて……よくここわかったね」
真は、数学の公式でも唱えるように淡々と言った。
「単純なお前が次なにするかくらい、わかってるっつうの」
「なにその言い方むかつく~。まあ、合流できたからいいけどさ」
「おら、帰んぞ」
真がわたしに向けて、手を差し伸べてくる。硬いボールを扱うからか、手の皮膚はぶ厚くごつごつとしている。ありがと、と言いながら、真の手にビデオの入った重たい鞄を渡した。
真はわたしには伝えていないが、この後本当は学校に帰ってからミーティングがあるらしい。バスケ部の補欠の部員から聞いたことがある。
真は二年生にも関わらず、バスケ部の監督と主将を兼任している。普通の人間なら負担で潰れてしまいそうなものだか、真はその二つをうまくこなす。監督と主将だけでなく、バスケ部の表と裏の顔まで。霧崎第一高校のバスケ部は、表向きはスポーツマンシップを遵守し、文武両道のチームとして知られている。
しかし裏では、その表の顔を活かしてラフプレーから事故の振りをした選手潰しから、なんでもする。そのためレギュラーも、周囲の見せたい霧崎を演じる選手と真の手足のように動く選手の二種類いて、ミーティングに参加しないのは真と真に従っている選手らしい。
真曰く、馬鹿が集まって話し合ったところでなににもならねえだろ、俺の言うこと聞いてりゃ勝てるんだよ、とのこと。いっそすがすがしいほどの傍若無人さが、わたしには心地よい。
「今日の試合、どだったの?」
前髪とマフラーの隙間からうかがうように、横を歩く真に視線を向けて尋ねる。
「ま、こんなもんだろって感じ」と真は興味なさげに返事した。
「真、すごい良いひとみたいだったね」
「みたいじゃなくて、良いやつなんだろ」
「よくいうよ」
意地悪く微笑む真に、わたしも笑みを返す。本心をすべてはさらけ出さない、試しあうような会話が真は好きだ。それに時々わたしも付き合ってあげる。とくにこういう試合の後の真の機嫌をとっておけば、しばらくはわたしにやさしく接してくるのだ。
「ふつうにしてても勝てそうな相手だったのに」
「はっ、それじゃつまらねえだろ」
「どうして?」
「さぁ。自分で考えな、ばぁか」
ばぁか、の声にどこか甘さが滲んでいる。ご機嫌取りは成功。どこまでいけるのか試すつもりで、わざとらしく寒そうに手を擦ると、真は黙ってわたしの手を握ってくれた。運動の後だからか筋肉量が違うからか、真の手はわたしよりもずっと温かかった。
「まこちゃんの手、あったかい」
まこちゃん、はわたしが小学生の低学年のころにしていた呼び方だ。小さいときの真は華奢でかわいらしくて、外見は女の子みたいだった。その体の中に、昔からとんでもなく賢くて残酷な蜘蛛を飼っていたけれど。
「それやめろ」と真は軽く頭を叩いてくる。決して痛くはないが、真が本気をだせばわたしなんて簡単に潰せるのだと教えこむように計算された力加減。
やっぱり真はかしこい。上がりかけた口角を隠すようにマフラーを鼻先まで上げる。
わたしのその仕草を、真は照れたときにするものだと思っているのかもしれない。繋いだ手をわたしの手ごと強引に真のベンチコートのポケットの中にいれられた。ポケットの中にはカイロがあって、狭い空間に熱気が閉じ込められていた。
その熱が手から顔の方にまで移る気がして、勝手にわたしの頬にまで赤みが差してくるような気がした。
「......きょう、真の家いきたい」
横を通る車の走行音にかき消されそうなほど小さな声で、呟く。無意識のうちに吐息が含まれていたのか。顔の前に白い息が立つ。真はしばらく間をあけてから、おう、と返事をした。彼の口からも白い息が立ち、たゆたうように灰色の空へと向かっていった。
□
「今日母さん帰り遅いってさ、冷蔵庫の豚肉使いきって欲しいみてえ」
真のアパートのリビングに入ってすぐ、真は机の上のメモを見て言った。そうなんだ、と淡々と返事する。
床の上に鞄を置いてキッチンに向かった。真のお母さんがいないときはわたしが夕飯を準備することが多い。
小さい頃から来ていて真のお母さんにもお世話になっているから、真の家はわたしのとって第二の我が家のようなものだった。いまではキッチンに関しては真よりわたしの方がよく知っているかもしれない。
冷蔵庫を開ける。わたしの家より中のものは少なく、目立ったものと言えば中段に大きいな豚肉のパックがあることくらいだった。
野菜室も開けると中にはキャベツを玉ねぎがひとり分あった。ご飯も炊いてあった。
豚肉と野菜を取り出し、リビングでいつの間にかわたしの鞄からビデオカメラを取り出して動画を確認している真に「野菜炒めでいい~?」と尋ねる。真はビデオから顔を上げないまま、おー、と返事をした。
野菜を切ってフライパンで焼き、野菜に火が通ってから豚肉も加える。肉の香ばしい匂いが狭い部屋のなかに充満したころ、真はビデオを見るのをやめてキッチンの方にきた。
棚から大皿を取って調理台の上に置くと、水切りカゴのなかから茶碗を取り出してご飯をよそってくれた。
「おばさんの分も残す?」
「おう、頼むわ」
真が新しく取ってくれた小皿に一人分の野菜炒めをよそって、残りを大皿の上に乗せる。元々野菜が少なかったから野菜炒めというよりただの豚肉炒めになったそれをみながら、リビングのテーブルの上に運んだ。
「どーも」
「いえいえ」
真は意外にも律儀なところがあって、恒例になっているのに感謝の言葉を必ずいってくれた。同時に挨拶をして豚肉とご飯に箸をつけ始める。
食事中はあまり話すことなく、無音で食べ続ける。アパ―トの隣人が帰ってきて鍵を開ける音や、上の階の住民の足音が静寂の中で際立って聞こえた。
真はお父さんがいない。お母さんも仕事が忙しくてあまり家に帰ってこないらしい。このせまい静寂の部屋のなかで、外から漏れる他人の気配に真はなにを感じているのだろうと考えることがある。
さみしいとかむなしいとか、真はとっくにどこかに置いてきたか、自分が操るレギュラーたちのように飼いならしているのかもしれないけれど。
およそ二人分と思えない量だったが、真は試合の後だからかわたしが満腹になった後も大皿の上の豚肉を食べ続け、ついには空にしてしまった。
「よく食べるねえ」
「腹減ってたからな」
会場では軽食も売っているからなにか食べてからくればいいのに、真は試合が終わったら一番にわたしのことを迎えにくる。例えそれがビデオを取りに来ることが目的だとしても、わたしはそれがうれしい。
ん、と真は空になったお茶碗をわたしに寄越す。自分でよそいに行きなさい、とは言わずに、わたしは真から茶碗を受け取って、ご飯をよそってあげた。
試合の後に待つとか、鞄を持つとか、冷えた手を温めるとか、ご飯をよそうこととか、そういう小さなことが、糸をつむぐようによりあって、真とわたしと間をつなぐなかになっているのだと、おもっている。そう信じている。
おかわりのご飯も真は食べ終えると、先にシャワー使っていいぞ、と勧めてくれた。汗をかいているから気持ち悪くないのかと尋ねると真は洗い物くらいはしてやるよ、と席を立ち、強引にわたしを脱衣所に押し込めた。
シャワーを浴びていると、曇った不透明の浴室のドアの向こうに真の影が見えた。「服おいとく」と真の声が水音に混じって聞こえた。
髪と体の水気を切って脱衣所に出る。真が置いてくれたわたしの着替えは中学生のころのわたしのジャージで、泊まるとき用に真の家に置いてもらっていたものだった。成長したせいで少し短くなった長袖の丈を伸ばす。髪を雑に乾かして、脱衣所を出た。
リビングで本を読んでいた真は、わたしとすれ違いながら「俺の部屋の暖房つけといた」と淡泊にわたしに言った。
真の言葉を部屋に入ってもいいという意味だと捉え、鞄を持つのも忘れ真の部屋に行った。
ドアノブに手をかけ扉を開けると、わずかに開いた隙間からは本の匂いと芳香剤の匂いが漏れてきた。
すき間に体をすべりこませるように部屋の中にはいり、フローリングに置かれた黒いラグの上に座りこむ。ベッドの上にはわたしが数年前にあげた、黒い四角のクッションが置いてある。クッションを手に取って抱きしめ、顔を埋める。
清潔な石けんのような匂いに、真の匂いを思い出した。真の均整のとれた体つきや、触れたときの硬い手を頭の中に思い描く。ラフプレーをせずとも選手としてかなり優秀な真の身体は、わたしの知るなかで誰よりもうつくしい。そして、真が頭脳を活かしてプレイする場面を見る度に、もっと見たくてたまらなくなるのだ。
真のことばかり考えている思考を切り替えるように、クッションから顔を上げた。部屋の一角にある本棚を見る。
五畳ほどの狭い空間にはわたしの背丈ほどもある大きな本棚があって、そこには本がしきつめられていた。真は読書が趣味で、本を読んではつまらなかったものは捨て、おもしろかったものは本棚に残していた。つまらないものの方が多いのか、本棚のラインナップは常に変わる。
真のお眼鏡に叶った本は手の届きやすい中段に、時間をとめたかのように静かに収められていた。
わたしはアパートの部屋の中で、真の部屋が一番すきだった。
この部屋は真のことをよく表していると思った。表と裏の顔をうまく使いわける真のように、この部屋のものは汚れの目立たない色ばかりで固められている。
床にはゴミひとつ落ちておらず、家具も無駄なものはひとつもない。本を大切にしたりわたしがあげたクッションを使ってくれているように、一度手にいれたもの、わたしのことも、大切にしてほしいとおもう。
シャワーの後だからか頬がじんわりと熱い。その熱を冷ますようにクッションに頬を当てた。この部屋の匂いをひとつも漏らさないように、目を瞑って息をする。真のにおい。わたしのしらない、真のにおい。
その匂いを肺に落としているうちに、夕方に歩いたせいで体が疲れていたのか、眠気が襲ってきた。遠くで真がドライヤーをする音が聞こえる。それに安心するかのように、意識はまどろみに沈んだ。
□
現実にいるのか夢のなかにいるのかわからない、輪郭の曖昧な意識のまま、わたしは髪を撫でるやさしい手の感触を感じていた。薄く目を開けると、見慣れた黒髪が視界の端でさらさらと舞った。
「……まこと?」
「人の部屋で寝てんじゃねえよ、ばあか」
「ふふ、ごめんごめん」
わたしは座ってクッションを抱いたまま、ラグの上で寝てしまったようだった。どれくらいの間寝ていたのかはわからないが一転に体重のかかったお尻がいたくて、立ち上がろうとすると節々が軋んだ。
真はほら、といってわたしになにかを投げてきた。
「わ......なに」
顔にかかったそれは、わたしが今日着ていた服だった。
「風呂場に忘れてた」
「あ、確かに忘れてたかも」
鞄の中にしまおうと思って周囲を見渡したとき、リビングに鞄を置きっぱなしだったことに気が付いた。それを伝えると、真は「相変わらずぼんやりしてんなあ」と笑った。馬鹿にしているわけではない。愛おしさすら感じとれそうなやさしさの滲む声になぜか胸がしめつけられた。
ときどき聞けるそういう真の声だけは、昔からひとつも変わらなかった。
真はベッドの端に座ると、素足のままわたしの背中をかるく小突いた。
「寝んの? なら布団しくけど」
眠気がまだ消えなくて、んー、と曖昧な返事を返す。真は長くため息をついた。すると、腰の辺りを急に後ろから掴まれる感触がした。目が冴えているときなら抵抗しただろうが、体を起こすのも億劫でその腕に体重を預ける。
「ばあか床で寝るつもりかよ」
いつのまにか、視界にはシーツの白があった。自分が真のベッドの上にきたのだと気が付く。ちょっとと声をあげる間もなく、真はわたしを強引にベッドの上に寝かせると、わたしの身体の上に何枚か毛布をかけ、重い掛け布団までのせた。
「おれのために健気に働いた犬のために貸してやるよ」
布団を敷いて床に寝るつもりなのか、真はベッドから下りようとした。ベッドの端を持つ手を、ねぼけたままとっさに掴む。
「いっしょにねようよ」
「キショイ、ムリ」
「今日さむいだもん。今日だけだからさぁ」
子供のようにだだをこねる。
さみしいとかむなしいとか、真はとっくにどこかに置いてきたか、自分が操るレギュラーたちのように飼いならしているのかもしれないけれど、それでも今日だけは一緒に眠りたかった。
いつもなら取らない行動をしているあたり、眠すぎて頭が働いていないか、今日みた試合のせいでどこかおかしくなっているのかもしれない。
真は甘えんじゃねえよ、と言いつつも同じ布団の中にもぐり込んできた。布団の中にあたたかなものが増える。
「枕は寄越せ」
頭を持ち上げられて強引に枕を抜き取られる。満足げに、真は枕を自分の頭の下に敷いた。
「ちょ、ねえ、眠れないしこれじゃ」
「はあ、めんどくせえやつ」
真は低い声で悪態をついた後、またわたしの頭を持ち上げてその下に自分の腕を置いた。真の腕は筋肉がしっかりとついていた。
「かたいけど、いいかも」
「贅沢言うな」
「お礼にいいものあげよっか......?」
「なに」
「今日きてた服のポッケ」
真はそれがだけで意味がわかったのか、床の上に落ちているわたしの服を、ベッドの上から腕を伸ばして取った。上着のポケットに手を入れ、中から個別に包装された二粒のチョコレートをとりだす。
「寝る前に食うもんじゃねぇだろ。それに俺甘いのは食わねえ」
「今日だけ。ね?」
魔法のような今日だけ、を使う。今日はわたしのいうことを聞いてやりたい気分なのか、真はチョコレートの包装を二粒とも器用に片手でとった。包装を床にに放り、空いている方の手でわたしの顎を掴む。
「口あけろ」
「真の分でもあるんだよ?」
「わかったって」
唇に触れそうな距離にチョコレートを出される。口を開けると、二粒一緒に口の中に放りこまれた。舌の上で甘いチョコを溶かしながら、不満げに真を見る。
「食べるって言ったじゃん」
「俺の分やるっつてんの」
真と一緒に食べたくて二粒残しておいたのに、と言うか迷ったが、楽しそうに細められる瞳を見ているうちにどうでもよくなってくる。
どろどろに溶けたチョコレートを唾液と一緒に飲みこむ。甘いものが特別好きというわけでもないのに、チョコレートはどんどん食べたくなるのが不思議だ。
授業でチョコには中毒性があると先生に言われたことを、ふと思い出した。
中毒性。その言葉を聞く時、わたしはいつも、わたしと真が仲良くなったきっかけの、小学生のときのことを思いだす。
ぼんやりしている、と周囲にからかわれ、軽くいじめられていたわたしのことを、真はきまぐれに助けてくれた。だれにも言えないような方法で。
復讐は大人に気が付かれないように狡猾に行われた。わたしは女の子のようにかわいらしかった真の内面に、つよい毒を持つ蜘蛛がいることに気が付いた。
わたしをいじめていた子たちの泣き顔を見たとき、自分の中に湧いてはいけない感情が湧いたことを覚えている。そしてその感覚が忘れられなくなっている。
数時間前のエースの泣き声と真の声が、脳天を刺すように鮮明に蘇る。感触を感じられそうなほど、はっきりと。自然に口のなかで唾液が増えるのを感じた。
真から与えられるものには、すべて中毒性がある。あの完璧な調和をまた聞きたい。真の手のひらの上で操られる試合を見ながら、ひそやかにあまいチョコレートを食べたい。
そんな欲求が、真の本棚の大切にされている本のようにわたしの心に巣食っている。だからわたしは真の試合を見にいくし、ビデオもとる。
もうこの欲求は無視できない。花宮真からは逃げられない。
それに、わたしだけが気がついていることがある。真のなかの蜘蛛の、弱いはらの部分。触れてはいけない繊細な傷口。触るとやわらかくて、手につく赤の鮮やかさがものかなしい。
真は、なにを感じているのだろう。真の顔を見つめると、真は視線を逸らさずにわたしの目を見た。ふと、真に触れたくなった。
さむくて、と言い訳をしながら真の温かい体にすり寄る。布団の中で素足同士が触れあった。つめてえよ、と真は小さく笑った。ごめんね、とわたしもおなじくらいの声の大きさで返した。
このせまい部屋は、静かだった。
声も、身じろぎの音も、本棚にある紙の束に吸い込まれていく。誰もいないリビングやキッチンは水をうったようだった。
ただ、上の階の足音や、隣人の話し声がかすかに、傷口から血が沁み出るようにゆっくりと聞こえてくるだけだった。
わたしは布団から手を出して、真のあたたかい耳を塞いだ。真も同じように大きな手でわたしの耳を塞いだ。筋肉の震える音が波音のようにごうごうと聞こえる。
その音を聞いていると、ほかの音はなにも聞こえなくなって、せまい部屋は動くことのない完璧なものを手に入れたようだと思った。
真のようにほつれがなく、揺らぐことのない、完璧な静寂を。
わたしは数メートル下のコートを覗き込み、事故があったであろう場所に視線を向けた。
着地で痛めたのだろうか。鮮やかなオレンジ色のユニフォームをまとう選手がゴール下の床に転がり、足首を両手で押さえている。すぐさまに審判と選手が敵味方問わず集まった。
呻き声の合間をぬうように、爽やかな声が響いた。
「大丈夫ですか! ベンチに行きましょう。肩を貸します。俺に体重をかけて」
まるで決められていた台本を読むかのように、隙がなく完璧にほつれなく言う。
怪我をした相手チームの選手に肩を貸すその男は、間違いなくわたしの幼馴染の花宮真だった。
真は、選手が痛みを感じないように丁寧にベンチにまで運んだ。怪我をした選手だけでなく、相手チームの他の選手に声をかけることも忘れない。すみません、今後はこのような事故がないように私たちのチームも気をつけて参ります。
大切な選手に怪我を負わせてしまって本当に申し訳なく思っています。残りの時間、お互いに精一杯を出しあいましょう。
怪我をした選手はエース。相手はエースを中心としたワンマンチームで、この試合は全国行きを決める大切なものだった。点差は競っていたが、エースが抜けたいま、その差は開くばかりだろう。
そんな状況に相手の選手は顔を真っ青にして絶望していた。そんな彼らに真は快活なスポーツマンとして声をかけていく。
残りの試合を見なくても、この状況だけで結果はわかっていた。録画していたビデオを止めて鞄の中にしまう。こっそりとつまんでいたチョコレートをポケットの中にいれて席から立ち上がった。踵を返して出口に向かう。
プレイ再開の笛が背後で鳴った。
バッシュの擦れる音と、PGとして味方に指示を出す真の声に混じって、相手チームのベンチからエースの押し殺しきれない泣き声が聞こえる。心が死んでいくかのような泣き声と、プレイ中の明るい声。
普通だったら相容れないはずのそのふたつが、高校生の夢の詰まった体育館のなかでやけに調和して聞こえた。泣き声はなにと混じっても不協和音にならない、むしろ、さらに価値を高めていくのだということを、わたしは幼いころに知った。
会場の出口の重い扉を開ける。素肌に触れる金属が冷たい。外にでた瞬間、体の表面から熱を奪っていくような冬の空気に包まれた。あの会場の熱気がわたしにも染みていたのかもしれない。
体表に纏う熱を留めるかのように黒のダウンのチャックをしめ、真からもらったマフラーに鼻先を埋めた。ふと目線だけを上げると、淀んだ雲に覆われた灰色の空が、理由もわからずにとてもきれいなものに見えて、吐いた息が自然にふるえた。
□
会場を出たはいいものの、一緒に帰る約束をしていたからわたしは真のことを待たなければいけなかった。予定が合えば真の試合を見にいきビデオを撮って、試合の後は一緒に帰るという話を高校の友人にしたとき付き合っているのかと詰め寄られたことがあるけれど、わたしと真はそんな関係ではなかった。
ただの幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもない。新しい関係が欲しいわけでもない。
大体、真の好きな女の子のタイプは『頭のいい女性』だとテレビを見ているときに話の流れで言っていたことを覚えている。わたしとは掠ってすらいなかった。
真のことを考えるのが面倒になって、目の前にある石を軽く蹴る。石は舗装されて地面の上をころころと転がった。体育館の外には運動公園が広がっていて、周りをランニングコースにできるほどの大きな池があった。
せっかくならたまには体を動かそうと思って、池の周りをぶらぶらと散歩することに決めた。
池を半周もしないうちに、池の淵に座り込んでいるおじいさんと男の子を見つけた。横目で確認すると、彼らは池の中にパンくずを放りこんでいた。落ちていく先には、ぱくぱくと必死に口を動かす鯉の大群がいた。
冬の鈍い日光の下で鱗がぎらついている。エサを欲する顔が必死すぎる。目はもう飛び出てしまいそうで、生理的な嫌悪に顔をしかめた。きもちわる、と呟きかけた瞬間、すぐ横であざ笑うような声がした。
「ふはっ、誰かさんにそっくりじゃねえか」
「わっ......! びっくりした、真か……」
驚いて距離をとる。膝ほどまである黒いベンチコートに身を包んだ真が、にやついたように片方の口角をあげながら立っていた。
「驚きすぎだろ」
「声くらいかけてよ。あ、それよりごめん会場出るって連絡してなくて……よくここわかったね」
真は、数学の公式でも唱えるように淡々と言った。
「単純なお前が次なにするかくらい、わかってるっつうの」
「なにその言い方むかつく~。まあ、合流できたからいいけどさ」
「おら、帰んぞ」
真がわたしに向けて、手を差し伸べてくる。硬いボールを扱うからか、手の皮膚はぶ厚くごつごつとしている。ありがと、と言いながら、真の手にビデオの入った重たい鞄を渡した。
真はわたしには伝えていないが、この後本当は学校に帰ってからミーティングがあるらしい。バスケ部の補欠の部員から聞いたことがある。
真は二年生にも関わらず、バスケ部の監督と主将を兼任している。普通の人間なら負担で潰れてしまいそうなものだか、真はその二つをうまくこなす。監督と主将だけでなく、バスケ部の表と裏の顔まで。霧崎第一高校のバスケ部は、表向きはスポーツマンシップを遵守し、文武両道のチームとして知られている。
しかし裏では、その表の顔を活かしてラフプレーから事故の振りをした選手潰しから、なんでもする。そのためレギュラーも、周囲の見せたい霧崎を演じる選手と真の手足のように動く選手の二種類いて、ミーティングに参加しないのは真と真に従っている選手らしい。
真曰く、馬鹿が集まって話し合ったところでなににもならねえだろ、俺の言うこと聞いてりゃ勝てるんだよ、とのこと。いっそすがすがしいほどの傍若無人さが、わたしには心地よい。
「今日の試合、どだったの?」
前髪とマフラーの隙間からうかがうように、横を歩く真に視線を向けて尋ねる。
「ま、こんなもんだろって感じ」と真は興味なさげに返事した。
「真、すごい良いひとみたいだったね」
「みたいじゃなくて、良いやつなんだろ」
「よくいうよ」
意地悪く微笑む真に、わたしも笑みを返す。本心をすべてはさらけ出さない、試しあうような会話が真は好きだ。それに時々わたしも付き合ってあげる。とくにこういう試合の後の真の機嫌をとっておけば、しばらくはわたしにやさしく接してくるのだ。
「ふつうにしてても勝てそうな相手だったのに」
「はっ、それじゃつまらねえだろ」
「どうして?」
「さぁ。自分で考えな、ばぁか」
ばぁか、の声にどこか甘さが滲んでいる。ご機嫌取りは成功。どこまでいけるのか試すつもりで、わざとらしく寒そうに手を擦ると、真は黙ってわたしの手を握ってくれた。運動の後だからか筋肉量が違うからか、真の手はわたしよりもずっと温かかった。
「まこちゃんの手、あったかい」
まこちゃん、はわたしが小学生の低学年のころにしていた呼び方だ。小さいときの真は華奢でかわいらしくて、外見は女の子みたいだった。その体の中に、昔からとんでもなく賢くて残酷な蜘蛛を飼っていたけれど。
「それやめろ」と真は軽く頭を叩いてくる。決して痛くはないが、真が本気をだせばわたしなんて簡単に潰せるのだと教えこむように計算された力加減。
やっぱり真はかしこい。上がりかけた口角を隠すようにマフラーを鼻先まで上げる。
わたしのその仕草を、真は照れたときにするものだと思っているのかもしれない。繋いだ手をわたしの手ごと強引に真のベンチコートのポケットの中にいれられた。ポケットの中にはカイロがあって、狭い空間に熱気が閉じ込められていた。
その熱が手から顔の方にまで移る気がして、勝手にわたしの頬にまで赤みが差してくるような気がした。
「......きょう、真の家いきたい」
横を通る車の走行音にかき消されそうなほど小さな声で、呟く。無意識のうちに吐息が含まれていたのか。顔の前に白い息が立つ。真はしばらく間をあけてから、おう、と返事をした。彼の口からも白い息が立ち、たゆたうように灰色の空へと向かっていった。
□
「今日母さん帰り遅いってさ、冷蔵庫の豚肉使いきって欲しいみてえ」
真のアパートのリビングに入ってすぐ、真は机の上のメモを見て言った。そうなんだ、と淡々と返事する。
床の上に鞄を置いてキッチンに向かった。真のお母さんがいないときはわたしが夕飯を準備することが多い。
小さい頃から来ていて真のお母さんにもお世話になっているから、真の家はわたしのとって第二の我が家のようなものだった。いまではキッチンに関しては真よりわたしの方がよく知っているかもしれない。
冷蔵庫を開ける。わたしの家より中のものは少なく、目立ったものと言えば中段に大きいな豚肉のパックがあることくらいだった。
野菜室も開けると中にはキャベツを玉ねぎがひとり分あった。ご飯も炊いてあった。
豚肉と野菜を取り出し、リビングでいつの間にかわたしの鞄からビデオカメラを取り出して動画を確認している真に「野菜炒めでいい~?」と尋ねる。真はビデオから顔を上げないまま、おー、と返事をした。
野菜を切ってフライパンで焼き、野菜に火が通ってから豚肉も加える。肉の香ばしい匂いが狭い部屋のなかに充満したころ、真はビデオを見るのをやめてキッチンの方にきた。
棚から大皿を取って調理台の上に置くと、水切りカゴのなかから茶碗を取り出してご飯をよそってくれた。
「おばさんの分も残す?」
「おう、頼むわ」
真が新しく取ってくれた小皿に一人分の野菜炒めをよそって、残りを大皿の上に乗せる。元々野菜が少なかったから野菜炒めというよりただの豚肉炒めになったそれをみながら、リビングのテーブルの上に運んだ。
「どーも」
「いえいえ」
真は意外にも律儀なところがあって、恒例になっているのに感謝の言葉を必ずいってくれた。同時に挨拶をして豚肉とご飯に箸をつけ始める。
食事中はあまり話すことなく、無音で食べ続ける。アパ―トの隣人が帰ってきて鍵を開ける音や、上の階の住民の足音が静寂の中で際立って聞こえた。
真はお父さんがいない。お母さんも仕事が忙しくてあまり家に帰ってこないらしい。このせまい静寂の部屋のなかで、外から漏れる他人の気配に真はなにを感じているのだろうと考えることがある。
さみしいとかむなしいとか、真はとっくにどこかに置いてきたか、自分が操るレギュラーたちのように飼いならしているのかもしれないけれど。
およそ二人分と思えない量だったが、真は試合の後だからかわたしが満腹になった後も大皿の上の豚肉を食べ続け、ついには空にしてしまった。
「よく食べるねえ」
「腹減ってたからな」
会場では軽食も売っているからなにか食べてからくればいいのに、真は試合が終わったら一番にわたしのことを迎えにくる。例えそれがビデオを取りに来ることが目的だとしても、わたしはそれがうれしい。
ん、と真は空になったお茶碗をわたしに寄越す。自分でよそいに行きなさい、とは言わずに、わたしは真から茶碗を受け取って、ご飯をよそってあげた。
試合の後に待つとか、鞄を持つとか、冷えた手を温めるとか、ご飯をよそうこととか、そういう小さなことが、糸をつむぐようによりあって、真とわたしと間をつなぐなかになっているのだと、おもっている。そう信じている。
おかわりのご飯も真は食べ終えると、先にシャワー使っていいぞ、と勧めてくれた。汗をかいているから気持ち悪くないのかと尋ねると真は洗い物くらいはしてやるよ、と席を立ち、強引にわたしを脱衣所に押し込めた。
シャワーを浴びていると、曇った不透明の浴室のドアの向こうに真の影が見えた。「服おいとく」と真の声が水音に混じって聞こえた。
髪と体の水気を切って脱衣所に出る。真が置いてくれたわたしの着替えは中学生のころのわたしのジャージで、泊まるとき用に真の家に置いてもらっていたものだった。成長したせいで少し短くなった長袖の丈を伸ばす。髪を雑に乾かして、脱衣所を出た。
リビングで本を読んでいた真は、わたしとすれ違いながら「俺の部屋の暖房つけといた」と淡泊にわたしに言った。
真の言葉を部屋に入ってもいいという意味だと捉え、鞄を持つのも忘れ真の部屋に行った。
ドアノブに手をかけ扉を開けると、わずかに開いた隙間からは本の匂いと芳香剤の匂いが漏れてきた。
すき間に体をすべりこませるように部屋の中にはいり、フローリングに置かれた黒いラグの上に座りこむ。ベッドの上にはわたしが数年前にあげた、黒い四角のクッションが置いてある。クッションを手に取って抱きしめ、顔を埋める。
清潔な石けんのような匂いに、真の匂いを思い出した。真の均整のとれた体つきや、触れたときの硬い手を頭の中に思い描く。ラフプレーをせずとも選手としてかなり優秀な真の身体は、わたしの知るなかで誰よりもうつくしい。そして、真が頭脳を活かしてプレイする場面を見る度に、もっと見たくてたまらなくなるのだ。
真のことばかり考えている思考を切り替えるように、クッションから顔を上げた。部屋の一角にある本棚を見る。
五畳ほどの狭い空間にはわたしの背丈ほどもある大きな本棚があって、そこには本がしきつめられていた。真は読書が趣味で、本を読んではつまらなかったものは捨て、おもしろかったものは本棚に残していた。つまらないものの方が多いのか、本棚のラインナップは常に変わる。
真のお眼鏡に叶った本は手の届きやすい中段に、時間をとめたかのように静かに収められていた。
わたしはアパートの部屋の中で、真の部屋が一番すきだった。
この部屋は真のことをよく表していると思った。表と裏の顔をうまく使いわける真のように、この部屋のものは汚れの目立たない色ばかりで固められている。
床にはゴミひとつ落ちておらず、家具も無駄なものはひとつもない。本を大切にしたりわたしがあげたクッションを使ってくれているように、一度手にいれたもの、わたしのことも、大切にしてほしいとおもう。
シャワーの後だからか頬がじんわりと熱い。その熱を冷ますようにクッションに頬を当てた。この部屋の匂いをひとつも漏らさないように、目を瞑って息をする。真のにおい。わたしのしらない、真のにおい。
その匂いを肺に落としているうちに、夕方に歩いたせいで体が疲れていたのか、眠気が襲ってきた。遠くで真がドライヤーをする音が聞こえる。それに安心するかのように、意識はまどろみに沈んだ。
□
現実にいるのか夢のなかにいるのかわからない、輪郭の曖昧な意識のまま、わたしは髪を撫でるやさしい手の感触を感じていた。薄く目を開けると、見慣れた黒髪が視界の端でさらさらと舞った。
「……まこと?」
「人の部屋で寝てんじゃねえよ、ばあか」
「ふふ、ごめんごめん」
わたしは座ってクッションを抱いたまま、ラグの上で寝てしまったようだった。どれくらいの間寝ていたのかはわからないが一転に体重のかかったお尻がいたくて、立ち上がろうとすると節々が軋んだ。
真はほら、といってわたしになにかを投げてきた。
「わ......なに」
顔にかかったそれは、わたしが今日着ていた服だった。
「風呂場に忘れてた」
「あ、確かに忘れてたかも」
鞄の中にしまおうと思って周囲を見渡したとき、リビングに鞄を置きっぱなしだったことに気が付いた。それを伝えると、真は「相変わらずぼんやりしてんなあ」と笑った。馬鹿にしているわけではない。愛おしさすら感じとれそうなやさしさの滲む声になぜか胸がしめつけられた。
ときどき聞けるそういう真の声だけは、昔からひとつも変わらなかった。
真はベッドの端に座ると、素足のままわたしの背中をかるく小突いた。
「寝んの? なら布団しくけど」
眠気がまだ消えなくて、んー、と曖昧な返事を返す。真は長くため息をついた。すると、腰の辺りを急に後ろから掴まれる感触がした。目が冴えているときなら抵抗しただろうが、体を起こすのも億劫でその腕に体重を預ける。
「ばあか床で寝るつもりかよ」
いつのまにか、視界にはシーツの白があった。自分が真のベッドの上にきたのだと気が付く。ちょっとと声をあげる間もなく、真はわたしを強引にベッドの上に寝かせると、わたしの身体の上に何枚か毛布をかけ、重い掛け布団までのせた。
「おれのために健気に働いた犬のために貸してやるよ」
布団を敷いて床に寝るつもりなのか、真はベッドから下りようとした。ベッドの端を持つ手を、ねぼけたままとっさに掴む。
「いっしょにねようよ」
「キショイ、ムリ」
「今日さむいだもん。今日だけだからさぁ」
子供のようにだだをこねる。
さみしいとかむなしいとか、真はとっくにどこかに置いてきたか、自分が操るレギュラーたちのように飼いならしているのかもしれないけれど、それでも今日だけは一緒に眠りたかった。
いつもなら取らない行動をしているあたり、眠すぎて頭が働いていないか、今日みた試合のせいでどこかおかしくなっているのかもしれない。
真は甘えんじゃねえよ、と言いつつも同じ布団の中にもぐり込んできた。布団の中にあたたかなものが増える。
「枕は寄越せ」
頭を持ち上げられて強引に枕を抜き取られる。満足げに、真は枕を自分の頭の下に敷いた。
「ちょ、ねえ、眠れないしこれじゃ」
「はあ、めんどくせえやつ」
真は低い声で悪態をついた後、またわたしの頭を持ち上げてその下に自分の腕を置いた。真の腕は筋肉がしっかりとついていた。
「かたいけど、いいかも」
「贅沢言うな」
「お礼にいいものあげよっか......?」
「なに」
「今日きてた服のポッケ」
真はそれがだけで意味がわかったのか、床の上に落ちているわたしの服を、ベッドの上から腕を伸ばして取った。上着のポケットに手を入れ、中から個別に包装された二粒のチョコレートをとりだす。
「寝る前に食うもんじゃねぇだろ。それに俺甘いのは食わねえ」
「今日だけ。ね?」
魔法のような今日だけ、を使う。今日はわたしのいうことを聞いてやりたい気分なのか、真はチョコレートの包装を二粒とも器用に片手でとった。包装を床にに放り、空いている方の手でわたしの顎を掴む。
「口あけろ」
「真の分でもあるんだよ?」
「わかったって」
唇に触れそうな距離にチョコレートを出される。口を開けると、二粒一緒に口の中に放りこまれた。舌の上で甘いチョコを溶かしながら、不満げに真を見る。
「食べるって言ったじゃん」
「俺の分やるっつてんの」
真と一緒に食べたくて二粒残しておいたのに、と言うか迷ったが、楽しそうに細められる瞳を見ているうちにどうでもよくなってくる。
どろどろに溶けたチョコレートを唾液と一緒に飲みこむ。甘いものが特別好きというわけでもないのに、チョコレートはどんどん食べたくなるのが不思議だ。
授業でチョコには中毒性があると先生に言われたことを、ふと思い出した。
中毒性。その言葉を聞く時、わたしはいつも、わたしと真が仲良くなったきっかけの、小学生のときのことを思いだす。
ぼんやりしている、と周囲にからかわれ、軽くいじめられていたわたしのことを、真はきまぐれに助けてくれた。だれにも言えないような方法で。
復讐は大人に気が付かれないように狡猾に行われた。わたしは女の子のようにかわいらしかった真の内面に、つよい毒を持つ蜘蛛がいることに気が付いた。
わたしをいじめていた子たちの泣き顔を見たとき、自分の中に湧いてはいけない感情が湧いたことを覚えている。そしてその感覚が忘れられなくなっている。
数時間前のエースの泣き声と真の声が、脳天を刺すように鮮明に蘇る。感触を感じられそうなほど、はっきりと。自然に口のなかで唾液が増えるのを感じた。
真から与えられるものには、すべて中毒性がある。あの完璧な調和をまた聞きたい。真の手のひらの上で操られる試合を見ながら、ひそやかにあまいチョコレートを食べたい。
そんな欲求が、真の本棚の大切にされている本のようにわたしの心に巣食っている。だからわたしは真の試合を見にいくし、ビデオもとる。
もうこの欲求は無視できない。花宮真からは逃げられない。
それに、わたしだけが気がついていることがある。真のなかの蜘蛛の、弱いはらの部分。触れてはいけない繊細な傷口。触るとやわらかくて、手につく赤の鮮やかさがものかなしい。
真は、なにを感じているのだろう。真の顔を見つめると、真は視線を逸らさずにわたしの目を見た。ふと、真に触れたくなった。
さむくて、と言い訳をしながら真の温かい体にすり寄る。布団の中で素足同士が触れあった。つめてえよ、と真は小さく笑った。ごめんね、とわたしもおなじくらいの声の大きさで返した。
このせまい部屋は、静かだった。
声も、身じろぎの音も、本棚にある紙の束に吸い込まれていく。誰もいないリビングやキッチンは水をうったようだった。
ただ、上の階の足音や、隣人の話し声がかすかに、傷口から血が沁み出るようにゆっくりと聞こえてくるだけだった。
わたしは布団から手を出して、真のあたたかい耳を塞いだ。真も同じように大きな手でわたしの耳を塞いだ。筋肉の震える音が波音のようにごうごうと聞こえる。
その音を聞いていると、ほかの音はなにも聞こえなくなって、せまい部屋は動くことのない完璧なものを手に入れたようだと思った。
真のようにほつれがなく、揺らぐことのない、完璧な静寂を。
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