イタチ
あの日あなたが泣いていたことを、きっとわたしだけが知っていた。あなたの赤い目から零れる涙が、鈍く光りながら同胞の血だまりに落ちていった光景を、いまだに鮮明に思い出せる。
あなたを見つけたのは偶然だった。里の外れに住んでいる人を治療しにいくだけの、忍者というよりは医師に近いような、簡単な任務の帰りだった。薬草を摘むために寄り道した森にあなたはいたのだ。
あの日、黒い外套を着た人が木にもたれて座り込んでいて、具合が悪いのかと思ってわたしは近づいた。わたしが声をかけると、彼は顔をあげ、その拍子に笠の日よけの隙間から赤い目がのぞいた。目が合った瞬間、わたしは考えるよりも先に彼だと直感した。
「……イタチさん」
うちはイタチ。うちは一族を一夜で皆殺しにした男だった。事件が起こる前、わたしとわたしの兄と彼は、本当の兄妹のように仲が良かった。
イタチさんはなにかを言ったように聞こえたが、声が掠れていて聞き取れない。地面に膝をついて近づくと、かすかに血の匂いまでした。様子がおかしいと思って彼の笠を外す。顔は死人のように青く染まり、血を吐いたのか、口元には血の跡があった。
ちかよるな、と彼の唇は音もなく動いた。
顔色と血を見た時点で、彼は私の中で仲間を殺した仇でも木の葉の里の抜け忍でもなく、救うべき病人になってしまった。医療忍者として仲間を治すことよりも、一般人を治す機会の方が多かったから、忍者よりも医者としての矜持の方が強くなる。そしてそれ以上に、私は彼に話したいことがあった。
制止しようとするイタチさんを無視して、私は彼の体に手をかざした。
鎮痛と鎮静の術をかけていく。意識を保っているすら辛そうなのに、彼は私の目を強く睨む。写輪眼が解けた、濡れたように黒い瞳だった。
「大丈夫。助けます」
昔、イタチさんがわたしに言ってくれていたことだった。強く頷くと、イタチさんは信用してくれたのか、懐から薬袋を出して私に渡し、そのまま穏やかに目を瞑った。
□
治療が終わっても、イタチさんが目を覚ますまでわたしはそこを動けなかった。私の上着を枕にして横たわるイタチさんの額に浮かぶ汗を、手ぬぐいで拭く。イタチさんは、昔からいつも苦労しているような皺があったけれど、会わないうちにそれは傷のようにさらに深く刻まれているように見えた。
帰還が送れることを報告する手紙を、鳥を使って里に飛ばす。イタチさんのことはなにも書かないでおいた。抜け忍を治療したなんてことが知られたら、わたしの立場も面倒なことになるから、隠してしまった方が楽だろうと思った。
夜になる前にイタチさんは目を開けた。起き上がると、怒りも焦りも感じさせない、静かな目でわたしのことを見据えた。
「なぜ助けた。里への裏切りになるだろう」
「……別に。あそこで見捨てるのも、人として嫌だっただけです」
そうか、とイタチさんは呟いた。長い年月が実態をもって、わたし達を隔てる壁になっているようで、言葉をうまく伝えられる気がしなかった。
夕方のかすかに冷えを含んだ風が木々の隙間を通り過ぎる。これは病気の体にはよくない風だと思った。
「まだ、一緒にいましょうか。あなたの処置が全部終わっていないんです」
立ち上がり、上着の泥を祓いながら彼にいった。横から差してくる夕日で彼の顔に赤みがさしているようにみえて、少しだけ安心する。
一度チャクラが切れかけるほど状態が悪くなったからか、わたしのことは警戒にも値しないと思っているのか、イタチさんはわたしに素直についてきた。
わたしが枯れ葉を踏むと軽い音が、足元からで鳴った。同じ道を歩いているのに、背後からはなにも聞こえてこなかった。
わたし一人で泊まる予定だった宿についたのは、日が暮れてからだった。懇意にしているからか、それとも面倒な予感を察したのか、予定よりも客が増えていることに主人はなにも言わなかった。
ついてすぐに個室にまで料理が二膳運ばれてきて、わたしとイタチさんは向い合わせに座った。私が先に口に含んだのを確認してからイタチさんも食べ始めた。昔はそんなことしなかった癖に、当たり前のように張り巡らされた警戒に汗がにじむ。
治療をしていたときは、イタチさんがみんなを襲った夜のことを聞こうとはっきりと決めていたのに、お箸を運ぶ手つきの丁寧さが昔と変わらないのを見ていると、その気も次第に失せてきた。
イタチさんに復讐すると固く誓っている彼の弟のサスケくんと違って、私の怒りや悲しみは、年月を経てすっかり風化してしまっていた。名前を変えて、うちはであることを隠しているうちに、自分が一族の一員であるという自覚すら薄れてしまっていた。
元々、戦うのも好きじゃなければ、誰かに怒り続けるのも苦手だった。だからイタチさんには昔から戦うよりも医療忍者の方が向いていると言われていた。なにより兄が、シスイが死んでから、なにもかもが夢の出来事のようで、生きている実感がなかった。
イタチさんは、崩した煮魚を口に運び、うかがうようにこちらを見た。
「今日のことは誰にも言うな」
「ええ……報告しません」
ひどく疲れているような気がした。任務明けであることにも加えて、生きているかわからない人と再会して、急に現実が波になって襲い掛かってきたような気分だった。
「……聞かないのか」
「薬を調合したいから、体のことをあとで聞きます。一族のことは、もういいんです。あなた自身のことも」
行灯の光を受けたイタチさんの目が動揺で揺れる。ざまあみろ、と一瞬思った。
「もうあの名前は捨てました。火影様から新しい名前をいただいて、いまは医療忍者として里で働いているんです」
新しい人生を送っているのだと伝えたかった。わたしのときは止まらずに、しっかりと流れ続けていたのだと。
わたしが淡々と言うと、イタチさんは無感動にそうか、と呟いた。褒めてくれも認めてくれもしなかった。
お風呂には先にイタチさんが入った。髪を濡らしたままイタチさんが部屋に戻ってきてぎょっとしたが、黒い髪が張り付いた首の細さにさらに驚かされることになった。
今までの任務で幾度となく見たことのある、病人の首筋だった。
イタチさんと入れ替わってお風呂に入ったけれど、どうにも落ち着かなくてすぐに上がった。森のなかを歩く時の足音のなさだとか、静かな食事の仕方を思い出すと、部屋に戻ったら彼が煙のように消えているのではないかと怖くなった。
おざなりに髪を拭いて部屋に戻る。扉を開けた瞬間、夜の匂いがした。イタチさんが障子窓を開けているからだった。彼は窓枠に肘をかけて寄りかかり、真っ暗な外を眺めていた。
「……イタチさん」
「ああ、出たか」
入口に立つわたしに視線を向けると、イタチさんは自分の方に手まねきをした。
「まだ髪が濡れているだろう。おいで」
彼のその言葉を聞いたとき、たまらなく泣き出してしまいそうになった。
懐かしさが胸にこみあげてきた。こんなことで刺激されることが悔しいのに、体は素直にイタチさんの方に向かった。
肩にかけていた手ぬぐいが落ちることも気にせずに、足を引きずるようにしてわたしは窓際に座る彼に近づいた。
開けられた窓からは、静かに夜風が吹き込んできていて、イタチさんの渇ききっていない髪を揺らしている。昔からあなたの髪は長かった。あの穏やかな揺れを何度もわたしは見ていた。にくくて、ずるい。記憶の淵に触れてこないでほしい。
「あなただってまだ濡れているじゃないですか、昔からそうだ、あなたは」
他人のことばかり優先する。
語気が強くなり、言葉が詰まってうまく言えなかった。
彼のそばに膝をついて座る。寝巻からはみ出た膝に畳が触れて痛い。自分の膝の上で拳を作り、わきあがる感情をこらえるように強く握った。
おそるおそる、食事のときよりもずっと丁寧にイタチさんはわたしの肩に触れた。わたしの首にかけてあった手ぬぐいを手で持って、髪に押しあてていく。
昔も、よくこうして世話をしてもらったことを嫌でも思い出す。ささくれだった気持ちが徐々に凪いで、手を握る力を弱めた。安心すると体が重たくなって、わたしは静かにイタチさんの体にもたれた。
「……冷えていますね」
夜風に当たっていた体は芯から冷たく、胸のあたりまで伸びた髪からは髪の独特な匂いがした。せっけんの人工的な香りのなかに、ほのかにイタチさん自身の匂いが隠れている。
「イタチさん、わたしのことより自分を」
ああ、とイタチさんは言ったが、空返事のようだった。髪を散々撫でた後、手ぬぐいを床に置いて、わたしのことを閉じ込めるかのように腕をわたしの体にまわした。体が触れ合い、うすくて硬い胸板の感触を感じた。
「……大きくなったな」
風の音にかきけされてしまいそうな声で、彼は言った。一瞬強く抱きしめて、それが幻であったかのように腕の力を緩めた後、続けた。
「おまえと、サスケのことは殺せなかった」
「シスイの妹だから……?」
あの夜のイタチさんの涙がまぶたに浮かんだ。肉親と恋人すら手にかけた彼が、自身の弟とわたしのことは見逃したのだ。あの涙はまぎれもなく本物で、きっとなにか理由があるのだと思うと、わたしはもうなにも恨めなかった。
「違う、血がつながっていなくても、俺はおまえを自分の妹のように思っていた。殺す瞬間に手が止まった。里のみんなを殺した俺のことを憎んでいると思っていたのに、おまえは――」
ゆびさきで、彼の乾いた唇に触れる。唇が細かく震えた後言葉は止まり、わたしは顔を上げて彼の顔を見つめた。これ以上、彼の言葉を聞いていると苦しくなる気がした。
この世界は、イタチさんにやさしくないのだと思った。冷たい夜風も、病気も。弟と、わたしのことに無責任になれないことが、どれだけ苦しいだろうと思った。
寝巻き越しに触れた体はまだ冷たくて、あたためてあげたいから、わたしは薄い体に自分の体を押し付けた。
兄さんが死んだときから、兄さんとイタチさんの間でなにかが起きていたことはわかっていた。あのときたった一言でも、どうしたいかだけでも聞いてほしかった。わたしも生きるのか、死ぬのか。そしてもし戻れるなら、逃げようと言いたかった。
わたしは、イタチさんの、あなたのよすがになりたかった。あんな自体になる前になにかしてあげたかった。
爪の先で、イタチさんの唇の隙間を割る。言葉を失わせるかのように前歯に触れる。イタチさんは抵抗せずにわたしを見つめた。
わたしのことを、このまま連れていってほしい。イタチさんが陽の当たらないところで人に言えないようなことをしていたとしても、病弱の体を見捨てるよりは、もうなにもできないよりは、それに加担した方がずっとよかった。そして、それよりもただ、わたしはあなたと一緒にいたかった。
もう一度、わたしのことを好きだと言って、抱きしめさせたかった。
イタチさんの胸板に触れた後、すがるように彼に抱き着いた。懐かしい匂いのする腕のなかで、わたしは小さい頃のことを思い出していた。
兄さんとイタチさんが遊ぶとき、わたしは大人ぶって、彼らの後ろについていった。修行代わりに山に登っても、体力が足りないからふたりには追いつけなかった。わたしを気にせずどんどん進んでいく兄さんと違って、イタチさんはわたしが遅れると必ず引き返してくれた。
昼間でも木々の茂ったところは暗くなるから、怖くてわたしはよくうずくまって泣いていた。イタチさんはその度に、わたしを見つけて、抱き上げて膝の上に乗せてあやした。
兄さんが遠くで、わたしたちを呼ぶのが聞こえていた。イタチさんは少し探させてやろう、といたずらっぽく笑って、わたしを抱き締めたまま地面に寝転がった。
白い光をくっきりと木の葉は縁取っていて、わたしたちの体にはまだら模様に木漏れ日がおちた。木漏れ日は風に合わせて揺れる。イタチさんの腕に抱きしめられながら、わたし達は光のなかをたゆたっていた。
この世界で、一番穏やかでやさしく、一番ゆるやかに時間が過ぎるときだった。兄さんの声が木々の間をこだまする。イタチさんが探しているな、と笑って、わたしは顔を出してあげましょうよ、と言った。
口ではそんなことを言っているのに、体は全く動かなくて、数歳年上の兄のような男の人の体に、わたしは全身をゆだねていた。胸に頬をつけるとゆっくりと心臓の音が聞こえた。安心して目を閉じると、イタチさんはわたしの頭を数度撫でた。
兄さんの声が、こだまして、おおきくなって、ちかづいてくる、とおくで、耳元で、わたしの名前を呼んでいる。
意識が、糸を引かれるように現実に引き戻される。イタチさんがわたしを抱き締めたまま、確かにわたしの名前を呼んだ。一度棄てた名前を。
わたしは兄や家族が死ぬこれが自分の人生だと思いたくなくて、現実感を殺すために、新しい名前をもらった。兄さんやあなたがいなくても、ひとりでも生きていけるんだって証明したかった。あなたのしたことを忘れて、許したかった。
でも、あなたが引き戻す。抱きしめられただけで、かつての名前を呼ばれただけでわたしは簡単に木の葉の医療忍者から、うちは一族に戻りそうになってしまった。
イタチさんの膝の上に乗り上げて、彼の顔を見下ろした。垂れた髪がイタチさんの頬にかかり、影を落とす。彼の顔に刻まれた皺が、疲労を表しているようで見ていて苦しかった。
風で葉が揺れて、植物と水の匂いを含んだ空気がわたしたちを包んだ。あの頃に戻りたい。イタチさんの膝で眠っていた当時と似たような状況なのに、昔と比べて驚くほど細くなった体や、かすかにわかる血の匂いが、もう戻れないところにいることを、つよく告げてくる。
「ずっとすきでした、わたしのことも、つれていって」
本当に、言わなければよかった。夢に引きずられるように言葉が零れた。これを言ってしまったら、イタチさんが次にするであろうことは、もう大抵は決まってしまっていた。
イタチさんの目が、赤く、黒く染まっていく。窓からの冷たい風がわたしの濡れた頬に当たる。
「わたし、大きくなったでしょう。きっと役に立ちます。あなたの病気も、治すから」
文様が暗闇に混じって溶けそうになりながら、兄さんの死で完成した万華鏡写輪眼がわたしを射貫く。
彼の幻術に対抗する手段はない。これからなにをされるのかわたしには想像もつかなかった。ただ眠らされて終わるだけかもしれないし、記憶を書き換えられるかもしれない。精神を壊されて、もう二度と動けなくなるかもしれない。それでも、あの場でイタチさんのことを助けたことが間違いだとは、どうしても言えなかった。これは自分で選択したことで、彼から受け取る痛みくらい、わたしは甘んじて受け入れたかった。そしてその選択が彼をさらに苦しめることは知っていて、わたしは「連れていって」と言った。
爪を立てて背中の服を握ると、イタチさんは安心させるように薄く微笑んだ。
泣きながら笑う姿があまりに似合うものだから、緊張感もなくわたしから笑みが漏れた。
彼の瞳を見ていると、昔に浴びた木漏れ日が、熱すら感じられそうなほどにはっきりと皮膚に蘇った。体のいたるところが痺れて、その直後に感覚がなくなっていく。体が自分のものでなくなっていくのがわかる。イタチさんの目からはらはらとなにか垂れてきて、頬にあたる。痛みはない。
なまえを呼ばれている。誰かに。低くて、やさしい声だった。
「 」
なまえを棄ててから、ずっと夢のなかで生きてきた。この夢から覚ましてくれる誰かがいるとするなら、ずっとイタチさんがいいと思っていた。あの日の涙の答え合わせをしたかった。
あの里で、何者でもないまま、わたしはずっとあなたのことを待っていた。
あなたを見つけたのは偶然だった。里の外れに住んでいる人を治療しにいくだけの、忍者というよりは医師に近いような、簡単な任務の帰りだった。薬草を摘むために寄り道した森にあなたはいたのだ。
あの日、黒い外套を着た人が木にもたれて座り込んでいて、具合が悪いのかと思ってわたしは近づいた。わたしが声をかけると、彼は顔をあげ、その拍子に笠の日よけの隙間から赤い目がのぞいた。目が合った瞬間、わたしは考えるよりも先に彼だと直感した。
「……イタチさん」
うちはイタチ。うちは一族を一夜で皆殺しにした男だった。事件が起こる前、わたしとわたしの兄と彼は、本当の兄妹のように仲が良かった。
イタチさんはなにかを言ったように聞こえたが、声が掠れていて聞き取れない。地面に膝をついて近づくと、かすかに血の匂いまでした。様子がおかしいと思って彼の笠を外す。顔は死人のように青く染まり、血を吐いたのか、口元には血の跡があった。
ちかよるな、と彼の唇は音もなく動いた。
顔色と血を見た時点で、彼は私の中で仲間を殺した仇でも木の葉の里の抜け忍でもなく、救うべき病人になってしまった。医療忍者として仲間を治すことよりも、一般人を治す機会の方が多かったから、忍者よりも医者としての矜持の方が強くなる。そしてそれ以上に、私は彼に話したいことがあった。
制止しようとするイタチさんを無視して、私は彼の体に手をかざした。
鎮痛と鎮静の術をかけていく。意識を保っているすら辛そうなのに、彼は私の目を強く睨む。写輪眼が解けた、濡れたように黒い瞳だった。
「大丈夫。助けます」
昔、イタチさんがわたしに言ってくれていたことだった。強く頷くと、イタチさんは信用してくれたのか、懐から薬袋を出して私に渡し、そのまま穏やかに目を瞑った。
□
治療が終わっても、イタチさんが目を覚ますまでわたしはそこを動けなかった。私の上着を枕にして横たわるイタチさんの額に浮かぶ汗を、手ぬぐいで拭く。イタチさんは、昔からいつも苦労しているような皺があったけれど、会わないうちにそれは傷のようにさらに深く刻まれているように見えた。
帰還が送れることを報告する手紙を、鳥を使って里に飛ばす。イタチさんのことはなにも書かないでおいた。抜け忍を治療したなんてことが知られたら、わたしの立場も面倒なことになるから、隠してしまった方が楽だろうと思った。
夜になる前にイタチさんは目を開けた。起き上がると、怒りも焦りも感じさせない、静かな目でわたしのことを見据えた。
「なぜ助けた。里への裏切りになるだろう」
「……別に。あそこで見捨てるのも、人として嫌だっただけです」
そうか、とイタチさんは呟いた。長い年月が実態をもって、わたし達を隔てる壁になっているようで、言葉をうまく伝えられる気がしなかった。
夕方のかすかに冷えを含んだ風が木々の隙間を通り過ぎる。これは病気の体にはよくない風だと思った。
「まだ、一緒にいましょうか。あなたの処置が全部終わっていないんです」
立ち上がり、上着の泥を祓いながら彼にいった。横から差してくる夕日で彼の顔に赤みがさしているようにみえて、少しだけ安心する。
一度チャクラが切れかけるほど状態が悪くなったからか、わたしのことは警戒にも値しないと思っているのか、イタチさんはわたしに素直についてきた。
わたしが枯れ葉を踏むと軽い音が、足元からで鳴った。同じ道を歩いているのに、背後からはなにも聞こえてこなかった。
わたし一人で泊まる予定だった宿についたのは、日が暮れてからだった。懇意にしているからか、それとも面倒な予感を察したのか、予定よりも客が増えていることに主人はなにも言わなかった。
ついてすぐに個室にまで料理が二膳運ばれてきて、わたしとイタチさんは向い合わせに座った。私が先に口に含んだのを確認してからイタチさんも食べ始めた。昔はそんなことしなかった癖に、当たり前のように張り巡らされた警戒に汗がにじむ。
治療をしていたときは、イタチさんがみんなを襲った夜のことを聞こうとはっきりと決めていたのに、お箸を運ぶ手つきの丁寧さが昔と変わらないのを見ていると、その気も次第に失せてきた。
イタチさんに復讐すると固く誓っている彼の弟のサスケくんと違って、私の怒りや悲しみは、年月を経てすっかり風化してしまっていた。名前を変えて、うちはであることを隠しているうちに、自分が一族の一員であるという自覚すら薄れてしまっていた。
元々、戦うのも好きじゃなければ、誰かに怒り続けるのも苦手だった。だからイタチさんには昔から戦うよりも医療忍者の方が向いていると言われていた。なにより兄が、シスイが死んでから、なにもかもが夢の出来事のようで、生きている実感がなかった。
イタチさんは、崩した煮魚を口に運び、うかがうようにこちらを見た。
「今日のことは誰にも言うな」
「ええ……報告しません」
ひどく疲れているような気がした。任務明けであることにも加えて、生きているかわからない人と再会して、急に現実が波になって襲い掛かってきたような気分だった。
「……聞かないのか」
「薬を調合したいから、体のことをあとで聞きます。一族のことは、もういいんです。あなた自身のことも」
行灯の光を受けたイタチさんの目が動揺で揺れる。ざまあみろ、と一瞬思った。
「もうあの名前は捨てました。火影様から新しい名前をいただいて、いまは医療忍者として里で働いているんです」
新しい人生を送っているのだと伝えたかった。わたしのときは止まらずに、しっかりと流れ続けていたのだと。
わたしが淡々と言うと、イタチさんは無感動にそうか、と呟いた。褒めてくれも認めてくれもしなかった。
お風呂には先にイタチさんが入った。髪を濡らしたままイタチさんが部屋に戻ってきてぎょっとしたが、黒い髪が張り付いた首の細さにさらに驚かされることになった。
今までの任務で幾度となく見たことのある、病人の首筋だった。
イタチさんと入れ替わってお風呂に入ったけれど、どうにも落ち着かなくてすぐに上がった。森のなかを歩く時の足音のなさだとか、静かな食事の仕方を思い出すと、部屋に戻ったら彼が煙のように消えているのではないかと怖くなった。
おざなりに髪を拭いて部屋に戻る。扉を開けた瞬間、夜の匂いがした。イタチさんが障子窓を開けているからだった。彼は窓枠に肘をかけて寄りかかり、真っ暗な外を眺めていた。
「……イタチさん」
「ああ、出たか」
入口に立つわたしに視線を向けると、イタチさんは自分の方に手まねきをした。
「まだ髪が濡れているだろう。おいで」
彼のその言葉を聞いたとき、たまらなく泣き出してしまいそうになった。
懐かしさが胸にこみあげてきた。こんなことで刺激されることが悔しいのに、体は素直にイタチさんの方に向かった。
肩にかけていた手ぬぐいが落ちることも気にせずに、足を引きずるようにしてわたしは窓際に座る彼に近づいた。
開けられた窓からは、静かに夜風が吹き込んできていて、イタチさんの渇ききっていない髪を揺らしている。昔からあなたの髪は長かった。あの穏やかな揺れを何度もわたしは見ていた。にくくて、ずるい。記憶の淵に触れてこないでほしい。
「あなただってまだ濡れているじゃないですか、昔からそうだ、あなたは」
他人のことばかり優先する。
語気が強くなり、言葉が詰まってうまく言えなかった。
彼のそばに膝をついて座る。寝巻からはみ出た膝に畳が触れて痛い。自分の膝の上で拳を作り、わきあがる感情をこらえるように強く握った。
おそるおそる、食事のときよりもずっと丁寧にイタチさんはわたしの肩に触れた。わたしの首にかけてあった手ぬぐいを手で持って、髪に押しあてていく。
昔も、よくこうして世話をしてもらったことを嫌でも思い出す。ささくれだった気持ちが徐々に凪いで、手を握る力を弱めた。安心すると体が重たくなって、わたしは静かにイタチさんの体にもたれた。
「……冷えていますね」
夜風に当たっていた体は芯から冷たく、胸のあたりまで伸びた髪からは髪の独特な匂いがした。せっけんの人工的な香りのなかに、ほのかにイタチさん自身の匂いが隠れている。
「イタチさん、わたしのことより自分を」
ああ、とイタチさんは言ったが、空返事のようだった。髪を散々撫でた後、手ぬぐいを床に置いて、わたしのことを閉じ込めるかのように腕をわたしの体にまわした。体が触れ合い、うすくて硬い胸板の感触を感じた。
「……大きくなったな」
風の音にかきけされてしまいそうな声で、彼は言った。一瞬強く抱きしめて、それが幻であったかのように腕の力を緩めた後、続けた。
「おまえと、サスケのことは殺せなかった」
「シスイの妹だから……?」
あの夜のイタチさんの涙がまぶたに浮かんだ。肉親と恋人すら手にかけた彼が、自身の弟とわたしのことは見逃したのだ。あの涙はまぎれもなく本物で、きっとなにか理由があるのだと思うと、わたしはもうなにも恨めなかった。
「違う、血がつながっていなくても、俺はおまえを自分の妹のように思っていた。殺す瞬間に手が止まった。里のみんなを殺した俺のことを憎んでいると思っていたのに、おまえは――」
ゆびさきで、彼の乾いた唇に触れる。唇が細かく震えた後言葉は止まり、わたしは顔を上げて彼の顔を見つめた。これ以上、彼の言葉を聞いていると苦しくなる気がした。
この世界は、イタチさんにやさしくないのだと思った。冷たい夜風も、病気も。弟と、わたしのことに無責任になれないことが、どれだけ苦しいだろうと思った。
寝巻き越しに触れた体はまだ冷たくて、あたためてあげたいから、わたしは薄い体に自分の体を押し付けた。
兄さんが死んだときから、兄さんとイタチさんの間でなにかが起きていたことはわかっていた。あのときたった一言でも、どうしたいかだけでも聞いてほしかった。わたしも生きるのか、死ぬのか。そしてもし戻れるなら、逃げようと言いたかった。
わたしは、イタチさんの、あなたのよすがになりたかった。あんな自体になる前になにかしてあげたかった。
爪の先で、イタチさんの唇の隙間を割る。言葉を失わせるかのように前歯に触れる。イタチさんは抵抗せずにわたしを見つめた。
わたしのことを、このまま連れていってほしい。イタチさんが陽の当たらないところで人に言えないようなことをしていたとしても、病弱の体を見捨てるよりは、もうなにもできないよりは、それに加担した方がずっとよかった。そして、それよりもただ、わたしはあなたと一緒にいたかった。
もう一度、わたしのことを好きだと言って、抱きしめさせたかった。
イタチさんの胸板に触れた後、すがるように彼に抱き着いた。懐かしい匂いのする腕のなかで、わたしは小さい頃のことを思い出していた。
兄さんとイタチさんが遊ぶとき、わたしは大人ぶって、彼らの後ろについていった。修行代わりに山に登っても、体力が足りないからふたりには追いつけなかった。わたしを気にせずどんどん進んでいく兄さんと違って、イタチさんはわたしが遅れると必ず引き返してくれた。
昼間でも木々の茂ったところは暗くなるから、怖くてわたしはよくうずくまって泣いていた。イタチさんはその度に、わたしを見つけて、抱き上げて膝の上に乗せてあやした。
兄さんが遠くで、わたしたちを呼ぶのが聞こえていた。イタチさんは少し探させてやろう、といたずらっぽく笑って、わたしを抱き締めたまま地面に寝転がった。
白い光をくっきりと木の葉は縁取っていて、わたしたちの体にはまだら模様に木漏れ日がおちた。木漏れ日は風に合わせて揺れる。イタチさんの腕に抱きしめられながら、わたし達は光のなかをたゆたっていた。
この世界で、一番穏やかでやさしく、一番ゆるやかに時間が過ぎるときだった。兄さんの声が木々の間をこだまする。イタチさんが探しているな、と笑って、わたしは顔を出してあげましょうよ、と言った。
口ではそんなことを言っているのに、体は全く動かなくて、数歳年上の兄のような男の人の体に、わたしは全身をゆだねていた。胸に頬をつけるとゆっくりと心臓の音が聞こえた。安心して目を閉じると、イタチさんはわたしの頭を数度撫でた。
兄さんの声が、こだまして、おおきくなって、ちかづいてくる、とおくで、耳元で、わたしの名前を呼んでいる。
意識が、糸を引かれるように現実に引き戻される。イタチさんがわたしを抱き締めたまま、確かにわたしの名前を呼んだ。一度棄てた名前を。
わたしは兄や家族が死ぬこれが自分の人生だと思いたくなくて、現実感を殺すために、新しい名前をもらった。兄さんやあなたがいなくても、ひとりでも生きていけるんだって証明したかった。あなたのしたことを忘れて、許したかった。
でも、あなたが引き戻す。抱きしめられただけで、かつての名前を呼ばれただけでわたしは簡単に木の葉の医療忍者から、うちは一族に戻りそうになってしまった。
イタチさんの膝の上に乗り上げて、彼の顔を見下ろした。垂れた髪がイタチさんの頬にかかり、影を落とす。彼の顔に刻まれた皺が、疲労を表しているようで見ていて苦しかった。
風で葉が揺れて、植物と水の匂いを含んだ空気がわたしたちを包んだ。あの頃に戻りたい。イタチさんの膝で眠っていた当時と似たような状況なのに、昔と比べて驚くほど細くなった体や、かすかにわかる血の匂いが、もう戻れないところにいることを、つよく告げてくる。
「ずっとすきでした、わたしのことも、つれていって」
本当に、言わなければよかった。夢に引きずられるように言葉が零れた。これを言ってしまったら、イタチさんが次にするであろうことは、もう大抵は決まってしまっていた。
イタチさんの目が、赤く、黒く染まっていく。窓からの冷たい風がわたしの濡れた頬に当たる。
「わたし、大きくなったでしょう。きっと役に立ちます。あなたの病気も、治すから」
文様が暗闇に混じって溶けそうになりながら、兄さんの死で完成した万華鏡写輪眼がわたしを射貫く。
彼の幻術に対抗する手段はない。これからなにをされるのかわたしには想像もつかなかった。ただ眠らされて終わるだけかもしれないし、記憶を書き換えられるかもしれない。精神を壊されて、もう二度と動けなくなるかもしれない。それでも、あの場でイタチさんのことを助けたことが間違いだとは、どうしても言えなかった。これは自分で選択したことで、彼から受け取る痛みくらい、わたしは甘んじて受け入れたかった。そしてその選択が彼をさらに苦しめることは知っていて、わたしは「連れていって」と言った。
爪を立てて背中の服を握ると、イタチさんは安心させるように薄く微笑んだ。
泣きながら笑う姿があまりに似合うものだから、緊張感もなくわたしから笑みが漏れた。
彼の瞳を見ていると、昔に浴びた木漏れ日が、熱すら感じられそうなほどにはっきりと皮膚に蘇った。体のいたるところが痺れて、その直後に感覚がなくなっていく。体が自分のものでなくなっていくのがわかる。イタチさんの目からはらはらとなにか垂れてきて、頬にあたる。痛みはない。
なまえを呼ばれている。誰かに。低くて、やさしい声だった。
「 」
なまえを棄ててから、ずっと夢のなかで生きてきた。この夢から覚ましてくれる誰かがいるとするなら、ずっとイタチさんがいいと思っていた。あの日の涙の答え合わせをしたかった。
あの里で、何者でもないまま、わたしはずっとあなたのことを待っていた。
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