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起きて、というとき、いつも誰に言っているのかわからなくなる。なんのために、なにを叶えるために言っているのか。これは命令なのか願望なのか。
白い短髪が、教室の窓から入ってくるゆるやかな風で揺れている。私は机に伏せたその人の背中に手を当てて、もう一度言う。
「凪くん、起きて」
「ううん……もう少し……」
「だめ、次移動なんだから。もう凪くんしか残ってないよ」
かたくなに顔を上げようとしない様子に焦れて、彼の体を揺さぶった。凪くんは高校生とは思えないほどの長身だから、机から飛びだした足の先のローファーの底が教室の床と擦れて音をたてる。
凪くんとはもう3年間も同じクラスになっている。1年生の頃に寝ている凪くんを起こしたり、提出物をリマインドしたりと、凪くんの世話を焼こうとする私を先生が見て、世話役にちょうどいいと思ったのかもしれない。
次の授業は化学で、実験室に行かないといけないのに、授業中に寝たまま休憩時間も眠る凪くんは全く起きようとしない。
「ううん……おはよ」
「おはよう、教科書は持ってる? 机の中みても大丈夫?」凪くんはちいさく頷いて、スペースを開けるために椅子を引いた。
眠たげに目をこする凪くんへのあいさつもおざなりにして、しゃがんで凪くんの引き出しの中を見る。早弁のためのパンとゲーム機の間に、大切に収めておくかのように化学の教科書も置いてある。忘れているか、引き出しの中でぐちゃぐちゃになっているかもしれないと思っていたから、意外に思ってたじろいだ。
「持ってきてたんだね」
凪くんの筆箱と教科書を取りながら言う。凪くんはノートは持ってこない。必要なことって教科書に書いてあるじゃん、と彼はよく言っていた。
「きみが」
凪くんの視線が後頭部に刺さるのを感じる。指先が変に緊張して、かすかにふるえた。
「持ってこいって、昨日教えてくれたじゃん」
布のペンケースが手から滑って落ちる。凪くんの声は、眠さのだるさの中にも、どんなにけなされても折れないような、強い芯があると感じることがある。
あ、と声が重なった。私が拾うよりも先に、椅子から下りた凪くんがペンケースに手を伸ばす。
凪くんの方を向けなくて、教室の茶色い床に留めておいたままの視界に、凪くんの指が映り込んだ。凪くんの指はペンケースを掴み、それを私の視界の外に移動させた。白い指は空間を裂くように堂々と動き、そのまま私の耳に触れる。
「……なに?」泣きだしてしまいそうなほど緊張していた。凪くんの指が髪を私の耳にかける感触だけが、昼下がりの夢みたいに曖昧な教室のなかで焼け付くような輪郭を保っている。
「あ、ごめん。顔みれねぇって思ったから……」凪くんはどこか困惑したような声で言った。
「そう。でも触れるときは声かけなきゃでしょ。びっくりしちゃう」
目を反らしたままそう言って立ち上がろうとしたとき、凪くんは言った。
「あのさ、前キミに好きっていったときのこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。ごめん、あのとき逃げちゃって」
「べつに~。でもすげえ足速かったからびびった」
「あはは……」
足が速いのは中学までサッカーをしていたからだ。凪くんはそれを知らないはずだが、思わぬところで苦い記憶に触れられて微妙な笑いで返した。
指のかたさと熱が、どうしても忘れられなかった。
凪くんが私に告白したのは一週間ほど前だった。夕方の誰もいない教室で、先生からの伝言でも伝えるように凪くんは言った。キミのことが好き。普段はおよそ人に関心のなさそうな彼の言葉とは思えなくて、はじめて聞いたとき私は彼に聞き返した。
え、なんて言ったの。不自然に明るく振舞った声が教室に響く。だから、と言いながら凪くんは私に近づいた。夕陽の映った机の上で、凪くんの影が揺れるのをどこか他人事のような気持ちでみていた。
「キミのこと、好きだと思う」
凪くんは私の指先に手を伸ばして、静かに触れた。身長差があるから、軽く膝を折ってかがむ彼の姿を見ていると、これは嘘じゃないとすぐに気が付いた。
いつもゲームをしているからか指の腹はかたくなっていて、筋肉量があるからか指先まで熱い。
好きも嫌いも、したいもしたくないも、私は言い慣れていない。せめて、もう少し彼がわかりやすくいてくれれば楽なのに。返答に困ってどうしていいかわからなくなって、そっと指をほどいた。あとでお返事するね、とだけ言って、その日は大急ぎで教室から逃げた。いつもだったら絶対廊下なんて走らないのに、久しぶりに出した全速力のせいで体の節々は限界だと軋んでいた。
繰り返し鳴る始業のチャイムで、我に返った。凪くんと私はペンケースを拾ったままの体勢でしばらく静止していたようだ。
化学の先生は厳しい人だから、凪くんを連れてこなかったら二人とも怒られるかもしれない。
「もういかなくちゃ……告白の返事、放課後でもいいかな」
立とうとした私を、凪くんは一言で引き留める。ねえ、と言われるだけで十分だった。三年間、私は凪くんのその言葉を聞く度に、彼のしてほしいことを想像して、助けた。先生から凪くんをよろしくね、と言われていたから、私のしていることはきっと間違いじゃないと思っていた。
問題児の世話をする優等生。大人の手を煩わせない子。それが、周囲の大人たちの評価だった。サッカーも、高校に入って本格的になると送り迎えや遠征と母の手を煩わせるから、自分から辞めるといった。逃げたようで心地悪くて、でも「したい」と自分が本当に思っているのかわからなかったから、口には出せなかった。
遠ざかれば思い出も消え、感情は芽を摘めばなくなると思っていた。
しかし期待に反して、サッカーは凪くんを通して私のすぐそばに置かれることになった。凪くんのプレイ動画は友だちの間で回った。凪くんからする制汗剤の匂いが、いつも懐かしかった。
『頑張らなきゃ勝てないなんて、弱い奴ってめんどくさいね』
凪くんがそういうことを言っていたと、彼の友達の御影くんから聞いたことがある。彼は凪くんのことが大好きだから、人によってはこれを聞いたら傷つくなんて想像もつかないのだろう。
なんて、傲慢なひとたち。
怒りに似た感情が脳をよぎり、それに任せて凪くんの方を向く。凪くんの視線は強くて、告白を断られることなんてみじんも予想していないように見える。スポーツをしているひとだ、とすぐにわかる目。わがままで、欲しいと思ったものは絶対に手に入れるという欲が穏やかなグレーの瞳の奥ににじむ。
「凪くんと付き合ったら、私はまた凪くんのお世話係?」
「お世話? キミが俺の面倒見るの嫌なら、俺面倒なこともがんばるよ」
「人のために自分を曲げる必要なんてないのに」
「キミがそれを言うの?」
あなたみたいな人がいるから私に負担が回ってくるんじゃない、と思わず口をつきそうになった言葉を飲み込む。本当は、凪くんが悪くないってわかっている。私は大人から求められる役割を自分で演じようとしているだけで、凪くんに直接頼まれたわけじゃない。凪くんは自由に生きる権利があって、私にもそれはある。あるはずなのに。
「あのさ、キミってサッカーしてた?」
「え? ……してた、けど」
唐突な話題の変更に混乱して、思わず素直に答えてしまう。凪くんにサッカーをやめたことやその理由をなんとなく知られたくなくて、隠していたことだった。
「しようよ、いま」
先に凪くんが立ち上がって、しゃがんだままの私に手を差し伸べてくる。窓から差す陽が凪くんのことを横から照らす。体質なのか外のスポーツをしているのにいつまでも焼けない凪くんの肌は白く、光を反射して眩しい。
「し、しないよ……はやく授業いこう」
「俺を負けさせるチャンスだよ」
「いいって、大体やらなくてもわかってる勝負じゃん」
凪くんとサッカーをするより、私は授業に行きたかった。行って、遅れてごめんなさいと謝ることが最善なような気がしていた。
踏み出すことが怖い。怒られて失望されることが。いままで自分が薄氷を踏むような思いで築いてきた信頼を崩してしまうことが。
「じゃあ、俺がサッカーは楽しいって教えてあげる」
凪くんは、誰でもない私に向かってこれを言っている。いい子とか賢いとか、使い古された言葉よりも彼が本当に言いたいこと、彼の創り出した言葉を優先している。差し出された大きな手のひらが、かすかに震えているのがそれを物語っていた。
「一緒にたのしも」凪くんの垂れた瞳の表面が、鮮やかに揺れる。
起きて。準備して。時間を守って。誰のために凪くんに注意をしているのかもわからなくなってしまった私と違って、凪くんは、私と凪くんのために言っている。私たちが誰にも何にも縛られず、自由に生きるために。
私が凪くんの手を取ると、凪くんは満足した子どものように笑った。手にもっていた教科書もペンケースも机の上に置き去りにして、手をつないだまま教室を出た。授業中だから誰もいない廊下と階段を、必死に駆け抜けた。凪くんは私にスピードをあわせてくれていたけれど、それでも汗はふきでて、制服は濡れた。木漏れ日が視界を次々と横切る。跳ねた心臓の音が凪くんにも聞こえてしまいそうでどきどきした。
サッカー部のボールを使うには職員室に鍵を取りにいかないといけなかったから、グラウンドについたらまずボールを探した。グラウンドの隅に、明らかに部員のものではなく昼休みに遊ぶためのものだろうとわかる汚れたボールがあって、それを使うことにした。
汚れて所々縫い目のほつれたボールが、どうしてか愛おしく思えた。
久しぶりに1対1をやった。スカートに体育で使う運動靴だから動きにくいし、なまった体はちっとも思い通りに動かない。息は苦しいし体は熱い。でも、この感覚を昔から、わたしはきっと――。
「あ~たのし」幸せそうに凪くんが言ったのが、足音やボールを蹴る音に交じって聞こえる。一瞬だけ見えた凪くんは、穏やかで満ち足りた表情をしていた。
「お前たち! なにしてんだ!」
私たちがグラウンドでサッカーをしていることに気がついて、二階にある職員室から先生が大声をあげる。
「ごめんなさ~い!」
先生に向かって両手を振りながら謝った。凪くんも軽く会釈をした。次の授業はちゃんと受けるし、化学の先生にはさぼってごめんなさいってちゃんと謝るから、どうか今だけは。
彼が天才的なプレイをすることは動画で見て知っていたけれど、実物を見ると本当に嫌になるほど、神さまみたいに上手い。白宝高校の制服は白を基調としているから、めまぐるしく変わる視界の中で、凪くんが本当に白い衣を着ている神さまに見えた。
満足するほどサッカーをした後、涼むために木陰の多い中庭に移った。久しぶりに運動して息を切らしている私に、凪くんは水を買ってきてくれた。
「前、凪くんは私のこと、好きだと思うって言ってよね。思うって、自信ないってこと?」
横並びにベンチに座って水を飲みながら、私は凪くんに尋ねた。
「自信っていうか、レオにキミのこと話した時に、『それは好きってことじゃないか』って言われたんだ。キミといると落ち着いて、近くにいてほしくて、でも目を見るとなんか緊張する」
照れる様子もなく言う凪くんに、こちらの方が恥ずかしくなってくる。顔が赤いのを暑さのせいだとごまかすように、冷えたペットボトルを頬に当てる。
「凪くんは、自分の感情を人に決められることが怖くないの?」
私はそれが嫌だった。あなたはいい子、と言われると、それが自分の本質なのかどうかわからなくて気持ち悪かった。
うーんそうだなあ、と凪くんは顎に手を当てて考えこむ。考えるのってメンドウ、やめたくなっちゃう。ここまで私のことを乱しておいて凪くんがそんなことを言うから、もう少しだけがんばって、と凪くんの肩を叩いた。凪くんはしばらく経ってから口を開いた。
「感情は、言葉に切り取られてから自覚できるけど、それより前にも生まれてはいるでしょ。うまいも好きも、心が熱くなった時に近しい言葉を見つけているだけにすぎない。だからキミへの『好き』がぴったりくる表現じゃなくて、他にもっといい言葉があったとして、それは絶対良いことだったり、大切で、あったかいものだと思うんだよね」
凪くんがここまではっきりと話すところを私は初めてみたかもしれない。「面倒なこともがんばる」といった凪くんの言葉が嘘でないことを実感した。
頬に当てていたペットボトルを膝の上におろす。プラスチックを通した日光が、紺の制服の上に輪のように光を散らした。これはきっと、きれい、という。
凪くんの言葉が、横から水が滲みるように投げかけられる。
「キミは多分、いろんなことが好きで嫌いだよ。3年間一緒にいた俺が言うんだからきっとそう」
「学校でしか一緒にいなかったのに、なにがわかるの?」冗談っぽく、笑いながら言った。グラウンドでサッカーする前の私だったら、絶対に彼にこんなことは言えていなかっただろうと思った。
「はは、けっこー言葉強いよね」凪くんは気分を害した様子もなく笑う。
「こういうところは?」
「そーいうところも、すき」
すき、という時の凪くんは決して私から目をそらさない。欲しいと、かすかに漏れる欲求を、私も逃がしたり反らさずに受け止める。視線はかたく絡んだ。
凪くんといると、新しい感情を見つけられる気がする。彼なら大人たちからもらった呪縛を外してくれそうな気がする。楽しいことは楽しいって言っていい。嫌なこと、したくないことを言うことは、決して私の価値を貶めない。
体を傾けて、凪くんの肩にもたれかかった。そのまま手を凪くんの胸元にもっていって、軽く抱き着くように鼻先を凪くんの肩口に埋める。
「大切にして」
「りょーかい」
「……笑っていて」
「もっと、したいこと、してほしいこと言って」
「私が朝はやい日は自分で起きて。私が困ってたら助けて。ときどき一緒にサッカーして」
「うん、するよ」
凪くんが私の頭を静かに撫でる。ありがとね、と私は小さな声で呟いた。
これは、間違いなく凪くんに向けて言った言葉だった。私の体のなかでは、春を待っていた感情が次々に芽吹きはじめていた。
白い短髪が、教室の窓から入ってくるゆるやかな風で揺れている。私は机に伏せたその人の背中に手を当てて、もう一度言う。
「凪くん、起きて」
「ううん……もう少し……」
「だめ、次移動なんだから。もう凪くんしか残ってないよ」
かたくなに顔を上げようとしない様子に焦れて、彼の体を揺さぶった。凪くんは高校生とは思えないほどの長身だから、机から飛びだした足の先のローファーの底が教室の床と擦れて音をたてる。
凪くんとはもう3年間も同じクラスになっている。1年生の頃に寝ている凪くんを起こしたり、提出物をリマインドしたりと、凪くんの世話を焼こうとする私を先生が見て、世話役にちょうどいいと思ったのかもしれない。
次の授業は化学で、実験室に行かないといけないのに、授業中に寝たまま休憩時間も眠る凪くんは全く起きようとしない。
「ううん……おはよ」
「おはよう、教科書は持ってる? 机の中みても大丈夫?」凪くんはちいさく頷いて、スペースを開けるために椅子を引いた。
眠たげに目をこする凪くんへのあいさつもおざなりにして、しゃがんで凪くんの引き出しの中を見る。早弁のためのパンとゲーム機の間に、大切に収めておくかのように化学の教科書も置いてある。忘れているか、引き出しの中でぐちゃぐちゃになっているかもしれないと思っていたから、意外に思ってたじろいだ。
「持ってきてたんだね」
凪くんの筆箱と教科書を取りながら言う。凪くんはノートは持ってこない。必要なことって教科書に書いてあるじゃん、と彼はよく言っていた。
「きみが」
凪くんの視線が後頭部に刺さるのを感じる。指先が変に緊張して、かすかにふるえた。
「持ってこいって、昨日教えてくれたじゃん」
布のペンケースが手から滑って落ちる。凪くんの声は、眠さのだるさの中にも、どんなにけなされても折れないような、強い芯があると感じることがある。
あ、と声が重なった。私が拾うよりも先に、椅子から下りた凪くんがペンケースに手を伸ばす。
凪くんの方を向けなくて、教室の茶色い床に留めておいたままの視界に、凪くんの指が映り込んだ。凪くんの指はペンケースを掴み、それを私の視界の外に移動させた。白い指は空間を裂くように堂々と動き、そのまま私の耳に触れる。
「……なに?」泣きだしてしまいそうなほど緊張していた。凪くんの指が髪を私の耳にかける感触だけが、昼下がりの夢みたいに曖昧な教室のなかで焼け付くような輪郭を保っている。
「あ、ごめん。顔みれねぇって思ったから……」凪くんはどこか困惑したような声で言った。
「そう。でも触れるときは声かけなきゃでしょ。びっくりしちゃう」
目を反らしたままそう言って立ち上がろうとしたとき、凪くんは言った。
「あのさ、前キミに好きっていったときのこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。ごめん、あのとき逃げちゃって」
「べつに~。でもすげえ足速かったからびびった」
「あはは……」
足が速いのは中学までサッカーをしていたからだ。凪くんはそれを知らないはずだが、思わぬところで苦い記憶に触れられて微妙な笑いで返した。
指のかたさと熱が、どうしても忘れられなかった。
凪くんが私に告白したのは一週間ほど前だった。夕方の誰もいない教室で、先生からの伝言でも伝えるように凪くんは言った。キミのことが好き。普段はおよそ人に関心のなさそうな彼の言葉とは思えなくて、はじめて聞いたとき私は彼に聞き返した。
え、なんて言ったの。不自然に明るく振舞った声が教室に響く。だから、と言いながら凪くんは私に近づいた。夕陽の映った机の上で、凪くんの影が揺れるのをどこか他人事のような気持ちでみていた。
「キミのこと、好きだと思う」
凪くんは私の指先に手を伸ばして、静かに触れた。身長差があるから、軽く膝を折ってかがむ彼の姿を見ていると、これは嘘じゃないとすぐに気が付いた。
いつもゲームをしているからか指の腹はかたくなっていて、筋肉量があるからか指先まで熱い。
好きも嫌いも、したいもしたくないも、私は言い慣れていない。せめて、もう少し彼がわかりやすくいてくれれば楽なのに。返答に困ってどうしていいかわからなくなって、そっと指をほどいた。あとでお返事するね、とだけ言って、その日は大急ぎで教室から逃げた。いつもだったら絶対廊下なんて走らないのに、久しぶりに出した全速力のせいで体の節々は限界だと軋んでいた。
繰り返し鳴る始業のチャイムで、我に返った。凪くんと私はペンケースを拾ったままの体勢でしばらく静止していたようだ。
化学の先生は厳しい人だから、凪くんを連れてこなかったら二人とも怒られるかもしれない。
「もういかなくちゃ……告白の返事、放課後でもいいかな」
立とうとした私を、凪くんは一言で引き留める。ねえ、と言われるだけで十分だった。三年間、私は凪くんのその言葉を聞く度に、彼のしてほしいことを想像して、助けた。先生から凪くんをよろしくね、と言われていたから、私のしていることはきっと間違いじゃないと思っていた。
問題児の世話をする優等生。大人の手を煩わせない子。それが、周囲の大人たちの評価だった。サッカーも、高校に入って本格的になると送り迎えや遠征と母の手を煩わせるから、自分から辞めるといった。逃げたようで心地悪くて、でも「したい」と自分が本当に思っているのかわからなかったから、口には出せなかった。
遠ざかれば思い出も消え、感情は芽を摘めばなくなると思っていた。
しかし期待に反して、サッカーは凪くんを通して私のすぐそばに置かれることになった。凪くんのプレイ動画は友だちの間で回った。凪くんからする制汗剤の匂いが、いつも懐かしかった。
『頑張らなきゃ勝てないなんて、弱い奴ってめんどくさいね』
凪くんがそういうことを言っていたと、彼の友達の御影くんから聞いたことがある。彼は凪くんのことが大好きだから、人によってはこれを聞いたら傷つくなんて想像もつかないのだろう。
なんて、傲慢なひとたち。
怒りに似た感情が脳をよぎり、それに任せて凪くんの方を向く。凪くんの視線は強くて、告白を断られることなんてみじんも予想していないように見える。スポーツをしているひとだ、とすぐにわかる目。わがままで、欲しいと思ったものは絶対に手に入れるという欲が穏やかなグレーの瞳の奥ににじむ。
「凪くんと付き合ったら、私はまた凪くんのお世話係?」
「お世話? キミが俺の面倒見るの嫌なら、俺面倒なこともがんばるよ」
「人のために自分を曲げる必要なんてないのに」
「キミがそれを言うの?」
あなたみたいな人がいるから私に負担が回ってくるんじゃない、と思わず口をつきそうになった言葉を飲み込む。本当は、凪くんが悪くないってわかっている。私は大人から求められる役割を自分で演じようとしているだけで、凪くんに直接頼まれたわけじゃない。凪くんは自由に生きる権利があって、私にもそれはある。あるはずなのに。
「あのさ、キミってサッカーしてた?」
「え? ……してた、けど」
唐突な話題の変更に混乱して、思わず素直に答えてしまう。凪くんにサッカーをやめたことやその理由をなんとなく知られたくなくて、隠していたことだった。
「しようよ、いま」
先に凪くんが立ち上がって、しゃがんだままの私に手を差し伸べてくる。窓から差す陽が凪くんのことを横から照らす。体質なのか外のスポーツをしているのにいつまでも焼けない凪くんの肌は白く、光を反射して眩しい。
「し、しないよ……はやく授業いこう」
「俺を負けさせるチャンスだよ」
「いいって、大体やらなくてもわかってる勝負じゃん」
凪くんとサッカーをするより、私は授業に行きたかった。行って、遅れてごめんなさいと謝ることが最善なような気がしていた。
踏み出すことが怖い。怒られて失望されることが。いままで自分が薄氷を踏むような思いで築いてきた信頼を崩してしまうことが。
「じゃあ、俺がサッカーは楽しいって教えてあげる」
凪くんは、誰でもない私に向かってこれを言っている。いい子とか賢いとか、使い古された言葉よりも彼が本当に言いたいこと、彼の創り出した言葉を優先している。差し出された大きな手のひらが、かすかに震えているのがそれを物語っていた。
「一緒にたのしも」凪くんの垂れた瞳の表面が、鮮やかに揺れる。
起きて。準備して。時間を守って。誰のために凪くんに注意をしているのかもわからなくなってしまった私と違って、凪くんは、私と凪くんのために言っている。私たちが誰にも何にも縛られず、自由に生きるために。
私が凪くんの手を取ると、凪くんは満足した子どものように笑った。手にもっていた教科書もペンケースも机の上に置き去りにして、手をつないだまま教室を出た。授業中だから誰もいない廊下と階段を、必死に駆け抜けた。凪くんは私にスピードをあわせてくれていたけれど、それでも汗はふきでて、制服は濡れた。木漏れ日が視界を次々と横切る。跳ねた心臓の音が凪くんにも聞こえてしまいそうでどきどきした。
サッカー部のボールを使うには職員室に鍵を取りにいかないといけなかったから、グラウンドについたらまずボールを探した。グラウンドの隅に、明らかに部員のものではなく昼休みに遊ぶためのものだろうとわかる汚れたボールがあって、それを使うことにした。
汚れて所々縫い目のほつれたボールが、どうしてか愛おしく思えた。
久しぶりに1対1をやった。スカートに体育で使う運動靴だから動きにくいし、なまった体はちっとも思い通りに動かない。息は苦しいし体は熱い。でも、この感覚を昔から、わたしはきっと――。
「あ~たのし」幸せそうに凪くんが言ったのが、足音やボールを蹴る音に交じって聞こえる。一瞬だけ見えた凪くんは、穏やかで満ち足りた表情をしていた。
「お前たち! なにしてんだ!」
私たちがグラウンドでサッカーをしていることに気がついて、二階にある職員室から先生が大声をあげる。
「ごめんなさ~い!」
先生に向かって両手を振りながら謝った。凪くんも軽く会釈をした。次の授業はちゃんと受けるし、化学の先生にはさぼってごめんなさいってちゃんと謝るから、どうか今だけは。
彼が天才的なプレイをすることは動画で見て知っていたけれど、実物を見ると本当に嫌になるほど、神さまみたいに上手い。白宝高校の制服は白を基調としているから、めまぐるしく変わる視界の中で、凪くんが本当に白い衣を着ている神さまに見えた。
満足するほどサッカーをした後、涼むために木陰の多い中庭に移った。久しぶりに運動して息を切らしている私に、凪くんは水を買ってきてくれた。
「前、凪くんは私のこと、好きだと思うって言ってよね。思うって、自信ないってこと?」
横並びにベンチに座って水を飲みながら、私は凪くんに尋ねた。
「自信っていうか、レオにキミのこと話した時に、『それは好きってことじゃないか』って言われたんだ。キミといると落ち着いて、近くにいてほしくて、でも目を見るとなんか緊張する」
照れる様子もなく言う凪くんに、こちらの方が恥ずかしくなってくる。顔が赤いのを暑さのせいだとごまかすように、冷えたペットボトルを頬に当てる。
「凪くんは、自分の感情を人に決められることが怖くないの?」
私はそれが嫌だった。あなたはいい子、と言われると、それが自分の本質なのかどうかわからなくて気持ち悪かった。
うーんそうだなあ、と凪くんは顎に手を当てて考えこむ。考えるのってメンドウ、やめたくなっちゃう。ここまで私のことを乱しておいて凪くんがそんなことを言うから、もう少しだけがんばって、と凪くんの肩を叩いた。凪くんはしばらく経ってから口を開いた。
「感情は、言葉に切り取られてから自覚できるけど、それより前にも生まれてはいるでしょ。うまいも好きも、心が熱くなった時に近しい言葉を見つけているだけにすぎない。だからキミへの『好き』がぴったりくる表現じゃなくて、他にもっといい言葉があったとして、それは絶対良いことだったり、大切で、あったかいものだと思うんだよね」
凪くんがここまではっきりと話すところを私は初めてみたかもしれない。「面倒なこともがんばる」といった凪くんの言葉が嘘でないことを実感した。
頬に当てていたペットボトルを膝の上におろす。プラスチックを通した日光が、紺の制服の上に輪のように光を散らした。これはきっと、きれい、という。
凪くんの言葉が、横から水が滲みるように投げかけられる。
「キミは多分、いろんなことが好きで嫌いだよ。3年間一緒にいた俺が言うんだからきっとそう」
「学校でしか一緒にいなかったのに、なにがわかるの?」冗談っぽく、笑いながら言った。グラウンドでサッカーする前の私だったら、絶対に彼にこんなことは言えていなかっただろうと思った。
「はは、けっこー言葉強いよね」凪くんは気分を害した様子もなく笑う。
「こういうところは?」
「そーいうところも、すき」
すき、という時の凪くんは決して私から目をそらさない。欲しいと、かすかに漏れる欲求を、私も逃がしたり反らさずに受け止める。視線はかたく絡んだ。
凪くんといると、新しい感情を見つけられる気がする。彼なら大人たちからもらった呪縛を外してくれそうな気がする。楽しいことは楽しいって言っていい。嫌なこと、したくないことを言うことは、決して私の価値を貶めない。
体を傾けて、凪くんの肩にもたれかかった。そのまま手を凪くんの胸元にもっていって、軽く抱き着くように鼻先を凪くんの肩口に埋める。
「大切にして」
「りょーかい」
「……笑っていて」
「もっと、したいこと、してほしいこと言って」
「私が朝はやい日は自分で起きて。私が困ってたら助けて。ときどき一緒にサッカーして」
「うん、するよ」
凪くんが私の頭を静かに撫でる。ありがとね、と私は小さな声で呟いた。
これは、間違いなく凪くんに向けて言った言葉だった。私の体のなかでは、春を待っていた感情が次々に芽吹きはじめていた。
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