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 くる、と悟った。頭の細かな血管が締め付けられ、重く鈍い痛みが上へ溜まっていくのを感じる。肩や首を回しても改善されず、虚しく骨が鳴るだけだった。
 アプリで本日が低気圧だということは確認していたが、体の反応としてかえってくることで、より強く実感する。今日は、きっとお互いだめな日だ。

『ご飯は冷凍庫のお弁当。洗濯は練習着だけやりました』と書置きをリビングのボードに貼って、寝室に入る。二つ並んだシングルベッドの奥の方に布団を敷き、潜りこんだ。
 低気圧の日、体調の悪い日は無理をしない。私とひょうくんで決めていたことだった。
 頭の痛みは増し、メッセージの通知を告げるスマホ画面の点滅すら煩わしい。アプリを開かないまま通知を確認すると、『今日はきついかも』とひょうくんからメッセージが来ていた。
『わたしも』と返信した後、お大事にというセリフを話す豹のデフォルメのスタンプを送る。携帯をマナーモードに設定して画面を伏せ、布団の中で目を瞑った。

 眠るまでは、体の置き所がなくてしんどい。そういうとき、私はいつもひょうくんのことを考えるようにしている。体のだるさと、幸せなことを考えるときのふわふわとした感じが、ちょうどよく中和されるからだ。

 ひょうくん――千切豹馬と付き合い始めたのは、大学生のときだった。元々高校は一緒で何度か同じクラスになったこともあるが、常にサッカーで忙しい千切くんと会話することはほとんどなかった。

 成人式で再会したけれど、人気のある千切くんは人に囲まれてばかりで、私はその輪の外にいた。人気のあるきらきらした人と話したい、仲良くなりたいという欲求はその時には消えていて、特にそれを残念に思うこともなかった。
 私は二次会で空気によって、外に休憩に出た。普段はなるべくバランスよくご飯を作ろうと思っているから、居酒屋の揚げ物だらけの食事で胃ももたれていた。
 居酒屋の近くのシャッターに寄り掛かり、自販機で買った水を飲んでいるとき、一瞬流れ星を見たような気がした。空の上ではない、自分のすぐ近くで。
 視線をそちらに向ける。赤い髪が夜風に揺れて、居酒屋のガラス越しの眩い光を反射しながらきらめいていた。千切くんだ、と反射的に思った。モデルさんのように艶のある彼の手入れされた髪は、彼の象徴だった。

「戻らねェの?」
 お酒が解禁された勢いで許容量以上に酔っている同級生も多い中で、彼の声は冷静だった。
「えと、酔い覚まし。千切くんも?」
「おう。酒も少しセーブしたかったし」
 学生時代にはほとんど会話したことがないのに、思ったより緊張せずに話せている自分がいることに驚く。
「そっか、スポーツしてるんもんね。サッカーだっけ」本当は覚えていたけれど、知らない人に一方的に知られていることも居心地悪いだろうかと思い、誤魔化す。
「そーだよ」と千切くんはそれだけ言って、自分も自販機で飲み物を買った。白いライトに照らされる顔を、街の方に視線を注ぐ振りをして盗み見る。
 高校生の時から千切くんには言いたいことがあった。いまなら言えるだろうか、と一瞬思考が揺れる。

 千切くんは私から少し離れたところにしゃがんだ。服が汚れないようにシャッターから体を離しているのが、髪や身なりに気を使っている彼らしいと思った。
「いま何してんの?」
「大学生。栄養学やってるの」
「ヘえ、楽しい?」
「楽しいよ、前から勉強したかったことだったから……」
 いいじゃん、と千切くんは相槌を打ってくれたが、それが形式的なものだとトーンでわかる。わかっている、ほとんど話したことのない同期との距離感なんて、こんなものだ。
 遠くの方を大型トラックが走っているのが、冬の澄んだ空気を伝ってクリアに聞こえる。千切くんは手に白い息を吐いて「さむ」と立ち上がろうとした。トラックの走行音、純粋な音の振動は、私の体を揺さぶって衝動に触れた。

 千切くん! 夜にしては大きな声で私は彼を止めた。少し待って、話したいことがあって、ごめんなさい。矢継ぎ早に続ける私に、千切くんは立ち上がってこちらの方を向いた。告白かと思ったのか、彼は次に言われることがわかっているかのような表情で私を見る。

「私、栄養学の中でもスポーツ専攻なの。……これは、言ったら気持ち悪いって思われるかもしれないけど、千切くん、足を怪我していた時期があったでしょう……?」
 ここまで話して、続けていいかと私は一度千切くんの表情をうかがった。言葉を止めた私に不思議に思ったのか「つづけて」と彼は静かな声で言った。真剣に聞いてくれていた。
「部分的なところしか見ていないのにこんなこと言うのはいけないかもしれないけれど、千切くんがリハビリしているのを見て、私はスポーツ栄養学びたいと思ったの。
 なんとなく高校生活を過ごしていた私が食べているお弁当も、がんばっている千切くんが食べているものも、同じ食べ物なんだなって思うと、あ、食べることってみんなに優しいんだって思って......。でも私はそれを、もっとがんばりたい人だったり、怪我を治したい人のために使ってみたいなって思ったの」
「医食同源、っていうもんな」

 あえて核心に触れなかったような微妙な言い方に、心臓が跳ねる。キモすぎる、語るな、やってしまった、と後悔に包まれた瞬間、千切くんが口を開いた。

「あーなんつうか……うれしいよ。あの時期は苦しかったけど、それがあんたの夢? というか、原動力になったなら、あれも無駄じゃなかったって思えるから」
 千切くんの背後では、無数の星がひそかに泣くように瞬いていた。ずっと言えずに溜まっていたものをようやく本人に伝えられた達成感で、気が付かないうちに胃もたれも感じなくなっていた。

 それからどういう経緯を経たか覚えていないが、千切くんと連絡先を交換してから、お店に戻った。ガラス扉を開けたとき、千切くんは言った。
「俺の傷をいかしてくれてありがとう」
 こちらこそありがとう、と言いかけた声は居酒屋の喧騒に揉まれて消えた。

 成人式から数週間経ってから、千切くんから会わないかという連絡が来た。なんの用事だろうと思いつつも了承する。学問の話を聞かれるかと思ったが、趣味だったり、高校生の時の話をした。
 四回目に会ったときに告白されて、お互いが社会人にあがるタイミングで同棲を始めた。それから二年経って、いまに至る。

 □

 目を覚ましたのは二十二時ごろだった。寝室は暗く、横を見るとまだひょうくんはベッドには入っていなかった。ドアの隙間から光と静かな物音が漏れており、ひょうくんがリビングにいることがわかる。

 ベッドから起き上がって、一瞬リビングに顔を出すことにした。リビングの中央にある椅子には座らず、寝室の扉に寄りかかりながら声を掛ける。
「おかえり」
「おう、ただいま」ひょうくんは、起きてきた私に少し驚きながらも返す。高校生の時に故障した膝が痛むのか、あまり顔色はよくない。
「書き置きサンキュな。しんどかったのに練習着もありがとう」
「ううん大丈夫、ひょうくんもお大事にね。……私向こう戻るね」
 おやすみなさい、と言い合って私は寝室に戻った。
 せっかく帰ってきたというのに淡泊な会話だが、私たちはお互いに余裕を持てない時は近づかないようにしていた。

 仕事が忙しいとき。試合の前。体調が悪いとき。
 お互い支えあっていくべきだよ、と友人には言われたことがある。けれど、私たちの最適な付き合い方は、この距離のような気がしていた。
 私たちにとって仕事やサッカーは、自分の形を保つためのものだった。ひょうくんは普段は冷静で穏やかだけれど、サッカーのことになると熱くなる。私は点数を決めた瞬間の喜びは知らないし、反対にひょうくんは自分の献立を食べた選手が健康になっていく喜びも知らない。どこかでわかりあえない瞬間があるからこそ、踏み込まない。それは悲しいことではなく、共にいるための術だと思っていた。
 自分を持っているひょうくんが好きだ。豹馬くんと呼んでいたのが「ひょうくん」に変わったことは、大学生の卒業前に一緒に飲み会に参加した時がきっかけだった。「カノジョちゃんは千切のことどう呼んでるの? ひょうくん?」と私をからかった先輩に、ひょうくんは毅然と返した。
「別にそんな呼び方はしていませんけど。あまりからかわないであげてください」
 ここで「そうです」だとか「いいじゃんそう呼ぼう」とノられていたら、私は泣いてしまったかもしれない。年上だとかノリだとかを気にせず、私を庇ってくれたひょうくんに、同じようにしてあげたいと思った。

 私たちはお互いの存在を主張して、理解してほしい自分を見せるために一緒にいるのではない。ただやすらぎたかった。この部屋でだけは、傷つけず、傷つけられずにいる。私たちの空間をそういうものにしたかった。

 薬を飲んでからベッドに戻る。ひょうくんはあと数時間くらいしたら寝るのかもしれない。どうしても辛かったら起こして、とお互いに言い合っている。ひょうくんに起こされなければいいな、と思う。それくらい辛い目にあってほしくない。今晩、彼がよく眠れるといい。そして私のつくるご飯が、ひょうくんの元気に少しでもなっているといい。

 ひょうくんのことを考えながら目を瞑ると、瞼の裏には星空が広がった。居酒屋の外で話した時の、冬の空が思い出される。
 ひょうくんは流星みたいだ。私の半分くらいの時間で50m走を走れる彼は、サッカーをしていると、赤い星が素早く走っているように見える。長い髪だけ置き去りにされて、流星の尾のように伸びる。誰も彼に追いつけない。
 燃え尽きなかった流れ星の想像をする。空気の塊に突入して、摩擦で烈しく光を散らしながら燃え上がっても、彼の芯は絶えない。怪我しても挫折しても、どんなことがあっても。

 朝起きると、ひょうくんがフローリングに座ったままベッドに両腕をのせて、私の顔をのぞきこんでいた。赤い瞳と目があって、私はおはようと微笑んだ。ひょうくんも笑いながら挨拶して、私の乱れた前髪を撫でた。
「げんき?」寝起きのもつれた舌で尋ねる。
「超元気。そっちは?」
「もう辛くないよ」
 起きねえか、とひょうくんに誘われてベッドから出る。
 一緒に顔を洗って軽く髪を整えた後、並んでキッチンに立った。ひょうくんはレタスをちぎる係、私はオムレツをつくる係。しあわせだねえ、と笑いかけると、ひょうくんは「俺も」と返してくれた。
 烈しく燃えているはずの彼の隣の、滲むような温みが好きだ。
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