hktkさま
時計の針の音が大きく聞こえはじめたらおわりだ。感覚で、この夜は長いだろうと悟った。
薬品の鼻につんとくる匂いが部屋には充満している。普段は薬を買い求めに来る客の声でにぎやかな薬局も、夜には誰もいなくなる。人の気配はない。
この感覚が、理由もわからないけれど体に染みついているように嫌だった。
薬をつくる作業場の机に伏せて、冷たい感触を頬で感じながら、部屋の隅を見つめて考えた。
先生は、いまなにをしているのだろう。女性とお酒を飲んでいるか、衆合地獄で遊んでいるのかもしれない。赤い紐の耳飾りが暗闇のなかで揺れる想像をして、嫌気がさした。
先生は吉兆の神獣でもありながら無類の女好きで、夜な夜な遊び呆けている。女性に見せる幸せそうに崩した顔を、先生は私には見せてはくれない。
昼間、私に優しく薬のことを教えてくれる時の聡明そうな表情が、まぶたに浮かぶ。先生は私のことは口説かないのだ。単に好みでないのか、弟子とそういう関係にならないようにしているのかはわからないけれど。
きみは優しいね、とある時先生に言われたことがある。全く心あたりがなかったから意図を問うと、先生は続けた。
「きみは、薬局にきた人に大丈夫と言わないよね。言葉に裏切られたときの悲しみを知っているから、安易なことを言わない」
言葉に裏切られたときの悲しみ。先生がなにを想像してそんなことを言ったかはわからなかったが、僕もそうだよ、と先生は言った。
「僕も、軽々しく約束しない。遊びなら遊びで、『僕と遊んでください』と言うのが筋だよね」
薬を作る手を先生は止めないものだから、覚え書きを書くことにその時は精一杯だったけれど、後になってみれば確かに先生は嘘をつかない人だ、と納得したものだった。
漢方に詳しい先生に弟子入りしてから、随分経った。桃源郷に来る前、私は地獄で花火を上げていた。生前の記憶もなければ、どうして自分が地獄にいるのかすらわからなかったけど、来る日も来る日も宙に花を咲かせ続けた。地獄の燃えているような赤い空の中で、瞬いて一瞬で消える花火だけが美しかった。
暇なものだから昔のことを思い出していると、ふいに、玄関から小さな音がした。そちらに顔を向けると、作業場と店舗を仕切る衝立から影が伸びてきた。
「……あれ、起きてたの」
先生が顔を出す。酔っていないとすぐにわかる、落ち着いた静かな声だった。
「せんせい」しばらく口を開いていなかったからか、舌がもつれる。
「眠れないの? なにかあたたかいものでも淹れようか」
先生が作業場に入ってくる。明かりをつけるよ、とひとこと言って部屋の隅のろうそくに火をつけてくれた。
先生は棚にある茶器をとり、お茶をいれる準備をはじめた。
「先生、今日めずらしいですね」机に頬をつけたまま、横目で先生の背中を見て言った。
「んー?」と先生は振り向かないまま返事をした。
お湯をいれる音と食器の擦れる音が、静かな空間に響く。
「こんな時間に帰ってくるの。なにかありました? 体調が悪いとか……」
「僕も、たまには遊ばずに帰ってくるよ」
「ふうん」
先生は意外とわかりやすいところがあって、今のははぐらかされたな、と直感でわかった。あくまで師匠と弟子という関係だから、私的なことに踏み込み過ぎるのはよくないのだと思う。先生も良い気はしないだろうし。なにかを疑っていると思われるのは私も不本意だし。
でも、気になってしまうのだ。好きだから。
先生が帰る前、この部屋には時計の針と私の呼吸の音がしか聞こえなかった。それが張り裂けてしまいそうなほど寂しかったのに、いまは先生の声と生活音がある。先生の持つやさしさは、そういうものなのだ。人の隙間にするりと入って、埋めてくれる。それでいて人に負担をかけないように、優しさを与えている本人はなんてことありません、とでも言うような顔をするのだ。
「勉強していたんじゃないだろうね。あまり根つめちゃだめだよ」
お茶を淹れ終えたらしい。先生は、両手に持っていた湯のみの片方を私の前に置いた。作業場の椅子をもうひとつ出し、わたしの横に座る。
「いいえ。……なんとなく、ねむれなくて」本当は先生が気になって眠れなかった、なんて口が裂けても言えなかった。言葉を入念に飲み込むように、先生が淹れてくれたお茶を飲む。
「……ぼくを待っていたのかと思った」
横で零れた小さな声に思わず耳を疑った。いやいや。そんな。へらりと笑って返す。顔が赤いが自覚できるし、心臓は痛いほどに跳ねていた。次に続けようとした言葉が、驚きで詰まった。
先生が私の顔を覗き込み、目を見つめてきている。つり目を強調するように惹かれた目元の赤い化粧は、私の身体でできた淡い影のなかでもはっきりと見えた。
「僕は、きみのことを思い出して、帰ってきたんだよ」
先生は、言葉を区切るようにして言った。先生の顔が火照っていて赤い。
緊張で私の唇は細かく震えた。
「先生が帰ってくるといいなって、思ってました。なにしてるのか気になって、はやくお顔が見たいなって……」
そうかい、気にさせてしまってごめんね、と先生は穏やかに言った。
「きみはいま眠い?」顔を見つめたまま尋ねてくる。
「冴えてしまって……」先生の顔が近くにあることで混乱して、半ば泣いてしまいそうだった。
「せっかくなら、外に行かない?」頷くのが精一杯。首を大きく上下すると、先生は目許を緩めた。
□
桃源郷の夜は、昼間に光を貯めていたかのように星が一斉に輝きだす。だから夜なのにほんのりと明るくて、たっぷりと実った果実や、茂った草花が喜んでいるかのように風に揺れているのがわかった。
「今日、地獄で花火を見たんだよ」
少し先を歩きながら、先生は唐突に呟いた。
道の両脇に咲いている花に、先生の白衣の白が埋もれて消えてしまいそうに見えた。
足を速めて追いつこうとしたとき、つまずいて転びかけた。先生が素早く振り向いて、私を支えてくれる。
「ごめん、はやかったね」
「い、いえ……私が焦ったのが悪いので......」
「もう、きみは」
いつもあぶなっかしい。先生の語尾はかすれて聞えなかったが、唇の動きがそう言ったように見えた。肩に触れている手が、優しいのに熱い。
ありがとうございます、と小さい声でお礼を言って離れようとした瞬間、かすかな抵抗を感じた。
先生が、私の肩を自分の方へ引いている。昼話すときは、全く体への接触はないというのに。桃源郷の花の香りや星空が、先生をいつもと違う気分に差せているのかもしれないと思った。
離れがたくなって先生の腕に体重をかけると、先生は手のひらを私の背中へと回した。
「はな、びを見たんだよ……」
「えっ?」
先生の声がいつもより硬いような気がする。私は先生の体温と、触れる体の自分と違うかたさを受け止めることに精一杯で、先生の言葉をほとんど聞けずにいた。
「だからね、地獄で花火が打ち上げられていたんだよ。きみに会った日のことを思いだした」
私は先生の言っていることがうまく飲み込めなかった。先生は私があげた花火を見ていないはずなんだ。
私が先生と会ったのは、獄卒の鬼灯さんがきっかけだった。
地獄で淡々と花火を上げ続ける私の元に、あるとき鬼灯さんが訪れたのだ。
鬼灯さんは言った。許せないことがありますか、と。
厳格な低い声だった。なにに私は怒っているのかも、どうして花火を上げているのかも、腹の中に溜まる感情の正体もわからなかった。
「許したほうがいいですか」とだけ私は言った。
「私は理不尽は許しません。自分の生が奪われた復讐はします。でも、金魚草の世話をしたり、地獄での生活も悪くはないんですよ」
鬼灯さんの話を聞きながらも、私は花火玉に火薬を詰める手を止めなかった。「怒りを消化する必要なんてないけれど、でもいつかあなたにも、このために生きていてよかったと一瞬でも思えるときが訪れます」
獄卒はもっと冷酷な人かと思っていたけれど、鬼灯さんは血の通った人だった。その場で先生を呼んで、この人が間違って地獄にきてしまったようなので引き取ってください、と言ってくれた。
先生とは、その時にはじめて会った。神さまが降りてきたのだと、すぐにわかった。体の芯まで冷やすような風ではためく裾がきれいで、笑顔と見ていると、湯に浸かるように安心した。先生の周りだけ、そこだけ天国になったかのように空気が違った。
安心。先生が私にずっと与えてくれていたものだった。先生は誰にも優しくて、共感できるひとだ。身寄りのなかった私に家を用意して仕事をくれた。仕事で失敗していたらさりげなく庇って、私を怖いものから遠ざけてくれた。
いまだって、先生に抱きしめられて心臓が破裂してしまいそうなほど緊張しているのに、同意に先生は私にひどいことをしないと分かっているから、力を抜けるのだ。
「そうか、やっぱりきみは覚えていないんだね」
耳元の声がさらに近づいて、先生の服から香る薬の匂いが強まる。先生が私を強く抱きしめたのだった。
「……? その、なんのことですか」
「僕の顔をみて」
先生の手に頬を包まれて、顔をあげさせられる。先生の額には大きな瞳が浮かんでいて、頭からは二本、半円を描くような丸みを帯びた角が生えていた。
先生は私の肩に自分の顎を乗せると、おもいだして、と焦がれるような声で囁いた。
白い部屋。定期的に刻まれる電子音と、薬品の匂い――。体に染みていた孤独感と、理不尽に対する怒りや衝動が蘇る。
そう、私は死ぬ前、病院にいた。生まれてから成人にもなれないまま死ぬまで、退院したり再度入院したりを繰り返し、長く病院で過ごした。病名はもう忘れてしまったけれど、難病だった。
小さい頃は、外に行きたい、と毎日泣いていた。慰めようとしたのか、誰かに言われたことがある。
この病気は誰かがなるかもしれなくて、きみはそれを引き受けたんだ。誰かを守ったんだから、それは誇っていいことなんだよ。
小さい頃は意味がわからなかったから聞き流していたけど、大きくなってからはふざけるな、とずっと思っていた。どうしてなったかわからない病気にも、私が生きていることを勝手に意味づけようとする人間にも。
私は病気だったけれど、病名を生きたくはなかった。どうして私なのか、ずっとわからなかった。もしも神さまがいたら呪ってやる、と何度も胸の内で唱えた。
小学生くらいの夏の頃、隣町で花火が打ち上げられると聞いて、こっそりと屋上に行ったことがある。
外の空気は湿っていて、肌にはりつくような感じがした。けれどそれが少しも嫌じゃなかった。
フェンスに手をかけて、遠くの方を見る。なだらかな山の線が闇に溶けかけていて、空は静かだった。花火はまだなのだ。
なにかが来てほしい。少しでも良いから、いいものを見せてほしい。フェンスに足をかけて、身を乗り出す。
目を凝らしていると、暗闇の中に、星のように白く光り輝くものがあるのを見つけた。少しずつそれは私に近づいて大きくなっていった。私はそれがなぜか少しも怖くなくて、手を振り続けた。
私に近づいてきたものは、馬と犬を混ぜたかのような白い毛の動物だった。毛の先からきらきらした粒が降ってきて、雨のように私にかかった。
あぶないよ、と低い声がした気がした。知らぬ間に自分が大きく身を出していたことに気がついて、フェンスから下りた。
どうぶつさん、と私は明るい声で呼びかけた。その動物はなんの反応も返さないまま、私の近くに降りてきた。足を畳んで背中を見せると、黄色い目でちらりと私を見た。
乗っていいの。弾んだ声で聞くと、動物は頷いた。背中に生えていた角が体の中に入って、背中にまたがれるようになる。広い背中の上に乗ると、その動物は高く跳びあがった。空気の塊に顔や体を押されているようで驚いて、柔らかな背中にしがみつく。
背中の上では、屋上で見るよりもずっと遠くが見渡せた。街の明かりが歪んで揺れて、映像で見る海みたいだった。
唐突に、遠くでなにかが破裂するような大きな音がした。驚いて顔をあげると、花火が空にあがっている。ねえ、あそこに行きたい、花火の中はいってみたい、と動物さんに私は言った。
危ないよ、ここで見ていよう、と頭の中に声が流れてくる。低くて、男の人の声だった。
えー、近づきたい、おねがい、動物さん。
僕は動物じゃなくて白澤。これでも偉いんだよ。
わかった。ね、お願い。白澤さん。
わしゃわしゃと揉むように背中を撫でると、白澤さんは苦笑いしながらわかったよ、と言ってくれた。
危ないから、身を乗り出さないで僕に掴まっていて。
白澤さんの言葉通りに体を伏せて、頭の上に生えている角を掴む。白澤さんの体は温かくて、顔を毛に埋めると抱き締められているみたいでほっとした。
白澤さんは泳ぐようにゆっくりと空中を動いて、球状の花火の中に入った。
遠くで見たら丸に見えるけれど、本当はボールみたいになっているなんてはじめて知った。赤。黄。緑。私のそばで流れ星みたいにきらきらした後に消える光が、うまく言葉が見つからないけれど、かわいいと思った。
体を伸ばして、白澤さんの白い耳に口を近づけた。
「きてくれてありがとう、わたし、今だけはしあわせだよ」
泣いていることを隠したくて袖で涙を拭う。心がぎゅうぎゅうで、いっぱいいっぱいで、抑えようとしても涙は止まらなかった。
いまだけは?
白澤さんは静かに聞いてきた。
そう、前はずっとつらかったの。たぶんこれからも。
そっか。僕にまた来てほしいと思ったら、目立つことをしてごらん。
目立つこと……?
そうだな、花火を上げるとか。
「僕ができることは、ほんの少しかもしれないけど、きみを何度でも助けよう。僕は神さまだから。きみが一瞬でも幸せだと思えるなら、僕はそれでいい。きみを、必ず見つけるよ」
神さまはそう、優しい声で言った。
□
夢か妄想と勘違いしてしまいそうな、短い人生のうちのもっとささやかなひとときだった。それを、先生は、ずっと覚えていてくれたのだ。
先生の頭に手を伸ばして、角に触れる。間違いない、あのとき私が触れた角もこの感触だった。
「思い出してくれた?」と先生は小さく笑いながら聞いてきた。
「きみは天国に来るかと思っていたけど、手違いで地獄に行ってしまったんだもの。癪だけど鬼灯に、花火をあげている女の子がいたら教えてくれって言ってたんだよ」
先生の優しい声が耳元で響いている。一緒に花火を見た、神獣の白澤さんと同じ声だった。
「白澤さん、わたしをみつけてくれて、ありがとう……」
角から手を離し、先生の背中に手を回した。目頭が熱い。うれしいのになぜか涙がでる。頬を涙の伝う感触がして、先生の白衣に落ちていくのがわかった。
「きみが、僕を呼んだんだよ」
先生が私の肩に顔を埋める。引き寄せるように抱きしめられる。体温が愛おしくて、先生の後頭部を撫でた。
ありがとう、ともう一度繰り返した。何度でも言いたい気分だった。私に幸せを教えてくれてありがとう。居場所をくれて――。
私が口をひらく度に、道の両端に咲いた花々は祝福するように香りを強めた。このために生きていてよかったと、一瞬でも思えるとき。鬼灯さんが言っていたことが頭に浮かんだ。生前の辛かったことが消えるわけではない、先生に拾われたことで人生の全てが報われるわけではない。愛にも優しさにもそんな効力はない。
ただ、いまの幸福を幸福として受け取れる私でいたことが、そのように守ってくれた人がいたことが、たまらなくうれしいのだ。
桃源郷の空で瞬く星が、私たちを明るく照らしている。なにかを見つけやすいように、見つけられやすいようにこの場は明るいのだと思う。
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