このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

橋田悠

絵が嫌い。絵を描くことも、見ることも嫌い。
ねっとりとした絵の具を含んだ重い筆を動かしながら、口には出さずに何度も呟いた。どんなに唱えたところで、後ろに座る男には、ひとつもこの想いが伝わらないことはわかっていた。
開け放たれた窓から入る炎のような橙色が、私の手の甲の上に乗る。いつの間にか夕方になっていたことに気が付いて、顔を上げた。
「時間経つの、はやいなぁ」
私の思考を読んだかのように、耳のそばで悠の低い声が聞こえた。
「ね。もうこんな時間。何時間も人が描いてるの見て、暇にならないの?」
「何度も言うとるやん。僕、キミの絵好きやって」
「私の絵っていうより人の絵、でしょ」
もちろんそれもあるなぁ、と悠は背後で頷いた。私がそれに言葉を返さないでいると、悠もしばらく口を噤んだ。

普通付き合っている男女が休日に会ったら、ショッピングに行ったり、遠出したりするものだろうが、私と悠はいつも部屋に籠ってばかりいた。それも、私が壁にキャンパスを立てかけて油絵を描いて、悠がすぐ後ろに座ってそれを眺めるという奇妙なかたちで。

橋田悠は、決して内向的な人間ではない。友達も大学を隔てずにたくさんいる。彼女だからと、よく知らない人だらけの飲み会に私も連れてこられたことがあるくらいだった。なんとか私立の美大に受かったような私にとって、藝大をはじめとした有名大学の人達に囲まれるのは異世界に放りこまれたようで緊張した。悠はその場にきれいに溶け込んでいて、挙動不審になった私の隣に座って、「昔から緊張しいやねぇ」とおかしそうに笑っていた。
あんなに友達もいるなら、もっとうまい人に絵を描いているところを見せてもらえばいいのに、悠はなにが楽しくて私のうまくない絵を見たがるのだろう。

部屋の中は、すでに目を凝らさないとキャンパスが見えなくなるくらい暗い。描き始めたのが昼間で、そのときから照明をつけていなかったからだ。悠に絵をまじまじと見られるのが苦手だったから、見えなくなるくらいがちょうどいいと思った。夕暮れの光のみを頼りに、なんとか筆をすすめる。

いま描いているのは、親戚の幼稚園生だった。泥団子を作りながら、こちらに満面の笑みを向けている絵。悠に、この間親戚の子と久しぶりに会って泥遊びをしたんだ、と話すと、彼はその絵が見たい、とねだってきた。
悠に言われて絵を描くことはいままでに何回かあったから、またかと思いつつも了承した。普段は私のわがままを聞いて、私に優しい悠だけれど、絵のことになると関係性が逆転する。にこやかな笑みの中に含まれたひそかな圧力のせいで、毎回断れなかった。

親戚の子と遊んだときも、夕方だった。橙と赤をパレットに混ぜて筆につけ、太陽を塗る。沈みかけた太陽の淵に、絵の具が重なって層を作る。油絵具の光沢が暗闇の中できらきらと光った。
筆を油壺につけて絵の具を溶く。オイルの独特のつんとした匂いが、夕方の匂いをした風にのって漂ってきた。
服の影の部分にさらに暗い色を乗せた。砂場の隅の植物に筆致を残して、風の流れを表した。子どものえくぼをつけるために肌の色を調整する。

自分の絵を見つめると、改めてなんの特徴もなくてつまらない絵だと思う。高校のときから悠との実力の差は歴然だったが、大学に入ってからさらに開いた気がする。いくら悠が人の絵を好きだと言っても、いつかは私の絵にも飽きるのだろう。そんなことを考えながら描いていたせいか、手が滑ってパレットの上の絵の具に指が触れてしまった。
粘度の高い茶色が手につく。感触や色も相まって泥に触っているような気がして、親戚の子と泥団子を作ったときの感覚が蘇ってきた。あのときは、出来もなにも気にせずに泥団子を作れて、童心に戻れていた。

絵を描くときに、楽しさ以外の感情が生まれ始めたのはいつからだろう。
少なくとも、高校生のときは描くのが楽しかった気がする。高校の先生には、作品を自分の子どもだと思って扱うように、と教わった。まだ付き合っていなかったときの悠が、「作品やって。おもろい言い方するなぁ」と言ったときの笑顔が、鮮明に頭に浮かぶ。

あのときは、悠の笑顔が怖くなかった。笑いかけられる度に胸を高鳴らせていた。まず私が悠を好きになったのだって、批評されてばかりだった私の絵の良いところを、悠が見つけて褒めてくれたのがきっかけだった。

悠が私の絵を見て、うまいなぁと微笑んでくる度に、背中に冷や汗が伝うようになったのはいつから。
絵の具を拭き取らずにそのまま放置していると、泥のような絵の具が指先から手首の方に流れてくる。
私の手が汚れたことに気が付いて、悠が後ろから声をかけてきた。
「貸して。拭いたる」
耳に張り付くような声と共に、白い手がぬっと伸びてきて私の手首を掴む。悠は私の手首を支えたまま、手の絵の具にペーパーを当てた。
「悠の手、おおきいね」
陽に焼けない骨ばった手を見て、私が小さく呟いた。悠の手は、付き合いはじめた頃の高校生の頃と比べて大人っぽくなったように思えた。
「キミのは小さいなぁ」
子供にいい聞かせるような優しい声を聞いていると、自然に足の先が疼いた。爪先を丸めても、暗いからそれが悠の目に入ってしまわないのに安心した。
「ふつうだよ」と、声が震えそうになるのを抑えて返す。
「俺から見たら小さいの。また汚れるから、照明つけるで」
悠がリモコンに手を伸ばそうとするのが、離れかけた体温でわかった。悠の手をとっさに掴んでしまう。腕まくりをしていたから服にはつかなかったが、指の形に絵の具が残った。
「どうしたん?」
少し驚いたような声ではあるものの、怒気は含まれていない。いっそ叱りつけてくれた方が安心できると、なぜか思った。
「あ、えと、もう描かないから、電気つけなくていいよ……」
膝立ちになって悠との距離を詰める。厚い胸板に頭を押し付けると、セーターの生地が肌に触れてくすぐったかった。
悠は愛しそうに息を吐いた後、大きな手のひらで私の頭を撫でた。空気が変わっていくのを感じる。
「甘えたいん?」
すぐに溶ける砂糖のような声が、塗り込むように耳に入ってくる。うん、と小さく頷いた。

悠の胸板から視線をずらして窓の外を見ると太陽はとっくに沈んで、夜の色に辺りは染まっていた。冷気を含んだ穏やかな空気が部屋の中に入ってくる。
遠くの街灯の銀色の光が、ぼやけた視界の中で点滅しているように見える。星は都会の光のせいで少ししか見られなかった。
建物と夜空の境界がわからないほどの暗闇が怖くて、窓から視線を落とす。完成途中の下手な私の絵と、いろいろな色が混じりあって黒に近くなったパレットが見えた。
「よそ見、せんといて」
吐息の混じった声で囁かれる。顎を指で捉えられた。顔を上げると悠の顔が目の前にあった。目を瞑ると、悠の唇が覆い被さるように私の唇に触れた、口を少しだけ開けると、悠は褒めるように私の頭を撫でてくれた。ぶ厚い舌に呼吸を乱されていると、暗闇の底に溜まった癖のあるオイルの匂いが、私の鼻を刺した。
刺激臭にすぐに頭痛がした。脳の血管が脈打ち暴れているかのように痛かった。
それでも、それを悠に教えなかった。
悠は絵が好き。人の描いた絵が好きだから、私が描き続けている限り、きっと悠は私のそばにいてくれる。
高校の時から悠としか付き合ったことがないからか、私はいつまでもキスがうまくならなかった。いつも彼に翻弄されてばかりいる。キスが下手でも、絵さえ描いていれば悠は。

私の絵を見ているときの悠の、ぬかるんだようなじっとりとした瞳を思い出す。
絵は自分の子どもだと先生は言っていた。
それでも絵がきらい。絵を描く事も見ることもきらい。わたしから悠を奪う絵が、だいきらい。

私の愛情と憎悪が混じりあってできた子どもの前で、悠は私の肌に丁寧に優しく触れた。
服の中に入り込んでくる冷たい手は嫌いじゃなかった。労わるような優しい撫で方も、触れていいか逐一確認してくる優しい声も、背の高い大きな体も、私は悠のほとんどが好きだった。
ただひとつ、温度のない、夜の色をした瞳をのぞいて。

夜の色は、太陽が沈んだ後の色。遠くで点滅する銀色。星の霞んだ夜空の色。境界をなくしてしまうほどの深い闇の色。すべて含めて夜の色で、わたしはそれを全てキャンパスにのせられるほど絵がうまくなかった。いっそ悠が私の手をとって描いてくれれば、私も自分の絵が好きになれるんじゃないかと思った。
祈るように目を開けると、いつの間にか悠は長い髪を解いていて、カーテンのように黒髪が私の顔を取り囲んだ。悠の作った狭くて暗い部屋の中でオイルの匂いに侵食された頭が、絵がきらい、と叫んでいた。
1/1ページ
    スキ