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半間修二

猫を拾うように、元彼を拾った。
仕事帰りに針のように細い雨が降る中、商店街の屋根に避難すると、そこには自分の体を丸めるようにして座りこむ男がいた。はじめから、その男が元彼だと気がついていたわけではない。ただ雨の匂いに混じるタバコの匂いに、かすれた記憶の淵をくすぐられているような気がした。

膝をついて、フードを被った男の首に触れる。うずくまったまま微動だにしないものだから、生きているか確かめたかった。フードの先からの水滴が私の肌に落ちる。

男は顎先まで伸びた髪の隙間から、細い金の瞳をのぞかせた。瞳は薄暗い街灯の中でも、鋭い光を帯びていた。
肌に張り付いた髪がくっきりとした筋を作っていて、顔にひび割れができたようだ。色のない唇が、音もなく動く。

半間修二――殺人の容疑で追われている、指名手配犯人。長身の男で、手に特徴的な刺青がある。八年以上捕まっていない。交番の前に貼ってあるポスターの顔を一人ひとり覚えている人間はそういないだろう。覚えているとしたら、愛しあっていた男が急に自分の前から消え、殺人の罪で現在も追われているということを知らされた、私くらいだ。



彼を家に入れた理由は、自分でもよく理解していなかった。ただ、冬の日に服を濡らした人間にお風呂を貸してあげるくらいの優しさを、わたしは持ち合わせていたようだ。

いま付き合っている彼氏の服は彼には小さく、不格好に丈を余らせたまま彼は浴室から上がってきた。彼がどれくらい長くお風呂に入るかはわからなかったから、料理を温めずに机の上に置いていたが、それを見てわかりやすく彼は目を輝かせた。ろくに髪も拭かないまま、いそいそテーブルの前のクッションに座る姿は、猫というより犬に近い。

「拭かないの?」と尋ねても、彼は「腹減ってるから」と首を横に振るばかりだった。
電子レンジで温める時間も惜しそうに彼が机の前で大きな体を揺らしていたから、温めることは諦めてそのままラップを外した。
食事を前にして、商店街の暗闇の中では淀んでいた瞳が、光を宿して生き返るのがわかった。古いアパートの、眼に痛いほど白い電球の光を反射しながら、スプーンは彼の大きな口に吸い込まれていく。

「うま。手作りの料理久しぶりに食った気がするわ」
「そう。よかった」
「なんだよ、つめてぇなあ。久々に会ったのに」
「そうだね。まさかこんな形でまた会うなんて」
普通に友達と話すような声音を出したつもりだったが、無意識のうちに緊張でもしていたのか、声に固さが生まれた。ま、いいけど、と彼はさして気にしていないとでもいうように、テーブルの料理に再度目を向ける。

残り物のカレーに、朝に野菜を消費するために作ったお味噌汁。アンバランスなメニューも彼は全く気にならないらしい。みるみるうちにテーブルの上のものは減っていく。

「料理うまくなったよなぁ」
「本当? ありがとう」
料理を練習し始めたのは、いま付き合っている人のためだ。無意識に女性らしさを求めてくる彼の影響で、わたしの家事の腕はみるみるうちにあがっていった。高校生のときの拙い料理に比べて、味が違うのも当たり前だろう。それでも彼は、「うまいじゃん、料理うめえよ」と笑った。わたしの指に巻かれた絆創膏に視線を注ぎながら。
「……冷めてるけど、そういってもらえて良かった」
「冷めてもうめぇよ」
彼は淡々と言った。銀のスプーンには彼の顔が逆さに映っていた。

食事を終えると、彼はお皿を洗うのを手伝ってくれた。昔ならば、彼はクッションを抱いたまま床に寝ころがり、私が一人で家事をする姿を眺めているということが多かった。会わないうちに、彼も変わったのかもしれない。時々見せる目尻を下げた甘えた目や、猫のように伸び伸びとした仕草で、いまのように女性の家に転がりこんだ経験も一度や二度ではないのだろうと想像できた。

洗い物を終えてリビングに戻ると、彼はテレビの横に置いてあるDVDを指さした。
「あれ、なつかしーな。昔何回か一緒に見たよな」
映画の内容なんて覚えていなかった。話を合わせておこうと思って、「そーだね」と返すと、化彼はDVDを手に取って、「見てもいーい?」と尋ねてきた。
「見たいの? 別にいいけど……私は明日も仕事あるからもう寝るね。音さえ小さくしてくれればいいから」
そう言ってリモコンを渡し、彼から背を向けた。

ベッドに入り、頭から厚い毛布をかぶる。暗闇が視界を支配して、この暗さなら眠れるだろうと目を瞑った。昔は、わたしは淡い光のある部屋じゃないと眠れなかった。成人した頃にようやく、真っ暗な部屋でも眠れるようになって、そのときは、嬉しいことのはずなのに、わたしはなぜか、泣いた。

彼がかけた映画の音が、布を通して私の耳に届いてくる。かすかなクラシックと、二人の登場人物の会話をする声。どんな内容だったのか思い起こそうとしても、台詞のみが頭を滑ってなかなか脳に残らない。
ずっと好きだったのに。呟くような、女優の声がした。

眠気はこない。元々冷え症なこともあって、指先は氷のように冷えていた。
目を瞑って、体の機能を止めるようにじっと動かなかった。暗闇の中で、映画の音と、時折水を飲んだり、眠そうに彼があくびをする声が聞こえた。
愛していたから――。主人公の男がそう言ったとき、ゆっくりと床を踏みしめる音を耳が捉えた。

ベッドのスプリングが壊れそうに高く鳴り、かすかにマットレスが傾いた気配がした。毛布を握っていた手を強めたが、毛布の端を引かれて、冷たい空気が入り込んできた。その空気には、私は絶対に吸わないタバコの匂いが含まれていた。嗅ぎたくなかったからマットレスに鼻を埋めた。するりと、意識の隙間を突くように、手は私の布団を剥ぐ。背中に温かな体温を感じ、息遣いがかすかに耳元で響いた。

「触らないで」
私が言い切るより先に、熱い手のひらが私の腹に触れた。その手は一周だけ腹を撫で、みぞおちの辺りで止まる。
「やめて。そういうことするなら追い出すから」
「先に触れたのは、おまえだろ」
「だって、あなただって知らなかったから、」

なにを言っても彼は止まらなかった。頭の先まで毛布を被せてきて、私たちはその狭い空間に閉じ込められた。空気が籠って、彼のタバコの匂いが充満した。手は私の体を彼の方に引き寄せて、私の背中と彼の腹はくっつきそうなほど触れあった。

「髪も、雰囲気も変わっちまったけど、触り方ですぐに気がついた……」

彼は低く囁いた。腹から手を動かして、冷えた私の手を包むように握る。
「つめてぇ」
「わかった。もう追い出すなんていわないから、それかお金あげるから。もう彼氏もいるんだから、やめて」

私の声は金切り声に近く、布団の中に高く反響した。耳鳴りのように頭の中を巡る感覚が、気持ち悪かった。

映画の音が、聞こえる。俳優の堪えきれていない嗚咽が部屋の隅にまで満ちて、やがて私たちの布団の中にまで入ってくる。なにか会話していることはわかるのに、内容までは聞き取れなかった。音に耳を撫でられるような感覚を、前にもどこかで経験したことがある。

――後ろから大きな体に抱きすくめられて、タバコの匂いを肺に落としながら、目を瞑る。そこでは、言葉なんて全く必要じゃなかった。なにを言わなくても、彼のことが伝わってきたし、私のことも伝えられた。
体も、耳も、唇も、彼は彼のまま、私は私のままで、これから先に変わることはないと、信じていたのだ。あのときは、確かに。

手を絡めとられたまま動けなかった。もう片方の腕が伸びてきて、後ろから私の唇に触れた。離して、と言いたかったのに、彼の手が口の中に入ってしまいそうだと思って息を止めた。

指先のぶ厚い皮膚は乾燥していて硬く、触れられると痛みを覚えるほどだった。薄い唇の皮が彼の皮膚に引っかかって破け、痛みが口の周りにまでじわりと滲む。手をどかそうとしても、腹におかれていた方の手を掴まれて動けない。

えいが、飽きちまって。
彼は昔から、私の唇に触れるときにそう言った。悪びれなく、私も期待していることを見透かした声音で囁いて、唇をつまんだり撫でたりした。そうしていると、彼の手が唾液で濡れてきて指の間に雫が溜まる。雫がベッドに落ちるのを合図に、彼の唇が近づいてくる。

記憶の中の彼の面影と、今ここにいる彼の像が重なった。
雫がマットレスに染みた瞬間、体を引かれて後ろを向かされた。二人分の体の動きでタバコの匂いを含んだ空気が、布団の中でかき混ぜられる。

彼は唇が触れ合う瞬間、わたしの名前を呼んだ。愛情を滲ませる、柔らかい声で。

熱い息が唇に触れ、やさしい重みが体にかかった。彼は私の肩を押してベッドに押し倒すと、手を顔の横につけて、体重をかけながら深く唇を合わせてきた。

息が、苦しくなった。布団の中の酸素は薄い。体に残る肺の中の冷たい空気もやすやすと吸われる。腹が圧迫されたから呼吸がしづらくて口を開けると、熱い舌が口の中を荒らした。

体を押し返そうとして、手を掴まれる。
私の血の通わない冷たい皮膚には彼の手は熱すぎて、焼けただれて皮膚が落ちそうだった。

酸欠気味なのか頭がうまく回らない。
水音と映画のBGMが混じる音でようやく自分を保てて、彼の唇に歯を立てようとした。
その瞬間を見計らっていたかのように、口と手を同時に解放される。
逃げ出そうと体を覆っていた布団を剥いだ。彼がベッドに来る前に電気を消したのか、部屋の中は真っ暗だった。ベッドの上で体を起こして彼から距離を取り、黒い影を鋭く睨む。

「出てって。そうしなかったら警察呼ぶから」
声には怒りが滲んでいて、自然に唇がわなないた。
自分の前からいなくなった癖に、気まぐれのようにキスをしてくる彼が、憎かった。

体は燃えるように熱く、指先は震えていた。私と視線を合わせながら、彼はゆっくりと目を細めた。暗闇の中に浮く瞳が、空気が澄んだ夜の三日月のように見えた。彼の発する光に、思わず見とれそうになって目を伏せた。

「……俺は、忘れたことなんてなかった」
「なに、今更」
「好きだった。あんときも、いまも」

暗いせいで彼の顔は見られなかったけれど、寂しげに震える声で彼が嘘をついていないということはすぐにわかった。

ばか。なにもかも遅すぎる。

彼は昔から自分の言葉を口に出さない、不器用なひとだった。ろくに説明もせずに、私のことを血なまぐさい道から遠ざけようとしていて悪戯に傷つけたり、距離をとろうとしてきたこともある。
それでも当時は好きだったから、なにをされてもなにがあっても、ずっと彼と一緒にいたいと思っていた。
まさか、指名手配犯になって私のそばからいなくなるなんて、思ってもみなかった。

「もう遅いよ。修二くん、警察にまで追われてるんだよ......私はあなたと一緒にはいられない」
許したくない。距離をとったのは、彼が先だったのだから。
触れないで欲しい。わたしの体にくすぶる熱は、ずっとわたしだけのものだ。わたしが抱えて生きていくものだ。

「やっと、名前で呼んでくれたなぁ」
微かに震える声に、闇に滲む大きな体の輪郭。染みついたタバコの匂い。暗闇の中で光を帯びている、彼のピアス。

好き、だった。いまも。いつまでも。

彼の発する光や、体温にわたしはいつも心を奪われていた。狂おしいほど愛していて、その分だけ、離れたときの失望と悲しみは大きかった。
わたしは修二くんのことを過ぎた思い出だと言い聞かせて、心の奥底に、感情を宝物のように隠していただけだった。でも忘れられないのは、お互いなんだ。

やっと会えた。わたしが修二くんを拾ったときに、微かな雨音にかき消されそうな声で、確かに彼はそう言った。耳の奥が、記憶を剥がれかけたのカサブタのようにじくじくと疼く。


昔に何度も触れた大きな手が、暗闇の中からわたしの方に伸びてきた。
「こっちこないで、触らないで……」
「やだよ。こっち見ろ」

修二くんの熱い手がわたしの肩を掴む。スウェットがずれて、ひんやりとした空気が肩に触れた。彼は、引き寄せられるようにわたしの肩口に顔を埋めた。濡れた唇が触れるのがくすぐったくて、体が小さく跳ねる。

「や、やめ……っん……」
硬い歯が、肌に触れた。骨を辿るように歯は肌の上を滑り、首のつけ根で止まった。彼の行動の意図を察して手のひらで頭を押し返そうとしたが、手に力が入らなかった。怖くなんてないのに、抱えきれないなにかのせいで指先が震える。

「一緒に来いとは言わねえから。でも、今日だけ触れさせろよ」
「やだ、あなたなんてきらい、だいっきらい。先に逃げたのはあなたじゃない。わたしのことを連れていってくれなかったのも……」

皮膚に鋭い痛みが走って、悲鳴に近い声が喉をせりあがった。昔にふざけて甘噛みしあった時とは比べものにならいない、骨に響く鮮烈な痛みだった。じわりと熱が首筋に広がる。その熱は、わたしの体の奥底のものと呼応して、全身が炎のように燃え上がりそうだと錯覚した。

嫌、さめて、消えて、と祈るような気持ちで呟いた。
修二くんがスウェットに手をかけ、器用にわたしを脱がせる。肩幅や腕の長さまで計算して動いているような、慣れた仕草だった。寒さに体を震わせると、修二くんは毛布を肩にかけてくれた。少し、タバコの匂いが染みついてた。

「悪ぃ、こんなことして……」
「……きらい」
小さな気遣いが、好きだった。それはまだ彼から失われていなくて、彼は彼のままなのだろうと思った。

「俺はすきだ」優しい声が胸を打つ。
「うそつき、ばか、ずるい」
こどものように言い立てても、彼は黙って聞いているだけだった。
「なんでなにも言わないの。怒って、言い返してよ」
「俺が悪かったって」
声に迷いはなく、心からの言葉に聞こえる。こういうところのせいで、わたしは彼に寄りかかって身をゆだねたくなってしまう。彼の言葉は、いつまでも突き刺さって抜けない。

大きな手がわたしの肌に触れる。緊張しているのか、手のひらは汗ばんでいた。
腹、胸元、二の腕と辿り、暗闇の中でわたしの輪郭を確かめるようになぞる。肩を押されて体がゆっくりと倒れた。彼を上目遣いに見上げると、欲の滲む瞳と、目があった。

「おねがい、いれないで」
か細い声で、わたしが頼んだ。彼の影が頷く。

彼の熱を体の中に残したくなかった。触れるのを許せるのは、すぐに冷ませるような肌の表面だけだった。冷めてもうまい、と数時間前の彼の言葉が頭を巡った。修二くんは、舌がばかなんだ。

修二くんは、丁寧に、大切なものを扱うように、一晩中かけてわたしの体中を撫でていた。甘く疼くような快感が溜まってはいたが、いますぐ発散したいと思わせるほどの衝動でもなかった。いつの間に泣いたのか、目の淵は濡れていた。

修二くんに手を伸ばすと、彼はわたしのことを息ができなくなるそうなほど強く抱きしめた。体が密着して、わたしの体には彼の勃ったものが触れた。それでも、彼はその先には進まなかった。

やがて、カーテンの隙間からは、光の束がまっすぐに差し込んできた。
夜明けだった。白い壁紙は漏れ出た光を映し出して淡く輝き、小さな光の粒子は、彼の耳の長いピアスにたどりついた。ピアスは、光を反射してきらきらと輝いていた。わたしはその光が、ずっと、好きだった。

彼のことが、いつまでも好きだった。

❁❁❁

きらきらしているものを最初に教えてくれたのは、彼だった。彼はわたしをバイクの後ろに頻繁に乗せてくれた。大きな体に手を回すと、彼の体温を感じられた。夜の大気に、バイクのライトは溶け、黒いアスファルトに乗って四方に光が散った。

走行音がうるさいから、すきだよ、と呟いても彼からの返事はなかった。強く抱きしめると彼の体から力が抜けていくのがわかった。言葉にしなくても伝わる愛情が、そこにはあった。

彼の見せてくれるうつくしい景色が、わたしはすきだった。彼がまとう光が、彼の体温が、愛おしくて、大切だった。彼がひとつひとつ拾いあげて、わたしに与えてくれるものが、すべて。
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