密やかに咲む、それは
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「主君、いかがなさいましたか」
春に芽吹いた葉も色濃く茂り、重く垂れ込めた鼠色の雲が降らす雨に、じっとりと辺りが湿り気を帯びる時季。
政府から予告されていた夏の連隊戦に向けて、これまでの戦績と、この本丸に所属している刀剣男士たちの練度、そして各々の得手不得手について纏めた資料を突き合わせた上で、部隊の編成を考えるのを手伝ってほしい、という主からの頼みで、近侍の僕は彼女と共に書庫から執務室へと資料を運び入れようとしていた時だった。
執務室の前の濡れ縁に腰掛けて本を読んでいた秋田藤四郎の傍らで、部屋の敷居を跨ごうとしていた主が足を止める。
「綺麗」
雨上がりに雲の隙間からさした日の光に照らされた彼が眺めていたのは、植物図鑑だった。目に留まったそれに吸い寄せられるように、ふわりと主がしゃがみ込む。
「どれも素敵ですよね。主君は、どの花が気になりましたか」
うん、これかな。そう言って指さしたのは、いくつも重なった丸い花弁が少しずつずれながら綻んだものだった。
「これですか。自然が作ったとは思えないほど、この花びらの並び方はとても不思議ですね」
「でしょ。それに、なんだか秋田くんの髪の色みたい」
主が綿菓子のようにやわらかな彼の髪をふわふわと撫でると、彼は「あ、ありがとうございます、主君」と嬉しそうに目を細めた。梅雨の晴れ間に空気を入れようと障子を開け放った執務室へ僕と主が入っていくと、秋田が振り返って主に尋ねた。
「そういえば、主君が審神者になられた今年のお祝いには僕が選んだ木を庭に植えましたけれど、来年はどなたが記念樹を選ぶのですか」
主の意向で、毎年春先にやってくる本丸の発足記念日には庭に木を植えることになっている。執務室からは釦一つで景趣を変えることのできるからくりが備え付けられているけれど、その反対側に設えられた庭で、主は暦通りの時の流れのまま、葉を茂らせ、そして散っていく自然な季節の移り変わりに風情を感じたかったのだろう。植えた木々の生長は、それだけ先の見えないこの戦の長さを物語ることになるのだけれど。
一年目には、はじまりの一振りである山姥切国広に選ばせ、本丸の鬼門と裏鬼門の方角に紅白の南天を植えた。二年目には初鍛刀の秋田藤四郎が、喉風邪をひきやすい主を想って、金柑を選んだのだった。
「そうだね、次は本丸に初めて来た脇差に選んでもらおうかな」
「だそうですよ、にっかりさん」
文机の上に資料を並べていた僕に向かって、秋田が声をかけた。
「…ん、僕かい」
秋田が言うように、僕はこの本丸で初めての脇差として迎え入れられた。本丸が発足してからさほど期間が経っていない頃だったので、山姥切や秋田と共に出陣を重ね、この本丸の基礎固めをしてきた、といったところだろうか。僕がもともと持ち合わせていた能力によって使い勝手が良かったからなのか、さまざまな合戦場や任務の参戦を経て、今では練度の高さは二振りと遜色がないほどだ。僕の、周囲を注意深く観察するところや、冷静に状況を分析して即応する特性に興味を持ってくれたのだろうか。主はこうして時々、本丸の大事な節目に差し掛かると僕を近侍に据えて、采配をどう振るか相談を持ちかけてくるようになった。刀の頃の僕は数々の武将の元で侍っていたこともあったので、彼らの戦略の記憶を掘り起こして言葉を添え、慎重かつ大胆に攻め込む編成を主と共に練り上げていくのはとても心が沸き立つ作業だった。実際、その戦略のために僕が自ら戦場に赴くこともあったけれど、狙い通りの成果をあげられた時はとても胸がすく思いがした。何より、僕ら刀たちへの被害が最小限で済んだとき、ほっとした主の表情を見るたびに、少しでも彼女の心を穏やかにできたことに大きな喜びを感じた。主の声で、にっかり、と呼ばれるのが待ち遠しい自分に気づきはじめ、彼女のそばにいられる時間を、僕自身が恋しいと思うようになっていた。
赴いた地での戦が激しければ激しいほど、彼女からの「おかえり」が、誉よりも何よりも、嬉しかった。
「この図鑑、主君からいただいたものなんです。海の向こうの見たこともない植物がたくさん載っていて、眺めているだけでも、とっても楽しいですよ。にっかりさんも、次に何の木を植えるか考えたい時は僕に声をかけてくださいね。いつでもこの本をお貸ししますよ」
先刻主の目に留まった花が載った頁が開かれたままの図鑑を、こちらに向けて掲げた秋田が言う。
「ああ。ありがとう」
引き出しから帳面を取り出しながら、じゃあそろそろ始めよっか、といつものように声をかけてきた主と文机を挟んで向かい合い、白装束を後ろに払ってから腰を下ろす。資料に視線を落とす主の真剣な表情と、控えめな睫毛がしばたたくのを見つめるこの時間と空間が、僕はいっとう好きだった。
ひとしきり意見を交わし、彼女が思う育成の方針に合う編成を詰める段階にきたところで、一息入れることになった。
「ずっと喋っていたから喉が渇いちゃったね。用を足してくるついでに、麦茶でも取って来るよ」
主が席を立ち、厨へと向かう。僕も行きます、と秋田も立ち上がり、短刀らしい軽い足音をさせて主に続いて行った。
ひとり取り残された、がらんとした部屋。主と夢中になって語り合い、ずっと同じ姿勢で座っていた僕は、軋む身体で立ち上がり、うーん、と腕を天井へ掲げて伸びをする。縁側へ出て、庭を見渡すと、雨で濡れた苔が日の光で温められて立ちのぼる独特な匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。目の前に広がる、よく手入れされた庭を端から端まで眺めてみる。すると、ここには寒い時期に咲く花をつける植物が一つもないのに気付いた。その時に思い浮かんだのは、やはり主の目に留まったあの乙女色の可憐な花だった。
五分ほどして、琥珀色の麦茶で満たされた硝子の器の載った盆を持つ彼女がこちらへ歩いてくる。しかし、一緒に厨へ向かったはずの秋田は戻らなかったようだ。
「おや、秋田はどうしたんだい」
胸の前で腕組みをしながら、彼女に尋ねる。
「夕飯の当番だったのを思い出して、貞ちゃんと一緒に買い出しに行っちゃった」
主は執務室の中へ戻り、よく冷えた麦茶で汗をかいた器をふたつ、文机の上に向かい合わせるように置いた。ふと、僕が視線を足元に落とす。すると、さっきまで秋田から熱烈に見つめられていた図鑑が濡れ縁の上に無造作に残されていた。
「おやおや。こんなところに大事な本が置き去りじゃないか。後で届けておくよ」
図鑑を拾い上げ、部屋に戻りながら、少々失礼して頁をめくってみる。折ぐせがついていたのか、はらりと開いたのは先ほどまで主が釘付けになっていた花が載った場所だった。
開花する時期、苗木の植えどき、手入れ。大まかな栽培の説明に目を通して、主に尋ねてみる。
「ねえ、主。どうかな。来年の発足記念に、きみが気になる子を迎えるのは」
彼女のそばまで近づき、開いた図鑑の写真を人差し指でつついてみせる。すると一瞬、嬉しげに口角を上げて彼女が目を見開いたが、すぐに表情を曇らせながらかぶりを振った。
「だめなの、それは」
彼女の拒絶の思いが色濃く滲んでいるような、短い言葉。
「何故だい」
「庭にその木が植えられていて、いい気分のする武刃がいるのかな、って」
その木につく花は、咲いた花ごと枝からもげてしまう姿がまるで首が落ちる様子を思わせるらしく、かつてもののふたちから忌み嫌われてきたのだという。
「うーん。それでも、古くから茶の湯の席ではよく飾られていたそうだし、僕はそこまで気にならないけどね」
思い起こせば、寒椿の景趣を手に入れてはいたけれど、その景色を執務室から眺めたことは一度もなかった。
「にっかりは気に障らないのかもしれないけど、他の刀たちが嫌な気持ちになったら、悲しいから」
そう言いながら、僕が開いて見せていた図鑑に手をかけて、そっと本を閉じる。まるで、思いを断ち切るみたいに。僕を見つめる瞳は「わかって欲しい」と訴えるようで、滲む諦めに潤んでいた。
「そこまで言うなら、無理強いはしないさ。まだ時間はたっぷりあるからね。じっくり考えるよ」
正直、彼女の喜ぶ顔が見たかった。名残惜しい思いで、閉じられた本の表紙をそっとなぞってみる。
「嬉しいよ。にっかりの気持ち。でも…でもね。わたしはみんながこの庭を眺めた時、戦で疲れた心と体が少しでも安らげばいいな、って思ってるんだ。だから、ね」
軒先から、上がった雨の雫が落ちる。
それでも、彼女は顔を目一杯上げて、溢れそうなものを堪えるように、深呼吸をした。
歴史を守るために人の身を得て顕現した僕らを大切に思う、審神者としての矜持。それを守り抜く信念を持つ彼女の、あまりにも健気で、あまりにも凛とした横顔に胸が締め付けられる。
この嫋やかなからだ一つに、何もかもを背負おうとする彼女のそばにいたい。そう、思った。
今すぐにでも、抱きしめたい。心が動くままに、手をのばす。けれども、それは僕自身の独りよがりなのだという想いに駆られ、この手を彼女の頭の上にやんわりとのせるだけが精一杯だった。驚いた彼女が「わ、」と上擦った声を上げる。
「きみのそういうところ、嫌いじゃないよ」
僕に見えないように顔を背けて、すん、と彼女が洟を啜った。
心のうちの、やわらかいところを見せないように強くあろうとするのが、僕の主だった。そんな彼女が涙していることには、触れないでおこうと思った。
どのくらいの間、そうしていたのかはわからない。僕はただ黙ったまま、彼女のまるい頭蓋のかたちと、しっとりとした髪の手触りを確かめていた。
◇
やがて季節は巡り、あっという間に年を跨いで、この本丸の発足記念日がやってきた。
相も変わらず、僕らが身を投じている戦に終わりは見えない。それでも、一振りも折れることなくこの日を迎えることができたことに、皆が安堵していた。
「主、おはよう。少しいいかな」
朝餉のあと、記念日の賀詞を伝えようと主のもとを変わるがわる訪れる刀たちが途切れた隙間を見計らって、執務室にすべりこむ。
「あ、にっかり。おはよう」
火鉢でほんのりと暖かい部屋。いつもより少しだけ華やいだ色味の衣服に身を包んだ彼女が、箪笥の引き出しを開けているところだった。
「おや、何だかいい香りがするねえ」
彼女の手の中には、薄く紅を刷いたような蕾をほころばせた、花の石鹸細工があった。彼女は大層愛おしそうに、爪を短く切り揃えたまるい指先で、完璧な弧を描く花弁のふちを撫ぜている。
「可愛いでしょう」
「ああ」
どこか名残惜しそうな表情で巾着袋にその石鹸細工をしまい、開けていた引き出しを閉じた。
その花は、ずっと忘れられずに、彼女の胸の奥深くで咲き続けていたのだろう。
「さっきね、記念日のお祝いに秋田くんがくれたの。わたしが好きだって言った花、覚えててくれたみたい。あんまりいい香りがするから、こうして匂い袋にして箪笥にしまっておいて、時々眺めようと思って」
「ふうん…そうかあ。なるほど、どうやら僕は、先を越されてしまったようだねえ」
主が不思議そうに僕を視る。
「先を越された…って、どういうこと」
「ふふ、知りたいのかい」
僕がいたずらっぽい笑みを浮かべ、主を覗き込むような視線を送れば、痺れを切らして彼女が眉根を寄せた。
「もったいぶらないで」
「いいねえ、その顔。さあ、おいで」
僕は躊躇うことなくまっすぐ腕を差し出し、しっかりと彼女の手を取った。
「ね、にっかり、待って」
雪下駄をつっかけただけの主の手を引いて、残雪が日陰にのこる庭を突っ切る。しっとりと湿った苔を踏みしめながら離れまでたどり着き、棟をぐるりと大回りして、人目につかない一角へとやってきた。
後ろ向きで彼女の手を引きながら、目的地へといざなう。
「ごらん。ちょうど、一輪だけ咲いたんだ」
身体を翻し、ほら、と手で合図をした。
僕らを出迎えたのは、先ほどまで彼女の手の中で咲いていたのと同じ、やさしく色づいた花弁を幾重にも開いた、乙女椿。腰ほどの高さに枝葉がのびた木に、ぽつんとひとつ、咲いていた。
「え、どうして、」
主は口元に手を当て、驚きと戸惑いをないまぜにしたような、何ともいえない表情をしている。
「ふふ、可愛い子だろう? もちろん、表向きの、庭に植える方の記念樹は別に選ぶつもりだよ。ここなら、この子が他の刀の目にはあまり入らないだろうと思ってね。去年、こっそり僕が植えたんだ」
それも、今日この日が来るまで、出陣や内番の合間に、誰にも気づかれぬように世話を続けて。
主の目にはじんわりと光るものが溢れ、ついぞ堪えきれなかったのか、まだひんやりとした朝の空気の中に彼女が嗚咽まじりの白い息を吐いた。
「あ…にっかり、うれし、…あ、ありがと、う、」
肩を震わせて涙する彼女を、今度こそ、抱きしめる。僕の腕の中の柔らかなぬくもりは、微かに震えながら、か細い泣き声をあげていた。
「今日まで、よく頑張ってきたね。僕はね、きみが今の主で本当に良かったと思っているよ」
これまで、たくさんの彼女を見てきた。
力及ばず悔しさを噛み殺した表情も、全員大怪我を負って帰ってきた部隊の手入れでくたくたになったあとで、その日の記録をつけている間に眠ってしまった寝顔も、賑やかな刀たちに囲まれて微笑む姿も。
そんな彼女が、強くあろうと纏っていた心の鎧を脱ぎ捨てて、ありのままの感情を僕の前であらわにしてくれていることが、嬉しかった。
「ありがとう、にっかり」
腕の中で、くぐもった声がする。
今なら、伝えられるだろうか。
「僕のこの身体がある限り、ずっと守り続けるよ。この椿も、もちろん、きみもね」
えっ、と小さな悲鳴をあげて、濡れた瞳をした彼女が僕を見上げた。愛おしさを込めた眼差しで、彼女を見つめ返す。
「…またここで、時々こうして、僕と会ってくれるかい」
みるみるうちに、彼女の頬が紅く染まっていく。僕が伝えたことの意味に気づいたのだろうか。照れているのを隠すように、主はまた僕の胸元に顔を埋めて、「うん」と応えてくれた。
「おや、ちゃんと僕を見て言っておくれよ」
さっと上体を反らせ、僕の懐に埋もれた顔をわざとらしく覗き込もうとすればするほど、主は「やだ、見ないで」と、ぐりぐり頭を押し付けてくる。恥じらうままに可愛らしい反応を見せる彼女のつむじに、やわらかく口付けた。唇を落としたままで、「約束だよ、」と呟く。
彼女は返事をする代わりに、ゆっくりと僕の背にその腕を回したのだった。
もしかしたら、僕の胸の奥で花開いた感情も、ちょうどこんな色をしているのかもしれない。
深く息を吸いこみ、抱きしめた彼女の香りで僕の内側がじんわりと染まっていくのを感じながら、早春の陽光の中でひっそりと咲く僕らの秘密に、そっと目を細めた。</body>
「主君、いかがなさいましたか」
春に芽吹いた葉も色濃く茂り、重く垂れ込めた鼠色の雲が降らす雨に、じっとりと辺りが湿り気を帯びる時季。
政府から予告されていた夏の連隊戦に向けて、これまでの戦績と、この本丸に所属している刀剣男士たちの練度、そして各々の得手不得手について纏めた資料を突き合わせた上で、部隊の編成を考えるのを手伝ってほしい、という主からの頼みで、近侍の僕は彼女と共に書庫から執務室へと資料を運び入れようとしていた時だった。
執務室の前の濡れ縁に腰掛けて本を読んでいた秋田藤四郎の傍らで、部屋の敷居を跨ごうとしていた主が足を止める。
「綺麗」
雨上がりに雲の隙間からさした日の光に照らされた彼が眺めていたのは、植物図鑑だった。目に留まったそれに吸い寄せられるように、ふわりと主がしゃがみ込む。
「どれも素敵ですよね。主君は、どの花が気になりましたか」
うん、これかな。そう言って指さしたのは、いくつも重なった丸い花弁が少しずつずれながら綻んだものだった。
「これですか。自然が作ったとは思えないほど、この花びらの並び方はとても不思議ですね」
「でしょ。それに、なんだか秋田くんの髪の色みたい」
主が綿菓子のようにやわらかな彼の髪をふわふわと撫でると、彼は「あ、ありがとうございます、主君」と嬉しそうに目を細めた。梅雨の晴れ間に空気を入れようと障子を開け放った執務室へ僕と主が入っていくと、秋田が振り返って主に尋ねた。
「そういえば、主君が審神者になられた今年のお祝いには僕が選んだ木を庭に植えましたけれど、来年はどなたが記念樹を選ぶのですか」
主の意向で、毎年春先にやってくる本丸の発足記念日には庭に木を植えることになっている。執務室からは釦一つで景趣を変えることのできるからくりが備え付けられているけれど、その反対側に設えられた庭で、主は暦通りの時の流れのまま、葉を茂らせ、そして散っていく自然な季節の移り変わりに風情を感じたかったのだろう。植えた木々の生長は、それだけ先の見えないこの戦の長さを物語ることになるのだけれど。
一年目には、はじまりの一振りである山姥切国広に選ばせ、本丸の鬼門と裏鬼門の方角に紅白の南天を植えた。二年目には初鍛刀の秋田藤四郎が、喉風邪をひきやすい主を想って、金柑を選んだのだった。
「そうだね、次は本丸に初めて来た脇差に選んでもらおうかな」
「だそうですよ、にっかりさん」
文机の上に資料を並べていた僕に向かって、秋田が声をかけた。
「…ん、僕かい」
秋田が言うように、僕はこの本丸で初めての脇差として迎え入れられた。本丸が発足してからさほど期間が経っていない頃だったので、山姥切や秋田と共に出陣を重ね、この本丸の基礎固めをしてきた、といったところだろうか。僕がもともと持ち合わせていた能力によって使い勝手が良かったからなのか、さまざまな合戦場や任務の参戦を経て、今では練度の高さは二振りと遜色がないほどだ。僕の、周囲を注意深く観察するところや、冷静に状況を分析して即応する特性に興味を持ってくれたのだろうか。主はこうして時々、本丸の大事な節目に差し掛かると僕を近侍に据えて、采配をどう振るか相談を持ちかけてくるようになった。刀の頃の僕は数々の武将の元で侍っていたこともあったので、彼らの戦略の記憶を掘り起こして言葉を添え、慎重かつ大胆に攻め込む編成を主と共に練り上げていくのはとても心が沸き立つ作業だった。実際、その戦略のために僕が自ら戦場に赴くこともあったけれど、狙い通りの成果をあげられた時はとても胸がすく思いがした。何より、僕ら刀たちへの被害が最小限で済んだとき、ほっとした主の表情を見るたびに、少しでも彼女の心を穏やかにできたことに大きな喜びを感じた。主の声で、にっかり、と呼ばれるのが待ち遠しい自分に気づきはじめ、彼女のそばにいられる時間を、僕自身が恋しいと思うようになっていた。
赴いた地での戦が激しければ激しいほど、彼女からの「おかえり」が、誉よりも何よりも、嬉しかった。
「この図鑑、主君からいただいたものなんです。海の向こうの見たこともない植物がたくさん載っていて、眺めているだけでも、とっても楽しいですよ。にっかりさんも、次に何の木を植えるか考えたい時は僕に声をかけてくださいね。いつでもこの本をお貸ししますよ」
先刻主の目に留まった花が載った頁が開かれたままの図鑑を、こちらに向けて掲げた秋田が言う。
「ああ。ありがとう」
引き出しから帳面を取り出しながら、じゃあそろそろ始めよっか、といつものように声をかけてきた主と文机を挟んで向かい合い、白装束を後ろに払ってから腰を下ろす。資料に視線を落とす主の真剣な表情と、控えめな睫毛がしばたたくのを見つめるこの時間と空間が、僕はいっとう好きだった。
ひとしきり意見を交わし、彼女が思う育成の方針に合う編成を詰める段階にきたところで、一息入れることになった。
「ずっと喋っていたから喉が渇いちゃったね。用を足してくるついでに、麦茶でも取って来るよ」
主が席を立ち、厨へと向かう。僕も行きます、と秋田も立ち上がり、短刀らしい軽い足音をさせて主に続いて行った。
ひとり取り残された、がらんとした部屋。主と夢中になって語り合い、ずっと同じ姿勢で座っていた僕は、軋む身体で立ち上がり、うーん、と腕を天井へ掲げて伸びをする。縁側へ出て、庭を見渡すと、雨で濡れた苔が日の光で温められて立ちのぼる独特な匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。目の前に広がる、よく手入れされた庭を端から端まで眺めてみる。すると、ここには寒い時期に咲く花をつける植物が一つもないのに気付いた。その時に思い浮かんだのは、やはり主の目に留まったあの乙女色の可憐な花だった。
五分ほどして、琥珀色の麦茶で満たされた硝子の器の載った盆を持つ彼女がこちらへ歩いてくる。しかし、一緒に厨へ向かったはずの秋田は戻らなかったようだ。
「おや、秋田はどうしたんだい」
胸の前で腕組みをしながら、彼女に尋ねる。
「夕飯の当番だったのを思い出して、貞ちゃんと一緒に買い出しに行っちゃった」
主は執務室の中へ戻り、よく冷えた麦茶で汗をかいた器をふたつ、文机の上に向かい合わせるように置いた。ふと、僕が視線を足元に落とす。すると、さっきまで秋田から熱烈に見つめられていた図鑑が濡れ縁の上に無造作に残されていた。
「おやおや。こんなところに大事な本が置き去りじゃないか。後で届けておくよ」
図鑑を拾い上げ、部屋に戻りながら、少々失礼して頁をめくってみる。折ぐせがついていたのか、はらりと開いたのは先ほどまで主が釘付けになっていた花が載った場所だった。
開花する時期、苗木の植えどき、手入れ。大まかな栽培の説明に目を通して、主に尋ねてみる。
「ねえ、主。どうかな。来年の発足記念に、きみが気になる子を迎えるのは」
彼女のそばまで近づき、開いた図鑑の写真を人差し指でつついてみせる。すると一瞬、嬉しげに口角を上げて彼女が目を見開いたが、すぐに表情を曇らせながらかぶりを振った。
「だめなの、それは」
彼女の拒絶の思いが色濃く滲んでいるような、短い言葉。
「何故だい」
「庭にその木が植えられていて、いい気分のする武刃がいるのかな、って」
その木につく花は、咲いた花ごと枝からもげてしまう姿がまるで首が落ちる様子を思わせるらしく、かつてもののふたちから忌み嫌われてきたのだという。
「うーん。それでも、古くから茶の湯の席ではよく飾られていたそうだし、僕はそこまで気にならないけどね」
思い起こせば、寒椿の景趣を手に入れてはいたけれど、その景色を執務室から眺めたことは一度もなかった。
「にっかりは気に障らないのかもしれないけど、他の刀たちが嫌な気持ちになったら、悲しいから」
そう言いながら、僕が開いて見せていた図鑑に手をかけて、そっと本を閉じる。まるで、思いを断ち切るみたいに。僕を見つめる瞳は「わかって欲しい」と訴えるようで、滲む諦めに潤んでいた。
「そこまで言うなら、無理強いはしないさ。まだ時間はたっぷりあるからね。じっくり考えるよ」
正直、彼女の喜ぶ顔が見たかった。名残惜しい思いで、閉じられた本の表紙をそっとなぞってみる。
「嬉しいよ。にっかりの気持ち。でも…でもね。わたしはみんながこの庭を眺めた時、戦で疲れた心と体が少しでも安らげばいいな、って思ってるんだ。だから、ね」
軒先から、上がった雨の雫が落ちる。
それでも、彼女は顔を目一杯上げて、溢れそうなものを堪えるように、深呼吸をした。
歴史を守るために人の身を得て顕現した僕らを大切に思う、審神者としての矜持。それを守り抜く信念を持つ彼女の、あまりにも健気で、あまりにも凛とした横顔に胸が締め付けられる。
この嫋やかなからだ一つに、何もかもを背負おうとする彼女のそばにいたい。そう、思った。
今すぐにでも、抱きしめたい。心が動くままに、手をのばす。けれども、それは僕自身の独りよがりなのだという想いに駆られ、この手を彼女の頭の上にやんわりとのせるだけが精一杯だった。驚いた彼女が「わ、」と上擦った声を上げる。
「きみのそういうところ、嫌いじゃないよ」
僕に見えないように顔を背けて、すん、と彼女が洟を啜った。
心のうちの、やわらかいところを見せないように強くあろうとするのが、僕の主だった。そんな彼女が涙していることには、触れないでおこうと思った。
どのくらいの間、そうしていたのかはわからない。僕はただ黙ったまま、彼女のまるい頭蓋のかたちと、しっとりとした髪の手触りを確かめていた。
◇
やがて季節は巡り、あっという間に年を跨いで、この本丸の発足記念日がやってきた。
相も変わらず、僕らが身を投じている戦に終わりは見えない。それでも、一振りも折れることなくこの日を迎えることができたことに、皆が安堵していた。
「主、おはよう。少しいいかな」
朝餉のあと、記念日の賀詞を伝えようと主のもとを変わるがわる訪れる刀たちが途切れた隙間を見計らって、執務室にすべりこむ。
「あ、にっかり。おはよう」
火鉢でほんのりと暖かい部屋。いつもより少しだけ華やいだ色味の衣服に身を包んだ彼女が、箪笥の引き出しを開けているところだった。
「おや、何だかいい香りがするねえ」
彼女の手の中には、薄く紅を刷いたような蕾をほころばせた、花の石鹸細工があった。彼女は大層愛おしそうに、爪を短く切り揃えたまるい指先で、完璧な弧を描く花弁のふちを撫ぜている。
「可愛いでしょう」
「ああ」
どこか名残惜しそうな表情で巾着袋にその石鹸細工をしまい、開けていた引き出しを閉じた。
その花は、ずっと忘れられずに、彼女の胸の奥深くで咲き続けていたのだろう。
「さっきね、記念日のお祝いに秋田くんがくれたの。わたしが好きだって言った花、覚えててくれたみたい。あんまりいい香りがするから、こうして匂い袋にして箪笥にしまっておいて、時々眺めようと思って」
「ふうん…そうかあ。なるほど、どうやら僕は、先を越されてしまったようだねえ」
主が不思議そうに僕を視る。
「先を越された…って、どういうこと」
「ふふ、知りたいのかい」
僕がいたずらっぽい笑みを浮かべ、主を覗き込むような視線を送れば、痺れを切らして彼女が眉根を寄せた。
「もったいぶらないで」
「いいねえ、その顔。さあ、おいで」
僕は躊躇うことなくまっすぐ腕を差し出し、しっかりと彼女の手を取った。
「ね、にっかり、待って」
雪下駄をつっかけただけの主の手を引いて、残雪が日陰にのこる庭を突っ切る。しっとりと湿った苔を踏みしめながら離れまでたどり着き、棟をぐるりと大回りして、人目につかない一角へとやってきた。
後ろ向きで彼女の手を引きながら、目的地へといざなう。
「ごらん。ちょうど、一輪だけ咲いたんだ」
身体を翻し、ほら、と手で合図をした。
僕らを出迎えたのは、先ほどまで彼女の手の中で咲いていたのと同じ、やさしく色づいた花弁を幾重にも開いた、乙女椿。腰ほどの高さに枝葉がのびた木に、ぽつんとひとつ、咲いていた。
「え、どうして、」
主は口元に手を当て、驚きと戸惑いをないまぜにしたような、何ともいえない表情をしている。
「ふふ、可愛い子だろう? もちろん、表向きの、庭に植える方の記念樹は別に選ぶつもりだよ。ここなら、この子が他の刀の目にはあまり入らないだろうと思ってね。去年、こっそり僕が植えたんだ」
それも、今日この日が来るまで、出陣や内番の合間に、誰にも気づかれぬように世話を続けて。
主の目にはじんわりと光るものが溢れ、ついぞ堪えきれなかったのか、まだひんやりとした朝の空気の中に彼女が嗚咽まじりの白い息を吐いた。
「あ…にっかり、うれし、…あ、ありがと、う、」
肩を震わせて涙する彼女を、今度こそ、抱きしめる。僕の腕の中の柔らかなぬくもりは、微かに震えながら、か細い泣き声をあげていた。
「今日まで、よく頑張ってきたね。僕はね、きみが今の主で本当に良かったと思っているよ」
これまで、たくさんの彼女を見てきた。
力及ばず悔しさを噛み殺した表情も、全員大怪我を負って帰ってきた部隊の手入れでくたくたになったあとで、その日の記録をつけている間に眠ってしまった寝顔も、賑やかな刀たちに囲まれて微笑む姿も。
そんな彼女が、強くあろうと纏っていた心の鎧を脱ぎ捨てて、ありのままの感情を僕の前であらわにしてくれていることが、嬉しかった。
「ありがとう、にっかり」
腕の中で、くぐもった声がする。
今なら、伝えられるだろうか。
「僕のこの身体がある限り、ずっと守り続けるよ。この椿も、もちろん、きみもね」
えっ、と小さな悲鳴をあげて、濡れた瞳をした彼女が僕を見上げた。愛おしさを込めた眼差しで、彼女を見つめ返す。
「…またここで、時々こうして、僕と会ってくれるかい」
みるみるうちに、彼女の頬が紅く染まっていく。僕が伝えたことの意味に気づいたのだろうか。照れているのを隠すように、主はまた僕の胸元に顔を埋めて、「うん」と応えてくれた。
「おや、ちゃんと僕を見て言っておくれよ」
さっと上体を反らせ、僕の懐に埋もれた顔をわざとらしく覗き込もうとすればするほど、主は「やだ、見ないで」と、ぐりぐり頭を押し付けてくる。恥じらうままに可愛らしい反応を見せる彼女のつむじに、やわらかく口付けた。唇を落としたままで、「約束だよ、」と呟く。
彼女は返事をする代わりに、ゆっくりと僕の背にその腕を回したのだった。
もしかしたら、僕の胸の奥で花開いた感情も、ちょうどこんな色をしているのかもしれない。
深く息を吸いこみ、抱きしめた彼女の香りで僕の内側がじんわりと染まっていくのを感じながら、早春の陽光の中でひっそりと咲く僕らの秘密に、そっと目を細めた。</body>
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