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風が心地良い。体をざわりと撫でる風はからっとしていて初夏の爽やかなにおいを運んできてくれる。この街は私の憧れの街だった。映画で何度も見たことがあったし、父が見せてくれた番組でも特集されていた。
今日の出来事で恐怖の象徴となって欲しくはないのだ。こんなにも素敵な場所は他にはない、きっとそうだと脳は情報の刷り込みを行なっているが、思い出すと無意識に手が震えてくる。落ち着け、落ち着けと何度も唱えるが、震えは収まらない。駄目だ、別のことを考えよう。そうすればこの悪夢のような出来事も忘れられる。
ああ、明日はきっといい日になる。母が一日予定がないと言っていたし、一緒に出かければ絶対に楽しいだろう。母と2人で出かける機会なんてないし、めいいっぱい楽しみたい。
ミラノからどこかへ移動してもいい。『ナポリを見てから死ね』という言葉だってある事だし、ナポリに行くのもいいかもしれない。それに、まだ有名な観光名所にもほとんど訪れていない。イタリアについて母は詳しいから、たくさんまた面白い話を聞かせてくれるだろう。
そうやって考えていると、自然と震えは止まっていた。母は偉大なり、なんて思わず考えてしまい、唇の隙間から小さな笑い声が漏れた。
(母さんには世話になりっぱなしだ)
そんな母を心配させる訳にはいかない。今だってもしかしたら私がいないことを心配しているかもしれない。ただでさえ街から帰ってきた私を見て訝しげな目を向けていたのだから、きっとよからぬ事をしているだなんて思っているだろう。
なるべく早く部屋に帰れるように、私は早足でロビーへと向かった。ロビーを通らないと上の部屋には上がれないようになっているのだ。
ロビーに消灯時間はあっただろうか、少し薄暗くなっていた。天井から垂れ下がった重量感のあるシャンデリアは風に吹かれてゆらりと揺らめいた。入口のドアは閉まっていたはずなのに。
ふと視線を下げると、フロントにいたホテルマンがいなくなっていることに気づく。時刻は夜中の2時を回っているが、この時間に交代だったのか。夜風に当たっていたのはほんの10分程度だったはずだが、その間に交代していたとしても代わりの人間がいていいはずなのに。ロビーに人ひとりいないのはホテルであるのに奇妙すぎる。
それに何だか寒い。夜は少し冷えるとはいえ、あまりに室内が寒いことに気づいた。エアコンが取り付けられていることは勿論知っていたが、肌に突き刺さるような寒さはまるで冷蔵庫の中に閉じ込められたかのようだった。
もう一度視線を上へ移すと、目を見張るような光景が広がっていた。シャンデリアが凍りついていたのだ。今は夏だ。そこまで寒いわけがない。このホテルで何かが起こっていることに気づき、早く帰ろうと足を動かした。あまりの寒さに床からも冷気が舞い、膝がふるりと震えた。
(帰らなきゃ、帰らなきゃ。母さんのところに、一刻も早く)
嫌な予感がした。具体的に何が嫌なのかは分からないが、自分の身の回りで起きていることへの猜疑心が募っていた。早く安全な場所へと向かわなければならない、と本能が叫んでいた。
エレベーターは危険だ。昔避難訓練で教わったことだ。逃げ場がないのは危険すぎる。私の部屋は4階にあるため疲れるだろうが、階段を使おう。私は迷いなく階段へと繋がる扉を開いた。
…踊り場に誰かがいる。階段を登ろうとしたときにふと人の気配を感じた。もしかしたらホテルの人間かもしれない。そう出ないのならば宿泊客が、それとも…。
相手の死角に入り、様子を伺うことにした。場合によってはエレベーターで部屋まで行かなくてはならなくなる。とにかく警戒して、安全に部屋まで向かう必要があるだろう。震える手を握りしめながらそっと聞き耳を立てた。
「クソ野郎が…暴れなかったらこんなやり方しなくて良かったのによォ…」
「まあいいじゃあないか、遅かれ早かれ最後は消す予定だったんだ。汚してしまったところはウチのボスが手配して何とかしてくれるさ。今はとりあえずここから出よう」
消す?
消すって、何を。
たまらなくなって俯くと、目の前には無論階段が広がっていた。これは考え事をしているときにしてしまう癖だった。小さい頃の私は、視線を下げると冷静になれる気がしていたからだ。
真紅のベルベットでできたカーペットは高級感が漂っていて好きだ。たまに緑色の生地も織り込まれていてそれがまた良いアクセントになっている。
ただ、おかしなことに、上の段の一部が濃い色に染まっていた。おそるおそる手を伸ばすとぬちゃりとした感触が広がって、赤い何が指へと付着したのがわかった。背筋がゾワゾワと脳へ恐怖の情を走らせた。
血だ、と判別するのに時間はいらなかった。殺されたのはフロントにいたホテルマンだろうか。そんなことを考えている暇などなかった。どうやら自分が思っている以上に重い事態であるらしい。
ここからは逃げられない。そう考えて、元いたロビーへ戻ろうとまた扉を開く。今度は慎重に。音が聞こえては気づかれてしまう。
しかし、遅かったのだ。きっと彼らは私が入ってきたことに気づいている。私の不注意によって、扉は先程入る際、大きな音を立てて開いてしまったのだから。
「オイ、誰かいるんだろ?姿を見せてくれてもいいんじゃあないか?」
やはり彼らは気づいていた。だが、この声で動きを止まってしまったら、おそらく私は殺されてしまう。その声を無視してドアノブを力一杯ひねろうとした。手には汗をかいていて少し滑ったが、問題なくドアは開く前触れである音を響かせた。
しかし、いつの間にか男は私の後ろに回っていたらしく、私の手をドアノブごと掴んだ。内臓がぎゅっと縮んだ感覚がして、ひっと思わず声が出た。連動するように体がぶるぶると震え出す。駄目だ、もう終わりだ。まるで走馬灯であるかのように、部屋で眠っているだろう母へと思いを馳せた。
その時だった。私の手を掴んでいた男性の手が、びくりと揺れた。文字のごとく、静電気でも走ったかのように大きく揺れたのだ。いつまで経っても来ない衝撃に、ほんの少しだけ安堵する。もしかしたら助かるかもしれない、なんていう希望も見えたが、次の一声が私の希望や安心を全てかき消した。
「なまえ…………?」
頭が真っ白になる感覚がした。そして、声のした方向へゆっくりと振り向いた。否、振り向くべきではなかったのに、振り返らざるを得なかった。ここに私のことを知っている人間は母しかいないはずだからだ。聞こえてきたのが男性の声ならおかしいはずだ。このホテルマンを殺した人間なら、尚更。
そこには男性が2人立っていた。1人は奇抜な格好をした男性で、目にはマスクのようなものを身につけている。もう1人は全身に白い服を纏い赤いフレームの眼鏡をかけた、髪型が特徴的な男性だった。どちらも信じられないような表情を浮かべてこちらを見ている。勿論、人生の中でこの人たちと関わったことはない。彼らが纏っている服についている不釣り合いな赤は、間違いなく血だろう。そうか、彼らが殺したのかという答えを出すのに時間はかからなかった。それよりも、はるかに恐ろしい事実が私の胸を打ったからだ。
ああ、まずい。と思ったときには走り出していた。それが昼間会った彼からの忠告だったからだ。
…2人の男性は、あの写真で見覚えがあるから。