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どれだけそうしていただろうか。ぱっと温かな腕の中から解放されて、なぜか寂しいという思いが心に残る。自分はまだまだ子供だと思わされた。こんな局面でも、人の温もりが欲しいと思ってしまうのはあまりにも幼いだろうと。
「目ェ腫れてるぜ、一回顔でも洗ってこい」
扉をそっと開いて、あの骨ばった右手で場所を示してくれる。
歩けるか、と不安そうに声をかけられたが、少し横になっていたからか、随分と足の痛みは落ち着いていた。筋肉痛のようなハリはあるが、これなら洗面所まで歩けそうだ。
大丈夫である、と言わんばかりに1つ頷くと、私は示された方向に向かって一歩踏み出した。ベッドのそばにあったサンダルを勝手に使ってしまってるけど、大丈夫かなあ。
ちらり、後ろを振り返ったが、ギアッチョさんが不機嫌になっている様子は見られなかった。よかった、これ履いて良いやつだったんだ。
こんなに甘えてしまって、面倒をかけて申し訳ないな。多少の罪悪感を抱きつつ、それでいて遠慮なく洗面所へ体を滑り込ませたのだった。
洗面所はやけに綺麗で、正直驚いた。緑がかった水色のタイルと少し暗いトーンの白いタイルが組み合わされた、おしゃれなデザインになっている。
顔を洗う石鹸や基礎化粧品も、なんとなく女性が使いそうなデザインの洒落たものが多いようだ。
誰かが連れ込んでいるのかな、なんていう考えが頭をよぎって、そんな考えを頭の中からかき消すために、顔にこれでもかと貯めた水を打ちつけた。
冷たい温度が肌に叩きつけられ、うっと怯んだ私は、一度蛇口を閉めた。顔を上げると、疲れた顔をした私が鏡に映っていた。
どこを見ているかわからないような少し虚ろな表情で、顔からいくつもの水滴が、顎をつたって落ちている。なんだか泣いているみたいで、少しだけ温まった心がまたするすると温度を失っていった。
それにしても、なんだか変な感じだ。
あんなにはじめは恐ろしく、はっきり敵であると認識していたはずなのに、今では遠い親戚のお兄さんのような、少し気恥ずかしさを感じる温かさをギアッチョさんに求めている。少し優しくされたからって、どれだけ私は扱いやすいんだろうと呆れてしまった。
いつかこの状況に慣れる日が来るのだろうか。いつかその日が来たら、母の気持ちは一体どうなるのだろうか。
頭の中で整理がつかなくなって、頭の中に靄が広がるような感覚が襲ってきた。思わず勢いよく蛇口をひねり、冷たい水をまた肌に叩きつけた。
肌の奥に刺さるような水の温度を感じて、強く目を閉じる。水が滴るような感覚がして、軽く顔を拭って目を開く。何度見ても暗い顔をしていて、目の下にはクマだってある。目の中もまだどんよりしていて、不安な気持ちが顔に張り付いたかのようだった。思わず自嘲してしまった。こんな顔をしていたって何も解決しないのになあ。
部屋に戻ろう、また心配をかけてしまう。頬を少しつねって、大きく一つ深呼吸をした。気持ちを無理やり切り替え、振り返ってドアノブを掴もうとした。そう、掴もうとしたはずなのに。
鏡の中からずるり、と何かがこちらに伸びてきている。ド、っと鼓動がひとつ鳴った。明確な恐怖が自分を襲ってきているのがわかる。
逃げなければ。そうは思えど、声すら出なかった。喉が引き攣ったような感覚だけが脳に伝わってきて、気づいたときにはがっしりと手を掴まれていて、それで。
次に分かったのは、鏡の中に引き摺り込まれたという事実だった。やけに冷たくて、なんだか薄暗い。同じ部屋のはずなのに、まるで違う雰囲気の場所だった。
『なに、ここ』
そう、同じ部屋のはずなのだ。何もかも同じはずだったのに、私はどこにいるんだ?
自分がかなり混乱しているのがわかった。後ろから腕をつかまれたまま、振り返ることができないでいる。
強烈な感情を感じるのだ。言葉では表すことができない、暗い感情だった。
「偽物、だよな?」
自分がカタカタと細かく震えているのがわかった。
鏡に映った彼のその目には何も映っていないようだった。ただ、ちっぽけで弱そうな私が、ガラスの表面に
反射するかのようにそこにいた。髪の毛を4つに束ねておさげにした、大柄の男だった。この人、さっきいなかった人だ。間違いない。
内臓がぎゅうっと苦しくて、息ができない。これが死に直面した恐怖なのだろうか。
私の脳裏には、母の勝気な笑顔だけが浮かんでいた。自分1人で立ち向かえないような
恐ろしさで、ただただ震える私だけがそこにいた。
ぎゅうっと握られた手首へさらに力が込められる。気遣いなど感じない、傷つけるぞという意思が込められていた。
互いの呼吸しか聞こえない中で、私はそっと言葉を紡いだ。
『あなたは、誰ですか』
ぴく、と眉毛が吊り上がった。私はもしかすると、言葉選びを間違えたかもしれない。彼の表情から、ぶくぶくと湧き立つ強い怒りを感じた。
「俺を分からないなまえなんて要らねェ」
そう吐き捨てて、彼は手首を掴んでいる方と反対側の腕を振り上げた。
振り上げられた拳を見た。拳の中にぎらりと光る何かがある。
おそらくナイフか割れた金属だろう。こういうとき、スローモーションに見えるって本当なんだ。握られているのが何か少しわかる。
怖いという気持ちを通り越した、なかば諦めに近い気持ちで私は目を瞑り、ぐっと体をすくめた。
神様なんていない、私はここで死ぬんだ。
次に来る衝撃に備えて、瞼の裏側にある暗闇を見つめた。
来世があるなら、こんな苦しい思いをしないでいたい。そんな恨みに近い考えを、どうしても捨てることができなかった。
「目ェ腫れてるぜ、一回顔でも洗ってこい」
扉をそっと開いて、あの骨ばった右手で場所を示してくれる。
歩けるか、と不安そうに声をかけられたが、少し横になっていたからか、随分と足の痛みは落ち着いていた。筋肉痛のようなハリはあるが、これなら洗面所まで歩けそうだ。
大丈夫である、と言わんばかりに1つ頷くと、私は示された方向に向かって一歩踏み出した。ベッドのそばにあったサンダルを勝手に使ってしまってるけど、大丈夫かなあ。
ちらり、後ろを振り返ったが、ギアッチョさんが不機嫌になっている様子は見られなかった。よかった、これ履いて良いやつだったんだ。
こんなに甘えてしまって、面倒をかけて申し訳ないな。多少の罪悪感を抱きつつ、それでいて遠慮なく洗面所へ体を滑り込ませたのだった。
洗面所はやけに綺麗で、正直驚いた。緑がかった水色のタイルと少し暗いトーンの白いタイルが組み合わされた、おしゃれなデザインになっている。
顔を洗う石鹸や基礎化粧品も、なんとなく女性が使いそうなデザインの洒落たものが多いようだ。
誰かが連れ込んでいるのかな、なんていう考えが頭をよぎって、そんな考えを頭の中からかき消すために、顔にこれでもかと貯めた水を打ちつけた。
冷たい温度が肌に叩きつけられ、うっと怯んだ私は、一度蛇口を閉めた。顔を上げると、疲れた顔をした私が鏡に映っていた。
どこを見ているかわからないような少し虚ろな表情で、顔からいくつもの水滴が、顎をつたって落ちている。なんだか泣いているみたいで、少しだけ温まった心がまたするすると温度を失っていった。
それにしても、なんだか変な感じだ。
あんなにはじめは恐ろしく、はっきり敵であると認識していたはずなのに、今では遠い親戚のお兄さんのような、少し気恥ずかしさを感じる温かさをギアッチョさんに求めている。少し優しくされたからって、どれだけ私は扱いやすいんだろうと呆れてしまった。
いつかこの状況に慣れる日が来るのだろうか。いつかその日が来たら、母の気持ちは一体どうなるのだろうか。
頭の中で整理がつかなくなって、頭の中に靄が広がるような感覚が襲ってきた。思わず勢いよく蛇口をひねり、冷たい水をまた肌に叩きつけた。
肌の奥に刺さるような水の温度を感じて、強く目を閉じる。水が滴るような感覚がして、軽く顔を拭って目を開く。何度見ても暗い顔をしていて、目の下にはクマだってある。目の中もまだどんよりしていて、不安な気持ちが顔に張り付いたかのようだった。思わず自嘲してしまった。こんな顔をしていたって何も解決しないのになあ。
部屋に戻ろう、また心配をかけてしまう。頬を少しつねって、大きく一つ深呼吸をした。気持ちを無理やり切り替え、振り返ってドアノブを掴もうとした。そう、掴もうとしたはずなのに。
鏡の中からずるり、と何かがこちらに伸びてきている。ド、っと鼓動がひとつ鳴った。明確な恐怖が自分を襲ってきているのがわかる。
逃げなければ。そうは思えど、声すら出なかった。喉が引き攣ったような感覚だけが脳に伝わってきて、気づいたときにはがっしりと手を掴まれていて、それで。
次に分かったのは、鏡の中に引き摺り込まれたという事実だった。やけに冷たくて、なんだか薄暗い。同じ部屋のはずなのに、まるで違う雰囲気の場所だった。
『なに、ここ』
そう、同じ部屋のはずなのだ。何もかも同じはずだったのに、私はどこにいるんだ?
自分がかなり混乱しているのがわかった。後ろから腕をつかまれたまま、振り返ることができないでいる。
強烈な感情を感じるのだ。言葉では表すことができない、暗い感情だった。
「偽物、だよな?」
自分がカタカタと細かく震えているのがわかった。
鏡に映った彼のその目には何も映っていないようだった。ただ、ちっぽけで弱そうな私が、ガラスの表面に
反射するかのようにそこにいた。髪の毛を4つに束ねておさげにした、大柄の男だった。この人、さっきいなかった人だ。間違いない。
内臓がぎゅうっと苦しくて、息ができない。これが死に直面した恐怖なのだろうか。
私の脳裏には、母の勝気な笑顔だけが浮かんでいた。自分1人で立ち向かえないような
恐ろしさで、ただただ震える私だけがそこにいた。
ぎゅうっと握られた手首へさらに力が込められる。気遣いなど感じない、傷つけるぞという意思が込められていた。
互いの呼吸しか聞こえない中で、私はそっと言葉を紡いだ。
『あなたは、誰ですか』
ぴく、と眉毛が吊り上がった。私はもしかすると、言葉選びを間違えたかもしれない。彼の表情から、ぶくぶくと湧き立つ強い怒りを感じた。
「俺を分からないなまえなんて要らねェ」
そう吐き捨てて、彼は手首を掴んでいる方と反対側の腕を振り上げた。
振り上げられた拳を見た。拳の中にぎらりと光る何かがある。
おそらくナイフか割れた金属だろう。こういうとき、スローモーションに見えるって本当なんだ。握られているのが何か少しわかる。
怖いという気持ちを通り越した、なかば諦めに近い気持ちで私は目を瞑り、ぐっと体をすくめた。
神様なんていない、私はここで死ぬんだ。
次に来る衝撃に備えて、瞼の裏側にある暗闇を見つめた。
来世があるなら、こんな苦しい思いをしないでいたい。そんな恨みに近い考えを、どうしても捨てることができなかった。
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