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「なまえ、もうすぐ着陸するから起きなさいね」
優しげなその声に呼応するように瞼を持ち上げる。すると目の前に広がっていたのは、どこまでも澄んだ青空だった。…なんだ、私は眠っていたのか。ああ、さっきの出来事は全部夢だったのか、なんて気が抜けてしまった。先程の夢とは違い、空は枠に囲われて、随分と下の方で広がっている。分厚い雲はどこまで下へと張り巡らされているかなんて想像もつかない。視線を斜めに動かすと、白い鉄の翼がまっすぐに伸びていることも確認できた。ぼんやりと、ここは飛行機の中だったことを思い出した。
それにしても、なんだか奇妙な夢だったな。あの痛みも、息苦しさも、まるでさっきまで体験していたかのように現実味があったから。未だに心臓が嫌な音を立てている。もうあんな夢は見たくないな、なんてぼんやり考えていると、隣に座っていた母が小さく笑いながら私に話しかけた。
「どんな夢を見てたの?涙なんか流しちゃって」
ふと自分の頬に触れてみると、指が濡れた感覚がした。どうやら私は泣いていたらしい。確認するために窓ガラスを覗き込むと、自分はどこか不安げで、情けない顔をしていた。
「ごめんね、仕事の都合とはいえなまえを連れてきちゃって。夏休みだし、友達と遊びたかったでしょう?」
申し訳なさそうに言う母に、すぐに私は否定の言葉を返した。
「そんなことないよ、全然気にしてなんかない。それに、私イタリアに来るの初めてだからすごく楽しみなの」
母は外交官だった。そのため、小さい頃から家を空けることが多かったことを覚えている。周りの同級生はみんな、授業参観などの学校行事でも両親の姿があった。私の父は私が中学校に上がる頃にはもういなかったし、母は私を養うために仕事をしなければならなかった。それに、母は仕事に生きる人だったのだ。そういった行事を重ねる度に一抹の寂しさは覚えていたし、どうして私だけなのだろうとも考えた。
それでも私は母が好きだったのだと思う。そんな母を尊敬してるし、嫌いになることはきっとないだろう。母はよく仕事のない日に、訪れた国々の話を私に聞かせてくれた。その中でも私は、イタリアの話を聞くのが大好きだった。母の話はいつでも興味深いものばかりだったが、なぜかこの話は特に私の心を掴んで離さなかったのだ。
他にも理由はある。昔、父がある日突然いなくなる前、私にとあるテレビ番組を見せてくれたことがあった。確か、様々な国の歴史や文化を紹介する番組だった気がするが、そこでイタリアが特集されたことがあったのだ。父は世界中をカバン1つで旅する所謂バックパッカーで、こうしてたくさんの国について私に紹介してくれた。勿論、自分が旅で得た思い出話も忘れずに。
その番組で心奪われたことを、幼い頃ながら覚えている。日本とは違う風景、人々、食べ物や言葉、そして歴史。全てが全て私を魅了する材料になった。いつか私もイタリアという馴染みのない土地に訪れてみたいと思うのは時間の問題であったし、その淡い思いの中に父と母が並んでいる姿もあった。
そんな父が突然私たちの前から姿を消した。母は幼い私に、「また旅に出ているのよ」なんて言っていたけれど、父はどこかで亡くなったのかもしれない。あれからもう何年も経っていて音沙汰ひとつないのだから、覚悟はしている。
私はあの光景がどうしても忘れられなかったのだ。だから私は母の教えは勿論、独学でイタリア語を勉強した。父が私に最期に残してくれたものだったから頑張れたのもきっとあるだろう。それほどまでに、イタリアという街は私の心に根を張っていた。おそらく、日常会話程度なら何とかなる気がする。
それにせっかく母の仕事の都合とはいえイタリアに来たのだから、自分の実力を試すチャンスだ。到着したら道を聞くくらいはしてみたいし、あわよくば友達ができたりしないか、なんて夢見ている。憧れの土地に足を踏み入れることができるのだから、叶わないとわかっていてもどうしても妄想してしまう。ああ、楽しみで仕方ない。
「母さんあのね、着いたらすぐに街に行ってみたいの。母さんは仕事に行かなきゃいけないのはわかってるけど、すぐにホテルに帰るから。駄目かな?」
そう、母は仕事でこの国を訪れるのだ。私と違って遊び目的ではない。…私だって、そんなつもりはないけれど、言葉で表すとしたら遊びという部類に入ってしまうだろう。普通、現地に着いたらホテルに荷物を預けて、母を見送ることがやらなければならないことだろう。それでも、我慢できなくなってしまった。私はわがままでまだまだ子供だなあ、と感ぜざるを得ない。
母親は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐにふわりとひだまりのような笑顔を向けてくれた。私の大好きな表情だ。
「仕方ないわね。あなたの大好きな街だもの、1日目くらい好きにしていいわ」
「…!ありがとう!」
少し無理を言ったとは思っていたし、断られると思っていた。予想外の返事に驚いていると、
「ただし、」
母親はずばりと私に警告の意味で指を指した。唇を尖らせている。この動作は、昔から母が少し不満なときにする癖だ。
「空港近くに車を出してもらってるから、荷物は自分でのせること。それと裏道には入らないこと、知らない人にもついて行っちゃ駄目よ。ホテルにも早めに帰ってきて頂戴。守れるならいいわ」
ああもう、そうだ。母は心配性だ。もちろん守れるよ、という意で首を何度も縦に振る。まだ小さい子だと思ってるんだ、もう私は高校生なのに。なんて少し不満げな態度を取ってしまった。
「私の大事な娘がついに外国の文化に触れて、私と同じようにその土地の人々と交流するのよ?応援するわ、それに私はあなたの母親だもの」
…ああやっぱり、私の母は世界で一番素敵な人間だ!なんて虫が良すぎるかな。
期待に胸を膨らませながら、また窓の外を見る。窓の外は相変わらずの快晴で、私の新たな門出を祝福してくれているみたいに見えた。
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